第一章3 牢屋にて
「放してください!」
階段を登る重い足音と少女の悲鳴。ヒロシと根津は一息の間に鉄格子へと張り付き、こちらへと近づく音へ全神経を傾けた。
上手く隙をつければ逃げられるかもしれない──という考えよりも、ようやくヒロインのお出ましだ! という感情がわずかに勝っていた。
が、このチャンスを逃せばもう逃げられないかもしれないという焦燥感が二人を現実に引き戻し、鉄格子を握る拳に力が入る。
地面から深緑の身体が一段一段と出現し、螺旋階段を登るゴブリンの姿が、植物が生えてくる様と重なって少しだけシュールだった。その巨大な両肩には幼い少女と母親と思しき女性が担がれている。
「放しなさい! 蛮族め!」
ぐったりとゴブリンに身を任せる母親とは、文字通りの反対に担がれる少女は語彙の限り喚いてゴブリンの背を叩く。
彼女なりに目一杯の抵抗と侮辱を行っているつもりなのだろうが、こんな状況でも言葉遣いが崩れないあたりに相当な育ちの良さが伺えた。
「いいか、根津。扉が開かれたらタックル。隙間に滑り込むぞ」
「合点でござる。しかしその後は?」
「チートスキルが目覚めていることを祈って」
御意、と根津が力強く頷いた。しかし、二人を略取したゴブリンは、先ほどのゴブリンとは別人なのか──鎖帷子を身に着け、角の生えた武骨な兜を被っていた。腰布には一撃で頭蓋を粉砕されそうな棍棒が躍っている。
「これは⋯⋯」
数秒前の士気は、眼前の雄々しい戦士を前にしてどこかへ逃げ出し、二人の拳にはじんわりと冷や汗が滲んだ。
しかしそれでも、ヒロシと根津の鉄格子を掴んだ両手が離れなかったのは──恐怖に硬直していることはもちろんとして、互いが無言のうちにチキンレースを開始していたからであった。
片方は言いだした手前引くに引けない意地で、もう片方は武士に敵前逃亡は許されない、というこれまた意地だった。
ヒロシは右で意地を張る男へ戦略的逃亡の目線を送り、根津は前を見たまま歯軋りしている。
「おい、根津。ここは一度作戦を──」
「「ぅわあっちいい!」」
ゴブリンは虫でも追い払うかのように、鉄格子に絡む二人の指を松明で炙り、二人は大きく飛び退いて牢屋の中を転がる。
さながら虫取りをする子供の如く、先に捕まえた獲物が逃げないように少女と母親を牢屋へと放り込んだ。
少女が尻餅をつき、その上に気絶しているのかぐったりと力ない母親が重ねられる。
手を炙られたことやら、女性を固い地面に放り投げたことやら、手を炙られたことに怒り狂って、二人が立ち上がったときには扉は完全に閉まっていた。
手早く錠がかけられ、琥珀色の双眸が嘲りを残して去っていく。
元の世界とは違う世界に飛ばされても変わることのない、己よりも下の愚物を見る目だ。嫌と言えば言うほどに力を増す最悪の視線──
ヒロシにとってそれは、それだけで激昂に値する行為だ。
しかし、そんなヒロシは鍵のかかった鉄格子に閉じ込められ、視線の主へ手が届かない。仮に手が届いたとしても、返り討ちにされるのは目に見えている。
半生を共にした、愛しの腐れ縁が時空を超えてやってきた。世界単位でヒロシに付きまとう意地の悪い運命、もはや己の体の一部のように思えてくる。
「ちくしょう……」
「せっかくのチャンスがミズアワでござるな」
二人の顔には、もうどーすりゃいいのという半ば諦めムードの苦笑が浮かんでいる。炙られた手の甲を鉄格子に当てて冷まし、ぶつぶつと沸々とゴブリンへの呪いを口にする。
今まで、序盤の経験値を肥やすためだけの存在としか認識していなかったゴブリンによる謎の逆襲。
「ゴブリンスレイヤーはまだでござるか……」
根津は、沸き上がる怒りを地面を転がりまわることで逃がし、ヒロシはアイテムメニューが開かないものかと、二本指を立てて空をなぞってみたり、指を鳴らしてみたり、何かを念じてみたり──眼前の不条理に頭が狂った高校二年生の姿がそこにはあった。
「あの⋯⋯」
「何だようるせぇな!?」
「ワッツァハッピン!?」
奇行を繰り返す野郎どもと関わっていいものか怪訝そうに口を開いた少女に、怒りの矛先を得た誇り高き日本男児が叫び返した。
自らが牢屋に叩きこまれ、母親にすがることもできずにさぞかし不安だろう。それでも周囲を気遣おうとした少女へ癇声で応じるホモサピエンスの面汚し──と糾弾されても文句の言えない蛮行に、少女はぎこちなく優しく微笑んだ。
「ふつくしい⋯⋯」
「女神でござる」
「え?」
二人は無意識のうちに少女の前に跪いた。
おもむろに顔を上げると──十歳ほどの、砂金と雪が交わったような少女が状況を呑み込めないままに瞬きを忘れていた。
金髪を通り越して半透明にすら見える白髪を後ろ一本の三つ編みにまとめ、水晶のように青い双眸がどうしたらよいのかと左右に泳ぐ。
触れれば消えてしまいそうな儚さと、言葉の詰まる高貴さを宿した美貌は幼いままだが理知的で、いずれ萌ゆるであろう美しさがしっかりと頭角を現している。
美しい白髪とは対照的に、黒を基調としたワンピースのスカートを丁寧に折って正座し、少女は気を失った母親を膝枕している。
「あの⋯⋯大丈夫ですか? 色々と」
まだ幼い子供といえど、ここまで美しく整った容姿の異性に下から見つめられるなんて経験が二人にあるわけがなく、それだけで悶絶級のアクションだった。
「大丈夫です。なんか、その、急に大声出してごめん。気が立ってたもんで」
「ござる」
フレンドリーに接しようにも眼前の少女の高貴さに錯乱し、丁寧なのか雑なのか曖昧なヒロシの謝罪に続いて根津が頷く。
その場でターンした根津は、鎖に繋がれた少女の手を取り、おもむろに陶磁器のような手の甲へ唇を触れさせようとした瞬間──
「貴様ァ!」
ヒロシの怒号と共にローリングソバットが炸裂。根津が地面を滑る。
「何するんでござるか!? 八つ当たりは──」
「くたばれぇ!」
起き上がろうとする根津にスライディングし、ヒロシは寝技へ持ち込もうとする。が、すかさず飛び起きた根津が背後へと回りヘッドロック。
手錠の金具がヒロシのこめかみを圧迫し、予想以上の攻撃力を生み出していた。「今更ながら、日本語通じるんでござるね」と、根津がヒロシへ耳打ちする。
「おそらくは、日本語が公用語。それ以外は種族ごとに異なるのでござろう」
ヘッドロックの姿勢のまま根津は小さな声で言う。
この世界ではきっと、そんなことは常識のはず。下手に怪しまれるくらいなら、こちらから情報を漏らすことはせずに知ったかぶりを決め込むのでござる──ヒロシはそんな根津の意思を察し、
「だな、頭割れそうだから、ていうかちょっと切れてるからここまで」
ヒロシは己の頭を固める手を掴み、それを支点に根津を背負い投げ。
眼前で唐突に巻き起こるプロレスに目を丸くする少女。日常的に近所の男の子と取っ組み合いする元気っ子タイプではなく、暴力耐性の薄い深窓の令嬢タイプと伺えた。まあ、見た感じそりゃそうだ。
俺たち異世界からやってきたんだ! と言って日常茶飯事の如く受け入れてくれる世界観なら何も問題はないのだが、そうであるかを問うこと自体がかなりの危険を孕んでいる。ゆえに、
「こんにちは、可愛いお嬢さん。一つ話をしようかね」
──怒鳴ったかと思えば、称賛して跪き、パニック状態の少女を無視してプロレスを始める。
そんな珍獣二匹へ少女が心を開いたのは、天窓から差し込む光が藍色の夕闇に没し、かすかな松明の灯りだけが頼りになった頃だった。
二人の他人行儀な自己紹介に対し、『クラフト』とただ一言そう名乗った少女は、完全に空気と化していた母親を揺すって目を覚まさせた。
「悪い人たちではないはず⋯⋯多分。不思議なだけ」とかなりオブラートに包んで二人を紹介する。
一度落ち着き、ヒロシは己の行動を振り返る──気絶した母親を一人で支える少女に手を貸すわけでもなく、気遣う言葉の一つをかけてやるどころか二人掛かりで怒鳴り散らす。正直、最低だった。
平静を装っていたつもりでも動揺していたのだろう、というのはきっと言い訳に過ぎない。ヒロシと根津はそれぞれ嘆息して母親に向き直る。
「えっと⋯⋯ヒロシと申します」
「根津です」
たどたどしい二人の自己紹介に、クラフトの母親は乱れた金髪を撫でつけながら、
「シエルです。よろしくどうぞ」
と青い双眸を細めて微笑む。
穏やかな声音からは洗練された貫禄が滲み出ている。しかし、その一方でその双眸は若々しい瑠璃色の輝きを失ってはいない。
見た目から正確な年齢を推測することは二人にはできないが、少なく見積もって十歳くらいであろうクラフトを、若くして産み育ててきたのは明確だ。
天窓から差し込む僅かな月明かりの下で、両足を横に流して座り、祈るように組まれた両手には繋がれた手錠──憂いと美の同居する一枚の名画がそこに完成されていた。
タイトルは『身体は囚われても⋯⋯』でどうだろうか。
近所の英語教室の先生に似てるでござるな、と頷く根津に「知らん」とヒロシが返し、牢屋の外へ目を向ける。
待ちわびた女性キャラが登場したのはいいが、状況が好転したかと問われると自信を持って頷けない。
根津と二人だけでなら暴力的な手段に打って出て、殴って蹴って大団円というのが正攻法になってくるのだろうが、武力を持たない女性を二人も守りながら戦えるほどの技量を二人は持ち合わせていない。
「珍しい髪の色に眼をされていますが、どちらのご出身ですか? 顔立ちは北方系のようにお見受けしますが……」
視線をヒロシに向けて判断を仰ぐ根津へ目配せを返し、シエルとの会話を任せたヒロシは己の顎を撫でて頭を抱える。
──腕力で挑んで勝てるかわからない相手と戦いながら、人間を二人守り切るのはまず無理だ。となると、如何にしてあのゴブリンの目を欺いて脱出するか……そんな方向に絞って考えるべきだ。
「幼い頃からあっちこっちに売られて転々と過ごしていたもので、そう詳しいことはわからないのでござる。それゆえに読み書きを学ぶ機会にも恵まれず、仕事を探そうにも学がないからどうしたもんか⋯⋯」
ヒロシの目配せを受けて、根津が適当に応答する。随分と哀愁を帯びた嘘をつくものだ、とヒロシは口元を押さえて苦笑い。
しかし、幼い頃から隷属して生きてきたことに対してツッコミを入れられる人間は少ないだろう。多少怪しまれたとしても、知らぬ存ぜぬで突き通せる。
ヒロシは小さく指で丸を作り、根津の視界の隅に入れた。
「それは⋯⋯なるほど。しかし、不思議ですね」
シエルは己の唇に軽く触れて、明らかな疑問符を浮かべた。そんなシエルの姿に『地雷フンダ?』とヒロシの方へ振り返るが、ヒロシは両掌を上に向けて『知ラン』と示す。
「その⋯⋯お母さん。この人たち怪我しているみたいですし⋯⋯だし、どうにかしてあげてください」
完全に不信感を買った根津を救ったのは、大人の会話に口を挟むまいとしながらも二人の満身創痍っぷりを痛ましげに見つめていた白金髪の少女だ。
クラフトは「見せてください」と牢屋の外を見たまま固まるヒロシの頬へ手を伸ばした。
「おおうっ、シルキー」
意味が理解できずに小首をかしげるクラフトと、憎らしげにカチカチと歯を噛み合わせて鳴らす根津。
牢屋の中に広がる異様な空気。シエルは仕方なさげに眉を寄せ、繋がれた鎖を揺らして拳を握り、
「では、ちょっと見せていただきますよ。盲目なる我らに光を──『追従する灯火』」
軽く握った拳を開き、淡く発光するビー玉大の球体がヒロシの頬の傍を漂う。驚きを隠せない野郎が二人「すげえ!」「キタコレ!」と歓喜を重ねた。
ヒロシと根津だけでは確かめようにも確かめようのなかった──『魔法』の存在である。自らにチートスキルが備わっていないことを、あえて口には出さなかったものの薄々自覚していた二人にとって、最後の砦ともいえるザ・ファンタジーが眼前にあった。
「魔術の類いを見るのは初めてですか?」
予想以上の好感触に気を良くしたのか、シエルは指を立てて空をなぞり、発光体が光の尾を引いて指先に続く。
牢屋の天井の隅をとんと指差すと、発光体が指し示された場所へ。ぐるりと一周牢屋を照らして回り、ヒロシの頬へ戻ってきた。
「ハラショー!」
根津がロシア語で讃頌し、手を叩く。シエルは満足そうに頷き、クラフトも得意げにふふんと鼻を鳴らす。シエルはクラフトへ下がるように視線で示し、
「では、気を取り直して」
シエルは己の耳に髪をかけながら反対の指先に灯火を移動させ、頬の青痣や後頭部の裂傷を観察する。眩しさ的にはペンライトで瞳孔の検査をされている感覚に近い。
上を向かせてみたり、口の中を観察してみたり、一頻り傷口を観察したところで「なるほど⋯⋯」と吐息する。シエルは己の金髪を一本つまんで引き抜き、ヒロシの顔の前でそれを空へと送り出し、
「主なき生命を触媒とし、この者の傷を縫い合わせよ──『霊妙なる縫合糸』」
放り出された一本の金髪がその場で炎上し、舞った灰がきらめきながらヒロシの傷口に纏わりつく。
針で突かれているような感覚に目尻が痙攣し、「いて、いてて」なんて声を漏らしている間に痛みが和らいでいった。
ヒロシが、痛みのひいた頬と後頭部を両手でぺたぺたと確認している間に、隣の根津への治療も終わったようで、根津も同様に己の寂しい頭部をさすっている。
「沈痛というか、応急処置でしかないので無理はしないように」
指を立ててシエルが付け加え、ヒロシと根津の目をそれぞれ見て「いいですね?」と念を押す。
こうして表現の一部に、相手の目をじっと見るという一動が含まれているあたりに外国人らしさというか、日本人との文化の違いを思い知らされる。ボディタッチに躊躇いのない──ぐいぐい来る感じ、だろうか。
そう考えてみると、先ほどの武士道を掲げる根津による、騎士道全開な『手の甲にキス』という挨拶も実はありだったのかもしれない。しかし、ヒロシがそう納得した上でローリングソバットを悔いていないのは、単純な嫉妬がゆえである。
──朝の挨拶と同じような感覚で頬にチュとか、あったりするのかな。
そんなことを妄想するヒロシを他所に、シエルは不安げに眉をひそめて娘の手を引き、牢屋の端へと移動するのだった。




