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ポルックス  作者: リア
へミニス
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164話 悪臭

「準備はいいか?」



 まるで魔王の間へと繋がる扉を前にしたように、緊張した面持ちで、隣の四包に覚悟を問う。ゴクリと四包の喉が動いた。



「目標は腐敗物の転移。臭いが屋敷に充満しないよう、扉は閉める。風通しには期待するなよ。」

「うん。わかってる。」



 ちなみに、この食料庫の窓は、外から開けてみたものの、異臭騒ぎが起こりそうな臭いであったため即座に閉めた。国王の家から異臭騒ぎなど外聞が悪すぎる。

 まずは異臭の出処から転移させ、その後で汚れた空気も転移させて換気。そこから室内の細部まで掃除にかかる。



「速攻で片付ける。...よし、いくぞ?」

「うん。」

「カウント、三秒前。参、弍...すぅーっ。」



 ゼロのタイミングで息を吸うのを止め、扉を開ける。四包が同じくして入ったのを見届けてから扉を閉めた。

 手に持った紙袋を握りしめ、日頃から鍛えられたスピードを存分に活かして作業を開始した。四包の光球が室内を照らす。



「ぷすっ...」



 突入から三十秒が経過し、そろそろ息を止めるのが辛くなってきた。口から少しだけ空気が漏れて、変な音が鳴ってしまう。だが、作業はまだ半分も終わっていない。

 空気さえも澱んで見える室内で、呼吸を許されない高速の作業。紙袋を渡す時にちらりと見た四包の表情も苦しそうだ。



「ぷあっ。がっ?!」



 そして、ついに呼吸に限界が訪れた。思わず吸った空気は、嗅覚どころか味覚まで狂わせる、猛毒のような臭いをしていた。

 だが作業が終わることは無い。目に涙を溜めながらも、手袋をつけた手は文字通り目にも止まらぬ速さで動く。もはやこれは僕の体が臭いの元を反射的に削除しようとしているようにも思える。



「にあ゛っ?!」



 そして同じく四包にも限界が来たようだ。一度息を吸って、またすぐに息を止める。酸欠で頭がジリジリと痛むが、とんでもない悪臭の前ではそれも気にならない。



「ひゅっ!」



 臭いを認識しないよう、浅い呼吸にしても無駄だった。吸った空気が肺の中からも汚染してくるようだ。今すぐ息を吐きたくて仕方ない。

 そんな中で、残りの作業は四分の一。驚くようなスピードで進んでいると思ったら、四包もこの臭いに耐えかねたようで手伝い始めていた。



「ぴゃっ!」



 そんな四包は、呼吸の限界で息を吸うたびに驚いたような声を上げる。一呼吸ごとに神経を蝕んでいるのがわかるのだ。

 そして、その地獄の作業にも終わりが見えてきた。しかし、それと同時に、僕の意識にも限界が見えてきた。



「あとっ、すこしっ!」



 声を出して意識を繋がなくては、酸欠で倒れてしまう。かといって、これ以上この毒ガスを吸い込んで生きていられる自信はない。

 なら、ラストスパートをかけるしかあるまい。



「うおおおおっ!」



 今まで以上の手足の動きで食べ物だったものを紙袋に詰め込んでいく。もうすぐだ。もうすぐでこの地獄からの解放だ。

 しかし、ここで僕の体に限界が訪れた。もう手が動かないのだ。あと一袋で終わりだというのに。



「ぐっ、ここまでかっ!」

「お兄ちゃんっ!」



 最後の一袋を僕から奪い取り、汚物除去を終わらせた四包。あとは空気の転移だが、このまま密室状態で空気を転移させてしまえばどうなるか、想像に難くない。

 だがしかし、四包もここで足がダウンした。もともと体力があるとはいえ、ほぼ無酸素状態なのだ。



「四包殿、海胴、進捗はどうでござ...くっさぁ!」

「稔!」



 あわや、このまま二人で窒息死に至るかと思われたそのとき。部屋の扉をガチャリと開けて、稔が顔を覗かせた。稔は臭いに耐えかねてすぐさま扉を閉めようとするが、そうは僕が許さない。



「みぃのぉるぅ!」

「ぴぎゃあ! 海胴の幽霊が!」



 運良く扉の近くで倒れていた僕が、稔の開けた僅かな隙間に手を差し込んだ。まるで幽霊の登場かのごとく手がビタンと落下したが、気にすることはない。



「四包っ! やれっ!」

「うんっ!」



 突如、扉の隙間から風が舞い込んできた。というよりは、四包が転移させている空気の体積を補おうと外から空気が入ってきているのだ。

 その空気は新鮮で、たちまち扉付近にいる僕の呼吸を回復させた。全身に酸素が行き渡る感覚だ。こんなものを体感するとは夢にも思わなかった。



「っ! はあっ! はあっ! はあっ!」



 空だった肺が新鮮な空気で満たされていく。その心地良さに文字通り胸を打たれるのもそこそこに、もうひとつ空気の摂取源を作るべく窓を開けた。



「ぷひゅあー! 死ぬかと思ったっ!」

「大丈夫か、四包。」



 床に倒れ伏していた四包を抱え上げ、扉付近へ近づけた。すると意識だけを繋いでいたような青い顔だったのが、みるみるうちに回復していく。



「ぜぇ、はぁ。ぜぇ、はぁ。」

「本当にそんな擬音みたいな呼吸が出るとはな。気持ちはわかるが。」



 間違い無く、今まで僕が味わってきた身の危険でベストスリーに入る出来事だった。一位は問答無用で一度死んだことだが、これは二番目かもしれない。



「ようやく、終わったんだね。」

「ああ。長く苦しい戦いもこれで無事...」



 そうフラグじみた言葉を言いかけた途端。案の定、また先程までの悪臭が復活してきたではないか。



「お兄ちゃんっ、まずいよ! また悪臭がっ。」

「くそっ! 全て始末したはずだぞ! もう僕達に戦えるだけの力は残っていないというのに!」

「いったいどこから...?」



 再び室内に入る。空気は入れ替えたはずなのに、普通に立っているだけで若干だが鼻をつく臭いが上ってくる。

 臭いの元を探すように身を屈めた瞬間。



「臭っ! 床か! カビが生えている!」

「ええっ。床って、どうしようもないじゃん! 水で流す?」

「水だけではどうしようもない。重曹か何かを使えば出来なくはないが、この面積ではな。床の張替えをした方が早い。」



 一部屋分丸々掃除できるかと問われると、できないことは無いが、相当な時間がかかる。

 今改めて部屋を見渡して気づいたが、左右対称な位置にある倉庫と比べて、とても広い。夢見がちな発想だが、空間が拡張されているような気さえする。



「ここを使えたら、納税が溢れかえることはないんだろうがな。」

「張替えとなると、しんどいよね。」



 諦めて、またあの食料庫の扉は閉じ、玄関ロビーへと出てきた。するとどうしたことか、まだ臭いが残っているではないか。



「お兄ちゃん、臭いよ。」

「お前もだぞ。」

「どちらも臭いでござる。」



 稔の一言で代表されたように、あの部屋の臭いが僕達にもついてしまったようだ。ひれ伏していたのだから仕方ない。

 何より心に来たのが、通りがかったソルプさんが顔を顰めて無言で立ち去ったことだ。四包も僕も、一刻も早くお風呂に入らなければならない。

 というわけで。



「お兄ちゃん、あんまりこっち見ないで。」

「見ていない。四包もあまり僕を見るな。」

「私はしょうがないでしょ。お風呂沸かしてなかったんだから。見られたくなかったら、自分でシャワーできるようになって。」

「ぐ...すまん。」

「分かればいいの。ほら、頭から流すよ。」



 たしかに、臭いを落とすためにお風呂に入ることができるのは四包のおかげだ。その上背中まで流してもらって。文句を言える立場になかった。



「四包。お返しに背中を流そうか。」

「いいよ。先に湯船に浸かってて。」

「いや、でも」

「いいから! こっち見ないで!」



 顔を赤くして僕の背中を押す四包。その反応についイタズラをしてみたくなるが、そのまま湯船に入れられてしまった。



「甘えっ子モードの時は一緒に入ろうと聞かなかったくせに。」

「そっ、それはっ! 忘れて!」

「はいはい。」



 振り返ってはいないが、四包がぷりぷりと恥ずかしがりながら可愛らしく怒っているのがわかる。

 しばらくすると、僕から少し離れたところで湯船に浸かる水音が聞こえた。



「はふぅー、昼風呂も乙なものですなぁ。」

「そうだな。お風呂はいつ入っても気持ち良い。」

「世界の理だね。」



 広い浴槽にめいっぱい体を広げ、脱力する。少し熱いくらいの温度が身にしみる。体の凝りがほぐれていく感覚だ。



「そういえばさーお兄ちゃん。」

「んー?」

「ソルプちゃんの裸、見たんだよね?」

「ぶふぉっ!」



 突然の爆弾発言に思わずむせてしまった。このまったりとした空気感で何を言い出すかと思えば、いい感じに忘れられていたあの記憶を掘り起こすようなことを。



「見たんだよね?」

「あー...まあ。しかしあれは医療行為でだな。あのあときちんと謝ったし。」

「そう? それなら...まあ良くはないか。」



 声の雰囲気は普通なので、それについてどうこう言う気はなさそうだ。咎められているような気がして少しだけ怖かったのだが。



「で、ご感想は?」

「は?」

「嫁入り前の少女の裸体を見たご感想は?」

「いや、少女というかあの体型は幼女だろう。」

「何を言ってるの。ソルプちゃんはああ見えて十六歳だよ。」

「...うそだろ?」



 魔族は見た目によらないことはわかっていた。だがまさか、幼稚園児の見た目で僕達の一つ下だとは思うまい。



「...まずいことをしたか?」

「ソルプちゃん、別に気にしてはなかったよ。単に恥ずかしがってたってぐらい。」

「そうか。ならよかった。」



 僕は幼女に性的興奮を覚える特殊な性癖を持っているわけではない。だが、十六歳にもなると、男性に裸を見られることに嫌悪感を覚えていても当然のことだ。その報いを受けずに済んで良かったと思う反面、悪いことをしたとも思う。



「でもさお兄ちゃん。目が覚めたら自分は裸で目の前に男の人だと、怖いと思うよ? というか怖い。」

「そうだな。悪いことをしたと思っているよ。」



 僕ばかり気にしていても、逆に気を使わせてしまうだけなので、罪悪感を覚えつつもさっさと忘れることにする。



「さて、そろそろ上がるか。」

お読みいただきありがとうごさいます。

アドバイスなどいただけると幸いです。

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