50話 桜花
「顔、洗ってくるか。」
今日も俺はいつも通り、朝の支度をする。敢えていつもと違うところを挙げるとすれば、着慣れない制服を着ていることか。
本日は晴天なり。絶好の入学式日和ではないか。俺は晴れて、大学校の一員となる。
名は祐介。歳は12。そこそこ裕福な家庭に生まれ、こうして義務教育を超えて学びを得ている。絵を描くことが好きな控えめな男子。自分で言うのは気が引けるが。
「いってきます。」
大学校はこの国に5つ。東西南北、そして中央にある。もちろん入学には試験が存在し、中学校までの勉強内容を問われた。
俺は特段勉強が得意ではない。むしろ苦手な方だ。大学校だって、親の体裁上仕方なく受けたようなもの。入学試験だって、学年で最下位の自信がある。
受かってしまえばこっちのものだと思っていたのだが、この学校、成績不振者は退学の可能性があるらしい。これで勉強せざるを得なくなったわけだ。趣味の描絵を差し置いて。
「はぁ、面倒だ。」
思わずそう口にしてしまうほど、心の中は憂鬱で満たされていた。
しかし、その感情は入学式で砂塵の如く吹き飛ばされてしまった。
「本日は、私達新入生のために盛大な入学式を催していただき」
衝撃だった。この世にこんなにも美しい女性がいるのか。そう思うほどに、彼女は輝いて見えた。淑やかに礼をする姿は一輪の花のよう。
一目惚れだった。
しかし、その花はとんでもなく高嶺の花だったのだ。
「新入生代表、桜花。」
新入生代表としての挨拶をしているということは、今年の入試成績トップということだ。退学云々を心配しているような人間が釣り合うはずがない。
「ちょっと頑張るか。」
こうして俺の学校生活プランは大幅な変更が加えられ、寝る間も惜しんで努力するようになった。テストではいつも1位の彼女。全てはあの人に振り向いてもらうために。
「今回もダメだったな。」
そんな生活を丸々1年続けた後のテスト。大学校に入ってから始めたような付け焼き刃では、やはり真性の天才には敵わないのか。
まだ諦めない。諦めるには足りない。自分が平凡なのは百も承知。天才との差を努力で埋めようというのだ。こんなものじゃ足りないだろう。
「今回は。今回こそは...!」
卒業までの最後のテスト。今まで以上に努力を重ね、教科書の隅から隅まで脳に焼き付くほど読み込んだ。もうあとが無い。
祈りを込めて掲示板のランキングを見る。1位は...
やはり、彼女だった。
俺はどれだけ努力をしても天才には届かない人間なのだと思い知らされた。自分への失望に、他の生徒が居なくなっても、ずっと動けないまま。
そうしてどれだけ経った頃か、俺と同じく掲示板を見上げて固まったままの人がいることに気づいた。可哀想に。彼女もまた、テストの結果が振るわなかったのだろう。
そう思い、同情の眼差しを向けた先には。俺が求めてやまなかった、一輪の花が。
「桜花、さん?」
呼ばれて振り返った彼女の目には、大粒の涙が。何故だろう。今回も彼女はトップのはずなのに。
そう思って掲示板を見返した。1位は桜花さん。その事実は変わらない。一応、その下にも目をやる。
1位 桜花 856点
1位 祐介 856点
俺の努力は、無駄じゃなかった。高嶺の花に、手が届いていた。
安堵と喜びでいっぱいになった俺は、何も考えずに、悔し涙を流す、誰よりも優秀だった彼女に言ってやった。
「やっと追いついた。もう逃がさない。」
彼女は無言のまま、じっとこっちを見つめている。言うなら今だ。3年間ずっと秘めてきたこの思いを伝えるなら、今しかない。これを逃して卒業してしまえば多分、もう会うことすらままならなくなる。
彼女と釣り合うだけの努力をした今なら、言ってもいいはずだ。
「好きです。付き合ってください。」
あのとき驚いていたはずの彼女の顔が、今はもう思い出せない。
「はぁ。」
物音がしない部屋で1人、ため息を伴って目覚める。
俺の記憶をそのまま写し取ったような夢だった。
あの告白から、桜花...妻との関係は親密になり、結婚して、子どもまで。彼女はいつでも美しく、優秀で、合理的だった。
彼女は失敗したことが無かった。ただ1つ、俺を受け入れたということを除いて。
「まったく、自分が嫌になる。」
完全無欠だった彼女に綻びを生み出したのは俺だった。
桜花を妻に迎えるという目標を果たした後、心は彼女に嫌われないようにしようとするだけの消極的な心となるまで、そう時間は掛からなかった。
積極的努力を捨てた、凡人の俺が働いて、生み出せる富は極わずか。そして、それを元手に彼女は家族を養えるよう、節約に節約を重ね、なんとか食いつないできた。
常に合理的な判断ができる彼女には造作もないことだろうと、当時の俺はそう考えていた。
「仕方ない。これは仕方ないことなんだ。」
不活発だった俺が襲撃の後も稼げるわけもなく、食べるものにも困り始めたある日。
彼女は初めて、ミスをした。
合理性を追い求めた結果、桜介を捨てるという答えを導き出してしまった。俺は、それがいけないことだと気づいていたが、気づいた上で、その気持ちを無視した。役たたずの俺が言えることなんて、何も無かったから。
「桜介!」
1度桜介が戻ってきたときには、思わず声を上げて喜んだ。これで聡明な妻は過ちに気づいてくれると思っていた。
しかし、俺が壊してしまった妻は、元には戻らなかった。
息子を捨てた俺達は、崩壊へと向かうことになる。桜花はストレスのせいか体調を崩し、俺はがむしゃらに働いた。それで得られるのはその日暮らしの毎日。凶作にでもなればひとたまりもない。
「俺がお前に惚れていなければ!お前が俺を突き放していてくれたら!俺にもっと力があったら!お前はきっと今も...っ!」
桜花が病床に伏したが、力の無い俺にはどうしようもなく、為す術もなく妻は俺を残して旅立った。
そうして今、何も無いままに生きている。毎日働くだけの、その日暮らしを変わらず続けていた。俺が壊した彼女の人生に贖う術も無いならば、生きている意味などない。
だからといって、自分から死へ向かう勇気も無い。こんな臆病な俺を誰が許してくれるというのか。
「生きたくないな。」
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