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第一章2  ドナドナ

 不良との必死の攻防(とは言っても振り上げた拳が当たることはなく、唯一当たったのは机の角)の爪痕は深く、未だに後頭部と鼻頭が熱を発し、鼻腔の奥には不快な感覚が詰まっている。

 しかし、加害者であるところの不良の姿はどこかへと消え、代わりにヒロシの頭に届くのは──よくわからない生き物の鳴き声に、聞いたことのない言語だ。


 二人の頬を撫でる風は冷たく乾燥していて、少なくとも夏の風でないことは明らかだった。薄手の夏服を身に纏う二人の歯の根は、寒風にがたがたと揺らされている。


 いったいこれはどういう状況なのか──フラれて、全部嫌になって、気晴らしに根津とラーメンを食べに言って、頭のおかしな不良に絡まれて⋯⋯


「今に至る?」


 少しの間をおいて、自分で口に出した言葉を「いやいや」と否定する。

 いくら日本のライトノベルやロールプレイングゲームに毒されているとはいえ、ヒロシはどちらかといえばドライに物事を見れる人間だ。が、本来は病院のベッドで目覚めるであろうテンプレが現在進行形で覆されている。


 夏とは思えない乾燥した寒風や聞いたことのない言語。一瞬でどこかへ消えた不良。現状で入ってくる情報を総動員すると、


「異世界召喚──」


「「キタんじゃない!?」」 


 根津もヒロシと同じ結論に達していたようで、待っていたかのように声を揃えて雄叫びを上げた。ふと、記憶をたどるヒロシの脳内にひとつの言葉が引っかかった。



 ──来世は、学力がものを言う世界に生まれ変わってやる。



 まさか本当に叶うなんて思っていなかったが、こうして何度も祈ってきたことだ。揃った二人の声音は明るく、今すぐにでも小躍りしたい気分なのは言うまでもない。

 もう理不尽に殴られることも、愛のない環境で生きることを強いられなくて済むのだ。


 両腕の中に美少女を抱え、チートスキルで余裕の人生──そんなことを思うと、二人の鼻の下は伸び、笑みをこぼさずにはいられなかった。

 奴隷ハーレム、剣と魔法の世界、鉄と蒸気の世界も悪くない。古代中国、春秋戦国時代なんてのも最高だ。


「しかし、ヒロシ殿。拙者の感覚がおかしくなければ⋯⋯。麻袋を被せられているようでござる。世界を救う勇者として召喚されたのなら、なにゆえ目隠しを?」


 ──と、現実から目を背けていられるのも束の間。根津の明るい声音が尻すぼまり、さっきまでのはしゃぎ様がひどく虚しく思えてくる。

 そんな二人に突きつけられた、目隠しをされているという眼の背けようがない事実。


「……それは俺も思ったけど。両手、縛られてるよな」


 前は見えないが、ヒロシにもおおよその現状は見えていた。

 冷たい風が夏服の中を駆け抜け、正面からは根津の豪快なくしゃみが響き、そのたびによくわからない言語で誰かが喚いている。

 人間離れして低く潰れた声音だ。とてもではないが『くしゃみするときは手で覆いなさい!』といったアットホームな雰囲気は感じられない。むしろ怒号に近い。


 見えない相手からの怒号にビビる二人の尻の下には固い床の感触があり、不規則に揺れている。


 さほど元の世界で聞いたこともないが、時折聞こえてくる謎の鳴き声は、おそらく馬かラバか⋯⋯その系統の生き物が鼻を鳴らす音だ。

 ガタガタと揺れる地面に馬の鳴き声──自分たちが馬車に乗せられているのだとは、ぼんやりとしたヒロシの頭にも察することができた。


 視界を遮られ、両手を錠に繋がれて馬車で運ばれている今の状態はまさしく、二人がアニメや漫画で目にした情景と酷似している。


「これさ、奴隷として売っぱらわれてる最中じゃね?」


「いやいや、そんなまさか。拙者たちは世界を救うべく召喚されたのでござろう」


 そう言う根津の声は震えており、全力で現実から目を背けようとしている。「それに──」と、根津が何かを言いかけた刹那、それを遮って鈍い音が響いた。


 聞き慣れない音のはずなのに、有無を言わさず鼓膜を引っ掻いて離れない不快な音だ。

 聞いたことなんてないはずなのに、ヒロシの頭には鮮明に情景が映った。それはまるで、なにか硬い鈍器で人間の頭蓋を殴ったときのような──


「おい、根津。返事しろ、大丈夫か!?」


 半ばパニックで反射的に大声を出そうとするが、ざらついた麻袋に顎の動きを抑制され、途切れ途切れに叫ぶヒロシへ巨影が重なる。

 兎が虎に睨まれたが如く、本能的に顎が震えて声が詰まり、眼前のそれを見上げようとしたヒロシの後頭部へ鈍い衝撃が走った。


 麻袋を被せられ、全方位が死角であるヒロシがその一撃を回避することは到底不可能な話である。

 ヒロシの首は力なく重力に従い、生温い鮮血が頬を伝った。



 〇



 朦朧とする意識の中、被せられた麻袋を乱暴に奪い取られ、腫れた頬に荒い布地が擦れて激痛が走った。


 おぼつかないピントの向こうに見える、腐敗した苔のような深緑の肌に獣の毛皮を纏い、二メートルを軽く超えた筋肉の塊のような巨影。大きく裂けた口からは凶悪な八重歯がぎらつき、くすんだ琥珀色の双眸を泳がせる怪物──ゴブリンだ。

 頬を押さえて掠れたうめき声を漏らすヒロシの脇腹を、ゴブリンの巨大な足が蹴って頑丈な牢屋の中へと転がした。


 硬い石の地面に雑巾の如く滑るヒロシを琥珀色の双眸が一瞥し、ゴブリンは嘲りの鼻息と共に扉を閉めた。重い金属が擦れる音が木霊し、錠から鍵が抜かれる。

 いち早く牢屋に叩きこまれていた根津が鉄格子に張り付き、上下へ続く螺旋階段を下っていく背を確認すると、


「ひ、ヒロシ殿⋯⋯大丈夫でござるか⋯⋯?」


 湧き上がる恐れに声を潜めてヒロシの身体を揺すった。根津の両手に繋がれた鎖がヒロシの耳元で起床を知らせる。

 ヒロシの襟足には赤黒く乾いた血がべったりとこびりつき、頬は痛々しい赤紫に変色している。状況を知らぬ者が彼を見たら、間違いなく死体と認識するだろう。


「ぁぅ、いってぇ⋯⋯」


 蹴られた腹部に手を添え、数回咳き込んだのちにヒロシは地面に肘をついて体を起こした。口の中は鉄の味で満ち溢れ、再び咳き込んでそれを吐き出す。


「本当に大丈夫でござるか!?」


「いやいや、大丈夫。内臓はイカれてない。口の中切っただけ」


 それならば良いのでござるが、と根津は吐息を漏らして己の寂しい頭を撫でる。

 殴られた後頭部を痛痒そうに撫で、心配が絶えないのかヒロシの隣に胡坐をかいた。友人が目の前で吐血するというショッキングの後だ、それも当然だろう。


 体を起こしたところで体は痛い。ヒロシは大の字に寝転がって、痛む首を動かさないように目の動きだけで周囲を見回す。


 視線を左へ滑らせると、髪の抵抗のない根津ならば頭をねじ込めそうな鉄格子が天井から床まではめ込まれ、金属板で補強された木製の扉には当然の如く堅牢な錠がかけられている。

 ヒロシは己の両手に繋がれた、血流を圧迫し続ける手錠を引っ張った。案の定、鎖の擦れる音が広い牢屋に響くだけでびくともしない。


「牢屋アンド手錠、奴隷スタート確定か⋯⋯って、これやっぱ異世界召喚でいいんだよな?」


「わざわざ手錠をかけて、挙句の果てに牢屋にぶち込むアブノーマル野郎なんていないでござろうよ。拙者の思い描く異世界召喚という意味でなら、断じて否でござるが」


 根津は呆れたように嘆息し、壁に預けた首を上へ向けて長方形に切り取られた夕空を仰ぐ。


 鉄格子の向こうには、古びた木製の長テーブルといくつかの椅子──おそらくは晩餐会場を、鉄格子のはまった窓から差し込む斜陽と松明の明かりが微かに照らしている。


 ほとんど同じ大きさの石材で組まれた壁は地面と同じくすんだ灰色だ。一点を見ただけではわからないが、牢屋の端から端までを見るとわずかにカーブしている。

 階から階への移動手段が螺旋階段であることに加え、湾曲に組まれた壁──


「多分、円柱状の建物。塔か、砦か⋯⋯」


 役に立ちそうにない独白と共にヒロシは視線を走らせ、今度は視線を上へ。

 石レンガは丁寧な造りのまま高い天井へと続いていく。天窓らしき穴からは橙色の光がいくつも差し込み、舞った埃がきらめいている。


「外は夕方でござるな。心なしか寒くなってきたでござる」


 小さく身震いして二の腕を擦り、根津は牢の隅へと四つん這いで移動した。「さむさむ」と両手を擦り合わせて、がちゃがちゃと熱を得ている。

 そんな根津へ苦い笑みを向けて、ヒロシは鼻の穴を片方塞いで空気を送り込み、詰まった血塊を外に押し出す。下水道のような悪臭が鼻腔の奥を突いた。


「うわっ、くっさ⋯⋯!」


「今更でござるか」


 胃の奥から込み上げる吐き気を腹部を撫でて外側から緩和し、ヒロシはその場で寝返りをうって楽な姿勢を探す。ざらざらとした冷たい石材に後頭部を冷やされ、これはこれで気持ちがいい。


「そういえば、ゴブリンいたよな」


「いたいた。ザ・ゴブリンでござったな。もうちょいキモいビジュアルを想像していたのでござるが⋯⋯なかなかどうして、それなりにキマってたでござるな。腹立たしい」


 ヒロシは苦笑して「それな」と頷く。ゴブリンという架空の生物に対して、ヒロシは『群れで行動する小賢しい小鬼』や『テンプレ的な序盤の敵』といったイメージを漠然と抱いていた。

 しかし、自分を牢屋に放り込んだゴブリンと思われる生物からは少し異なる印象を受けた。


 体格は非常に屈強で、鋼鉄のような筋肉に覆われていた。が、その挙動は荒々しくも合理的だった。脳味噌まで筋肉のような雰囲気はなく、放たれる覇気と貫禄は孤高の傭兵のそれだ。


「最序盤のチュートリアルボスにしては……勝てる気がしねぇ」


「まあ、ここまではラノベ的なテンプレ展開でござるな。小説投稿サイトとかによくあるやつでござる」


 根津は、己の言葉に何らかの確証を得たようで、一人うんうんと頷く。

 まだそんなサイト見てんのかよ、と溢しそうになるのをギリギリ堪えるヒロシ。口の中に苦味が広がる。


 テンプレ──根津の口から放たれたそんな単語が、今に限っては謎の頼もしさを帯びている。

 架空の生物が実際に動き、存在している本物の異世界ファンタジー。しかし、普段ヒロシがゲームやライトノベルで見ていたものとは随分と毛色が違う。


 もっとこう、王宮に招待されてワールドマップと安すぎる路銀と『せいどうのつるぎ』などを授かるものではないのだろうか。

 あるいは、無駄にラフで馴れ馴れしい爺さんゴッド(あるいはロリ)にチートスキルを授けられるとか──


「そうだスキル! 説明も無しにこんなドブ臭い牢屋に放り込まれてんだ、なんのボーナスも無しなわけねえよ。チュートリアルミッション『スキルを使って脱出せよ』パターンだろ!」


「ヒロシ殿……?」


「混沌に沈め! アルティメット・ラスト・クルセイダー!!」


 謎の確信を得たヒロシは、素早く立ち上がって鉄格子にパンチ。拳骨が鉄格子に打ち負けた鈍い音と手首に繋がれた鎖の跳ねる音が響き、


「ふぉぉ⋯⋯」


 躊躇うことなく叩きこんだ拳を抱えて悶絶し、一瞬のアドレナリンに騙されていた全身が激痛という産声を上げて熱を発する。

 その場に膝を折って崩れ落ち、再び石の上に大の字。


「ハイテク文明を生きるサブカルボーイに⋯⋯これは、ハードすぎやしないかね」


「まったくでござる。拙者、さっさと元の世界に帰りたいでござる。本来ならば、明日から夏休みのはずだったのに」


 百歩譲ってチートボーナスはないにしても、あるいは、まだチートスキルが目覚めていないにしても──スタートが牢屋かつ満身創痍なんて聞いたこともない。

 ヒロシは深く嘆息し、涙の浮かんだ目尻を擦る。忘れかけていた情報収集を思い出し、壁に背を預ける根津へ視線を向けた。

 さらさらロングヘアーの面影は消え、寂しい坊主頭が嫌でも目に入る。


「そういえば……根津お前、髪切られたから学校休んだのか?」


 根津の表情が曇り、少しの間をおいて「左様」と頷いた。

 唯一の友達を巻き込むまいと彼なりに気を遣ったのか──ヒロシは小さく舌打ちし、やるせない感情を隠そうとしない。痛痒い後頭部へ両手を回して瞑目し、


「まあ、いいけどさ。自分一人で抱え込もうとして、余計にダメージ喰らうなんて馬鹿だぜ? 俺が言えた話じゃないけど。それでも言ってくれりゃあ良かったのに」


「⋯⋯そうでござるな。申し訳なかった」


「いや、謝られても仕方ねえよ」


 痛む体が休まる姿勢を探して、ヒロシは根津の方へ寝返りをうった。

 この話題には触れないほうが良かっただろうか、ヒロシは自分の短慮さに呆れて顔をしかめる。


 何か別の話題に逸らすべく、再び周囲を見回そうとして根津の顔を二度見。

 ロングヘアーを失った今、最大にして唯一の根津の特徴──眼鏡が見当たらないのだ。召喚された際に、時空の狭間に消し飛んだパターンか。


「いやいや、リュックサックの中に退避させたのでござるよ。あの手の輩は荒事になると、真っ先に眼鏡を破壊しにくるのでござる」


「おお、プロフェッショナル。で、そのリュックは?」


 さあ、と根津。「だよね~」とヒロシは頭を掻いた。

 現段階の装備は、薄っぺらい夏服とバッテリーが心もとないヒロシのスマホと根津のガラケー。Wi-Fiが入るわけもないので、使えるのはカメラとメモ機能くらいのものだろう。

 そして、足元は未練がましく履き続けている軽さ重視のランニングシューズだ。陸上部時代に履いていた苦い思い出の品だが、きっぱりと手放せないあたりがひどく女々しい。


 現状、二人が使える初期装備は学校帰りに()()()()()()()()()が全て──しかし、だとすれば、根津が咄嗟に背負った二人分のリュックサックはどこへ消えたのだろうか。

 ゴブリン(連中?)が物珍しさに没収していたのだとすれば、まだ少し希望は見えなくもないが……


「時に根津」


「なんでござるか?」


「俺が、あの金髪野郎に絡まれてた時⋯⋯俺の分のリュックも背負ってたよな?」


 一応の確認に「そういえばそうでござったな」と根津が手を打った。ヒロシの考えていることを彼もまた察したようで、


「この建物のどこかに拙者らの荷物があるかもしれない、ということでござるな」


「そゆこと。まあ、こんなにボロボロじゃあ、脱出なんて無理だけどな⋯⋯」


 確かに、死んだ方がマシなんてことをヒロシが考えていたのは事実だ。しかし、こんなドブ臭い牢屋に閉じ込められて朽ち果てることを望んだわけじゃない。

 その論法から派生するならば、死んだ方がマシなんてくだらないことを考えられないように地獄を見せてやる──という神様の暖かい心遣いなのだろうか。


 いや、これは対象がヒロシに限られた場合の話である。そうなると根津も一緒の理由がわからない。最強の武器は『友達』だよ、と道徳的な暴力を振るわれているのかもしれない。


 それならば、それでいい。よくわかった。だから、


「「帰りてえ⋯⋯」」


 牢屋の中で野郎の声が重なり、未だに姿を見せない美少女召喚士が二人の脳裏をよぎる。

 ヒロシの隣にはボロ雑巾のような眼鏡のオタクが一人。根津の隣には満身創痍のイキり陰キャが一人。美少女の気配はどこにもない。


 元の世界に未練はあまりないが、この世界には未練以前に何もないのだ。手違いで呼び出したのなら元の世界に戻すなり、チートスキルを授けてくれるなり、アフターサービスをもっとどうにか──

 


「放してください!」



 むさくるしい牢屋に響く、恐怖と嫌悪感に染まった幼い声音。美少女の気配に再び分泌されるアドレナリンに身を任せてヒロシと根津は立ち上がり、頭突きしそうな勢いで鉄格子へ張り付いた。

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