162話 温水
「それよりさ、明日のことなんだけど。」
改めて、妹が身近にいることに感慨を覚えていたところをバッサリと切られた。だからどう、という訳では無いのだが。...少しだけ、寂しい気もする。
「明日は印刷技術の探索に行くんだったな。」
「うん。柑那さんのためにも、良いのが見つかるといいね。」
「場所は湖の南端だったか。」
水辺が近くにあることから、製紙も同時に行っていたのだろう。
「誰かの依頼でもないし、仕事って感じはしないよね。」
「少し遠出をするピクニック感覚だな。今となっては。」
「昔のお兄ちゃんからは考えられないよね。」
首を縦に振って肯定を示した。今はもうこの世界に来て二ヶ月か三ヶ月ほどが経つが、それでも未だに信じられないことがある。
「正直言って異常だよな。」
「まあ、そうだね。改めて考えたら。」
外的要因、手術などは全くないのに、数ヶ月で途方もない体力の増強に、筋力増加。はっきり言ってありえない。
稔のトレーニングがスパルタすぎたのか、僕に伸びしろがありすぎたのか、はたまた他の要因か。わからないが、今は役に立っているので良しとしよう。
「ねえお兄ちゃん、このままトレーニングを続けたらさ、ムキムキになったりするのかな?」
「どうだろうな。」
「逆三角形のお兄ちゃん...ちょっと引くかも。」
自分でも想像して、少し気持ち悪いと思ってしまった。険しい顔立ちをしているならまだしも、無表情に隠れてはいるが、僕は優しげな顔立ちなのだ。四包に言わせてみれば。
「無表情なのが玉に瑕だけど、お兄ちゃんって案外イケメン?」
「いや、僕に聞かれても。四包が客観的に判断してくれ。」
「中の上ってとこかな。」
「結構辛辣だな。」
「そう思うなら、ちょっとは笑顔とか作りなよ。そしたら上の下には上がるかな。」
「微妙だな。」
しかし、一応努力してみようか。モテたいだとか、そういった俗な感情ではないが、四包の兄として、国王として恥ずかしくない程度には。
「ぷっ、あはははっ。どうなってるのそれっ。あはははっ。」
「表情筋を少しでも上げようとしているんだがな。」
「上がってない上がってない。顔は死んでるのに、皮膚だけっ...あはははっ。」
顔が死んでいるとは失礼な。せめて無表情と言ってほしい。...自覚が無いわけではないのだが。少ししか上げていないはずなのに、頬には痛みが走っている。たまらず手を離した。
「あははっ。なんかもう、すっごい皺でさ。あの、あれみたいな。」
「千枚岩?」
「そうっ! それそれ。思い出したらまた笑えてきた。」
これでもかというくらい貶されている。いや、四包の考えている例えが自分で思いつくくらいなのだが。
「あー、すごいね。強情な表情筋だよ。」
「そうだな。自分でも少し引いているくらいだ。」
その後も散々からかわれた。ソルプさんにもやって見せてみたら、思わずといった様子で吹き出されて少し傷ついたが。
「おやすみお兄ちゃん。くふふっ。」
「おやすみなさい、ご主人様。」
「ああ、おやすみ。」
最後に思い出し笑いを浮かべた二人と部屋を別れ、床についた。そんなに面白かったのだろうか。この世界にも鏡はあるにはあるが、製作に時間がかかるだとかで、とても高価だ。手軽に手に入るのなら見てみたかったのだが。
「いつも留守にしてすみません。」
「いえ。勉強、稔さん、十分、です。」
暗に僕達は必要無いと言われているような気がしたが、それは僕の考えすぎだろう。実際、僕達の言葉は自動で翻訳されてしまうので役に立っていないのだが。
「じゃあ、いってくるね。」
「いってらっしゃいませ。」
早朝のトレーニングを終え、予定通りに印刷技術を求めて出発した。仕事での移動は徒歩が多く、コンクリートではないにせよ舗装された道を歩くので着物を着ているが、今日は湖の南端まで瓦礫が残る道を走るので洋服だ。
「お兄ちゃんとー、おでかけーっ。」
「ご機嫌だな。」
「まあね。耕司さんは仕事だなんて言うけど、実際はただのランニングみたいなものだし。むしろお出かけだよね。」
「苦にはならないな。」
四包がいるから。という条件が後ろにつくのだが、それは言わないで良いだろう。ニコニコしている四包を見ると、こっちまで楽しくなってくるものだ。
「ふうっ、そろそろだねー。」
「整理体操がてら歩くか。」
「はーい。」
持久走が終わった後は、急には立ち止まらずに歩いて息を整える。小学生の頃から言われていたことだ。
「吸ってぇー、吐いてぇー。」
「ラジオ体操に声を似せなくて良い。」
この乾燥した寒空の下、走りながら呼吸をすると、さすがに喉が痛くなってくる。普段は心地よい深呼吸も、今は顔を顰めてしまう。それが出ているかは別として。
「ぷっ、あははっ。」
「ん? どうした?」
「お兄ちゃんのっ、しかめっ面を見てたら昨日のあれを思い出しちゃってっ。あははっ。」
相当お気に召したようだが、生憎僕には笑われて悦ぶ性癖も芸人魂も持っていないので、ここまで引きずられると少し腹が立つ。
「笑いすぎだっ。」
「ぴゃっ?! やめっ、くすぐったっ。あはははっ。」
「反省しろ。」
「くっ。あはっ。んうっ。だめっ。」
脇腹を背中にかけてくすぐってやると、四包は走り終えて上気した顔を更に赤くして、くねくねと身を捩らせた。
「んやあっ。お兄ちゃんっ、激しすぎっ。」
「反省したか?」
「したっ。したからぁ。もうやめへぇ。ふやあっ。」
四包がとろけてふにゃふにゃになった頃を見計らって、きっちり言質を取ってから解放してやる。四包は走っているときよりも息を荒くしていた。
「もうっ。何もここまでしなくていいでしょ。」
「すまんすまん。」
抗議の視線が飛んでくるが、知ったことではない。元はと言えば四包がしつこいのが悪いのだ。僕は悪くない。
「さて、湖の南端には着いたわけだが。」
「わあ、水が綺麗だね。」
初めて間近で見ると、やはり大きい。ほぼ円形で、琵琶湖くらい大きいのではないだろうか。対岸が全く見えない。
「水深は大したこと無いみたいだな。」
「安心して泳げそうだよね。」
「泳ぐか?」
「こんな寒いのに泳ぐわけないじゃん。凍死するよ。馬鹿じゃないの?」
「冗談に決まっているだろう。」
何も真面目な顔で返さなくとも。冗談だということくらい分かっているだろうに。こんな季節ではせいぜい顔を洗うくらいが関の山だ。
「え、何これ。」
「どうかしたのか?」
「お兄ちゃんも顔洗ってみて。」
「ん? ああ。」
先に屈んで顔を洗っていた四包が、驚きの表情を水面に映していた。濡れたままなのも気にせずに僕に洗顔を促す。
「あったかい。」
「でしょ? どうなってるのこれ。」
温かいとは言っても、この時期にしてはというレベル。だから湯気も出ていない。このくらいの温度というと、高校の水泳訓練で行った温水プールを思い出す。
「多分地熱か何かだろうな。」
「地熱?」
「すぐそこに山があるだろう。つまりここの辺りは地殻変動が激しい地域だ。地理で習わなかったか?」
「あー、やった気もする。」
地球を覆う巨大なプレートがぶつかり合う地域。そこではプレート同士の摩擦によって火山の噴火や地震が起きやすくなっている。
川の流れによってできる山もあるが、この辺りに川は流れていない。
もしこの国を囲う山々が火山であれば、ここは地熱に溢れた土地ということだ。通りで冬にしては寒さが緩いわけだ。
「これなら冬でも泳げそうだね。」
「上がった後が地獄だがな。」
冬は置いておくとして、夏には良いかもしれない。湖畔に海の家ならぬ湖の家や、貸し水着店を作って、レジャースポットにしてみても良いだろう。夢が広がる。
「ここでこのあったかさなら、温泉とかないのかな?」
「あるかもしれないが、自然に湧き出しているものでもないとな。」
自然に湧き出しているものがあれば、この国付近であれば誰かが気づくだろう。湯気は目立つ。
新しくできることも考えにくい。山の一面全てに木が生えていることから、あの山は長い期間活動を停止している。
「せめてどこに温泉が埋まっているかわかればな。」
「え、掘れるの?」
「まあ、やってやれないことはない。」
「まじ?」
「ああ。」
昔図書館で、文化財に関する本を読んだことがある。その中の一つ、重要民俗文化財に指定されている上総掘りという方法があるのだ。
構造もある程度は覚えている。あれを使えば、深さ500メートルの穴が人力だけで掘ることも可能らしい。
「ほへぇ。さすが文化財。」
「先人の技術力には驚かされるな。」
穴の直径は15センチ程度だったはずなので、試しに作って掘ってみるのも良いかもしれない。せっかくの休みなのだから。
「あっ、本題を忘れてた。」
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