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第一章1  その男、底辺につき

 ──死んだ方がマシだ。



 ヘアアイロンの多用により、焼けたような茶髪以外にこれといって外見に特徴はなく、悲凡といって差し支えない見てくれの少年──佐藤さとうひろしは心の底からそう思っていた。


 しかし、そんなことを考えながら生きるのも今日で最後だ。


 少し日が沈みかけ、蒸し暑さは心地よい涼しさへと変わり、柔らかな風がしっとりと汗を冷やした。

 二人きりの教室へ暖色の陽光が差し込んでいる。誰もが憧れるような告白シチュエーションだ。


 一人勝手に跳ねる心臓を撫でつけて、ヒロシは鼻から短く息を吸う。声が裏返らないように、つい早口になってしまわないように、相手の目を見て話すは大前提だがガン見しないように──『バスケの練習姿に一目惚れでした。今度、自分と一緒にお茶でも行きませんか?』ただこれだけを脳内で反芻し、乾いた唇を湿らせる。


 部活終わりの彼女は、夕日をバックにヒロシの用意したスポーツドリンク(常温と冷凍をそれぞれ用意)をぐびぐびと飲んでいる。束ねたショートボブから覗く首筋には艶やかな汗が浮かび、極度の緊張状態である彼にとってはそれだけで扇情的であった。


 夕日をバックに──とは言っても、彼女は大きく『7』と書かれた背番号をこちらへ向け、窓の外を見ているから背景は彼かもしれない。

 そんな背景が、勇気を振り絞って口を開こうと息を吸い──


「ごめんなさい」


 彼女は振り返ってただ一言、ヒロシの目を真っ直ぐに見て言った。そんな目で見られては何も言えない。代わりに絶叫してやろうか。

 目を伏せてヒロシの横を通り過ぎ、彼女は教室から出て行ってしまった。その瞬間が恐らく、ヒロシと彼女との距離が最も近づいた瞬間なのだろう。考えないようにしていた絶望が形を成し、横を通り過ぎた柑橘系の残り香を追うこともできない。


 だから、ただ一言だけ──



「死んだ方がマシだ」



 〇



 彼が現在のような状況に身を置いている理由を語るにおいて、ドラマチックな要素は見当たらず、己が招いた不幸と己が選んだ道の果てに居場所をなくした。ただ、それだけである。


 通いたい高校があったわけではないが、成績以外を見ようとしない母親になんとなく反抗して受験戦争を放棄し──中学時代、休むことなく通い続けていた陸上部もなんとなく退部し、家から一番近い私立高校へ彼は入学した。

 受験を蹴ってから母親との会話が激減し、それに嫌気が差したのか父親は単身赴任のまま積極的に戻ってこようとしない。別に、経済的にマズいわけでもないはずなのに、母親がパートを始めて家の外で働きだした理由は容易に想像がつく。


 しかし、だんだんと自分には他に大した取り柄もないことを自覚して、天性の才能が備わっていないことも理解して──母親に反抗した理由である『成績』が手放せなくなった。

 その延長で、残された道は勉学に励むことだけだ、と名門大学への入学を目指して息巻いていた時期が彼にあったのも事実だ。

 それも結局、何かしらの言い訳を見つけて逃げた。ちゃらんぽらんに、ふらふらと、それなりに不登校気味が許される程度に勉強して。でも、居場所が無くなるのが怖くて外には出なかった。居場所が無いことから目を背けていただけかもしれない。


 傍から見れば見ればいかにもライトノベルの主人公らしい、孤独と経済的余裕の板挟みであった。毎日が「今日⋯⋯家に誰もいないんだ」状態である。しかし、そんなことを言う相手も機会も彼には訪れなかった。


 学校に行っても冷ややかな視線を浴びるだけ、与えられた家の中で燻っているなんて家畜同然かもしれない。が、いつしかそんな自尊心もどこかへと消え去り、彼はゲームやライトノベルを愛するサブカルボーイの道を着々と歩んでいったのだ。


 ──そして、最底辺のまま最底辺として最底辺を生きてきたヒロシは、そんな現状を打破するべく彼女を作り、スクールカースト最底辺を脱することを決意した。彼の中では一世一代の大勝負ではあったのだが、



「ごめんなさい」



 案の定、その志も折れた。



 ~~~



 一定の回数以上他人と会話すると、脳味噌は勝手にその他人を『友達』と錯覚してしまうらしい。

 しかし、会話する相手のいないヒロシには縁のない錯覚であるし、彼が友達と錯覚されていることもないだろう。

 そんなどうでもいいことで、自分に更なるダメージを与えながら上靴をスニーカーに履き替え、下校のピークを過ぎた昇降口を通り過ぎる。


 彼女の部活終わりを待っていたから、駅はスポーツ系の部活に所属する人々に溢れかえっていた。

 回れ右してバス停へ。人混みを避け、斜め下を向いたままにバスを待つ。俯いているワケじゃない。いつでも自分の傍にいてくれる己の影を眺めているだけだ。


「あの曲まじでエモいよね「三組の天月、告られたらしーよ「マジうざい死ねばいい「腹減った、ミートドリア食いに行こーぜ「あっつー、だるー「今日も塾か──


 皆がそれぞれに楽しそうに、たわいもない会話を交わしている。笑っている。

 誰も自分の気持ちを理解しようとしない。そもそも視界に入っていない、人間みな眼前のことで手一杯だ。そんなことはわかっている。かと言って自らこの状況を抜け出すような努力をしてきたとは言い難い。

 思いたった努力は今さっき砕け散った。もしかすると、もしかしなくても、この状況に依存しているのかもしれない。居場所が無いことそのものが──自分の居場所なのだ。


 そう考えれば、楽かもしれない。いや、そうでもない。


 深い嘆息と共に時刻表を見るべくヒロシが顔を上げると、誰かがこちらに手を振っている。女の子だ。さらりとした黒髪を後ろ一本のポニーテールでまとめ、黒ぶちの眼鏡が良く似合っている。派手か地味かで言えば地味な方かもしれないが、かなり可愛い。

 ──ふと、おもむろにヒロシは手を上げそうになって気付く。自分の背後の彼氏へ手を振っているのだ。


「だっせ⋯⋯」


 彼らの目に映る世界はさぞ美しいことだろう。勉強ができなくたって、スポーツができなくたって、何となくとりあえず徒然でも時間は過ぎて、それなりに楽しいのだろう。


 ──俺より勉強できねえクセに。


 つい口から漏れ出そうになる呪い。己の性格がこうであるが故に誰も自分に近づこうとしないなんてわかり切っている。自覚できるからムカつくのだ。

 頭の中がすっからかんでも楽しんでいれば、楽しそうにしていれば勝ち組みたいな基準は狂っている。そして、そんな基準に疑問を抱かないこいつらはもっと狂っている。だから、



 ──来世は、学力がものを言う世界に生まれ変わってやる。



 努力して、それ相応に報われるのは才能だ。

 もし、神様が見ているのなら早急に応答せよ。灯りのついた家に帰って、何となく学校の愚痴でも話して、誰かと一緒に食卓を囲めればそれでいいのだ。それだけでいいのだ。

 ヒロシは奥歯を噛み締め、小さく震える。これが怒りなのか、悲しみなのかはわからない。ただ、体が熱くなっていく。こんなはずじゃなかった、と融点に達したぐしゃぐしゃの感情が目から溢れ出しそうになる。乱暴に目頭を擦った。


 今、泣いたら確実に死ぬ。


 頭を掻きむしり、ヒロシはおもむろにリュックサックの中へ手を伸ばした。ケータイを取り出し、連絡帳を開く。『お母さん』『お父さん』が登録されていない携帯の一番上に来る名前に彼は触れた。

 数回のコール音が耳元で響いたのち、


「私はLです」


「⋯⋯おい」


 ヒロシが唯一、錯覚ではなく友達と認識している男の声が聞こえた。こちらの気も知らないで、安定のボケをかましてくる。「どうしたのでござるか?」やたら古風な喋り方で電話の向こうの男が問いかける。


「えっと⋯⋯晩飯これから? その、ラーメン食いにいこーぜ」


「あ、ああ⋯⋯。了解でござる。駅でよろしいか?」


「うん、西口にいるから」


「合点。ヒロシ殿⋯⋯なんか声潤んでない?」


 「るっせ」と、ヒロシは電話を切る。何となく彼が見つけやすいであろう場所に移動し、それから十五分ほど経った頃──


「いやぁ、遅くなったでござる」


 そこには、覇気のない坊主頭に眼鏡をかけた男が立っている。

 戦国武将が好きすぎて、喋り方まで侵食されてしまった男──根津ねづである。互いに存在を認知したのは中学校に入ってからだが、小学校からの幼馴染の姿にヒロシは心の底から安堵していた。

 しかし、ヒロシは眼前の根津に対して大きな違和感を二つ覚えた。本来ならば、この男は正直キモいくらいの長髪で、異常にテカテカとサラサラとしていたはずなのだが、


「なんで、お前そんな昭和の板前さんみたいな頭してんの?」


 スポーツ刈りというにはどうにも雑で、ツーブロックと認識するには坊主すぎる。


「ああ、夏だからでござるよ。ずっと床屋に行けずに煩わしかったでござるからね。そしたら、風邪ひいて学校を休んでしまったのでござる。ヒロシ殿の大一番に立ち会えなくて申し訳なかったでござる」


「⋯⋯いや、それは全然いいんだけどさ。なんで学校休んだのに制服なのよ?」


 ヒロシが抱いた二つ目の疑問に「母上がジャージを洗濯したのでござる」と根津が答える。


「あ、そう。そういうことね」


 ヒロシが適当に答え、行こーぜと歩き出す。

 彼の脳内は、大きくイメチェンした根津のヘアスタイルのことを考える余裕もないほどの痛みに見舞われていた。脳内でウニを転がされているような激しい頭痛。前へと滑らせるつま先が地面を捉えている感覚は、曖昧でおぼつかない。

 確かに、号泣した後は少し頭が痛くなったりはする。が、ほろりと涙がこぼれたくらいでそれほど泣いていない──


「ヒロシ殿、ヒロシ殿! 着いたでござるよ。受肉が解けかかったのでござるか?」


「世界観がわからん。ごめん、ぼーっとしてた」


 脊椎反射で何となく謝りながら『元祖新味噌ラーメン』と書かれた暖簾をくぐり、横開きの扉をガラガラと開けて店に入る。

 夕食には少し早い六時半──それでも賑わっている店内を歩いて、テーブル席へと通された。水とメニューが置かれる。


 互いが互いを外へ連れ出そうと、特に何の記念日でなくとも通っていたラーメン屋だ。バイトの店員と会話は無いものの、互いに顔は見知っていた。

 店員が、二人がメニューに興味を示していないことを悟ると「白赤、それぞれ細麺のバリカタでいいですか」と、メモしながら訪ねる。二人の目礼を確認して店員は厨房へと戻っていった。


 ヒロシは両肘をついてこめかみを押さえ、親指でぐりぐりと痛みの緩和を図る。今日は色々なことがあったから疲れているのかもしれない。

 水泡に帰したデートプランを考えながらコーンフレークを食べていた今朝の自分へ「お前はまたダメだったぞ」と告げて、再びこめかみをぐりぐり。


「おーいヒロシ殿、もしかしてめっちゃ頭痛かったりするのでござるか?」


 いつの間にか到着していたラーメンをすすりながら根津が言う。ヒロシが小さく嘆息しながら頷き、「拙者も」と根津が笑う。


「低気圧でござるかね。台風近いし」


「かもね。なんかイライラするわ」


 苦笑で応じるヒロシに、根津が割り箸を差し出す。おもむろに箸を割って白味噌ラーメンをすする。ニンニクの効いたスープを胃へ流し込み、ヒロシはゆっくりと息を吐く。


 やはり友達は大切にすべきだ──そんなことを改めて噛み締めたその時だった。


「お、ゴザルじゃーん!」


 突然響く不快な声音。根津の瞳孔が開き、ヒロシの背後で視線が止まる。公共の場で放つには大きすぎる声に店内が静まり返った。根津が表情を歪めて視線をラーメンへと落とす。


「ちょいちょちょい、なんで目ぇ逸らしてんの!?」


 背後から近づいてくる足音、タイムもプレースもオケーションも気にしない大音量で、二人と同じ制服を着た男が歩いてくる。その手には缶酒が握られ、つり上がった目尻は嘲笑を浮かべている。


「ゴザル、友達いたんだ。ねー友達君、ゴザルの髪型似合ってるっしょ? オレがイメチェンしてあげたんよ。バリカン買ってやったわけじゃねぇんだから早く金払え────」


 男が言い終わるよりも先にヒロシが立ち上がり、男を突き飛ばす。

 「ヒロシ殿!」と手を伸ばす根津を制し、ヒロシはカウンターに寄りかかった男の前へ。


「え、ああ、そういう感じ。お二人はカップル系ですか!? ああ!?」


 ピンで止めた金髪をかき上げ、男がヒロシの胸ぐらを掴みながら鼻頭へ頭突きを叩きこみ、ヒロシは積まれたビールケースの山へ力なく飛ばされた。

 ビール瓶が割れ、ワイシャツの上で炭酸が弾ける。「おら立てよ!」と、男は髪を掴んでヒロシを立たせる。


 火花の散る視界の向こうでは、根津が二人分のリュックを背負い「早く逃げるのでござる!」と叫ぶ。

 しかし、ヒロシは男を睨んだまま動かない。頭痛と殴られた痛み──それ以上に根津への仕打ちが許せなかったのだ。


「何調子乗ってんの? なんとか言ってみろよ! ぁあ!?」


 ──どうせ、失う立場なんて元からありはしない。最底辺ならこれ以上落ちることもない。なら、全部ぶちまけてやる!


「……顔近い、息臭い、台詞もクサい。そんな大声じゃなくても聞こえるっつーの三下野郎」


「は? 何イキってんだ、クソ陰キャがさぁ!? え、何? 三下はてめえだろ。俺のどこが三下なんよ!?」


「言わねーと自覚できないあたりが三下だっつてんの。酒飲んでイキがってるけどノンアルのチューハイじゃん。マジだっせえ」


 鼻腔から唇へ垂れ下がってきた血を男の顔めがけて吐き掛け、ヒロシは全力で男の顔面へ拳を叩きつけた⋯⋯つもり。



 ──その後のことは、あまりよく覚えていない。根津と二人で頭からビールをぶっかけられたような気もするし、ビール瓶でぼこぼこに殴られて悲鳴が聞こえたような気もする。咄嗟に怒りが抑えられればこうはならなかったかもしれない。けれど、間違いだったようには、どうにも思えない。まあ、今となって思えば、間違いだったような気がしなくもない。何にせよ、一つ確かに覚えているのは、



 その瞬間、二人はこの世界から消えた。

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