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ポルックス  作者: リア
へミニス
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190話 未来

「くっ...ううっ。」



 苦悶の声を漏らす母さんに、父親の心は動揺しきっていた。真上にある太陽がジリジリと照りつける中、慌ててタクシーを呼び、家を出る。無駄に広い敷地が煩わしい。



「歩けるか、紬。」

「あはは、ちょっと、厳しいかも。」



 必死に作り笑いを浮かべるものの、その額には脂汗が滲んでいる。そう、彼女は今、出産を迎えようとしているのだ。



「わかった。」

「えっと、クライス君? 何をするつもり?」

「こうするだけだ。」



 ひょいと母さんをお姫様抱っこ。母さんは苦しむのも忘れてあわあわしている。出産を経験する年になってまでお姫様抱っこというのは恥ずかしいらしい。が、もちろん抵抗などできずに力を抜いた。



「重いでしょ?」

「ああ。命の重みだ。」



 祖父と一緒に毎朝鍛えている父親にとって、この程度のことは造作もない。なるべく衝撃を伝えないよう、そして、万が一にも転ばぬよう慎重に歩く。



「タクシー来てる。もういいよ、下ろして。」

「気にするな。」

「気にするよ恥ずかしい!」



 顔を赤くして父親を見つめる母さん。汗ばんだ肌が色っぽい。暴れるわけにもいかず、父親をじっと睨んでいる。残念ながら、それは父親の加虐心を煽るだけだった。



「中央病院までお願いします。」

「もぉ...っつ!」

「大丈夫か?」

「う、ん。なんとか。」



 母さんが辛そうにし始めると、手のひらを返して心配する父親。鼻の穴から西瓜を排出する痛みとよく表現されるが、男にはわからない。だから目一杯労っている。



「もう少し、もう少しだ。ひっひっふー。」

「あはは。クライス君、それはまだ早いよ。でもありがとね。」

「頑張ってくれ。そばに付いているからな。」



 苦しそうな母さんの手を取ると、ほんの少し、表情が和らいだ。安定してきたようで、タクシーに乗っている間は静かなものだったのだが。



「痛い痛い痛い! 死ぬ! 死んじゃう!」

「大丈夫だ! 落ち着け! そんな悲しいこと言うな!」

「御門さん、大丈夫ですよ。旦那さんの方がよっぽど辛そうな顔してます。」

「あ、ははっ。そうでっ、すね。」



 眉を顰めながらも、既に涙目の父親を見てぎこちない笑顔を浮かべる母さん。父親の顔は、客観的視覚が出来ない僕であっても歪んでいることがわかる。ついでに精神状態も嵐のようだ。

 こんな様子を見せられては、逆に落ち着いてもくるというもの。苦痛に奥歯を噛み締めながらも、母さんは笑っていた。



「ふぅ...結構、落ち着いて、きたかも。」



 陣痛と格闘し続けること十数時間。痛みに慣れてきたのか、それとも嵐の前の静けさか、ずっとこわばっていた母さんの体から力が抜けた。

 ほんの少しだけ緩んだ表情に、気を張り続けていた父親の体も安心したのか、精神的疲労と共に、どっと睡魔が襲ってきた。




 浅い眠りの世界。僕にとっては夢の中の夢の世界。真っ白な部屋に立ち尽くす父親の隣には、小さな赤子を抱いた母さん。



「残念ですが、息子さんは...」



 向かい合うように立った医師から告げられた一言。歯噛みする彼女の視線は、隣に鎮座する機械の中へ向けられている。中と家族とを阻むのは一枚のガラス板のみ。

 父親は一歩を踏み出した。そして、中の様子が見えるようになった瞬間に、彼の体は膝から崩れ落ちた。目は焦点が合っておらず、ただ床と機械の境目を見つめている。



「そん、な...」



 同じく一歩を踏み出した母さんの声が聞こえた。首だけを使ってそれを見ると、母さんは、立ち居振る舞い全てに絶望を滲ませている。奥歯を噛み、口元を歪ませて、必死で涙を堪えていた。

 小さな赤子は不思議そうな顔をして、掠れた声を出す母親の頬を叩いている。反応が無いとわかると、その指を咥えた。



「ぐすっ...うあっ。ううっ。」



 ついに涙は堰を切ったように溢れ出し、小さな赤子に雨の如く降り注いだ。赤子は変わらず不思議そうな目でそれを見ている。



「つむ、ぎ...」



 己が守らねばならぬ人間が、涙を流して立ち尽くしているのに、父親は何も動けなかった。

 まただ。また父親は、己の無力を感じていた。大切な人が辛い思いをしているのに、手を伸ばすことさえ出来ない。



「俺はっ...俺はっ!」




「くっ、ううっ!」



 苦痛を帯びた声に夢から引き戻され、目を開けると、目の前には横たわっている母さんの姿があった。苦しそうな視線が父親を捉え、そして父親は怯えるように目をそらした。

 今のは夢。悪い夢だ。そう断じることは簡単だった。しかし、彼はこの力を知っている。未来を視る力。

 長らく働いていなかった力が、なぜだかここで再び現れた。そうでもなくては、あんな鮮明な絶望を感じるわけがない。



「クライス、君? ぐうっ!」



 母さんの視線は変わらず父親に注がれている。しかし、その当人の心は、乱れに乱れていた。

 このまま生ませてしまえば、必ず悲しむ未来が訪れる。だからといって、出産を止める術も無い。それに出産を止めれば、母さんはより深い悲しみに暮れるだろう。

 父親の胸には、また後悔が生まれ始めていた。もっと上手くやれていたのではないか。日常生活から何から、もっと気を使ってやれたのではないか。



「つむ、ぎ...」



 どうして、子どもを孕ませてしまったのか。

 悲しむ未来が決まっている出産をさせてしまったのか。



「くっ、ふぅっ! クライス君!」

「紬...俺は...」



 いっそのこと、死んでしまいたい。心の底からそう思った。最愛の人を泣かせる未来しか待っていないのなら。

 目に涙を滲ませながら俯く父親に、母さんは視線を揺るがせなかった。そして、まるで父親が体験した何もかもを見透かしているような優しい声で言った。



「だい、じょっ、うぶ。大丈夫、だから。」



 苦痛に耐え忍ぶ声。その中の優しさは、父親の心を救うに足るほど大きく、強かった。

 その優しさは、たとえどんな未来が来ようとも、共に歩み、生きていくという覚悟で出来ていた。

 言葉は光となり、父親の心を覆っていた後悔という影を優しく照らし、霧散させる。いつしか父親の顔は上がって、母さんの視線に応えていた。



「紬、俺はお前を悲しませたりしない。」

「くうっ、っつ! うんっ!」



 ほんの一瞬、母さんは笑顔を作った。それだけで父親の覚悟は何倍にも膨れ上がる。

 父親の頭には一つ、未来を変える術が思い描かれていた。果たして成功するかは全くの未知。それでもやるしかない。



「頑張れ、紬!」



 俺も頑張るから。



「旦那さん、生まれますよ!」



 助産師さんが、母さんの下腹部に手を添えた。既に頭は出ている。本当にもうまもなくだった。血濡れで目を閉じている姿は、何かに耐え忍んでいるようにも見える。



「っはあっ!」

「生まれました! 御門さん、生まれましたよ!」

「はっ、はいぃ。」



 未だ痛みを堪えた表情で、歯の隙間から漏れ出したような返事をする母さん。父親との手は繋がれたままである。

 助産師さんは、元気な赤ちゃんの声を聞かせようとその生まれたての体を叩く。がしかし、一向に泣き出す気配が無い。当然呼吸もしていない。



「あれ、あれ? すみません旦那さん、少し預かって貰えますか?」

「わかりました。」



 助産師さんは、医師を呼ぶボタンを押すために、母さんが横たわるベッドに身を乗り出した。

 未来を変えるタイミングは今しかない。そう思った父親は、行動を起こす前に母さんを見た。



「紬。」

「うん。お願い。」



 全てを悟った母さんは、微笑んで父親を見送った。女神のような微笑は父親の心と体に溢れんばかりの力を漲らせる。



「行ってくる。」



 白い空間は一転して、真っ暗闇に変わった。丸い月が照らす、お馴染みの山中である。蒸し暑い中でも、腕の中の赤子は声一つ上げない。



「やってやる。」



 赤子を抱きしめた。全神経を集中させ、その子に命を注いでいく。

 その子の心臓は動いていなかった。呼吸器も、何もかも。器はあるのに、動かすことが出来ないでいる。まるで電源の入っていない機械のようだった。

 その体に、魔素を使って命を吹き込む。魔法の本質は転移。引いては移動。その子の一生分の移動エネルギーを付与し続ける。



「ぐっ、あああっ!」



 全身を強い倦怠感が襲う。それでも止めなかった。だんだん子どもの鼓動はハッキリし、呼吸するようになってきていたが、まだ足りない。

 この子の未来、何十年に渡るまで、命の鼓動を止めてはならない。



「あああぁぁぁぁっ...!」



 父親の全身全霊をもってしてようやく、その子は人間となり、命を宿した。恒久的に、心臓や呼吸器、その他諸々が活動をし始めたのである。

 父親は最後の力を振り絞り、その子を病院へ、母親が横たわるベッドへ転移させた。が、自分は転移しなかった。



「くっ、ははっ。」



 自分が倒れることがわかっていたからだ。今までも何度か、魔法の使いすぎで倦怠感に襲われたことはあるが、休めばすぐによくなった。それがわかっているのに、無用な心配をかける必要は無いと。

 重力に従い、前のめりに崩れ落ちる父親。その表情は、達成感の笑みがたたえられていた。



「未来を変えた...!」

お読みいただきありがとうごさいます。

アドバイスなどいただけると幸いです。

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