70話 雑巾
「それじゃあ四包ちゃん、ここに立って。」
祐介さんと二人きりになった応接室で、相変わらずよくわからない絵画を背に、ポーズをとる。手を後ろで組んで、若干腰を曲げる体勢になった。このまま長時間だとしんどいなぁ。
「そのまま動かないでね。」
「はーい。なるべく早くお願いね。」
祐介さんがじーっと見つめてくる。その表情は真剣そのものだ。あ、今芸術家さんっぽいことした。鉛筆を持った手を伸ばして、片目を閉じるやつ。あれって何してるのかわかんないんだよね。ホームラン予告かな?
「...」
「...」
会話が無くてつまんない。はあぁ、これがまだまだ続くのかぁ、嫌だなぁ。お兄ちゃんといる時もたまに静かになるんだけど、こんなに退屈じゃなかったと思う。いっつも何考えてたんだっけ。
「ふぅ、これで一段落だな。」
残りの洗濯物も片付けて、一息つく。ずっとしゃがんでいると腰が痛くなっていけない。思いっきり伸びをして、体をゴキゴキと鳴らす。
「海胴殿、暇でござる。」
「お店番頼んだじゃないですか。」
「どうせ誰か来ても、魔法を使えるのは四包殿だけでござる。力仕事しか受けられないでござるよ。」
「そうですね。じゃあ何かしましょうか。」
何をしよう。省エネ服の案を練るとしようか。2人で話し合えば、何かしらは生まれるだろう。
「稔く」
「海胴殿! 最近鍛錬が易しくはないでござるか?!」
「え、ああ、まあ、慣れてきましたね。」
「そうでござろう! というわけで、これから鍛錬をするというのはどうでござろうか!」
「どうしてそんなに元気なんですか。」
「鍛錬をするのに元気が無ければ始まらないでござる!」
稔君の中ではもう鍛錬のルートが出来上がってしまっているようだ。言っておくが、慣れてきただけであって、辛いものは辛い。数えるのも億劫なほど筋トレを積み、体力の限界まで追い込むように走る。筋肉痛が常に付き纏う毎日だ。それに慣れている自分が怖い。
「そうだ、稔君。掃除。掃除を忘れていました。ということで鍛錬はまた今度」
「では掃除を鍛錬にするでござる!」
「はい?」
「この屋敷の床板を全て雑巾がけ! それも全速力で!」
「...」
墓穴を掘った。ただトレーニングを目的とするよりは建設的だが、この屋敷の床はほぼ全てフローリング。それを常に全速力で雑巾がけなど、遠回しな死刑宣告だ。
1度弟子入りを申し出た以上、師匠の言うことには逆らえない。やるしか、ないのだ。
「さあ、始めるでござる!」
「うおおおぉぉぉ!」
「海胴殿も元気が出てきたでござるな!」
稔君、こういうものを、空元気と呼ぶのですよ。
なんだか部屋の外が騒がしい。お兄ちゃんのものらしき雄叫びと、ドタバタと床を蹴る音。何してるんだろ。大変そうだな。
お兄ちゃんのことを心配できるほど、こっちの状況は良くないんだけどね。この体勢、自然なように見えて結構キツいんだよ。
「ねえ祐介さん、休んでもいい?」
「...」
ダメだ。集中しすぎて聞こえてないみたい。いつもは頼りないくせに、こういうときだけ真面目な顔しちゃって。桜介君に見せてあげたいけど、その前に休憩がしたい。
ちょっとくらい動いてもいいかな? でも祐介さんすっごく真剣だし、迷惑になっちゃうよね。お仕事だし頑張らないと。
「わっ、何?!」
「あ、動かないで。」
「ごめんなさい。」
今、そこの廊下で物凄い音がした。何か重いものが転がるような。思わず反応しちゃって祐介さんに怒られちゃった。今のは不可抗力だと思うんだ。というか、祐介さんは今の音でも気にならないんだね。
「痛たたた。」
始めてから数分。指示通り死力を尽くして廊下を疾走していた僕は、雑巾がささくれに引っかかったせいで、勢いそのままに全力で前転した。
高校1年のとき、柔道で習った「前回り受け身」の要領でなんとか胴体への被害は少なく収まった。しかし、右足の踵と左足の踵がぶつかったことで、骨が割れたのではないかと思えるほどの痛みが僕を襲っている。
「大丈夫でござるか、海胴殿。」
「え、ええ、まあ。雑巾がけには影響ありません。」
「なら続行でござる。今度は気をつけるでござるよ。」
「わかっています。」
再び走り出す。僕の雑巾がけはまだ始まったばかりだ。
ドタバタした音はだんだん遠ざかっていった。多分今は向こうの廊下まで行っていると思う。ご苦労様だね。何をしてるのかわかんないけど。
「祐介さん、まだー?」
「...」
さっきからずっとこれなんだもの。集中しすぎだよ。顔を上げたと思ったらギラついた目で私をじーっと見てるし。集中するのはいいけどこっちの身にもなって欲しいな。
「もうやだよぉ。助けてぇ。」
か細いヘルプも、お兄ちゃんは言わずもがな、祐介さんにも届かない。だんだん腰が痛くなってきた。もう背筋が限界だよぉ。
床板のささくれを注意しつつ、全力疾走の雑巾がけを続けていった。足がパンパンだ。いくら毎日限界まで走り込んでいるとはいえ、この広い屋敷の床を全て拭き掃除となると、相当な負荷がかかる。
「稔君、雑巾が汚れて」
「海胴殿、新しい雑巾でござる。」
ご覧の通り、雑巾が汚れたので休もう、もとい洗おうと思っても、稔君が次の雑巾を用意し、素晴らしい投球、いや投雑巾で僕の目の前に落とすのだ。僕は嫌そうな表情を隠しもせず、自分の雑巾を投げ渡す。この表情の機微が伝わっているかは別として。
「稔君、これって、祐介さんが、終わる、までに、こっちも、終わるん、ですかね?」
「今の進度では終わりそうにないでござるな。仕方ない、拙者は廊下をするでござるので、海胴殿は最速で室内を頼むでござる。」
「了解。」
既に1階は僕だけの力で制覇している。残りは2階。廊下より室内のほうが面積が広い。家具がある分廊下よりも面倒ではあるが、それだけ休むことができる。
「あ、海胴殿、拙者より遅かった場合は、明日の鍛錬、覚悟しておくでござるよ。」
「んな理不尽な。」
「ちゃんと手加減はするでござるよ。」
「その手加減は今日ですか、明日ですか。」
「さあ。」
なんにせよ、今日負けたら明日の僕は行動不可だと思っていい。稔君か四包に引き摺られての生活になるだろう。なんとしても最速で終わらせねばなるまい。
「では、用意...始め! でござる!」
「定型文のような合図でも、語尾はそのままなんですね。」
ドタバタする音が2つに増えた。稔君まで何かやり出したみたい。上の方から音が聞こえるから、2階でしてるんだと思う。
始まってからずっとこの前傾姿勢を取っている私の足もそろそろ限界。普通こういうのって、休憩挟んだりすると思うんだけど。
「...」
「祐介さん、目が怖い。」
顔を上げる頻度が高くなった。多分終盤に差し掛かって、細かい所の手直しをしているんだと思う。さっきから消しゴムの動きが激しい。
もう少しで終わる、もう少しで終わると思いながらこの姿勢を取り続けて数十分。仕上げにどれだけかける気なのこの人。
「出来た! もう動いてもいいよ。」
「ぷはぁ、づがれだー。」
「お疲れ様。」
「ほんとだよ。こういうのは休憩を挟みながらするんだよ?」
「そうなのか? 人物絵は始めてだからよく分からなくてね。」
「ほんと、もう、腰が固まって、動けない。」
床に倒れ伏すようにして膝をつく。このまま暫く眠りたい。起きたら完治してないかなぁ。これだけ固まっちゃったら無理だよなぁ。あ、何か今良くない音がしたよ。
「2人を呼んでくるから、四包ちゃんは休んでて。」
「おねがーい。」
ああ、ようやく休めるんだ。そう思ったらなんだか眠くなってきたよ。
「海胴君、稔君?」
「ああ、祐介殿、ちょっと手伝って欲しいでござる。」
「すみません。運んでもらっていいですか。」
全身全霊を持って挑んだ掃除対決。結果は稔君の圧勝。最後には手伝われてしまった。
そもそも勝負自体が理不尽なのだ。1階の疲れに加えて、僕のほうが面積も広いし細かいところも多い。最初から勝てるわけがなかったのだ。
そのことに気づいたのは3つ目の部屋が終わったとき。落胆と同時に足をつって今に至る。心配してくれたのか、四包の顔が目の前に。
「ああ、四包...」
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