168話 優厳
『何を?!』
竜が首を素早く伸ばした先。そこには、先程まで怪物に追い立てられていた数人の民たち。
お母様が操る竜がそんな挙動をするはずもない。ということは、お母様は、竜を巣に帰すことを忘れて眠ってしまったのだろうか。
何にせよ、一度去ったはずの危機が、さらに大きくなって戻ってきた。このまま竜が暴れたままでは、民は根絶やしになってしまう。
『巫女姫様っ!』
『お願いですっ!』
『みんなを守ってくださいっ!』
でも、私に民を守る術はない。お母様とは違って、半人前で威厳も何も無い私の力では、竜を操ることはできないのだ。
そんなことはわかっているのに。私の甘さをわかっているからこそ、近道を選んだ彼らであるのに。私のせいで、死に瀕しているのに。
『『『頼みましたよ。』』』
どうして、そんな顔が出来るのだろう。そんなにも優しい顔で私を見てくれるのだろうか。
この言葉が私の耳に届いたその瞬間、彼らのすぐ後ろに迫っていた竜の口は、容易く彼らをその内に捕らえた。
私の目の前で、人が食われた。よりによって、守り神と崇められている竜の手で。
『うっ、ああああっ!』
私の心は壊れる寸前だった。目の前で人が死んだという事実が、私の心を鋭い刃物で突き刺す。目には涙が溢れ、まともに竜を捉えることもできない。
その決壊寸前の心を何とか繋ぎ止めてくれたのは、彼らのあの優しい表情だった。
『私は巫女姫っ!』
民を統べ、民を守る者。その者は、強く、厳しく、優しくなければならない。
彼らの死を悼む優しさ。そして、それを決して無駄にしないよう、死体を踏み台にしてでも前を向く厳しさ。
その覚悟は持った。あとは私の強さだけ。
お母様から貰った知の力を、アゴンから貰った武の力を、民から貰った心の力を。
その全てを懸けて、尽くを守る。
『私の意思に従いなさいっ!』
まだ、何も返せていない。こんなところで、私が死ぬわけにも、民を死なせるわけにもいかない。
しかし、無情にも竜は止まらない。彼らを殺したその口を、今度はこちらへ向ける。
『止まりっ、なさいっ...』
その威容に足がすくみ、声が震える。その間にも、私を、私の後ろに控える民を食い殺そうと竜の口が開く。
私は強くならなければならない。この程度の恐怖に怯えてはいけない。ここで諦めて、お母様とアゴンの帰ってくる場所を、私を信頼してくれた民を失うわけにはいかない。
『止まりなさいっ...!』
私は巫女姫。私は強い。そうだ。私は強い。こんなものに負けるなどありえない。
そうだ。こんなものがなんだ。ただ図体が大きくて、目が鋭いだけのあやつり人形。こんなものより、よっぽどお母様の方が怖い。
ああ、なんだか、笑えてきた。お母様よりも優しいものに、私は怯えていたのか。
『止まりなさい。』
まるで子どもに言い聞かせるように、優しく、されど厳しく言葉を紡いだ瞬間に、口を開けた竜の体がぴたりと止まった。
『そのまま動かないで。』
私が言葉を発すると、竜はその鋭い目を閉じ、そのままの体勢、ひれ伏したような体勢で留まった。
『やった...やりました!』
止めた。私たちの守り神かつ、最大の脅威を止めた。全身がうち震える。私はようやく、一人前になったのだ。竜を操るだけの力を手に入れた。
二十五年間溜め込んだ努力が報われた達成感と、張り詰めた緊張が緩んだことによって、体ががくりと傾いた。
『『『巫女姫様っ!』』』
べとりとした感触が、私の体を支えた。その至近距離から聞こえた声の主は、先程竜に食べられたはずの彼ら。見間違うはずもない。
『貴方たち、どうして...?』
『丸呑みにされていたおかげで助かりました。』
咀嚼されることもなく、どうにか意識を保って、食道で掴まっていたらしい。その生への執着が彼らを救ったのだ。
『よく...よく無事で...!』
『生きてほしいと願われたので、答えたまでです。』
涙で潤む私の視界の先で、彼らは得意そうに笑った。
これが私の巫女姫の始まり。その後一夜明けて、お母様の死を知ったものの、そこで挫けることなく、民を導くことができた。
『お母様...』
お母様はきっとそうするように言うから。だから頑張れた。けれど、私はお母様に何も返せていない。返す力がついた時にはもう、お母様は亡くなっていた。
お母様の墓標の前で、跪いて涙を流す。この気持ちを、伝えられなかった感謝の気持ちを、どこへ向ければ良いのか。お母様に貰った多大な恩をどうやって返せば良いのか。
『馬鹿者。』
どこかから声が聞こえた。優しさも厳しさも内包する強い声。
『娘に見返りを求める親など無い。ただ、皆を幸せにしなさい。そのために、涙を拭いて前を向きなさい。』
顔を上げられなかった。今顔を上げてしまえば、この声が消えてしまうような気がしたから。
『プリム。』
『はい、お母様。』
『幸せになりなさい。』
『...っ! はいっ!』
優しく頭を撫でる感触と共に、お母様の気配は空に溶けて消えてしまった。
『私は巫女姫。誰より優しく、誰より厳しく、そして...誰より強い。』
遥か北の空。彼女たちが元いた島の方角に向かって息をつき、プリムさんは話を終えた。その表情には自嘲的な笑みが表れている。
『そんな覚悟をしておいて、こうして甘えきっているのですが。』
肩を竦め、首を横に振るプリムさんからは、えも言われぬ哀愁が漂っていた。彼女は巫女姫として、どうしても強くありたかったのだろう。だから僕達に懐柔させられぬよう、一際よそよそしい態度を取っているのかもしれない。
「ねえプリムさん、私たちのことは嫌い?」
『え?』
「あなたから、竜という強さと、守るべき民の一部を奪った私たちが憎い?」
四包は辛そうな顔でプリムさんに問いかける。そう思ってしまうのも仕方ないことだ。彼女がどれだけの思いを背負って生きてきたのかを聞いて、自分の生き方に疑念を持ってしまったのだろう。自分がしたことは正しいことだったのかと。
しかし、それに対するプリムさんの答えはわかりきっている。
『そんなことはございません。我々を救って頂いて感謝しております。憎いなどということは全くございません。』
ここで肯定を示せば、民たちの立場が危うくなる可能性だってある。四包はともかくとして、僕ならばやりかねないと思われているだろう。何せ最初の印象が、彼らにとって異常な量の税を納めさせようとしていたところなのだ。
それだけではない。きっと感謝しているというのは本当のことなのだ。竜という支えを失ったところを助けられて、実直な彼女が感謝しないわけがない。
「嘘だよ...本当は憎いはずなんだ。だって、大切な人たちを殺されたんだよ...?」
「四包。それ以上プリムさんを困らせるな。」
きっと、僕が死んだときのことを思い出しているのだろう。固く握られた拳が解かれる気配はない。そして、その目には涙が溜まっている。
『四包様。起こってしまったことは仕方ありません。』
「でも私っ。プリムさんの大切なものをっ。」
『どうか、お気になさらないでください。こうなることも覚悟の上での進軍だったのです。』
「でもっ」
まだ言葉を続けようとした四包を、プリムさんが胸へ抱きしめた。顔を歪めた四包に対して、彼女はその整った顔を乱さず、それどころか落ち着いたような表情。
『たしかに、この国と敵対したお陰で沢山の同胞が死に、私の力は失われました。ですが、それを乗り越える強さを、立ち上がり、己を叱咤する厳しさを持っています。』
子どもをあやす母親のような、優しい雰囲気を出しながら四包の頭をゆっくりと撫でるプリムさん。しゃくりあげるような四包の肩の動きが徐々に収まっていく。
『私たちは今、生きています。あなた方の優しさの恩恵を受けて。人間というのは、辛いことを忘れようとするものです。憎しみはやがて消え、そこには感謝だけが残ります。貴方が気にすることなど何もありません。』
ふと、プリムさんが僕の方を見た。その視線は、どこか迷っているように感じられる。きっと、民たちの立場が悪くなることを懸念しているのだろう。そんなことを心配する必要は無いと、首を縦に振ってやる。
『貴方も国王なのでしょう。民を守る存在なのでしょう。ならば、何があっても守り抜きなさい。そのための強さは持っているはずです。現に、私たちからも守りきって見せました。』
叱りつけるような強い言葉。お母様とやらのことを思い出しているのだろう。普段の彼女からは想像できない強さだった。
『守るべきものを守る強さ。敵にも情けをかける優しさ。それがあるならばあとは、死者を顧みぬ厳しさだけです。』
きっと、死者を顧みることは悪いことではない。だが、彼女が言いたいのはそういったことではなく、死んだ者のことを掘り返さぬことだ。いつまでもクヨクヨと立ち止まらないこと。
それは最早、誇りを持って死んでいった死者への冒涜に値するのだと。
『四包様。民を統べる者として、どうか厳しくなられますよう。』
最後に強く抱き締めて、四包の顔を離し、数歩退いた。
「うん。わかったよ、プリムさん。もう迷わない。私は王様だもんね。迷っていたら、みんなが困っちゃう。」
そう言う四包の顔に涙は無く、笑っていた。またひとつ、四包は強くなって、大人になったのだ。
「でも私、本当は王様には向いてないのかも。」
『どうしてですか?』
「お兄ちゃんには、厳しくなれそうにない。たった一人の、大好きな家族なんだもん。お兄ちゃんが死んじゃったらきっと、他の何も守れなくなっちゃう。」
四包は優しすぎる。きっとその言葉は本当で、どんな事があっても、僕の死を悲しんでくれるだろう。
『では海胴様は、死ぬことが許されませんね。』
「そっか。そうだね。お兄ちゃんがずっと生きていてくれたらいいんだよ。」
『そのために鍛えてやるからな。』
「そうですね。四包のためには死ねません。」
この心優しい王様が厳しくなりきれないときは、僕が厳しくなろう。そうやって支え合うのが家族なのだから。
「これからもよろしくね、お兄ちゃん。」
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