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Tempo primo(曲頭の速さで)

 

「さあ、どっち?」


 鶚はずいと俺に顔を近づけた。

 暗い笑みを向けられた俺は生唾を飲む。


「こっちに来る? ……それともそっちに堕ちる?」


 今こうしている間にも和尚は死に近づいている。

 もたもたしていたら分かれ道が一方通行になってしまう。


「さあ……」



 選択の余地は無い。


 俺は鶚の手を握ると――――


「そう。それが賢」



 ――――そのままこっちへ引きずり込んだ。



「!?」


 抱き寄せられた鶚が硬直するが、もう遅い。

 こいつは俺を舐めすぎている。

 オツムの出来なら鶚が上だが、腕力ならまだ俺の方が上だ。


「……0.1でも、1でもいい」


 囁きながら、俺は程良く肉のついた小さな身体を締め付けるように抱く。


「金でもツテでも権力でもいい。俺は必ず『プラス』を持って生き延びる。……共犯者? 冗談じゃない。そんなの『マイナス』だろ」


「そんなっ! 十三鷹が私たちを庇護してくれるんだよ?」


「ああ。渋々な」


「!」


「それじゃダメだ。恩を売れない」


 緋勾、鴨春、美羽の三人だけならいくらでも助かる。だが確実に三人以外の誰かが死ぬ。

 子供を見殺しにしたなんて汚点を自分の人生に残したくないから、連中は俺の案に乗ってきた。


「自分たちに面倒の後始末を任せる奴と、面倒の種そのものを摘み取ってくれる奴、お前が緋勾の立場ならどっちを好きになる?」


 もっとも、俺が恩を売るのは人の好さそうな美羽の方だ。


 両脚を失った金持ちの子女。

 さぞ親御さんは娘を甘やかしていることだろう。

 その娘の切なる願いを叶えた俺を親御さんは間違いなく買いかぶってくれる。


 期待に胸を膨らませ、しかし俺はすぐさま怒鳴る。


「緋勾ッッ!!!」


 怒鳴るまでもなく、彼女はすぐ傍まで歩み寄っていた。

 ごくさりげない所作にまで品格が漂っている。


「どうしました」


「このドア閉めてろ。鶚が子供を殺そうとしてる」


 緋勾はさして驚きも動揺もせず、そう、と片眉を上げた。


「閉めてどうするの?」


「俺か和尚が開けろと言うまで開けるな。中に人殺しが入って来てる。片付けたら浮袋持って戻ってくる」


「……。分かりました」


「あと鴨春にキリコの餌は近場に投げろって伝えてくれ。キリコで壁を作る。あいつは逃がさない」


 羽交い絞めにされた鶚が飛び出そうとする。


「なっ!? 待って緋勾!」


「聞くな緋勾」


「……」


 緋勾は少し考え、ちらりと美羽を振り返り、俺の目を覗き込む。


「分かりました。閉じます」


「緋勾!! 私じゃなくてカラスを信じるの!?」


 悲壮感を漂わせつつも鶚は詰るような声を上げた。

 が、白いカーディガンの乙女は静かに目を閉じる。


「信じてはいません。投資しているだけです。誤解なきよう」


 彼女は片目を開け、試すように鶚に問うた。


「少しだけ話は聞こえていました。別にあなたの安全策を汲んでも構いませんが、それによって私たちが得るメリットを教えてくださる?」


「……!」


「プレゼンテーションがお上手ですね」


 がああん、と緋勾は躊躇なく鉄扉を閉じた。

 鶚の顔に当たっていた光が細くなり、消える。


 鉄板一枚を隔てて俺達は暗い園内に立っていた。

 和尚の声が響く。今度はやや近いようだ。


「からあああああす!!!」


 すう、と息を吸った俺は腹から声を上げた。


「和尚ぉぉぉぉっっ!! こっちだ!! そいつを挟み撃ちにするぞ!!」


「は、挟み撃ち!!!??」


「そーだ挟み撃ちだ!!!」 盾構えてろよ!」


 さあ、これで。

 ドクロ仮面もこっちに気づいたぞ。


「返事、してなかったな。俺はこっちに堕ちるよ」


 しばし呆然としていた鶚は現在の状況に気づいたのか、きっと俺を睨む。

 だがもう遅い。

 俺は親指を下に向けた。


「ただしお前も、だ」






「……できっこない」


「あ?」


 顔を伏せていた鶚はくくっと自嘲的な笑い声を漏らす。

 だって、と奴は軽蔑と怒りを滲ませた表情で俺を睨んだ。


「だってあなたはチキンだから」


 その瞬間、俺の中でぶつっと緊張の糸が切れた。


「カハハハハハハッッッッ!!!!!」


「!? ……? か、からす?」


「あー……何でもない」


 ひとしきり笑った俺は大学から持って来たドアを手に階段を下る。

 身を守る術の無い鶚もまたぴったりと俺に続く。


 鶚の冗談のお陰でだいぶ頭が冴えた。


(さて、と)


 階段の下方を見やった俺は暗い海に目を光らせる。

 誰かが息を潜めている気配は無い。


 ついさっきまで奴は和尚を狩る側だった。

 だが今や立場は逆転している。

 挟撃の危険性を耳にした以上、奴はまず身を隠すことを考えるはず。


(いや待て。待てよ……)


 冷静に。冷静に考えなければならない。

 奴の警戒心には奇妙な緩急がある。行動を読んだ気になるのは危険だ。


 例えば奴が既に和尚の背後を取り、俺達をおびき寄せようとしている可能性。

 例えば奴が挟撃すら恐れず特攻してくる可能性。

 例えば奴が、と考えたところでいったん思考を止める。


(……要は防御だ)


 刃物を振り回す輩に対峙したら、警棒でぶん殴るより盾で制圧した方が安心確実だ。


 攻め手に回る必要なんてない。 

 攻撃を防ぎ、防ぎ、防いで、押し潰す。

 反撃の隙すら与えなければ、どんな奇怪な思考回路も怖くない。


「どうやってやっつけるつもりなの……」


 俺の背中にぴたりとくっついた鶚が後方を警戒している。

 彼女も必死だ。

 道中で拾った小さな引き出しを盾にしている。


「やっつけなくていい」


「え?」


「さっきお前が言っただろ。閉じ込めちまうのが一番早い。和尚はもう浮袋を見つけてるからな」


 作戦はこうだ。

 和尚と合流する。

 盾を構えて奴の攻撃をすべて防ぐ。

 屋上へ逃げる。

 鉄扉を閉じる。終わり。


「……緋勾には片付けるって言ったのに」


「殺すとは言ってない」


 最優先課題はドクロ仮面の排除じゃない。

 船代わりの浮袋とロープの回収。そして和尚の救出。

 和尚が既に道具類を手にしているのなら彼と合流することが最終目標だ。


「和尚を見つけて鉄のドアとキリコで奴を閉じ込める。それだけでいい」


「……」 


「からあああす!!」


 和尚は未だに叫び続けている。

 俺たちは水中の動きを注視し、奴の黒衣が見えないかに全神経を集中する。

 真正面からの攻撃は盾で防げるが、水中で腕を伸ばされたら盾なんて役に立たないからだ。


 逆に、自分たちより高い場所に注意を払う必要はない。

 奴も俺たちもずぶ濡れだ。

 陸地に這い上がれば必ず水が滴り、ぽたぽたという音がする。


「聞こえてるよ全く……。気をつけろよ和尚!! 挟み撃ちだからな? はーさーみーうーち!!」


 こうして吠え続けることでドクロ仮面は常に背後を気にせざるを得なくなる。

 頭部をすっぽり覆うマスクを被った状態で背後へ注意を向ける為には、必ず振り返らなければならない。

 振り返れば足が鈍る。

 鈍ればその分、俺たちの勝率が上がる。


「からす!! からあああす!!」


「あっ」


「あのハゲ遠ざかりやがった……!!」


 俺が身を潜めていると勘違いしているのか、和尚の声は遠ざかって行ってしまった。

 慌てて、しかし慎重に俺たちは声を追いかける。


(あのアホ……!)


 園内の水かさが増しているせいか、声は反響したかのようにあちこちから聞こえる。

 俺達は水を慎重にかき分け、ゆっくりと進む。


「からす!!」


「からあああす!!」


「うるさ……アホなの和尚?!」


 鶚は両耳を塞ぎ、顔を顰めている。 

 俺たちは声の聞こえる一室の前で足を止めた。


「聞こえてるっつってるだろこのハ――――」


 がん、とドアを開いた俺が見たのは。



『からあああす!!』



 ぶら下げられた携帯端末。



「カラス!!! どっちに向かっているんです!! 私は――――」


 どぼん、と水中に沈んだ俺は声の続きを聞くことができなかった。

 どっ、と遠い壁面に矢が突き刺さる音。

 鶚が足払いを決めてくれなければ、飛来したボウガンの矢がこめかみに突き刺さっていただろう。


(!? 罠を張られてた……?)


 どくっどくっと心拍がスピードを上げる。

 録音した声を囮に俺たちを誘い込む。

 確かに効果的な戦法だ。

 ――――が。


(ちょっと待てじゃあコイツはとっくに和尚の近くに――――)


「!!」


 浮上しようとした鶚を止め、俺は上着を脱ぐ。

 彼女が手にしていた盾代わりの引き出しに服を引っかけ、水面へ持ち上げた。

 どっ、と引き出しにボウガンの矢が立つ。


「ぶはっ」


 この隙に海面へ顔を出した俺たちは新鮮な酸素を取り込むと、再び潜行した。


(何考えてんだあいつ……! 意味が分からん……!)


 和尚の声を携帯のマイクで拾えるほど接近しておきながら、わざわざ俺たちを狙ってきた。

 一体どういう意図があるのか。


 だが考えるのは後だ。

 今は移動しなければならない。

 ドアから部屋の外に出て――――


(? 待て。外に逃げられ、る?)


 入ってきたドアは開いたままだ。何かで塞がれた様子はない。

 かと言って後ろに奴がいるとは思えない。


 慎重に海中を見回すも奴の脚は見えなかった。

 おそらく室内の奥、かなり離れた場所から撃ってきている。

 部屋に入ってすぐに見つからない為か、と考えた俺は首をかしげる。


 だったら携帯端末を部屋の中央に吊るす意味がない。

 どこかに隠すか、部屋の奥に設置するかすれば、おびき寄せられた俺の頭をぶち抜くこともできたはず。


 何だろう。

 何か異様だ。


「……?」


 鶚も疑問符を浮かべていた。

 彼女をしてもドクロ仮面の行動を説明することはできないらしい。


「かぶぁすぅ!!」


 水の上で和尚が吠える声。

 今度は本物だ。

 その証拠に、彼は飛来したボウガンを盾で防いでいる。


 とぼっとすぐ傍にジュラルミンか何かの矢が沈む。


「和尚!!」


 ドクロ仮面が矢を装填するタイミングを見計らい、俺と鶚は浮上する。

 浮上すると同時に室内側へ盾を向けた。


「どこに行っていたんですか、二人とも……!」


 和尚は家出少女を見つけた親のように、安堵と怒りをない交ぜにした声を漏らす。


「ビニールプールとロープは十三鷹さんに渡してあります。あとはあなた達だけです」


「何だ入れ違いかよ……」


 和尚は俺達が出発したすぐ後に屋上へたどり着いたのだ。

 どうやら波紋を立てずにそろそろと歩いていたせいで、和尚も俺達が移動した痕跡に気づけなかったらしい。


 という事は、俺はあのまま鉄扉の前で待っていれば和尚と合流できたのだ。

 鶚の咎めるような視線はいよいよ鋭さを増して首筋に突き刺さった。


「コロス……」


「待て待て。今はそんなこと言ってる場合じゃ」


 すんでのところで俺は鶚を引っ張り戻し、盾の死角へ。

 がああん、という衝撃は凄まじく、危うく転びそうになる。


「急ぎましょう。屋上へ!」


 鶚を真ん中に挟んだ俺たちは盾を構えてゆっくりと後退する。

 部屋を出たところで和尚が先駆け、俺がしんがりを務め、電車ごっこでもするような格好で屋上へひた走る。

 泳いだ方が早いのだが、そうなると矢を防げない。


 ちらと振り返れば。

 ドクロ仮面が部屋からのそりと出て来るところだった。


 奴は俺達の方を見――――


「っ」


 肩を上下に震わせていた。


(笑ってやがる……!!)


 濡れた黒衣は黒曜石さながらに光っており、ぽたぽたと滴が落ちている。

 ドクロ仮面は遠ざかる俺たちを見送り、なおも肩を震わせていた。


 脅威の排除ではない。

 相手を選ばない快楽殺人でもない。

 復讐や怨恨でもない。

 かと言って手の込んだイタズラでもない。


 屋上へ向かう和尚に近づいてもあえて手を出さず、声だけを録音する。

 おびき出された俺達に丸分かりの罠を見せつけ、かわされるリスクも逃げられるリスクも承知で射殺そうとする。

 逃げる獲物を死にもの狂いでは追わず、次があるさと言わんばかりにただ見つめる。


 まるで。

 ――――ゲーム感覚。


 モザイクじみた不透明の殺意を感じた俺は盾を構えたままそろそろと後退する。

 ドクロ仮面はキリコのこりこりという移動音が聞こえ始めても、なおも肩を震わせて笑っていた。






 がちゃん、としっかりと閉じられた鉄扉に手を当てた俺はすぐさま緋勾の元へ。


「緋勾!」


「残念でしたね。入れ違いで鷺沢さんがいらっしゃいました」


「ああ、知ってるよ。ついてないな」


「勇気は空回りするものです」


 緋勾は落ち着いた佇まいを崩していなかった。

 対照的に、屋上は騒然としていた。


 ビニールプールを膨らませる保育士達の顔は真剣そのもので、既に二つ目のプールが完成しようとしていた。

 俺たちの乗ってきた小舟にはロープがきつく結えられており、後は船の到着を――――


「緋勾ちゃん! 来た!!」


 美羽が興奮した様子で大きな声を上げた。

 彼女の視線を追うと、大型哺乳類が唸り声を上げるような音と共に、大きなクルーザーが接近してくるところだった。

 がん、ばがん、と乗用車のルーフに衝突しつつもクルーザーは正確に園内を半周し、手を振る俺達の元へ近づいて来る。


 水かさが増しているお陰でクルーザーの甲板と屋上にそれほどの高低差はなかった。

 ペリカンを思わせるのっぺりした船舶の側面には、俺の見込んだ通り銀色の手すりが見える。

 どころか、既にそこには何本もの繋留ロープが用意されている。

 船室後部は開け放たれており、すぐにでも飛び込めるような状態だ。


「緋勾お嬢様!」


 たたっと数名の男が姿を現した。誰もがスーツ姿で、ネクタイまで締めているのだから滑稽だ。

 顔立ちは精悍で、いかにも忠実そうに緋勾を見上げている。


「ご苦労でした。もうひと仕事お願いします」


 言うが早いか、ひらりと緋勾は身を翻す。

 屋上の縁を蹴ったのだ、と思った次の瞬間には彼女は甲板に立っていた。


「五分で支度を」


 男たちは淀みなく動いた。

 まず二人がかりで美羽を運ぶ。そしてバケツリレーよりも巧みに子供達を一人ずつ小さな船へ。

 緋勾の短い指示を聞いた彼らはてきぱきと即席の船をクルーザーに結わえ、重量が偏らないよう的確に乗員を配分する。

 俺はおろか和尚すら口を挟めないほど完璧なチームプレイは消防隊か、海難救助隊を思わせた。


 緋勾は既に船室へ入り、銀色の水筒で唇を湿らせているところだった。


「カラス。鷺沢さん、あなた方もこちらへ」


「や、しかし私は」


「船尾に重量が集中してしまいます。どうか中へ」


 男たちに促された俺達がクルーザーに乗り込むと、鴨春が死体を屋上の縁から蹴り落とすところだった。

 ぼっしゃん、と一際派手な水柱が上がり、キリコがこりりり、と殺到する。


 上着を失った俺はひどい肌寒さを感じていた。だが皮下にはまだ熱い興奮が残っている。

 ふう、ふうう、と右側で鶚が。

 ふ、ふう、と左側で和尚が息をついていた。


「気をつけろ緋勾! ドクロ野郎がまだ中に――――」


「例の殺人鬼ですか」


 緋勾が軽く目配せすると、男たちは懐に手を入れていた。

 気のせいだろうか、脇と腰が膨らんでいるように見える。


「判断は任せます」


「承知しました」


 最も年配の男が事務的に頷く。

 どん、と後頭部にホオズキを咲かせた鴨春が乗り込んだ。


「これで全員ですか」


 緋勾の問いに、数人の男がプレーリードッグのように頭部を動かす。


「間違いありません」


「結構」


 クルーザーが到着してから五分と経っていなかった。

 そのあまりの連携に園長たちはぽかんとしたままで、鶚ですら猫のように大人しくなっている。


「では出発を」






 拍子抜けするほど呆気なく、俺たちは保育園を脱出することに成功していた。


 視線を下ろせば子供達と保育士は巨大カボチャやビニールプールにしがみついている。

 スピードこそ出ていないが、船尾に結わえられた小船は激しい波にさらされているようだった。

 和尚は開け放たれた船室から上半身を伸ばし、いつでもロープを捕まえられるよう緊張している。


(脱出、できた……)


 船室で腰からへたり込むと、どっと全身から汗が噴き出した。

 傍を見れば同じように鶚が小さくなっている。彼女は目を閉じ、深い呼吸を繰り返しているようだった。

 血だらけの鴨春は手と口をゆすいでおり、緋勾は年配の男と共に甲板へ上がっていく。


 背の低い建物がぐんぐん遠ざかっていく。

 残されたキリコ達は死体に舌鼓を打ち、いまだこりこりと愉しそうな音を上げ続けている。


「カラスさん」


 美羽だ。

 よせばいいのに彼女は船尾まで近づき、俺の隣へ。

 男たちが険しい顔をしていた。じきに呼び戻されるだろう。


「ありがとうございました」


 電動車いすの上で彼女は礼儀正しくぺこりとお辞儀をする。

 つられて俺も頭を下げた。


「こんな風に出られるなんて、思ってなかったんです」


 緊張の糸が切れたせいか、美羽の目は潤み、真っ赤になっている。


「きっと誰か死んじゃうって……」


 今にも泣きだしそうな顔を見た俺はそっとハンカチを差し出す。

 思い切り海水で濡れていたので流れるような手さばきでポケットへ戻したが。


「大丈夫だったろ?」


 実際には俺は何もしてないが。

 やったことと言えば脱出のプランを提示したことだけ。

 その後は一人でも戻ってくることのできた和尚を追って身を危険にさらし、鶚の逆鱗に触れただけだ。

 だが恩は着せる。


「カラスさん。どう御礼したらいいか――――」


 来た来た。

 俺は努めて紳士的に、謙遜しつつ、呟く。


「御礼のためにやったわけじゃないからさ」


「……」


 鶚が鬼のような形相でこちらを見ているが気にしない。


「いえ、きちんと御礼したいです。本土に帰ったら私」


 あ、と美羽は呟く。


「あの、私の家名、お伝えしてなかったですよね」


「家名? ああ、苗字か。ってか俺も下の名前言ってなかったな」



「私は」

「俺は」



 声が重なり、俺達は小さく笑みを交わす。

 何の悪意も邪気もない、健やかな微笑みを。

 何度か譲り合った結果、俺が引き取ることとなった。


「俺の名前は烏座――――」


 きゃっと美羽が悲鳴を上げた。

 それもそのはず、たった今クルーザーに轢かれたキリコが船尾を流れて行ったからだ。

 和尚が息を呑む気配を感じる。


「あれ、何だったんでしょうね」


「分からない」


 結局、分からずじまいだった。

 妖怪でなければ、キリコとはいったい何だったのだろう。


「カラベラ祭り、ですかね」


「からべら?」


「南米のお祭りだそうです。死者の骸骨が蘇って、ああやって街を練り歩くんだとか」


「……人を喰いながら?」


「いえ、もっと明るくて楽しいお祭りだった気がします」


(明るくて楽しい、ね)


 クルーザーはちょうど海浜地区に差し掛かったところだった。

 もう十分も進めば本土へ続く海が見え――――




「えっ……」




 誰が呟いたのかすら分からなかった。


 側面から強い衝撃を受けた瞬間、俺の身体が宙に浮いていた。

 鶚も。

 和尚も。

 鴨春も。

 ――――美羽も。



 激しくシェイクされた俺達の身体は重なり合い、もつれ合い、転がり合う。

 受け身すら取れず、誰も彼もが体重をぶつけ合う中で醜い呻きを発していた。


 何かに激突された。


 そう思った刹那、まるでウィリーでもするかのようにクルーザーの船首が持ち上がる。

 ぶおおおおお、と船尾で噴かされたエンジンが白波を巻き上げ、子供達が悲鳴を上げた。

 それが俺の聞いた最後の声だった。



 開け放たれた船室後方から空中へ投げ出された俺が見たのは、ほんの1メートル弱、ほんの数十センチの津波。


 ほんの数十センチ。

 だが誰も抗えなかった。


 古人が河童やセイレーンを夢想するのも理解できる。

 それほどまでに容赦のない吸引力で俺たちは海中に引きずり込まれ、水底に叩き付けられ、息継ぎも許されず回転する。


 泳ぐことなんて不可能だった。

 手足をばたつかせた鶚が消え、和尚が消え、鴨春が消える。



 しっかり手を握っていた美羽までもが連れ去られた瞬間、俺は昆虫のように世界の果てへ引きずり込まれた。



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