171話 未知
「うーん...」
早朝。母さんがまだ起きていないような時間帯に、父親はこっそりとベッドを抜け出した。母さんの呻き声に少しだけドキリとしながら、ベッドを軋ませないよう気をつけて。
「さて、あれはどこにしまったんだ...?」
今、父親は、空き巣よろしく箪笥を漁っている。その捜し物は、この間チラリと見た病院からの手紙。記憶を掘り返すと、その中に不穏な文字が入っていたような気がするのだ。
「あった。これだ。」
母さんが目覚めないよう、素早く、されど静かに目的のものを取り出す。そして中の紙を抜き出すと、躊躇なく開いた。
「は?」
そんな間抜けな声が漏れたのも無理はない。母子共に健康とは書いてあるのだが、特記事項の欄に。
「未知の状況。難産の可能性が高い...?」
この辺りは、自他ともに認める田舎である。かといって、そう人口が少ない訳でもない。少し歩いて街に出れば、高校だってある。とりわけ母さんは、この付近で最も大きな病院に通っているのだ。
最近建て替えたらしく、外装は綺麗で、インターネット環境も整っていると聞く。ほかの病院とも連携が取れるようになったとのことだ。そんな中で、未知の状態。
「未知って、未知ってなんだよ...」
そのデータベースの中に存在していない状況。つまり、人類史上無かったような状態だという。もしかすると深刻な病気かもしれないが、それさえわからないのだ。
「あーあ...バレちゃったか。」
「紬!」
振り返ると、お腹の辺りが盛り上がった膨らみがモゾモゾと動いていた。起き上がった彼女と目が合う。その目は、秘密を見られて怒っているというよりも、とても悲しげだった。
「ごめんね、クライス君。今まで黙ってて。」
「...」
言葉が出なかった。どうして黙っていたのかと責めることだってできたはずなのに。
優しい母さんのことだからと、理由は察することができる。だが、それ以上に、彼女の表情が深刻で、悲しそうで、何も言えなかったのだ。
「どうして、言わなかったんだ。」
なんとか絞り出したが、その答えは分かりきっていた。そんな無意味な、定型文的な質問しか出てこなかった。
「心配かけちゃうでしょ。」
「それでも、相談くらいなら...」
「私はクライス君に悲しい顔をして欲しくないから。」
やっと、検査の結果を隠していた意味がわかった。悪戯心でもなんでもなかったのだ。ただ、心配をかけさせまいとして。苦悩して欲しくないからと。
「それにほら、大したことないかもしれないよ。散々心配かけておいて、何ともなかったじゃ申し訳ないじゃない? 未知だなんて脅してるけど、案外軽いものだったらさ。」
不安はあるはずなのに、母さんは殊更明るく振る舞う。
「だからほら、笑ってよ。クライス君」
「馬鹿言え! もしかしたら、もしかしたら死ぬかもしれないんだぞ!」
母さんがどんな気持ちで、元気づけるような言葉をかけてくれているか。決してふざけているわけではないのだ。それは、自分自身の表情を知っている父親ならよく分かっているはずだった。
だが、父親には耐え難かった。叫ばずにはいられなかった。
「また大切なものをっ、失うかもしれないんだぞ! 今度はお前を...っ!」
「...」
母さんだって、父親の気持ちは分かっているはずだ。それでも明るく振る舞おうとしたのは、きっと彼女自身の気持ちを沈ませないためでもあったのだろう。
自分が何を言ったか。母さんの心持ちをふいにしたことを理解して、父親は押し黙った。母さんは顔を俯かせ、何も話そうとしない。
「「...」」
二人の間で沈黙が続いた。どちらも、かける言葉が見つかっていないのだ。互いに相手の気持ちを理解してしまい、自分がどう行動するべきか迷っている。
「ねえクライス君、今日の朝ご飯は何かな?」
先に声を出したのは母さんだった。普段通り、いや、普段よりも明るい声色だ。母さんは、父親の気持ちを振り切って、いつも通りの生活を望むらしい。
「いつものように玉子焼きだ。」
「納豆は?」
「好きに食べろよ。」
そして、父親はそれに従うことにした。自分の気持ちを押し込めて、母さんの気持ちを優先してやることに決めたらしい。それも当然の判断だ。実際に危険が及ぶのは母さんなのだから。
「クライス君。」
「ん?」
「愛してる。」
「...ああ、俺もだ。」
ぎゅっと手を繋ぎ、愛を伝え合った。何があっても最期まで共にいようという覚悟の印を。
「ははは。」
朝起きてすぐに、僕の口からは乾いた笑いが生まれた。親同士の愛情に嫌気がさしているわけではない。
父親が広げた、病院からの手紙。父親はそれを、隅から隅まで、隈無く読み込んだ。そして、その内容の中には。
「僕は一体誰なんだよ...」
双子という言葉も、双生児という言葉も、あまつさえ男の子という言葉も入っていなかった。つまり僕は、母さんと父親の子どもではない。それが確定したのだ。
覚束無い足取りで部屋を出た。何はともあれ、とりあえずトレーニングに行こう。運動をして気晴らしをすれば、少しは落ち着くだろう。
「おはよう、お兄ちゃん。パジャマのままなんて珍し...ってどうしたの?! すっごく顔色悪いよ?!」
「え? ああ。着替えるのを忘れていたか。」
「そんなこと言ってる場合じゃないって! すぐ横になった方がいいよ!」
出たそばから部屋へと押し戻された。まさか四包に寝起きを注意されることがあろうとは。
「少し寝ぼけたくらいで大げさな。僕は至って正常」
「なわけないでしょ! ほら、さっさと寝る! どこか痛いとか、気持ち悪いとかない?」
「ない。」
「なら何? 気分が悪いとか? 嫌な夢でも見た?」
ドンピシャに言い当てられて、必死に忘れようとしていた事実を思い出してしまった。僕は目の前にいるこの少女と、血の繋がりが無い。今までずっと妹だと、家族だと思っていた人が、他人だったのだ。
「なあ四包。」
「なあに? やっぱり夢が原因だった?」
「...いや、なんでもない。」
言うのを躊躇った。僕にはこの兄妹という心地よい関係を崩す勇気が無い。
「なんでもないことないでしょ。」
「本当になんでもないんだ。」
「ここでってことは、お父さんの夢だよね? それも相談出来ないほど、私は頼りない?」
「そういう問題じゃないんだよ。」
「じゃあどういう問題なの?」
だめだ、このままでは埒が明かない。意を決して言ってしまうか、それとも有耶無耶にして気まずい空気になるか。
どちらにしろ悪くなるのなら、いっそのこと言ってしまった方が楽だろう。何よりこの問題は、一人きりでは耐え難い。
「わかった、言うよ。」
「うん、お願い。」
「僕と四包は、兄妹じゃないかもしれない。」
「...へ?」
考えてみれば、思い当たる節はいくつかあった。双子だというのに顔のパーツは似ていないし、性格もこれといって似ていない。何より髪の色が正反対だ。正反対の箇所を挙げればキリがない。それが僕達兄妹だった。
「母さんが妊娠して通っていた病院からの手紙に、僕のことが一切書いていなかった。」
「一切って...え?」
「それから僕がどう出会ったのかはまだわからないが、少なくとも僕は、母さんと父親の子どもではない。」
四包の顔には、誰が見ても分かるほどの驚きが表れていた。それもそうだ。生まれて此方信じてきた事実が根本から覆されたのだから。
「なあ四包。僕はどこから来たんだろうな。本当の両親は誰で、どうして四包と暮らしていたんだ?」
四包に聞いても無駄だということは分かっている。だが、この気持ちを誰かに聞いて欲しかった。共感などされないとはわかっていても。
「お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ。私の双子の兄。海胴。少し生まれが違ったからって、今までの人生は変わらないでしょ?」
しかし四包は、そんな僕の吐露を、容易く受け止めてみせた。血縁関係など無くとも、僕は四包の兄を名乗って良いのだと、彼女はそう言った。
今までの生き方を、今更変える必要などないのだと。
「そうか...そうかもな。僕は少し、囚われすぎていたようだ。」
「うんうん、そうだよ。...それに血の繋がりが無い方が都合良いしね。」
「何か言ったか?」
「ううん。なんにも。」
僕は僕。ただそれだけのことに、何を悩んでいたのか。なんだか馬鹿らしくなってきた。
どうやら、深刻そうな夢の中の両親の雰囲気にあてられていたらしい。
「ありがとう、四包。悩むほどのことじゃなかったな。」
「うんうん。ミュージシャンだってファンのこと家族とか言うし。」
「それは関係なくないか?」
「例えだよ例え。親しい人は家族なの。血の繋がりが無くても、私とお兄ちゃんは家族ってことだよ。」
そう屈託のない笑みを向けてくれる四包は、まるで天使のようだった。ソルプさんが天使様と呼びたくなるのもわかる。
「それよりお兄ちゃん、トレーニング行かなくていいの?」
「あ...」
その四包の言葉に窓の外を窺うと、若干空が明るみ始めていた。
「今日は休みにしておくか。」
「そうだね。さっきまで心配するほど顔色が悪かったし、それがいいよ。」
たまには筋肉痛の無い日があったって良いではないか。今日は心の安息日なのだ。そういうことにしておこう。
「そういうわけだ。」
お読みいただきありがとうごさいます。
アドバイスなどいただけると幸いです。




