153話 立向
「おはようございます...」
お風呂から上がり、稔とソルプさん、僕が玄関ホールに集まるとほぼ同時に、橘さんが控えめに扉を開けて入ってきた。
「おはよう、ございます。橘さん。」
先制攻撃はソルプさん。昨日、四包と僕と一緒に話した結果、橘さんにはどうしようもない過去があると納得してもらえた。なので、仲直りというか、わかってあげて欲しいと伝えてある。
「昨日は、本当に申し訳ございませんでした。」
「大丈夫、です。話、聞く、ました。」
深々と頭を下げる橘さんに対し、昨日の取り乱しようとは見違えて大人な対応のソルプさん。その心境の変化にはきっと、命の恩人である四包との再会も加味しているのだろう。
「それでも、情けないのです。子どもの頃のことを引きずったまま、あまつさえそれを表に出してしまうなんて。私が未熟であったために、ソルプさんを傷つけてしまって...」
「仕方がないことだと思います。事情が事情ですから。」
ソルプさんに代わって僕が返事をする。彼女にはまだ分からない単語が多かったため、僕が通訳をしたのだ。
「いいえ。仕方なくなどありません。他の方々はそれを乗り越えて生きてらっしゃるのに、私だけが駄々をこねるなど。」
「家族の死を乗り越えるだなんて、そんなことはできるはずが...」
僕は今、口にしてようやく、自分がしようとしていることの重大さに気がついた。この国と、魔族である彼らとの融和。それには、多くの人の感情を犠牲にしているということに。
「できる、はずが...」
冷静沈着であった橘さんが、ここまで取り乱すような事件があったというのに、その元凶との融和を求める。それがどれだけ酷なことか、僕は気づいていなかったのだ。
「海胴さん、どうしましたか?」
「っ、いえ。」
激しい自己嫌悪に襲われた。彼らはどんな気持ちで、融和だなんだと話す僕達を見ていたのだろう。きっと憤りを感じていたに違いない。
どれだけ課税をしたとしても、彼らの気持ちが収まることなどない。今、目の前でそれを実感させられているのだから。
「ですから、私は決めました。これ以上醜態を晒すくらいならば、ソルプさんを傷つけてしまうならば、私はここを出ていきます。」
「...」
融和も同じだ。きっとこんなふうに、魔族と人々が交わることなど出来ずに終わる。それだけ、溝は大きい。
『ご主人様、橘さんは何と?』
「ここを、辞めるそうです。」
『そんな...』
この対立が収まるとするならば、それは何世代も後。融和など、戦争を忘れた頃にしか、傷が自然に癒えた時にしか成し得ないことだった。そんなことすらわからずに、軽い気持ちで僕は...
「今までお世話になりました。またどこかでお会いしましょう。」
「逃げるだけで良いのでござるか?」
「稔?」
僕が橘さんのことも、この国の融和のことも諦めようと考えたそのとき。言葉を発したのは稔だった。
「苦しい過去から逃げ続けて、負けたままで良いのでござるか?」
真剣な表情で、それこそ真剣を握ったときのような、鋭い目線で橘さんを捉える。橘さんはその場に立ち竦んでいた。
「失った者に背を向け続け、目を逸らし続け、現実から逃げ続けるだけで良いのでござるか?」
「それは...稔さんには分からないことです。」
いつも忘れかけてしまう。稔がアゴンさんと接するときが自然体すぎて。師匠としか思っていないように見えて。
「拙者も、大切な人を戦で亡くしたでござるよ。」
稔は師匠をアゴンさんに殺されている。それは変えようの無い事実で、今でも稔の中にのしかかっているはずだ。少なくない自責の念と共に。
「小さい頃からお世話になっていた人で、別れてからの数年間、世間話も、お礼も、別れの挨拶すら交わせなかったでござる。...戦争が終われば話すという約束を、反故にされたのでござる。」
しんみりとした話の中でも、稔は決して目線を動かすことなく、橘さんへ届けとばかりに視線を突き刺している。
「彼を殺した人に師事するなど、拙者自身、何を考えているのかと問いたくなるでござるよ。」
「師事...ですか?」
「その通りでござる。拙者は強くなるために、決してあの時のような思いをせぬように、恨み辛みを捨てて鍛えているのでござる。」
稔は両の手を固く握り、物理的な力さえ篭ったような目線で橘さんを見据えた。
「拙者は前を向いて歩いているでござる。橘殿はどうするでござるか? ...拙者が見てきた橘殿は、そんな曲がった人間には見えなかったでござるよ。」
「...卑怯ですね。そんな言い方は。」
稔の眼光も言葉も、後退など許さないと雄弁に語っていた。橘さんは、観念したように首を振る。
「私も向き合います。やっと分かりました。乗り越えるためには、向き合わなければ始まりません。戦って見せます。自分自身と。」
「その答えが聞きたかったのでござる。」
稔は強い。しかし、それは稔に限ったことではなかった。
僕が融和を進めてきて、反対だと暴動を起こされることもなかったし、依頼を聞きに回っているときですら、嫌味も言われなかった。
それらは全て、彼らが強いからだ。強いからこそ、向き合い、乗り越えようとしている。僕に力を貸してくれている。
「ありがとう、稔。」
「海胴に礼を言われるような覚えは無いでござるよ?」
「今の僕の気持ちだ。受け取っておいてくれ。」
「よく分からぬでござるが、わかったでござる。」
ここで僕が足踏みをしていては、覚悟を決めた彼らの気持ちをふいにすることとなる。そんなことをすれば、そのときこそ本当に、僕は愚王へ成り下がる。
「ソルプさん。」
「はい。」
「また怒鳴ってしまうかもしれません。またあなたのことを傷つけてしまうかもしれません。」
「はい。」
「それでも、私が強くなるために、側に居させてくださいますか?」
「...」
残る問題は、ソルプさんの気持ち。ソルプさんが橘さんを恐れてしまい、受け入れられなければ、橘さんの覚悟は水の泡となる。
「私、橘さんと、働く、嫌、です。」
「...そうですか。そうですよね。」
ソルプさんはチラリとこちらを見ると、少しだけ口角を上げた。昨日しておいた準備を実行するときが来たということだ。
「ソルプさんからあらかじめ、その気持ちは聞いていました。橘さんには、新しい就職先を用意してあります。」
「え?」
「その場所はここのすぐ近く。服屋、和泉さんです。」
「そんな、その場所は...」
暗く陰が落ちていた橘さんの表情が、一転して驚愕へと変わる。普段真面目な彼女のそんな表情で、僕は少しだけ愉快な気分になった。
「昨日、橘さんの小さな呟きを四包が聞いていたんです。」
「私が、何を?」
「蜜柑。それはきっと、あなたの妹さんのお名前ですよね。」
ソルプさんに、橘さんの事情を話したその後。四包の報告でそれを知った。蜜柑さんの顔と雰囲気を知っていた僕達は、すぐに彼女が橘さんの妹だと気づいた。
『天使様、ご主人様。』
「いや、私は四包だけど。」
「僕にも海胴という名前が」
『私、橘さんをその妹さんに会わせてあげたいです。家族が離れ離れになってしまうのは、寂しいことだと思うので。』
完全にスルーされたことは腑に落ちないが、彼女が言っていることは一理ある。十数年、家族と一度も会わずに暮らすなんて寂しいはずだ。
「うん。そうだね。」
「では早速、蜜柑さんに連絡を取りましょう。」
そして服屋和泉を訪れると、タイミング良く明日香さんと蜜柑さんが店にいた。両親についての事情を話すと、蜜柑さんは驚いたような顔をした。
「母さんが、魔族に?」
「ご存知ありませんでしたか。」
「はい。正義感の強い母でしたから、戦後誰かを助けようとして、それで亡くなってしまったのかと。私は無事に逃げ切っていましたから、母さんも逃げたものと思っていました。」
感情をひた隠しにする橘さんとは違い、蜜柑さんは表情で悲しみを顕にした。明日香さんも、空気を読んで黙っている。
「そうですか、それで姉さんはあんなに...」
「どうかしたのって、聞いてもいい?」
「構いませんよ。...姉さんは、私の就職に反対だったのです。魔族と一緒に働くなど考えられないと。」
「仕方ないだろうよ。大切な妹が、親を殺したのと同じ種族の元で働くなんて、許せなくてもおかしくないさ。...まあ、こっちからすりゃ偏見だって言いたくもなるけどな。」
明日香さんは、偏見で差別を受けたことを知っても、怒らずに話を聞いている。見た目に反して中身は大人だ。
「それで私は姉さんと衝突して、そのままもう何年も会っていなかったのです。」
ようやく、橘さんが妹と十数年会っていないと言っていた理由がわかった。姉妹喧嘩と言えば可愛らしく聞こえるが、要は考えの食い違いだったわけだ。
「私は、姉さんと話がしたいです。分かってもらえなくても、少しだけでも。姉さんが過去に囚われ続けないように。」
「うん。私も、橘さんにはちゃんと向き合ってもらいたいよ。」
「そうだ。いっそのこと、うちで雇っちまおう。蜜柑に似て綺麗で仕事が出来るんだろ?」
「はい。天恵の客足は伸びています。」
その方が、ソルプさんの精神衛生上良いかもしれない。近づく度に怒鳴られたのでは、彼女のメンタルが崩れかねない。
「ソルプさん、構いませんか?」
『はい。その方が、橘さんは幸せだと思います。私は勉強のためにお父さんと離れていますが、本当は一緒に暮らしたいんです。橘さんだって、家族と暮らしたいはずです。』
ソルプさんは見かけによらず大人だった。自分がどうこうと言うよりも先に、橘さんの幸せを考えていたのだ。
「よし、じゃあ決まりだ。」
「では明日、彼女を連れてきます。」
「はい。姉さんをよろしくお願いします。」
「行きましょう、橘さん。妹さんが待っています。」
「す、少しだけ時間をください。まだ心の準備が。」
「嫌、です。」
前を向くと誓った橘さんを、新しい就職先へ連行する。そこには小さな体の魔族もいて、気まずい別れ方をした妹さんもいる。
あの環境に立ち向かわなければ、彼女は成長しない。逆に言えば、成長するための環境は出来上がっているのだ。稔の説得で決意を新たにした橘さんならば、きっと乗り越えられる。
「いらっしゃいませ、姉さん!」
お読みいただきありがとうごさいます。
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