77話 負生
「よっ、まだやってる?」
夕方。祐介さんと明日香さんを呼びに行った稔君が帰ってきた。扉なのにわざわざ暖簾を潜るような仕草で入ってくる明日香さんにイラッとする。
「そんな居酒屋みたいなノリで入って来ないでください。」
「おっ、よくわかったな。」
「見た目は子どもなんですから、そういう行動は弁えてくださいよ。」
「注文が多いねえ。で、依頼の件? こんなに早く考えついたのか?」
見た目は子どもというと、四包が読んでいた漫画にそんなキャラクターがいたはずだ。なんでも、頭脳は高校生らしい。
僕が考えついた、というか前の世界から引用してきたことを話す。なんだかズルをしている気分だ。
「へぇ、図案次第だけど、面白そうじゃないか。仕事仲間にも話しておくよ。」
「ありがとうございます。」
「でも今のと結構変わっちゃうから、受け入れられないかもね。」
四包の言う通り、受け入れられなければそれでこの策はおじゃんだ。諦めて他の策を練ることができれば良いのだが、デメリットが大きい。
販売するに当たって、在庫は必要になる。その在庫が全て無駄になるのだから、損失は大きいわけだ。
「それで俺は、その案を描き起こせば良いわけだね。」
「はい。よろしくお願いします。」
それから、ああでもないこうでもないと注文をつけながら祐介さんに描いてもらい、とりあえず半分ほどまとまったところで今日はお開きになった。
「完成、楽しみにしてるよ。じゃあな。」
「拙者も今日はお暇するでござる。」
「また明日の同じ時間に。」
「また明日ね。」
「お疲れ様でした。」
ふぅ、ようやく今日が終わる。疲れを癒すお風呂に入り、四包と並んで布団に入った。なんだかここへ来てからの日々は充実している気がする。
「お兄ちゃん、依頼、上手くいくといいね。」
「そうだな。明日香さんも美春さんも。」
「「「いただきます。」」」
父親の日本語学習は順調で、発音の基礎を掴んだ。この「いただきます」もその例だ。まだ日本語の意味は分からないが、そこは彼女の懸命なジェスチャーで何とかなっている。そうして、ここでの生活は一週間に渡ろうとしていた。
日は高く昇り、蝉の鳴く声が窓越しにも耳に届く中、効きの悪い空調が雑音を立てて稼働している。
「ねぇ君、名前は?」
絵本のあるページを開き、人物の絵とその名前を指さしてから、僕の父親の方を見て指を向ける。彼はそのジェスチャーにより、名前を聞いていることを察知して答えた。
『クライス。』
「クライス?」
厳密な発音で言えば違うのだが、日本語らしく片仮名で読むのならそうなる。久々に名前を呼ばれると、辛い事実を思い出して胸が締め付けられた。
「私はね、紬。」
「ツムギ?」
「そうそう。上手上手。」
煽てて頭を撫でてくれるが、それどころではない。僕は今、考えてみれば当たり前の現実を突きつけられて戸惑っているのだ。
紬というのは僕達の母の名前。つまり、目の前で父の頭を撫でる彼女は僕の母さんということになる。
考えてみれば、それは当然だ。この体が父親のものと気づいたのは、四包の話からだった。四包は母さんからその話を聞いているのだから、話の現場には母さんがいたことになる。
「ツムギ。」
「なぁに?」
馬鹿の一つ覚えのように、母さんの名前を連呼する。僕が話しているような感覚ではあるのだが、実際は父親が発言しているのだと思うと、なんだか気分が悪い。
「今日はおしまい。私、これから用事があるの。お留守番できる?」
『ここにいろ、ということか?』
身振り手振りでなんとか伝えようとする母さんの意図を汲み取り、頷き返す。彼女はにこやかに笑って僕の前を離れた。母さんに彼女という代名詞を使うのも何か違う気がするが、見た目的にそうとしか言えない。
「いってきます。」
「いってらっしゃい。」
これも最近覚えた言葉だ。
独りぼっちの部屋の中に、窓を締め切っても喧しい蝉の声だけが響く。心の中には自分の名前がグルグルと飛び回っていた。
『神の御子様』
『クライス様』
『どうか我らに導きを』
『うるさい! うるさいうるさい!』
孤独を感じる時間が延びれば延びるほど、蝉の声に混じって、失った彼らの声が聴こえてくる気がした。
「っはあ、はあ。」
荒い呼吸と共に覚醒。人の死を背負って生きる辛さを思い知った。僕の未成熟な精神を想像以上に突き刺してくる。
「おにーちゃん、だいじょーぶぅ?」
起こしてしまったらしい四包が目を薄らと開けて尋ねてくる。若い母さんに似ているので、一瞬まだ夢の中かと思ってしまった。
「大丈夫だ。問題無い。」
「それだいじょーぶじゃないやつー。はい、ぎゅーっ。」
そう言って僕の腰に抱きつき、すやぁと寝息を立てて眠ってしまった。なんだか可笑しくて、頬が緩む。実際に緩んでいるかは置いておくとして。
「元気を貰ったし、今日も頑張ろうか。」
ルーティンとなりつつある朝の鍛錬をこなす。しんどくなければ意味が無いので、日々かける時間が延びていくのは困りものだ。そのうちトレーニング中にお客さんが来てしまうかもしれない。
「昨日よりも更に良くなっているのでござる。」
「ありがとうございます、師匠。」
「海胴殿は飲み込みが早くて教えがいがあるでござるな。」
自分で言うのもなんだが、前の世界の教育で培ったので理解力はあると思う。稔君の説明は案外大雑把なので、想像力で補う必要があるのだ。これで教育が無駄でないことを証明できた。する必要も無いのだが。
「僕は今日、依頼が来ない限りは倉庫にいるつもりなので、何かあれば呼んでください。」
「何するの、お兄ちゃん。」
「内緒だ。」
朝食中の会話。この間頂いた木材で作りたいものがあるのだ。作れるかどうかなどわかったものではないし、作れたとしてもかなり不格好になるだろうが。
倉庫には色々なものが置いてある。掃除用具から絵の具、果ては彫刻刀まで。少し錆びているが、錆取りさえしてしまえば使うことができるだろう。
「あのね、お父さん。」
「どうした、美春。」
優しい笑顔。いつもなら安心して頬が緩んでしまうのだけれど、今日は緊張でそれどころじゃない。
「彼のこと、なんだけど。」
「おっ、お父さんは許しません! 絶対! 許しません!」
案の定、目を背けて虚空に向かって叫び出してしまった。いつもの私ならお母さんに助けを求めるところだけれど、今は外出中。
お母さんがやっているように、お父さんの頭を胸に抱き、落ち着かせる。それから「落ち着かないとこのまま頭を...」じゃなくて、両肩に手を置いて向き合う形になった。
「話を聞いて、お父さん!」
「...っ! ごめんな、取り乱してしまったよ。」
目を合わせて懇願すると、やっと普段のお父さんに戻った。それでも笑顔はなんだかぎこちない。
「でもな、美春。お前はまだ子どもなんだ。そんなうちから相手を決めなくたって良い。」
「私はもう、子どもじゃ、ない。成人だって、してる。」
「...そんなに親元を離れたいのか。」
「そういうわけじゃ、ない。お父さんのこと、大好き。でも、彼のことも、大好き。」
言えた。本人にだってそう何回も言えていない言葉を、お父さんに。聞いた方は、相当ショックが大きいみたいで、笑顔を作ることすら忘れているけれど。
「それでも、あんなやつと交際だなんて」
「彼はね、私の、話、聞いてくれる。ちゃんと、私を、見てくれる。他の人と、違う。」
上手く言葉が出てこない。彼の言葉はいつも私を落ち着かせて、楽しませてくれる。私はお父さんを安心させてあげたい。彼なら、思いを伝えるときに、なんて言うかな。
「私ね、彼のことが、好き。失敗だってするし、めんどくさがり屋で、頼りないけれど、それでも私は、彼が好き。」
彼ならきっと、思ったことを素直に口にする。無意味に言葉を選んだり、わざわざかっこつけたりしないはずだ。
「彼のお陰で学校が楽しくなった。彼のお陰で喋ることを諦めないで済んだ。彼のお陰でいっぱい笑えた。だから私も、彼を幸せにしてあげたい。」
彼のためにする家事なら楽しめるし、彼のためになら自分を磨く。決して飽きさせたりなんてしない。彼はもう、私の生きる意味足りえているのだ。
「...そうか。美春がこんなにも積極的に話してくれるなんてな。その彼のことがよっぽど好きなんだろう。」
「うん。」
「愛娘にここまで言われたら、認めるしかない。もう一度彼と話をしよう。今度はお茶でも飲みながら、ゆっくりな。」
やっと、お父さんに認めて貰えた。でも、これでようやく始まり。花嫁修業はこれからなんだから。
「...ありがとう、お父さん。」
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