かき氷こわい
では、ごゆるりと、お楽しみください。
暇を持て余して集まった若者たちが、暇潰しに、自身の嫌いで怖いものを言い合っていく。
蜘蛛、蛇、蟻、等の、ありきたりな答えばかりな中、一人の男が「そんな下らねぇもん怖がるたぁ情けねぇ、けっ! 俺は怖いものなんて無ぇ」と嘯く。
そんな筈はないと他の若者たちはしつこく食い下がり、とうとう男は「まんじゅう……」と、ぼそりと答え、そう口にしただけで気分が悪くなった様で、隣の部屋で不貞寝し始めた始末。
隣の部屋で寝ている男に対し、他の若者たちは、生意気言った仕返しとして、大量のまんじゅうを用意し、投げ込んでやり、様子を窺う。
すると信じられない光景が。
「こわいこわい。まんじゅうこわい。こんなものはなくしてしまわないと。食って食って、なくしてしまわないとなあ」
男は一心不乱にばくばくと、恐怖の対象である筈のまんじゅう、そのの全てを腹に収め、「うますぎてこわい、ははは」と、哂っていた。
そうして、部屋に押し入った若者たちと、それでもへらへらしている男。
「まんじゅうが怖いんじゃなかったのか!」
「こわいさぁ。こうやってにやついてしまうくらいにはなあ」
「本当は何が怖いんだぁあ!」
「ここらで一番濃いお茶。それが今一番、こわい」
そうしてやっと、若者たちは、男に騙されたのだと気付くのだった。
「とまぁ、これが、かの有名な"まんじゅうこわい"のあらましじゃ」
何処かの田舎、薄暗く明かり揺らぐ六畳の和室。部屋の中央、畳の上に敷かれた一枚の布団の上、二人の人物が正座して向かい合っている。外に面した襖は閉じられており、虫の音は遠くから微かに聞こえてくるのみ。
一人は、語り手であり、丁度今語りを終えた老人である。藍色の着物を袖を肩までまくり上げて着ており、日焼けした皺黒肌である。そして、ふさふさの髪の毛を総髪にし、まん丸い目をした、いぶし銀な風体である。
そして、もう一人は、目の前の、聞き手であった、幼い少年である。少し薄れたような藍色の矢絣模様の、少しばかり大きめの法被を着ている。袖はその手を手の甲の半分辺りまでを覆い、下は、膝下辺りまでをすっぽり覆ってしまっている位に布地を余らせている。
髪の毛は、前を眉毛が出る程度に短くしつつ真ん中に集め気味に左に流し、横を耳に半分掛かる程度にした、癖などは特にないもの。
そんな肌の白く、目のくりっとした少年は、目を少し細め、ぴくぴくしながら何かこらえるように口元を抑えている。だがそれは、決して苦しんでいる訳ではない。寧ろその逆である。
「ほら、坊、もう、堪えずとも、呵って、善いぞ」
目を見開いて、おどけ半分笑顔半分といった顔で老人がそう言うと、少年こと、坊は姿勢を崩し、喉元で抑えていた笑いを、布団の上から出て、畳の上で、身体全体で音響かせるように、思う存分表現したのだから。満足行くまで。
聞き手であった少年にとって、それは初聞であり、なおかつ、大層新鮮なものであったのだのだから。
「ありがと、大じい様」
さぞ満足そうに老人に向かってそう言った後、少年は元の位置に座した。
「儂はこの話を知った頃、よく大好物のよもぎまんじゅうを高祖母である大婆様にせがんだものよ。坊もやってみるが善い。この話のようにな。だが、一つ違うのは、誰にどの様にせがむかが肝であると云うことよ。坊なら儂のように好物をせしめることができるやも知れぬな」
そう言って今度は老人が呵う。だが、まだ幼い、数えで十に満たない筈の少年は、平然とした顔で答える。
「それって、ぼくからしたら、おじいちゃんのおじいちゃんのおばあちゃん、ってこと?」
そう言って首を傾げてみせる少年は、年にしては難し過ぎる筈の言葉を解したとは思えない程、大層子供っぽい無邪気さを醸し出していた。
「う、うぬ……、そうじゃなぁ……。それで合っておるよ。……。坊は幼くしてかくの如き難しき言の葉、よく知っておるな。豪いぞぉぉ」
気圧されていることを自覚していた老人は、するつもりの無かった程に旧い言い回しをしてしまいつつも、何とか威厳を保ち、最後には、撫でるような声で自然な感じで少年を褒めた。
実際のところ、威厳は虚仮と成り果てていたのだが……。
『合っておるよ』の直後、小声で『多分』、と、老人が呟いたのを、耳のよい少年はしっかりと聞いていたのだから。
だが、年の割に無駄に大人びた少年が、それを優しく聞かない振りをしたのだから、それでも問題はなかった訳ではあるが。
「へへ、ありがとう。去年ね、ひいおじいちゃんから聞いたんだぁ」
少年は飛びつくように老人に甘える。まあ、気遣い半分の行為ではあるが、素直に、褒められて嬉しくて甘えたいという本音も半分含まれている。
だが、その声が少し大きかったらしい。
「坊~っ、まだ起きてるの? 早く寝なさいよ、明日早いんだから。朝からお墓参り行くんだからね」
少年の部屋へと続く階段の下からそう、少し大きめの声で母親が注意したのだ。
そして、先ほどは見逃されてこれは駄目だった理由は、枕元に置かれた時計が示していた。
時計の針は11時を回っていた。
「は~~い! おやすみぃぃ~」
少年はそれに普段より少し大きめな声で返事をし、明かりを消しながら、大きく欠伸をした。老人の話が面白くて脇にやられていた眠気を意識してしまったのだ。
だが、未だ布団には入らない。少年も老人も、明かりを消す前と同じ位置に座って向かい合ったまま、話を再開した。
「ねえ、ぼくが好きなの、まんじゅうじゃなくて、かきごおりなんだけど……。かき氷、山のように食べるにはどうしたらいいの?」
少年がそう、小声で老人に尋ねると、老人は愉しそうに哂い、言った。
「……。かきごおり? お、欠き氷か。ふむふむ、なるほどなるほど。分かるぞい。ふぅ、そんなものはのう、決まっておる。『欠き氷こわい』と、ただ云えば善いのじゃ」
「でもさぁ、ぼくがかき氷好きなこと、ママもパパも知ってるんだけど……」
と、少年は不安そうに上目遣いで老人に訴えると、気をよくした老人はこう言った。
「至極簡単よ。儂はそれを知らなかった。そういう事にすれば万事解決よ。まあ取り敢えず、今宵は眠りに堕ちよ。儂が明日、その答えを示してやろうではないか。……。是と採っておくとしようかのぉ」
少年の返事は返ってこない。いつの間にか、少年はこくり、こくり、頷くように、もう眠ってしまっていたのだから。そして今、正座していた少年の体は、布団に斜め後ろ向きに背中から倒れ込んでいったのだから。
「おはよ」
次の日。少年は階段を降りながらそう言って、大きく欠伸をした。寝間着であった法被から着替え、白い半袖Tシャツに、膝上丈の草色の半ズボンを穿いていたが、髪はボサボサ、歯磨きも当然未だである。
返事は帰ってこない。時間は朝の5時なのだから。
「すずしぃぃ~」
少年はそう大きく背伸びしながら床の上を歩く。程よく明るく涼しい夏の早朝であったことから、欠伸は先ほどの一度で打ち止めとなり、眠気もすっかり飛んでいったようだ。
だから、少年は少し早いが朝食のバナナを食べようと、いくつかの廊下や部屋を通って、冷蔵庫のある台所のある部屋に入ろうとし、そこで見た光景に大声を上げ、腰を抜かすこととなった。
部屋の中央にある筈のテーブルは立て掛けられれ、それは陣取っていた。目的のものが入っている金属製の巨大な業務用冷蔵庫の前を塞ぐように。
少し溶けかけの、学習机くらいの大きさの氷のブロックの上に仰向けに、頭と手足をぶらんと垂らし、白目を剥いて、口から唾を零している意識のない男……。
そんな、身長2メートル程度の痩身長躯を誇っており、脂の乗った武士染みた顔つきをしており、少年の方に顔を逆さに向けて気を失っている男は、少年の父親であったのだから……。
何とか立ち上がった少年は、おそるおそる、部屋の入口からそれに向けて近づく。解けた氷に足元が濡れることも厭わずに。
父親は、わりかしむきむきの黄金色の上半身を何も纏わず露出させ、下に白い袴を穿いた姿で、肩にかかる長めの髪を後ろで束ねて、白いハチマキをしていた。
白いハチマキにはは墨によって、やたらに達筆な感じで、【かき氷 天然氷 削りたて】と書かれていた。
絶対にしないような半脱ぎな恰好のままで父親がのびている訳で、その上、父親の右手には刃渡り50センチ程度の肉切り包丁が離れることなく握られたままになっていることに今になって気付いてしまい、少年の顔は引き攣ることとなる。
だがしかし、それだけでは済まなかった。
少年の父親が意識を取り戻しそうになっているようで、何やらぶつぶつ呟き始めたのだ。だが、小さくて聞き取れない。
少年は冷や汗を流すと共に、ごくり、と溢れてきた生唾を飲み込む。そして、前へと足を踏み込み、父親の口元に顔を近づけた少年は、その言葉の正体を知った。
「かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、かき氷、――――――――――――」
父親の、低く響くようなごつごつした声で、延々と続くような、全く噛むこともなく、息継ぎしている様子すらなく、同様に繰り返され続ける、まるで早口言葉のような、かき氷、という単語。
それは余りに非現実的で、少年は、
「はぁ、またか」
冷めた。
背筋の嫌な寒気も、それと相反するような胸の高鳴りも、すっかり消え失せていた。少年はそういうものに、うんざりする位に慣れていたから。
「はぁ……」
少年はその場に意気消沈したかのように、その場にぺちゃりと座り込んだ。お尻が濡れることなど、まるでどうでもいいかのように。
そして、俯いて呟いた。
「大じい様、これ、ちがうよね……? ぜんぜん、お話通りじゃない……」
すると、
「そうかのぉ……」
どこからともなく、父親の声でなく、老人の声で返ってくる返事。それと同時に、父親の体のかき氷呟きはぴたりと止まった。
「だって、大おじい様、かき氷、知らなかったでしょ……」
少年は顔を上げぬまま、言葉を返す。
「う、うぬぅ……」
そんな風に、老人が言葉を詰まらせたところで少年は立ち上がり、気怠そうに独り言を呟いた。老人にも聞こえるようにわざとらしくゆっくり大きく。
「さあて、そろそろ片付けしないとなぁ……。ママが起きてこないうちに。パパが正気に戻らないうちに」
だが、もう、手遅れだった……。
床を踏み鳴らすようにこちらへ走ってくる音が聞こえてきたのだから。そうして近づいてくる者の候補は、少年には唯一人しか思い当たらなかった。
「坊、どうしたのよ! こんな朝早くに大声なんか出しちゃって」
そう。少年の母親だった。
少年の父親程ではないが、長身。それと同時に、明らかな恵体でりつつも、体型の崩れは微塵も見られない。その肌は白く、もちっとしているようで、艶があった。未だ少しばかり眠気を目に残しているというのに、くりっとした大きな目であると分かる。どちらも、少年に色濃く遺伝していると分かる。
そして、少年の後ろ、夫である氷の上でのびている男と比べ、一回り下、いや、二回りだろうか? それ程に若く見える。
背中の中央位まである長い髪、ただし前髪はぱっつんと、目に掛からない程度に短くしているのを、寝起であるが故にぼっさぼさにしたまま、首周りの開いた白のネグリジェ姿のまま、少年がこんな早朝に声を上げたので、目を覚まして心配しつつ、駆けてきたのだ。
「……。って、あああっ!」
だが、そこにあった惨状を見たのだから、母親の顔には、沈黙の直前までは微かに残っていた眠気なんて、跡形もない。驚きの掛け声と共に、鬼のような形相に変化し少年を睨み付けているのだから。
「あっ……」
自身が容疑者にされたことに少年は気付いてしまい、そう声を漏らしつつ、一瞬老人の方を見ただけだったが、母親はそれを見逃していなかった。
冷蔵庫の左横上、何もない空間に向かって、口を開いた。
「ちょっと、大爺様っ! また下んない悪戯しましたねぇぇっ! 今年は絶対、お酒お供えしませんからぁ! 大爺様|用にと思って用意した、とっておきの焼酎だったのに、残念ですねぇ!」
「い、いや、坊の為にささやかな……――」
「はあぁぁっ? 何ですぅぅ!?」
凄むと同時に振り上げられ、放たれる準備をされた拳。老人はそれを見て言葉を詰まらせ、そして、
「……」
怯え震え、黙りこくった。
母親は少年の方を振り向いて、
「たったとこれ、片づけなさいぃいいい!」
叱りつけたが――――、少年はもうそこにはいなかった……。
「って……。……。坊ぅううううう、どこ行ったぁああああああああ!」
だから、その苛立ちを叫びに変えつつ、ドタドタと駆け出した。
そこに残された、少年の六代先のご先祖様たる、大爺様と呼ばれる老人の幽霊は、
「さて……、片付けるとしようかのぉ」
溜息混じりに呟きつつ、テーブルを宙に浮かせるのだった。
「冷蔵庫からの氷出しもこうしておったらよかったわい……」
密かに逃げ出していた少年はというと、家から飛び出して、少し離れている本堂|まで走っていき、その床下に隠れていた。
そう。少年の家はお寺なのである。まあ、お供えに酒を出してしまったり、日本酒ではなく焼酎を選んでしまうようなわりといい加減な寺ではあるが。
父親が住職、母親は巫女。そして今日は8月15日、お盆の真っ盛りである。
「あぁあ……。ごせんぞさまたち、毎年毎年、やりすぎだよ……。もう慣れちゃったけどさぁ、ああいうの……。"かいきげんしょう"、って言うんだったって、去年、ひいおじい様が言ってたっけ……」
ぶつくさと、不平を零しつつ、母親が向かってきていないか少年は警戒していた。
「今年は、いつもよりもずっとずっとひどかったなぁ……。はぁ……。ママに聞いた話を入れてもさ……。まぁ、大じい様のお話、面白かったし、どきりとはできたし、今日のも、気づくまでは楽しめたけどさぁ……、はぁ……。パパ、ごめんなさい……」
この家では、毎年、そのご先祖様がこの時期にやってきて、何かしら悪戯をするというのが、少年の生まれるずっと前、いつからか分からないくらいずっと昔から、恒例になっていたのだ。
誰が来るかはその時まで分からないが、来てしまえば、"視える人"である少年と母親にはその正体が分かる。なお、父親は全く"視えない人"なので、今回のように割りを食うばかりである。
「あっつぅ……」
いつの間にか、外はすっかり明るくなっており、蝉の声が騒がしくなっていた。空は晴れ渡っており、日差しは強くなっていく。
そして、そんなのんびりとした時間は突如終わりを告げることになった。
「坊ぅぅぅぅっ!」
少年は突然のことに動揺する。周囲に母親の姿はない。足音などもない。なら、何処から、と、少年の冷や汗は止まらない。
そして、その答えは降ってきた。上から。
少年は、Tシャツの後ろ首元を掴まれて引き摺り出され、目の前という至近距離で、思いっきり凄まれたのだから。
単純な話である。母親は、上、つまり、床上から足音を立てないようにしてやってきたのだ。
「分かってるわよ、坊ぅぅう! あんたが大爺様におねだりしたんだってねぇ!」
老人ですら抗えなかったその迫力。少年が抗える筈などない。
「……」
老人がしたのと同じように、少年も、怯え震え、黙りこくった……。
「はぁ……。まあ、いいわ」
あっけない位に簡単に、母親は少年を許した。言葉上は。その手は少年を宙釣りにしたままなのだから。
「いいの? やったぁ!」
「いいのよ。ふふふふ」
母親は意味深な笑みを浮かべながら、地面を力強く踏み締めるような歩みで、少年を境内の開けた場所へと連れていくのだった。少年は無邪気にも、その後何が待ち構えているのか、未だ、知らない。
「……。ねぇ……、これってまさか……」
宙釣りを解除されて、自身の足でその黒い土の地面に立たされることとなった少年は、目の前に用意されたそれらを見て、自分が許されていなかったということと、下されることになる罰について、知ることとなった……。
「えぇ、そうよぉ、坊。あんたの好きなかき氷よぉ。シロップも用意してあるわ、一種類だけだし、これ一本しかないから、なくなったら後は何もかけないでってことになるけれど」
氷。一辺10センチ四方に砕かれた氷のブロック。それらは持ち出された台所のテーブルの上に並べられている。
すっかり目を覚ました父親が、何故か先ほどの恰好のまま、黙々と、手動かき氷機に氷を次々にセットしていき、用意された大量のガラスの器にそれらを盛って、置いていく。
父親は一瞬動きを止め、少年の方を一目見て、自分は別に怒ってない、と目で合図するだけして、そのまますぐにかき氷作りに戻っていった。
が、そんなものは当然、少年にとって、救いにはならない。どちらにせよ、罰からはもう逃がれられはしないのだから。
それに、父親はそれから少年から完全に目を背けるように作業速度を上げている。つまり、父親が止めてくれる可能性は無いのである。
少年は、それが分かってしまう位には、年不相応に賢かった……。
そして、少年は最後の足掻きを始めた。
「うそだよね……ママ……。じょうだんだよね、こんなの……。おなか、やぶけちゃうよ……。お口のなか、こおっちゃうよ……。頭、きんきんに痛くなっちゃうよ……。……、ごめんなさぁぁいいいいいい、ぼくが悪かったです! ……」
が、駄目。
足掻けば足掻くほど、もうどうしようもないと悟る他なく、心は打ちひしがれていき、とうとう、折れ、年相応に涙を流しながら叫ぶように、謝った。
そして、それでも駄目だと分かっているが故に、力を失くしたように、地に跪いて、沈黙し、死んだ目をして、涙を流し続けた……。
「削るのは全部、パパがやってくれるわよ。坊が自分でやらなくていいのよ。よかったわねぇ」
「……」
「あんたが願ったんだから。大爺様を誑かして。パパをあんな風に使って。ほら、食べなさい」
母親がそう、止めを刺すかのように、少年をテーブルの前に立たせ、山のように盛られたかき氷の器を少年の目の前に音を立てて置き、冷たく命じる。
少年は地面に這いつくばった状態から、上体を起こし、そのまま正座し、涙は止まっていたが、死んだ目のまま……。
物凄い勢いで、何もかけていない無色無味のかき氷を平らげ始めるのだった。
スプーンと透明な硝子の器とシャリシャリの氷の衝突音が絶え間なく鳴り響く。
延々とかき氷を、死んだ目をしたまま、口へ、腹へ、流し込んでいく少年。顔色はどんどん悪くなり、青ざめてきて、唇何ぞ、もう、真っ青だった。ほっぺは赤みを失っている。口付近は、鳥肌まで立ち始めている。頭はきっと、キンキンと痛み続けている。
「ほら、未だ未だあるわよ。あんたの好きなかき氷。大爺様を誑かしてまで、パパを働かせてまであんたが欲しがった、山のような氷からできた、山のようなかき氷」
その遣り取りはもう何度も繰り返されている。それ程までに、母親はご立腹であるらしい。
だから、作業の全てを終えた父親が、見るに見かねて、「もうこの辺で許してやっていいんじゃないかな、ママ……」と、助け船を出したが、
「決めたでしょぉお? 終わるまで許さない、って」
即沈められる。父親は少年に、すまない、と目で合図を送り、目線を逸らすのだった……。心を冷たく凍らせるかのように思考を止めていた少年にも、流石にこれには、ぐっときたようで……、
もごもごと何か、訴えるように懇願する。
『こんなの全部食べれないよ、ゆるしてぇぇ……。大じい様、助けてぇぇ……』
と、少年は言うつもりだった。口の中を占有する氷に、冷え切ったことのよって動かない喉。だから、言葉は一見、意味を成さない……。
だが、少年にとってそれで問題なかった。
母親は無理、父親は頼りにならない、だからと、きっと近くで見ているであろう、唯一その声が届くであろう老人に向かって助けを求めたというだけの話なのだから。
そして、そんな老人こと、大じい様は、遥か上空から、少年を見ていた。そして、声にならない声は、相手が幽体であるからこそ、通じていた。
「無理じゃ、坊よ……。だが、直き、終わる。儂が何もせずとものぉ。早よぅ気付け……。そのように、逃れることを諦めて掻き込む必要何ぞ皆無なのじゃから……。時が来れば、有無を言わさず、氷は水と、成り果てるのだからのぉ……」
老人はそう、悲し気な表情で呟くだけ。それは当然、下には届かない。そんな風に、心配そうに、老人は空から見ているのだった。
「がぁ!」
とうとう、少年は手を止めた。その腹は、風船のように膨らんでいた。スプーンを深く深く、目の前の透明な器に山のように盛られたかき氷に突き差して、抜こうともせず、数秒が経過した。
限界が来たからなのか、それとも、気づいたのか。
老人は息を呑んで空から見守っている。父親は少年の手を無理やり動かそうと少年に近づこうとする母親を、しがみついて辛うじて制止している。
が、少年がかき氷に刺したスプーンを抜き、氷を掬ったのを見て、老人は悲しそうに溜息をつく。
父親はぜえぜえと肩で息をしながら複雑な面持ちをして、母親はそれが当然とでも言うように冷たい目で少年がかき氷をスプーンから捨てないか、その場から見ている。
少年の手は震えている。スプーンを持っていることすらもう、限界であるようだ。氷の冷たさは、スプーンからも伝わってくるのだから。
少年は、スプーンの上の氷を投棄しないが、それを口に運び切ろうともしない。そして、そのまま一分が経ち、老人は気付いた。
「もう気付きよるか、寄りにも寄って、この苦境で、のぉ。さすが、坊よぉ、こわいこわい」
老人はそう愉しそうに呟く。
少年は手を動かすことが限界なのではない。もしそうなら、とっくに、スプーンごとその手から落としてしまっているだろう。
それは演技だ。
つまり、気づいた、ということだ。そして、気づいた上で、このような演技を、母親にばれないようにやっているのだ。
食べる手を完全に止めることはせず、牛歩の歩みの如く、その手の動きを遅く遅く、抑えているのである。そうすれば、スプーンの上の氷は解ける。解けて水になる。半分以上、地面に落ちる。少年が落としたのではなく、勝手に落ちるのだ。
この年で、こんな追い詰められた状態で、少年はこんなことを自力で気付いて、やってみせているのだ。
老人が少年をこわがるのも無理はない話である。
少年が時間制限に気付いた数時間後、残っていた氷の全ては水に変わり、流れていくのだった。そうして、最後、残されたかき氷の器に残った、メロン味のシロップと混ざり合い、ジュースのようになった氷解け水の最後の一つを、飲み切り、
「ごちそーさ――……、っ!」
少年は締め括りの言葉を発し切る前に、喉と口元を抑えて地面に這いつくばって、堪まりに溜まった腹の中の水を、滝のように口と鼻、少し目から、放出するのだった。
母親と父親は、少年を介抱したり労わったりすることなく、放置して、片付けを始めた。
だが、少年は、罰を与えた母親や、助けてくれなかった父親を睨むなんてことはしなかった。これは、自業自得、それどころか寧ろ、これだけで済ませてくれる、こんな、透かすようなやり方で罰をちゃんと最後まで受け切ったことにしてくれるという温情であると分かっていたから。
そうして、少年は大の字に仰向けに倒れ込んだ。自身の腹の中の、色と臭いが希釈された吐瀉物が更に大量の、器から漏れた氷解け水で薄められたことによってできた、薄い薄い汚い水溜まりの上に。
上手いこと透かすようにやり遂げたことによる達成感でその胸は満たされており、すがすがしい気持ちだったのだから。
老人は遥か上空からそれを見て、興奮していた。
「成し遂げおったか。見事じゃのぉ、坊よ。こりゃ、来年も来んとなぁ。逞しいものじゃのぉ」
咳き込むようにして、滝のように水を吐き出したときに肺に入って残っていた少しの水を出し切った後、少年は大きく何度も息をする。
そして、空を見上げ、そこにいる老人、大爺様に気付き、未だ息を切らしながら何か言って笑い掛けている。
老人はその口の動きを読みつつ、微笑みを返した後、呟いた。
「『大じい様、こわい、こわい』、とはのぉ。こりゃ、末恐ろしいわい、こわいこわい」
さぞ、愉快であったことだろう。
と、"こわい"の天丼で終わる噺でした。
さて、あなたはなにが"こわい"ですか?