ritardando(だんだん遅く)
二度と味わいたくない経験が二つある。
一つはヤクザに絡まれること。
一つは大学入試。
そこに今日、二つの項目が追加された。
助けたばかりの不具の少女が目の前で汚水に引きずり込まれること。
そして俺自身が濁った海流に飲み込まれて溺死寸前に陥ること。
母親はヒステリーだった。
だから、今こうして道路の砂利を巻き上げ、折れた小枝を絡ませ、めちゃくちゃに俺の肌を切り刻む海水は母の姿そっくりに思えた。
二回転してどうにか息継ぎ。
鼻に水が入って一回休み。
三回転して車に激突。
肺の空気を吹きだして視界が真っ赤に明滅する。
空気を吐き出しだ呼吸器の隙間に水が容赦なく注がれる。
天地が何度も入れ替わり、灰色の空に押し上げられたかと思えば灰色の地面へ引きずり込まれる。
乱高下に次ぐ乱高下。
磁石に挟まれた金属球のごとく上下し、上下し、上下する。
宇宙空間さながらの無重力を海抜数メートルの地面で味わう。
手足をばたつかせて。
手足をばたつかせて。
俺は生まれて初めて神様に祈っていた。
助けてください。
助けてください、と。
もう悪いことは考えません。
父親にも母親にも孝行します。あの兄貴にだって孝行します。
ズルなんてしません本当です。
そんな叫びもむなしく、俺は洗濯機に放られた衣類のごとく海面と道路を往復する。
滲む涙も汚水に吸われ、伸ばした手はサイドミラーに殴られる。
いっそ殺してくれ。
そんな願いも届かず、数十秒に一度は海面に浮かび上がり、かろうじて呼吸を許される。
飢えた犬のようにがぶりと酸素を飲み込み、また地獄へ。
どうしてですか、神様、と。
胸の底に悪意が淀む。
こんなに祈ってるのにどうして助けてくれないんですか。
こんなに祈っているのに。
もう悪いことはしませんから。
助けてください。
どうか助けて。
ほんの十数分間で俺は敬虔な信者となり、潔白な聖職者となり、最後に背教の徒へ堕ちた。
ざああ、と濁流が靴を洗っている。
息も絶え絶えの俺はかろうじて建造物の看板に捕まっていた。
ワンコインで死ぬほど楽しめると評判の、どうしようもないブラック企業の居酒屋だ。
笑う社長の姿をライトアップさせる電飾が運よく俺の肘に引っかかったのだ。
そのままざぶんと身を上げた俺はそれ以上動くこともできず、ただただ汚水を吐き散らす。
「ぁ、うぶっ……えげえっ!!」
ぼどぼどどっ、と灰色の海水が胃を逆流する。
「ぁぶっ、う……」
えれれっ、えべべべ、と続く嘔吐は、からえずきの後のように心地よい。
今は吐く時だ。
拒食症女子のように吐いて、吐いて、吐いて、毒を出す。
――――たとえ目の前を死体と思しき人間の手足が過ぎっても。
もしかしたら生きている人間だったとしても。
手を伸ばせば助けられる可能性があったとしても。
「おぼっ、お、おぼrrrrっ!!!」
十分間吐き続け、酸素を肺へと送り、まだ嘔吐を繰り返す。
砂を吐いたせいで喉の奥でも裂けたのか、吐瀉物には赤いものが混じっていた。
ずぶ濡れの身体が風に吹かれると皮膚に突き刺さるほどの冷気を感じる。
だが嘔吐が止まらない。
胃が、食道が、喉が、この不潔な水を心身に取り入れることを拒んでいる。
「うええっ……えええええっっっ!!!!!」
とうとう黄色い胃液がこぼれた。
工業用接着剤のように鮮やかな黄色の液体が、ぴしゃりと濁流の表面を叩いて消える。
鶚。
和尚。
緋勾。
鴨春。
――――美羽。
「おぶっ、おぅぅえええええっっ!!!!」
いつしか涙が溢れていた。
考えることをやめてしまえるように、俺は何時間も、何時間も衝動に任せて吐き続ける。
冬の夜は駆け足でやって来た。
夕陽が差したのも一瞬のことで、既に辺りは薄闇に包まれている。
ぴたりと張り付いた衣服の冷たさに、気づけば俺は唇を震わせていた。
歯の根も合わない寒気の中、ゆっくりと濁った海へ目の焦点を合わせる。
(水……増え、てる)
やっと形になった思考がそれだった。
眼下に広がる海原は既に2メートル以上の水深があるように思える。
向かいの歩道に見えるコンビニは看板がかろうじて見える状態で、全国チェーンのカフェは見る影もないほど水没していた。
少し海を見渡せば、瓦礫としか表現しようのない様々な物品が緩やかに流れていくのが分かる。
板切れ、バケツ、ビニール袋、衣服、日用品。コンビニから流れ出た様々な商品。
木の葉や枝といった自然物も混じっている。
もっとも、緋勾も言った通り、浮かんでいるものより沈んでいるものの方が多い。
ゼリーの中に閉じ込められたミニチュアのごとく沈んでいるのは自動車だけではない。
金物、カーテン、キャリーケースやハンガー、携帯端末のようなものも微かに視認できる。
海中を覗き込んでいた俺は、はたと息を止める。
そこには骸骨も沈んでいた。
宝箱や襤褸切れが一緒なら映画のワンシーンにも見えただろう。
骸骨が「沈んでいる」ことを確認した俺はしばし思考に耽る。
さっきの津波は何だったのだろう。
本土側で地震でも起きたのだろうか。それとも島が沈降しかかっているのか。
沈降しかけていると仮定して、あと何日、いや何時間もつのか。
キリコは全滅したのだろうか。
鶚や和尚たちは無事だろうか。
美羽は――――
(……)
暗澹たる思いに囚われた俺は慎重に看板を伝い、二階席の縁側へ身を踊らせる。
この居酒屋は二階席が和室になっているようだ。
縁側にはわざとらしい盆栽がみっしりと並べられており、ガラス戸の向こうに障子戸が見える。
からら、とガラス戸はあっさり開いた。
中は畳の敷き詰められた宴会場だ。
座布団は敷かれたまま。食器は片付かないまま。
ただしBGMは死に、電気も点かない。
念のためガラス戸を完全に締め切り、障子戸で外部からの視線も遮った俺は一階へ続く階段を見下ろす。
そこは既にフロアの3分の2ほどが水没してしまっていた。
もう少し大きなレストランなら余裕があったのだろうが、所詮は居酒屋ということか。
ガタガタと震える俺はまず辺りを見回す。
もう寒さが限界に来ている。このまま夜が来たら凍え死ぬかも知れない。
(キリコは……いないか)
今まではキリコも地に足を着いて行動していたが、既に水かさは2メートルに近づいている。
バラバラになって浮かんでいるのなら対処もできるが、完全に水没した状態では視認すらできない。
うっかり近づいて足を掴まれたら死が待っている。
(どうする……)
切迫する事情は三つ。
①キリコ
②冷えた体の処理と暖の確保
③水分の補給
どれも我慢や根性でどうにかできるものじゃない。
もう筋肉は収縮し、ガチガチガチガチと先ほどから歯の根が合わなくなっている。
それでいて喉はカラカラだ。すぐにでも水を補給しなければ脱水症状に陥る。
(キリコが感知するのは血液……)
鴨春の言葉を思い出す。
――――血液。
俺は今、喉を負傷している。
「A。A、a」
もはや声と形容できない「音」が漏れる。嘔吐のし過ぎて喉がダメになっているらしい。
だがすぐに俺は気付く。
(血液の「何」を感知してるんだ……?)
鴨春は人間の腕を海へ放り込むことでキリコを誘導していた。
彼女の判断を信じるなら、「海へ落ちる岩」と「海へ落ちる人間の腕」をキリコは区別していたことになる。
となると、キリコが察知するのは「音」じゃないはずだ。
残る「色」か「匂い」か「味」。
状況から察するにたぶん――――
――――「匂い」だ。
(いや待て)
キリコは1グラムの肉も持たない「骸骨」だ。
感覚器官なんてありはしない。早計は禁物だ。
これはあくまでも俺の仮説として組み立てておこう。
いつでも崩して、また組み立てられるように。
俺は口内に唾を溜め、ぶっと水面に放った。
濃いピンク色の唾液がぷかりと浮かび、水面をゆらめく。
一分。
二分。
キリコは姿を見せない。
無残に引き裂かれた死体を思い出した俺は身震いしたが、それでも進まなければならない。
亀のように手足を引っ込めていても事態は好転しない。
パンツ一丁になった俺はキリコが出てもマタドールのようにかわせるよう、シャツを頭に乗せて進む。
水は氷よりも冷たかったが、これ以上服を濡らすわけにもいかない。
俺はいの一番に安全確認に向かう。裏口は鍵がかけられており、正面玄関は自動ドアだ。
完全に閉じたままぴくりともしそうにない。
いつかは開けられてしまうだろうし、キリコがトイレや二階の外壁を登って来る可能性もあるが、素通りは防げた。まずは安堵する。
そして銀色に輝く厨房へ。
探しているもののうち、一つはすぐに見つけることができた。
身を清めるための道具だ。
小さなタコ脚ハンガーに吊るされた布巾の大半は水没していたが、使い古しと思しき数枚が難を逃れていた。
何より幸運だったのはおしぼりを発見できたことだ。
乾燥器の上部に小さなカゴがあり、そこに電源を切った小さな冷蔵庫が置いてある。新品のおしぼりが山ほどそこに詰まっていたのだ。
それに、水。
冷蔵庫も冷凍庫も水没した今、この店で手に入る水分は限られている。
だがゼロではなかった。
低価格路線が経営の首を絞めた結果、このチェーン店は客単価を上げる為に特異なシステムを導入している。
それがキープボトル。
洒落たカウンター席の後方にはずらりと酒が並んでいた。
半分ほどは水没していたが無事なボトルがまだ残っている。
何本かを見繕っていた俺は幸運にも水割り用の天然水が残っているのを発見した。
すぐさまぺきりとキャップを開き、ごくっごくっと喉を潤した。
喉に絡みつく極小の粒が食道を流れ落ちていくが気にしてはいられない。
水。水。真水。
胃が痙攣するほどの歓喜に襲われ、中毒者が薬物を摂取したかのごとき真っ白な多幸感に包まれる。
500ミリのボトルが二本、あっという間に空となった。
飢えた身体はなおも水分を欲していたが、一旦は我慢する。
水と酒を余すところなく回収し、ついでにキッチン周りで使えそうな物品を回収しておく。
包丁。モップ。それに皿。
残念ながら着火に使えそうなものは無かった。食料も見当たらない。
今夜は寒い夜になりそうだ。
和室へ戻り、布巾で身を清めた俺は二階に積まれていた座布団を一か所に集め、落ち葉のように重ねる。
文字通り全裸になり、コート用のハンガーに衣服を吊るす。
ここにいても状況は好転しない。
だが体力はもう限界に来ている。俺には休息が必要だ。それに濡れた服を速乾させる術がない以上、明日の朝までは出歩かない方がいい。
そう判断した俺は座布団の山へ裸の身体を埋め、眠ろうとした。
今は何も考えたくなかった。
つい数時間前まで一緒だった奴らのことも。
これから先に起こることも。
とにかく休みたい。
うとうとし始めた俺は寝返りを打ち、障子戸越しにオレンジの光を見た。
「!?」
ばっと飛び起き、障子戸をすたんと開くと、暗い街のあちこちに火が灯っているのが見えた。
もしかすると狼煙のつもりなのかも知れない。
「……!」
ぱあっと胸に希望の火が灯る。
温もりはじわりと全身へ広がり、血の通っていなかった四指に力が戻って来る。
――――生きている人がいる。
打算でも悪意でも何でもなく、純粋にそれが嬉しかった。
そうだ俺も火を熾そう。
火を熾して互いの生存を確認し合おう。
そして合流して、一緒に生き延びよう。
嬉しさのあまり裸で座布団の山から飛び出し、ガラス戸を開けた俺は聞いた。
こり。
こりり。
こりりり。こりりり。
はっと見下ろした海面に骸骨の姿は無い。
だが俺は確かに聞いた。
炎の傍で響いた悲鳴を。
「――――!!!」
「ッ!! ……――――!!!」
「……!!!」
助けを求める悲鳴が一つ、二つ、三つと連なる。
炎が小さくなり、消えていく。
代わりに残されたのは骸骨共がこりこりと大笑いする音。
(――――!)
俺はすぐさまガラス戸を閉じ、障子戸を閉じ、階段に簡単な鳴子を設置し、座布団の山に埋もれる。
カチカチカチカチ、と寒さとは違う震えで体が一向に落ち着かない。
もしここに踏み込まれたら終わりだ。
そう思った途端、この建物は一つの檻にしか感じられなくなった。
骸骨の捕食者が今夜の餌を品定めするための檻。
極度の緊張から俺の意識は覚醒したままだった。
数時間に渡って目を見開いていた俺が耳にしたのはキリコが徘徊する音と、時折聞こえる人間の悲鳴。
奴らはいつ、どこから来るんだ。
次は俺の番かも知れない。
ぎゅっと座布団を被り、ただただ恐怖を押し殺す。
結局俺はまんじりともせず朝を迎えた。
分かったことはキリコが不眠不休であることと。
――――津波を逃れた幸運な人々が不幸な人々に変わったこと。
夜が明けた時、窓の向こうには淡い曙光が差していた。
ただ、人の灯りは消えていた。
カア、カア、と本物のカラスが鳴いている。
何となくガラス戸を開けた俺は見たのは、海上で何かに群がるカラスの大群だ。
(人、だよなあれ)
おそらく水死体だろう。
カラスの小集団がいくつも海上に散見される。
(……)
おそらくキリコも死体へ向かうはず。
行動するなら早い方がいい。
くうう、という腹の音を聞いた。
俺を追い詰めたのはキリコだけじゃない。
豪雨に降り込められたことで、もう何日も満足行く食事をしていないのだ。
とにかく食わなければアクションを起こせない。頭も回らない。
鶚のミリメシは結局食べないまま終わってしまった。
ここは居酒屋だが、保存食の類はあるだろうか。
そう思いながら階段を下りかけ、気づく。
肉の焼ける匂いだった。
――――それも、香ばしい牛肉か何かの。