167話 御心
『お母様に褒めてもらわなくては。』
そう意気込んだ時の私は、今思い出すと恥ずかしくて悶えるほどに自信過剰だった。民が持ちかける話には全て私の独断で返した。お母様はどんな些細なことでも相談するように言っていたのに。
『ただいま帰還しました!』
そうして一日を過ごした次の早朝。島の奥へ入って木材を調達してきた人達が帰ってきた。誰一人欠けることも無く、傷という傷も負っていない。
『今宵も巫女姫様のおかげで安全に帰還することができました。誠にありがとうございます。』
片膝をついて私に礼をする民たち。この島では慣習的に、島の奥から生きて帰ってこれたときは巫女姫に礼をする。一種の儀礼的なものだ。
『よく戻ってこられました。』
その光景を見た私の中は、民が帰ってきた嬉しさよりも、自分の力で民を導いたという満足感でいっぱいだった。それによって私の自尊心は飛び上がるように喜び、有頂天となった。これでお母様に褒めて頂けるのだと。
『緊急事態!』
そんなとき、一人の若者が、私に礼を捧げる民たちをかき分けて、何事か叫びながらやってきた。儀礼を邪魔されて、少しむっとした私と民たちであったが、その者の尋常ならざる雰囲気に何も言えなかった。
『巫女姫様! 木材調達班が帰ってきた道に沿って、怪物が接近しています!』
『こんな時間からですか?!』
完全な夜ではないにせよ、今はまだ薄暗い早朝。いつもなら怪物たちは寝静まり、この時間こそが私たちの活動の最盛期であるはず。
『何か刺激するようなことを?』
その問いかけに、礼をしていた民たちは冷や汗を流しつつぶんぶんと首を横に振る。いつも木材調達をしているこの方々に限って、そのような真似はしないはず。ではどうして。
『この匂い...まさか、いつもの道を通らなかったのですか?』
片膝をついていた民のそばを通ると、少しだけ果実のような匂いがした。その果実というのは、数多い怪物たちのうちの一種が主食としているもの。いつもの道を通っていれば、それが成る木を避けるような道のりになっている。
『その方が近道だと判断しました。』
『馬鹿なことを言わないでください! あれはお母様が考えに考え抜かれた道筋なのです! 何よりもあなたたちの安全を願って!』
何の意味も無くただ遠回りをする道など、お母様が選ぶはずはない。最速で安全に帰ってこられる道を選んでいるはず。
『こんなはずではっ!』
何より私の心に突き刺さったのは、彼らが近道をした理由が私だろうということ。これがお母様の指示であれば、彼らは多少の疑いがあろうと、恐れを抱いて言う通りにする。
つまり、私は軽く見られていたということだ。
『...申し訳ございませんでした。』
私の様子に罪悪感を覚えたのか、ばつの悪そうな顔と声で、今度は両膝を地につけて頭を垂れる民たち。
そうして私と民の心が揺らいでいる間に、巨大な何かが迫る音が聞こえ始めた。その足音で、揺らいでいた私の心に緊張が戻った。
『すぅー、はぁー。』
己の失敗を帳消しにすることはできない。けれど、決して諦めることは許されない。今は、自分の失敗を横に置き、民を奮い立たせねばならない。
お母様の真似事でも、私は次期巫女姫。沢山の教育を受けた私に、やれないことはない。
『皆の者! 落ち着きなさい!』
近づく足音にざわめく民衆を落ち着ける。民たちの前に立った経験は多くなく、迫り来る脅威からも緊張の負荷がかかっている。
今までの自信過剰な自分が嘘だったかのように声が上擦った。しかし、その程度のことで止まってもいられない。
『私たちにはまだ、巫女姫様が操られる竜がついています! 焦る必要はありません!』
そうは言ったものの、お母様がこの場にいない以上、竜を操ることは叶わない。門番のように立ちはだかる竜も、所詮は虚仮威しだ。この威容に驚いてくれれば良いが、ただの木偶の坊だと気づかれてはおしまいである。
『次期巫女姫様。』
『どうなさいましたか?』
『私共が囮になります。』
先程まで両の膝をついていた民のうちの数人が、そう言い出した。自分たちが敵を呼び寄せているのなら、体を張ってこの集落から危機を遠ざけてみせると。
『巫女姫様っ!』
彼らの目は据わっていた。このまま仲間諸共死ぬくらいなら、自分たちだけが死ねば良いと、本気で思っている顔つきだった。
『どうかここを守るために、ご決断を!』
お母様は言っていた。民を統べ、守る立場にある以上、何かを切り捨てる判断を下さねばならぬときが来ると。それがどんなときよりも辛いのだと。
『そんな...こと...』
お母様がどんなに大切なものを捨て、何を守ったのかはわからない。たしかに、そうすることが必要なときもあるんだと思う。
『そんなことっ、許しませんっ!』
でも、私はまだまだ子ども。我儘の一つくらい、言っても良いはずだ。
『私の前で、誰一人として死んで欲しくありませんっ!』
悲壮な覚悟を決めていた人達の目が点になる。私だって、これが愚かな言葉だとはわかっているのだ。けれど、心に嘘はつけなかった。だから私はいつも、お母様に叱られてしまうのだろう。
『...こんな我儘は、認められないでしょうか。』
彼らの点になっていた目が元に戻り、僅かな驚きと訝しさを孕んだ目で私を見てくる。さもそれが冗談であるものだと考えているように。
だから私は、真剣な眼差しで返した。
『...わかりました。巫女姫様。私共は貴方と、運命を共にします。』
『...異論のある方はおられますか?』
他の民たちを見渡す。確実に生き延びる選択を取りたい人たちが、異議を立てるかと思っていたのだが、意外にも、皆真剣な目で私を見返すばかり。
『...よろしいのですか?』
『この場所より他に生き延びられる場所などございません。』
『全ては貴方様の御心のままに。』
『『『御心のままに。』』』
先程までの、頼られることによる悦楽が、まるでただの玩具だったかように感じられるほど心地よい、全幅の信頼。同時に緊張も感じるが、これほど高揚感に溢れた気持ちは初めてだった。
『なれば、今はただ待ちましょう。私たちの守り神が、厄災を追い払ってくれることを信じて。』
すぐに、その時がやってきた。島の奥地へ繋がる茂みから、巨大な人型の動物が出てきた。黒っぽい体毛に包まれたその体は、私たちの小さな体躯と比較にもならない。
そしてその怪物は、匂いに釣られ切ることなく、すぐ目の前に鎮座する巨大な竜へと視線をやった。
『くそっ...』
『畜生ぉ!』
かの竜は、その怪物よりも大きく、恐ろしい威容を呈している。しかし、怪物はそれを脅威と認識することなく、匂いの元へと駆け出した。
それを察知したようで、先程囮の案を進言した数人が、一目散に駆け出した。私たちから離れるように。
『だめっ...!』
彼らは、最悪の場合に備えて、自ら犠牲になる覚悟を継続していた。だから、囮になろうと駆け出した。どう足掻いても、この状況から全員が助かる方法は無い。
ガァァアアアアッ!
私の無意味とも言える制止の声に被せるようにして、劈くような咆哮が轟いた。その尋常ならざる声音の発生源は、怪物でも、ましてや人間でもなく。
こちらに対してギロリと目を向けた竜だった。
『ひっ...』
そう声を漏らしたのは誰だったろうか。もしかすると私かもしれない。無意識にそんな声が出てしまうほど、竜の目は鋭く、冷たかった。捕食者という言葉がぴったり当てはまるだろう。
その捕食者の眼光を受けたのは、何も私たち人間だけではなく、巨体を持つ怪物も同様だった。咄嗟に危険を感じ取った怪物は、島の奥地へと逃げ帰って行く。
『た、助かった...?』
語尾に疑問符が付いたのは、竜の眼光が収まっていないから。私たちの何倍もある背丈から、私たちの姿を俯瞰している。
そして、私たち全員を一通り眺め回すと、まるで親の敵でも見るような険しい目を一層細めた。そして急に見開いたかと思うと、長い首をこちらに向けて素早く伸ばした。
『何を?!』
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