152話 大罪
「蜜柑。」
私と妹は、とても仲の良い姉妹だったと思う。「姉さん」と慕ってくれる可愛い妹に私は心を許し、同時に妹も私には沢山笑顔を向けてくれた。
また、両親とも仲が良かった。一般的な家庭がどのくらいなのか分からないが、笑顔の絶えない暮らしをしていた。
「姉さん。あれは何でしょう?」
「煙ですね。でもどうして?」
父さんの仕事の都合上、来客が多かった我が家では、子どもである私たちも母さんから礼儀を叩き込まれていた。
その結果、私たちは、常に敬語で話すようになっていた。傍から見ると、距離感があるように見えるのかもしれないが、私たち本人の間にはそんなものは無かった。
「橘! 蜜柑!」
「母さん。あれは一体...」
「いいから逃げなさい! ほら早く!」
「え? あ、はい。」
私たちは二人とも、手を取られて駆け出した。妹は途中で合流した父さんに手を引かれ、私はそのまま母さんと。当時住んでいた中央区画を南へ向かって。
「走りなさい! 全力で!」
何が何だか分からなかった。しかし、両親が必死で訴えかけてくるので、私も全力で走った。
全力で逃げているのに、爆発の音がだんだん近くに聞こえてきた。何かに追い立てられている。それだけは確かだった。
「あ...」
「橘っ!」
そして私は、大きな失敗を犯した。好奇心のままに、振り返ってしまったのだ。いや、好奇心とは違うのかもしれない。迫り来る音の恐怖に耐えかねたのかも。
振り返って見た景色は、黒煙を発生させている焼け野原。背筋を冷たいものが走った。もっと急がなければ飲み込まれると。
「助け、ないと。」
「駄目! 走りなさい!」
しかし、その焼け野原の真ん中に、当時の私と同じくらいの背丈の少年が立っていたのだ。反射的に、私の口からは良心の篭った言葉が出て、足を止めようとする。
いつもなら真っ先に「助けなさい。」と言う正義感の強い母さんがそう言ったのだ。その異常さに気づくべきだった。
「早く逃げてください!」
少しだけ足を緩めた私は、後方で佇む少年に叫んだ。それが命取りになるとも知らずに。
その少年は私に向かって手をかざし、何事か呟いて。その口角を不気味に上げた。
「橘っ!」
直後、爆発音と同時に振り返っていた体が後ろに引っ張られた。すぐに体は反転され、爆心地と私の間に、柔らかい壁ができ、私の体は守られた。
「かあ、さん?」
吹き飛ばされた先で、背中に感じる重みに目を向けた。私を庇った母さんの背中は炭化し、呼吸も心拍も無く、亡くなっていた。
「橘っ! しっかり捕まっていなさい!」
「母さん! 母さん!」
父さんにおぶられて、母さんの亡骸から遠ざけられる。妹は遥か前方。父さんだけ戻ってきたらしかった。
「母さんっ!」
目からボロボロと雫を零し、大好きな家族を呼ぶ。だが、返事は無い。言うことを聞かなかった私のせいで、死んでしまったから。
後悔と憎悪、恐怖に飲み込まれそうになった。奴らが攻め込んでなど来なければ、こんなことには。奴が子どもの見た目をしていなければ、こんなことには。
『逃がしたか。』
煙の晴れた大地に尚佇む少年に、私はこれ以上ないくらいの恨みを込めた視線をぶつけた。それだけしか出来なかった。
「姉さん!」
「み、かん。」
襲撃が終わり、茫然自失の状態であった私のもとへ、妹が駆けてくる。
「母さんは? どこにいますか?」
「...っ!」
言えなかった。私のせいで死んだなんて。私の目の前で、炭になって死んだなんて。他ならぬ妹に、それを伝えることは出来なかった。
「知りません。どこかで人を助けているのかもしれませんね。」
「そうですか。」
だから私は、演技をした。決して悟られぬよう、表情から言葉の調子まで偽装して。
「では、一緒に探しに行きましょう。」
「...そうですね。」
先導する妹の後ろで、私は声を押し殺して泣いた。私を純粋に信じてくれる妹を騙している罪悪感が故か、既に亡くなっている母さんを探す虚無感が故か。
それから数年が経ち、私は大学校での研究を生かして、宝石店を立ち上げようとした。若かったことから反対もあったが、どうしても家に居たくなかったのだ。
「姉さんが働くなら、私も働きます。」
「ああ。頑張れ。」
母さんが死んでから、父さんはずっと落ち込んでいた。妹はそれを見て悟り、無理をして殊更明るく振舞っていた。それを見ているのが、とても辛かった。
私が犯した大罪のせいで崩れてしまった、家族の平和の残骸が、私の肩に重くのしかかっていた。
「そんな、駄目です!」
「どうしてですか?」
家を出る支度をしていると、妹の就職先が決まったとの知らせを聞いた。当然、姉としては職場がどのような場所か気になり、一度訪れてみたのだが。
「あんな人種と同じ場所で働くなど、考えられません!」
その職場には、一見幼く見える、小さな魔族がいたからだ。平気な顔をして客と話しているのをこの目で捉えた。
「どうしてそんなことを言うのですか!」
「あれは魔族です! 忌避すべき種族なのです!」
「そんなことはありません! 姉さんの偏見です! 姉さんは差別などしないと思っていたのに!」
「私はそんな職場は許しません!」
「姉さんの許可なんて必要ありません! 私はあの人と働きます!」
「こら、待ちなさい!」
そうして妹は、一人家を出ていってしまった。彼女が帰ってきたときにはもう、私は家を出て、独り立ちをしているというのに。お別れの挨拶すら交わせず。
「蜜柑...」
部屋にポツリと、私の独り言が響く。あんな別れ方をしてから、もう十数年。一度も顔を合わせていない。こんなにも近くに住んでいるのに、一度も。それを幸運と呼ぶべきか、不幸と呼ぶべきか。
「どんな言葉をかけたら良いのでしょう...」
ソルプさんにも、妹にも。全て私のせいなのに、勝手に魔族を恨んで、八つ当たりをして。一体どんな弁明をしたら、許してもらえるのか。この心は私自身を許すのか。
「ああ、もう、こんな時間。」
既に日は傾き、差し込む橙の光も弱々しくなり、どんどん部屋は暗くなっていく。
夕食を作る気にも、食べる気にもなれなかった。ただ、明日を憂鬱に思いながら眠りにつく。
「おはようございます。」
「おはようでござる。」
「おはよう、ございます。」
翌朝。いつも通りのトレーニングから帰宅すると、いつもよりやや雰囲気の暗いソルプさんが迎えてくれた。昨日あんなことがあれば、当然か。
「お風呂、どうぞ。」
「ありがとうございます。」
四包は昨日のうちに教会の方へ戻っている。人間関係の都合であまり構ってやることは出来なかったが、了承はしてもらえるだろう。
「海胴、昨日から、何かあったでござるか?」
風呂場で肩を並べて湯船に浸かりながら、稔が訪ねてくる。稔は昨日あの場にいなかったし、帰ってきたときには、橘さんは既に退社済だった。
「橘さんが、少しな。」
同じ場所で働く仲間として、稔にも話を共有する。そして、橘さんのタブーとなる領域を知ってもらうのだ。稔にそれだけの気遣いができるか心配ではあるが。
「なるほど。それでソルプ殿に元気が無いのでござるな。」
「ああ。とりあえず、昨日の話は蒸し返さないことにしよう。外野がとやかく言ってどうにかなる度合いを超えている。」
「そうでござるな。」
橘さんの十数年間抱え続けてきたトラウマなど、当事者でもない僕達に分かるはずがないし、わかったように語られては橘さんも気を悪くするだろう。
「四包殿がいれば、自然と雰囲気が明るくなるのでござるがなぁ。」
「いない人のことを言っても仕方ないだろう。」
「そうでござるが。」
それに、いくら四包と言えど、他人の過去を振り切らせることなど出来はしない。橘さん自身が折り合いをつけて、ソルプさんと接する他ないのだ。
「おはようございます...」
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