149話 湯船
「ただいま。」
今日も今日とて、仕事を終えて心身共にクタクタになり、一人寂しく帰宅する。帰宅の時間帯は前の世界の会社に比べたら随分マシらしいが、辛いものは辛い。
「おかえり、なさい、ませ。」
「おかえりでござる。」
「おかえりなさい。」
いつものお出迎えに、今日は一人の少女がついていた。そういえば、今日から留学生のソルプさんがいるのだ。
「稔、橘さんには?」
「説明済でござる。」
「はい。良いことではないかと思います。」
落ち着いた表情で橘さんは言ってのけた。仮にも両親を戦争で亡くしているのに。感情を押し殺しているのか本心なのか、それは僕にはわからない。
「では、私はそろそろ。」
「拙者も帰るでござる。」
「はい。お疲れ様です。」
軽く留学の説明も済んで、今日は二人とも退社。家に残されたのは僕達二人。まずは晩御飯を作らなければ。
「ソルプさん、魔法は使えますか?」
「はい。使う、できる、ます。」
頑張ってこちらの言葉で伝えようとしてくれるが、文章になっているとは言い難い。しかし、語彙力はそこそこにあるようだ。挨拶なんかは定型文として覚えているらしい。
「水をお願いします。」
「はい。」
『水。』と一言呟いて、鍋に水を入れてくれる。水という単語は彼女のライブラリに無かったようだ。もしくは、単に向こうの言葉の方が魔法を使いやすいのか。
「ありがとうございます。」
「どういたしまして。」
「次は火をお願いできますか?」
「はい。」
また『火。』と呟く。よく考えるとこの環境は、あまり留学に宜しくないのではないか。自動翻訳がついている僕と話していても意味がない。彼女は真面目にこちらの言葉で話してくれるが、良い状況ではないだろう。
「自動翻訳を止めたくなる時が来るとはな。」
そもそも、どうして自動翻訳がついたのだろう。異世界転移のオプションと言えば、納得もできる。だが、四包はともかく僕に至ってはそれ以外の変化が何も無い。だというのに翻訳だけつくというのはなぜだろう。
『国王様。』
「はい?」
『煮えてます。』
「あ、すみません。すぐ用意しますので、火を緩めてください。」
「わかり、ました。」
ソルプさんが、クイクイと袖を引っ張って引き戻してくれた。料理中の考え事はまずいな。無心で野菜を切ろう。
「「いただきます。」」
いつものように夕食を摂るが、今日は一人ではない。留学生が一人増えただけでも寂しさは紛れるものだ。口に合うと良いのだが。
「どうですか?」
「美味しい、です。」
「よかったです。」
「初めて、食べる、ました。」
夕食の間、ソルプさん自身のことを存分に話してもらった。当然だが、向こうでの暮らしはこちらより貧しく、味噌汁など飲んだことが無かったらしい。そもそも発酵という技術が無かったそうだ。
住まいのレベルは大差ないが、衣服のレベルはやはりこちらの方が高い。ここまでの差が生まれるのは環境故だろうか。それにしても大きすぎる気がするが。
「あとはお風呂ですね。」
「おふろ?」
「はい。ここに水...いえ、お湯を出すことはできますか?」
『水しか出せません。』
「そうですか。では水を出して、火で温めるというのは?」
「できる、ます。」
四包と同じくらいの速度で、みるみるうちに水が溜まっていく。そこへ火を投入。いい感じに湯気が出てきたあたりでストップ。
「お風呂の完成です。」
「使う、ます、か?」
「ここに体をつけると気持ちいいんです。試しに手をつけてみてください。」
『ほわぁ、気持ちいい。』
思わず母国語が出てしまうほど、感銘を受けたようだ。入りたくてうずうずしているといった様子を止めることもなく、僕の方へ視線を向けてくる。
「どうぞ入ってください。こっちで服は脱いでくださいね。上がったら教えてください。」
「はい!」
僕が脱衣所を出た瞬間に衣擦れの音が聞こえ始めた。こういった面は子どもらしくて良いと思う。四包も似たようなものだ。
「遅いな。」
いくら初めてのお風呂で舞い上がっているとはいえ、僕の入浴時間の倍ほどが過ぎた。そろそろ上がってもらわなければ、僕が入る時間が無い。
「ソルプさーん。」
脱衣所の外から呼びかけるも、反応無し。やむを得ず脱衣所に入るものの、服は脱ぎ散らかされたままで、便所の中にもいなかった。
「ソルプさーん! 大丈夫ですかー?」
浴場に叫んでみるも、反響する僕の声が聞こえこそすれ、反応は無い。まさか溺れていたり、しないよな?
「仕方ない、これは仕方ないことだ。」
自分に言い聞かせて、浴場の扉を開けた。白い湯気と熱気、それからムワッとした湿度が襲ってくる。その発生源である湯船に目を向けた。そこには赤みがかった物体がプカプカと浮いている。
「ソルプさん! しっかり!」
幸いなことに、顔は湯船のへりに乗せていたようで溺れる心配はなさそうだったが、意識は無い。眠っている可能性もあるが、何にせよ真っ赤になった体をそのまま湯船につけておくわけにはいかない。
「失礼しますね...っと。」
濃く立ち上った湯気のおかげで目隠しされていた輪郭が、抱き上げると同時にはっきりしてくるが、これを意識してはいけない。これは医療行為なのだ。
僕の心の安寧のため、局部を覆い隠すようにバスタオルをかけるが、湿った体に張り付いて余計に扇情的ですらある。どうしたら良いのか。
「ソルプさん! 起きてください!」
そんな雑念を追い払い、声をかける。呼吸はしているし、脈も少し速い程度だがあるので、放っておいても目覚めるとは思うが、心配だ。
こういうときに魔法を使うことができれば、火照った体を冷やすなり何なりできるのだが。人間というのは無力なものだ。
「何も出来ないのか...」
とりあえず、備蓄している水を使って、目覚めたときに飲めるよう食塩水を用意しておこう。
『あれ、わたひ...うあっ。』
「おっと。急に立ち上がらないでください。もう少し横になって。それからタオルを戻してください。」
『え? きゃっ!』
急に起き上がったことではだけたタオルと、もちろんその中からも目線を外し、食塩水に手をのばす。タオルを戻した頃合を見計らってそれを差し出した。
「これを飲んで、しばらく安静にしていてください。それから着替えたら僕に教えてください。」
『はぁい...』
別の意味で赤くなった頬を極力見ないように心がけながら、脱衣所を出る。
それからしばらく。コンコンと、部屋の戸を叩く音が聞こえてきた。
『お待たせしました。』
「あー、はい。連絡ありがとうございます。」
『いえ、こちらこそ、助けて頂いてありがとうございました。』
「あー、それはー、そのー、はい。なんというか、申し訳ないです。」
互いに顔を背けながら会話する。男というのは自分が考えているよりどうしようもない生き物で、どうしても先程の光景を思い出してしまう。
不幸中の幸いというか、体型年齢が明日香さん以下だということで特に性的な気持ちを抱くことは無かったが、意識せずにはいられない。
「そんなことよりも。」
『そんなこと?! うら若き乙女の裸体を見たことがですか!』
「そういうことじゃありません! ...この話はお互い触れないでおきましょう。」
『...そうですね。ごめんなさい。怒鳴ったりして。』
「いえこちらこそ、無遠慮でした。」
とても気まずい。なんとか話の方向性を変えたいところだ。
「えっと、それとは別に、謝っておきたいことがあります。」
『はい?』
「留学だと言っておきながら、僕は何もしてあげられませんでしたから。」
『そういうことですか。それなら気にしないでください。稔さんや橘さんと話すだけで勉強になっています。』
「ですが僕は」
『一人くらい、母国語で話せる人がいてくれた方が安心できるんです。いざと言うときの通訳もお願いできますから。』
夕食のときからずっと、僕は彼女の留学の役に立っていないのではないかと思っていたが、杞憂だったようだ。
たしかに、見知らぬ場所へ行くのに、その上誰とも言葉が通じないとなると、その心細さは計り知れない。ひとときでも、言語云々の気兼ねなく話せる人がいるというのは心が安らぐものなのだろう。
「お役に立てているならよかったです。では、僕はお風呂に。」
『いってらっしゃいませ。先に眠っています。』
「わかりました。おやすみなさい。」
風呂場に立つと、またあの光景を思い出しそうになる。湯船に映るその幻影を振り払おうとすると、いつもより早く上がっていた。
温まりきらない体をベッドに潜り込ませ、長い時間をかけてどうにか意識を夢の世界へ落とすことができた。
「大丈夫か?」
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