42話 運動
「行ってきます。」
いつもより早く起きた朝。すやすやと眠る四包を起こさないように屋敷を出る。静かな町を覆う冷たい空気。それを振り払うように駆け出した。
「おまたせしました。」
「いや、拙者も今来たところでござるよ。それでは、始めるでござる。」
まるでカップルの待ち合わせのような会話を男二人で交わすことを可笑しく思いながら、僕は地面に手を付く。
「まずは腕立て伏せから。とりあえず100回はこなしてもらうでござる。」
「あ、あの師匠。お言葉ですが、僕は腕立てなんて1回も...」
「つべこべ言わずやるでござる。倒れたらやり直しでござるよ。」
「そんなぁ。」
昨日稔君に頼んだのは、朝のトレーニングだ。兄としての尊厳を保つため、恥を偲んで頼んだのだが、稔君にコーチを頼んだのは間違いだったかもしれない。
稔君は過去、彼の師匠からスパルタ訓練を受けていた。その皺寄せが僕に来ている。1人では続かないからと頼んだのだが、失敗だった。
「はい、きゅーう、じゅーう。」
「くっ...」
「なんだか楽しくなってきたでござる。師匠もこんな気持ちだったでござるか。」
「稔君にっ、そんなっ、加虐趣味がっ、あったっ、とはっ。」
「今は師匠でござるよ。ほらほら、じゅうさーん。」
「ぐうぅぅぅ。」
最初から腕が震えっぱなしだ。これをあと87回なんて、折れる。腕と心が。
「辛い辛いと考えるからダメなのでござる。楽しいことを考えてくだされ。」
「そ、そうは言われても。はあっ!」
「数は数えておくでござるから。」
ダメだ。息もまともに出来ない。これを続けていたら死ぬんじゃなかろうか。
いやいや、楽しいこと、楽しいこと。楽しいことだけ考えよう。
「お兄ちゃん、見ててよねっ!」
あれは小学六年生の運動会。双子というのは滅多に同じ組にならないのだが、この年だけは僕も四包も両方白組だった。
「「「がんばれがんばれ白組!まけるなまけるな白組!」」」
低学年の元気な応援が響くグラウンド。ありがちなことだが、高学年の一部は悟って、というかひねくれていて、ろくな応援をしない。
僕もそんな中の1人だった。と言ってもひねくれていたわけではない、と思う。傍から見たらどうなのかはわからない。低学年からずっと目立たなかった僕は小学五年生まで応援の隅で読書をしていた。今年は四包の応援がある。声を出して応援するのは少し恥ずかしかった。
「お疲れ様お兄ちゃん。あとは任せて!」
爽やかな笑顔で四包が僕の少し汗ばんだ背中を叩く。
今の種目は最終種目。選抜リレーという名の学年リレーだ。昔は小学校にも子どもが多かったそうだが、少子化が進みに進んで、学年全員でもないとリレーが盛りあがらなくなってしまった。
僕の順番は終わり、もうすぐアンカーの四包にバトンが渡る。
毎年アンカーは男子なのだが、今年はアンカーが前日に風邪で休み。急な変更に対応できなかったため、もとい対応を忘れていたため、前の走者から引き続いて四包がアンカーとなった。四包はキレても良いと思う。
「がんばれよ、四包!」
「うん!ありがと!」
僕はそう声が大きいほうではないのだが、不思議と四包はきちんと聞き取って手を振り返してくる。
レースの模様としては、白組が勝っている。差はだいたいグラウンド4分の1周分くらい。
「よしっ!ちゃんと渡った!がんばれ!四包!」
四包がバトンゾーンの後方で真っ白のバトンを受け取る。ここで取り落としたりすると一気に差を縮められるのだが、その心配は杞憂に終わった。
「いいぞ!四包!」
快調に差をつけていく。あっという間にグラウンド1周走り抜けた。このまま余裕だろうな、今年の優勝は白組で決まりだな、と誰もが思った。
「あっ...」
突然、応援する僕達の目の前を走る四包が間抜けな声を漏らす。良く見ると、バトンを持っていない。どこへ行ったのか周囲に目を向けると、何故かみんなが僕の周りから離れる。
「お兄ちゃん!」
「え?がふっ!」
脳天にバトンが突き刺さった。そうか、みんな空を舞うバトンを避けようとしていたのか。
慌ててレースそっちのけで四包が駆け寄ってくる。赤組はようやくアンカーにバトンが渡った。
「くっ、四包。俺のことはいい。早く、走れ。」
「そんなっ!できないよお兄ちゃん!私、お兄ちゃんが応援してくれなきゃ走れない!」
「四包は強い子だ。僕がいなくても、きっとどこまでも走っていける。だから走れ。みんなのために。」
「お兄ちゃん...わかったよ。私、走るよ!」
「ああ。たのん...だ、ぞ。」
完全に体から力の抜けた僕を置いて四包は走り出す。すでに赤組に抜かれている状態だ。
この意味のわからない芝居に、応援席も保護者席も唖然としている。リレーメンバーだけが『おい、早く走れよ。』という目で僕達を見ていた。
僕を犠牲に走り出した四包は覚醒。猛スピードで赤組のアンカーに追いつき、追い越した。らしい。僕は脳天の衝撃が離れずにずっと空を眺めていた。
「お兄ちゃん、勝ったよ!」
身を屈めて僕の視界に入ってきた銀の頭。太陽に照らされた髪は眩しくて。でもそれに負けないくらい、勝利の笑顔は輝いていた。流れ落ちる四包の汗が僕の耳の横、地面にシミを作る。
「よくやった、四包。」
あのときの眩しい笑顔を想像して頬を緩ませていると、いつの間にか腕立て伏せも終盤になっていた。
「最後でござるよ!がんばってくだされ!」
「うおっしゃぁぁぁぁ!」
お腹の底から声を出して最後の1回をやり遂げた。流れ落ちる汗の雫が石畳の上に落ちる。
「お疲れ様でござるよ。」
「はぁ、はぁ、はぁ。」
「それじゃあ、次は腹筋100回でござる。」
「なんだとおぉぉぉ!」
柄にも無く大きな声を出してしまった。休み無しは厳しすぎやしないだろうか。
へとへとになって屋敷に帰ると、玄関には仁王立ちの四包が。ゲームのラスボスのような雰囲気を纏っていらっしゃる。
「な、何かしでかしたでござるか、海胴殿?」
「い、いえ、心当たりはありません。」
2人してコソコソと話していると、四包がこっちに気づき、駆け寄ってきて、そのまま僕の胸にポスンとか弱いタックル。しかしその手はガッチリと僕の背中を捕らえている。
「お兄ちゃん...わかってるよね?」
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