白痴博士
地元に、『白痴博士』なる観光地があることをラジオで聞いた。白っぽいバスに乗って、『白痴博士』最寄りのバス停で降りると運賃は593円だった。
そこは大きな病院だった。入ってすぐの窓口に「ご面会はこちら」とあったので、そこの人に『白痴博士』のことを尋ねた。
「観光客の方ですね」
言ってその人は500円の音声ガイド機を、私の首にかけてくれた。見た目のわりに非常に重いものだった。
「内容が詰まっておりますので」
なるほど、よく見るとずいぶんとごつい。
エレベーターの窓からは太平洋がきらめいていた。『白痴博士』は17階に上がったところだ。かごを降りた目の前に、白く塗った木の看板が立っていて、『白痴博士』と毛筆書きされていた。ここからが観光地だと思ったので、私は音声ガイド機のイヤホンを耳に引っ掛け、再生ボタンを押した。軽薄な音楽とともに軽薄なアナウンスが聞こえてきた。
「ようこそ、白痴博士へ! 白痴博士は、歴史と伝統ある、わが町の誇る観光地でございます。どうぞ、ごゆっくり、お楽しみくださいませ。音声ガイド機の、『1』ボタンを押すと、白痴博士の基本情報をお聞きいただけます。」
「1914年、ベテラン大学の院生だったクリストファー・ポーゼズは、ある種のイカの生殖に関する論文で博士号を取得しました。当時、博士号は、ごく限られた人物のみ取得できた、大変誉れ高い称号で、クリストファーの出身地であるベテラン市の目抜き通りには、彼の肖像が描かれた垂れ幕が、たくさん掲揚されたといいます。その後も、独自の研究にまい進したクリストファーではありますが、ある時突然の事件があり、ほとんどの脳活動が、停止してしまいます。クリストファーは直ちに、当時日本を代表する医院だった当院に運び込まれ、点滴など、各種のケアを受けることになりました。これが、1931年7月のことです。残念ながら、クリストファーの容体は改善しませんでした。何年たっても、クリストファーの意識は混濁し続け、おおよそ言語ととれるような発声は、一度もみられませんでした。ベテラン大学の同僚たちは、クリストファーのあまりの変化に、連日のように涙を流したといいます――――」
だだっ広い、真っ白な部屋の中央には真っ白なベッドがぽつんと置かれていた。ベットには白髪で髭を伸ばした老人が、ものも言わずに横たわっている。
「――――これが今に言う、白痴博士にございます。音声ガイド機の、『2』ボタンを押すと、観光資源としての白痴博士についてお聞きいただけます。」
「大東亜戦争への敗北を機に、白痴博士は、わが町の新たな観光地として再出発いたしました。お客様を呼び込む看板を各所に設置するところから始め、やがて列車の車内広告や、新聞の欄外広告など、様々な場所に白痴博士の案内を掲載しました。特に白痴博士の宣伝に熱心だったのは、お馴染み南部鉄道の初代社長、稲田 靖太郎その人でした。彼は駅構内に積極的な広告掲示を行うに留まらず、特別列車『白痴号』を毎週末に運行し、白痴博士の知名度向上に大きく貢献いたしました。その甲斐あってか、1946年は年間200人ほどだった観光客数は、わずか10年で300倍にまで増加し、今となっては年間100万人もの方が訪れる、市内最大の観光地と相成りました――――」
老人が、か細い腕を宙に突き出し、呻いた。
「う、っう、」
濁った目の焦点は合っていない。まったくもって安全なのだここは。
「――――2018年度の経済効果は、約1億円とも見込まれます。音声ガイド機の、『3』ボタンを押すと、白痴博士にまつわる伝説をお聞きいただけます。」
「それは、いつからともなく、どこからともなく広がった噂でございます。クリストファーは生物学者でありましたが、その研究のさなかに偶然、人間の不老不死術を発見したのではないか、と言う者が現れたのです。そして、クリストファーがこのようになり果てたのは、不老不死というタブーを犯したことへの『天罰』だと。もしこの噂が本当ならば、何か論文が見つかるはずなのですが、大学関係者がどれだけ探してもクリストファーの研究室にあるのはイカとかタコの論文ばかり。お目当ての不老不死論文を見つけることは出来ませんでした。ただ一つ言えるのは、クリストファーは今年で127歳になる、大変な長生き者だということです――――」
私は膝をかがめて『白痴博士』に近寄った。それはかすかにふるえていた。両眼は何も映していない。
苦しいのだろうか。
……こんなことなら生まれてこなきゃ良かったのにね。
「――――今のところ、老衰の兆候は見えません。脳をほとんど動かしていない分、老化も遅いのでしょうね。音声ガイド機の、『4』ボタンを押すと、健在だったころのクリストファーによる、貴重な肉声をお聞きいただけます。」
「ダムニッ! ファッキンノベッ! アスホーッ! ア、アイムドクターイディオッ!? ダムニッ! ダムニダムニダムニッ! ファッキュ! サノバビッチ! ア!」
ダムニ