85話 熱中
「「いただきます。」」
まだ暑さが残る、ある日の正午。ここへ移動してから3週間ほどが経つ。この頃、父親はもう日本語の大部分を掴んでいた。
「クライス君、今日のご飯はどう?」
「美味しい。」
「そっか。よかったよかった。今日は新しい味付けを考えたの。」
彼女の口から発される数々の言葉に、相槌を打っていく。まだ長文となると厳しいが、主語と述語だけの、いわゆる二語文くらいなら発言が可能だ。
「でね、クライス君。明日から私居なくなるけど、大丈夫?」
「大丈夫、ない。」
「だいじょばないか。」
この時代の母さんは高校生。父親はもう少し年下だが、戸籍が無い以上、学校にも行けない。父親はこの家から、いや、この家の敷地から出ようとはしなかった。
この家は、街から畑を挟んだ奥にあり、そこから後ろの山全体が敷地となっていた。花火大会の屋台が出ていた公園も、実はうちの敷地だったりする。
「んー、じゃあ明日の分までお買い物してくるから、待ってて。」
「ん。」
さて、数週間経っても父親がここに居座り続けている理由だが、元凶は母さん。花火大会の件以来、父親の過去に興味を持つようになってしまったようだ。しかしながら父親にはそれを表現する日本語力は無い。そのため、父親の日本語が上達するまで引き留めている。
彼女の父親、つまり僕の祖父は、反対しそうなものだったのだが、朝の稽古の相手として丁度良いと承諾してしまった。
『さて、行くか。』
どこへ向かうのかというと、山の奥地。花火大会のときに父親が家まで瞬間移動したおおよその場所だ。
父親も疑問を持っていた。コーンスープの瞬間移動に、彼自身の瞬間移動。そして、使えない未来視。花火大会のとき、未来視を使っていれば危険が無いと判断できたのかもしれない。しかし、この家に来てから今まで、未来視が発動したことは無い。
そして僕には、もうひとつ思い当たる節がある。
『あの夜に来たのは...ここだな。』
父親が発した『ありがとう。』の言葉。あれは父親が元いた地域の言語での発音だった。それなのに、母さんは「どういたしまして。」と返した。感覚的なもので捉えたのかもしれないが、それにしては彼女の対応が自然体すぎる。これが僕の気づいた不思議要素。
『やはり今日もおかしな点は無し、か。』
ここのところ暇を見つけては訪れていたようなのだが、手掛かりは何も見つかっていない。なんだか空気が美味しいような気はするのだが、それは自然の中では特別おかしなことではないように感じる。
『もしかしたら、時間が関係あるのかもしれないな。』
十分有り得る。コーンスープの時間は分からないが、父親の瞬間移動のときも『ありがとう。』のときも夜だった。
頭を回転させるのだが、如何せん暑い。すぐに父親の思考はオーバーヒートを起こし、ふらりと体をぐらつかせた。そのまま大地を背に倒れる。意識が朦朧としてきた。蝉の鳴き声が遠くに聞こえる。
熱中症だ。
「冷気を。」
このまま灼熱の中に倒れていては死んでしまう。お世辞抜きで気休めにしかならないが、冷気冷気と連呼してみる。暑さで頭がどうにかなってしまったのかもしれないが、心做しか涼しくなった気がした。
しかしながらぼんやりとした状態は変わらず、気を強く持っていなければ、すぐにでも意識を刈り取られてしまいそうだ。
「ツム、ギ。」
最後に虚空に手を翳して、最も信頼できる人の姿をイメージして名を呼び、限界を迎える。遠ざかっていく意識の隅で、彼女の呼び声が聞こえた気がした。
目を覚ましたが、父親のことを心配する気持ちは微塵も起こらなかった。僕達が生まれているということは、どうせ助かるのだ。それに、あんなやつにくれてやる心配など持ち合わせていない。
「さて、行きましょうか。」
父親と似通った台詞を口にしてしまったが、決して熱中症で倒れるフラグではない。現実は夢の中とは違い、冬だ。熱中症などなろうとしてもなれないだろう。
「うーん、殺風景だね。」
「そうでござるな。」
暫く走り続けた後の休憩にて。既に街は見えなくなり、周りには瓦礫ばかり。正直、つまらない。ユーグレナドリンクで栄養を補給しつつ、何か楽しめる方法はないかと模索する。
「じゃあ、主語述語ゲームしよう。」
「懐かしいな。」
「その主語述語げーむというのは何でござるか?」
今回は三人だから、主語述語客語ゲームとでもしようか。それぞれが役割に合った単語を思い浮かべ、それを順番に発表し、奇怪な文を作って遊ぶゲームだ。口で説明するのは難しいので、実践してみよう。
「じゃあ稔君が主語。私が目的語で、お兄ちゃんは述語ね。はい、私思いついたよ。」
「僕も。」
「せ、拙者も。」
稔君はわけが分かっていないような表情をしているが、まあやってみれば分かる。
「海胴殿が。」
「お兄ちゃんを。」
「調理する。」
この通り、カオスな文章の出来上がり。どうして僕が自分で自分を調理せねばならんのだ。ええい、四包も稔君も、その可哀想なものを見る目を止めろ。
「お兄ちゃん、心を病んでるの?」
「やはり鍛錬が厳しすぎたでござるか?」
「これは遊びですからね? 現実と混同しないでください?」
こうして暇を潰しつつ、目的地へ走る。
ちなみに、最もわけのわからない文章は「少女がトマトを回し蹴り」だった。どこの世界にトマトを使って格闘技をする少女がいるのか。
そして最もリアリティのある文章は「桜介君が祐介殿をお説教」。これは現在進行形で起こっていてもおかしくない。
「あ、あれかな?」
「そのようで、ござるな。」
「はぁ、はぁ、みたい、ですね。」
稔君はいいとして、どうして四包はそんなに余裕があるのか。僕と歩んできた人生は大差ないはずなのに。
視界の先には数軒の瓦礫でない家が見える。目標が見えたとあってか二人はさらに加速していくが、僕にはもうその体力は無い。
「「ごめんくださーい。」」
「おや、この間の。もう来ていただけたんですか。そちらの方は大丈夫ですか?」
「大丈夫でござる。」
塩売りの男性が迎えてくれる。僕は息が上がっていて挨拶もろくにできない。稔君が代弁してくれるが、なんだか妙に苛つく。
「お疲れのようなので、今日はゆっくりしてください。隣が空き家になっているので、そちらをどうぞ。」
「ありがとうございます。」
「何かあれば自分、耕司を頼ってください。」
「わかったよ。耕司さん。ありがとう。」
とりあえず、借りた家に荷物を置く。掃除してくれたのだろう、空き家と言っていたのに目立った汚れは見当たらない。その代わり、家具も見当たらない。キッチンすら無いという有様だ。いったい前の住人はどうやって暮らしていたのか。
「四包、頼んだ。」
「あいあいさー。」
とりあえず暖房を頼む。汗が乾いてきて、このままでは風邪を引きそうだ。
殺風景な部屋の収納やらを探索してみるが、本当に何も出てこない。
「布団すら無いとは。」
「思ってたより過酷だね。」
「申し訳程度の布があったでござる。」
「それで我慢しましょう。」
元々この世界の布団は良いものでは無い。前の世界のような低反発など夢のまた夢だ。そして、床に布一枚というのはこの世界でも酷な部類に入る。四包がいなければ凍死しかねない。
「お散歩に行こう!」
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