animato(生き生きと)
ドクロ仮面の姿を見つけるや、俺は思わず両手で口を覆っていた。
水面に波が立たないよう気を付けて、たった今来た通路に慌てて引き返す。
(何であいつがここに……!)
見間違えるわけがない。
象牙を切り出したように精巧な乳白色の頭蓋骨。
特徴的な黒一色の装い。
大学で見たアイツだ。
どく、どくっと心臓が跳ねる。
肺にぶつかってるんじゃないかと思えるほどの激しい脈動に俺自身がぎょっとする。
ドクロ仮面は今の俺と同じように胸の辺りまで水に浸かり、そろそろと園内へ入ってきたところだった。
ガスマスクをつけた古き化学者のようにコーシュコーなんて音でも聞こえれば良いのだが、残念ながらそんなことはない。
(ヤバいぞ。あいつに和尚が見つかったら……)
ドクロ仮面があの格好のままエンカウントするのであれば和尚も警戒するだろう。
水中へ逃げるなり盾を構えるなりすれば一時的に対処は可能だ。
だが例えばあのマスクを外して善良な一般人を装われたら。
屋上へ行き着かれて子供たちを人質に取られたら。
――――間違いなく和尚は死ぬ。
が、和尚の心配などしている場合じゃなくなった。
つぷ、と微かな波紋の名残が俺の目の前を通り過ぎていくのが見えたからだ。
(!!)
奴は俺の方へ近づいて来ていた。
水を軽くかき分ける音は小さく、息を殺していることが窺える。
(ヤバい……ヤバいヤバいヤバいヤバい)
とっさに辺りを見回し、開けっ放しのドアから部屋へ入る。
天井は意外にも高く、壁面のやや上部にはフェルト地で作られたヒマワリやクマが飾られていた。
息を潜めていればやり過ごせる。
そんな甘い考えが通じる相手じゃなさそうだった。
ちゃぷぷ、とやや力を込めて水をかき分ける音が聞こえる。
曲がり角まで進んだドクロ仮面が速度を上げてこちらへ近づいて来ているのだ。
明らかに何かを見つけた人間の動きだ。
俺は悲鳴を上げたくなるほどの悔しさに歯噛みした。
(ダメか……! できるだけ静かに来たのに!)
水に身体のほとんどが浸かっている以上、急激に動けば水面に波紋が生じる。
俺はこの部屋へ侵入する際にかなり注意したつもりだったが、ドクロ仮面は見逃してはくれなかった。
もしかすると初めから水面の動きにかなりの注意を払っていたのかも知れない。
(隠れろ……どこか……どこか!)
両足が地面を離れ、身体が水中を漂う。
パニックに陥ったわけじゃない。もはや歩いて回避できる距離じゃないからだ。
右を見、左を見る。
成人一人が身を隠せるロッカーなんて気の利いたものがあれば良いのだが、ここは保育園だ。
あらゆる身の回り品が小さく、今の水よりも背の高い物品自体がほとんど存在しない。
目に映るものは限られていた。
正方形が二段になった蓋のないロッカー。
布団をしまうのであろう木製の押し入れ。
配膳に使っていたと思しき背の高い棚。
残念ながらどれに隠れても発見されてしまうだろう。
ホラーゲームの間抜けなゾンビならともかく、知性ある人間は真っ先にそういった場所をチェックする。
そうこうしている間にもドクロ仮面の移動音は迫ってきている。
(速っ)
警戒心というものが無いのか、奴の足取りは俺の想定速度を超えていた。
どこに隠れるも何もない。もう数秒で部屋に入ってくる。
(こうなりゃ……!)
思い切り息を吸い、とぷんと水中へ。
ぽここ、と砂粒大の泡が立ち昇る音だけが聞こえる混濁の世界。
顔だけでなく頭皮までもが冷たい水に浸る感覚。
下手をすれば便所の水より不衛生な海水。
――――この世の地獄だ。
不純物だらけの水中は見通しが悪く、俺の目に映るのはせいぜい数十センチ先までの景色だけ。
だがそれは奴も同じだ。
ここは保育園で、色とりどりの遊具や情操教育の玩具が水底に沈んでいる。
極楽鳥のような服を着ていたら露見していただろうが、ごく一般的な大学生である俺の服は風景に溶け込んでいるに違いない。
果たして、室内に入ってきた奴は俺の姿を見失ったようだった。
もしくはじっと観察しているのかも知れない。
数メートル離れたドアの位置で成人の脚が停止する気配を感じる。
(頼むぞ、おい)
保育園の教室に鍵なんてものはない。
ドアもシンプルな引き戸だ。脱出口を塞がれる心配はなかった。
そして奴が被っているマスクは構造上、正面以外の視野が狭い。更に集音性能も悪い。
一度捜索を始めてしまえば俺の気配を察知することは難しい。
(どう動く……?)
ベストなのはドクロ仮面が捜索を始めたタイミングで入れ違いに出ていくこと。
ベターなのは奴が捜索を始めたタイミングで部屋の外に何かを投げつけて物音を立てること。
最悪なのは奴がとっくに俺の存在に気づいておりこのまま向かってくること。
その次に悪いのは棒立ちで時間を潰されること。
だが奴は予想外の行動を取った。
(!?)
ごぼぼ、と奴の脚が水をかき分ける音が離れていく。
ドクロ仮面はあろうことか俺を無視して先へ進んだのだ。
念のため十秒ほど待ってみるが、奴が引き返してくる気配は無い。
そっと水面に顔を出した俺は血の気が引く感覚を覚える。
(! ヤバい屋上に行かれたら……)
園長や保育士などどうでもいい。
子供は最悪、一人か二人残っていればいい。むしろその方が身軽に動ける。
だが美羽が殺されると成り上がりプランがぶっ飛ぶ。
鴨春が死ねばキリコの対処ができない。
緋勾が死ねば救助の船が引き返しかねない。
鶚は、と考えたところで俺は霧中に踏み込むような感覚に襲われた。
あの子は冷酷過ぎる。いざとなれば俺や和尚のことだって平然と見捨ててしまうだろう。そう考えると死んでくれた方が安全だ。
だが鶚は悪意をほとんど隠さない。彼女が居てくれれば俺の狡猾さや卑怯な考えは見透かされにくくなる。
相対的に俺が善人のように見える。そう考えると生きていてくれた方がいい。
どっちだろう、と思惟を巡らす。
あの子は死んだ方がいいのか。生きてくれた方がいいのか。
ちゃぷぷ、というドクロ仮面の移動音で俺は我に返った。
(馬鹿野郎! そんなこと考えてる場合じゃないっての)
ドクロ仮面が誰を殺すのかなんて俺にコントロールできるわけがない。
誰が死ぬとか死なないとか、そんな捕らぬ狸の皮算用をしている場合じゃない。金持ちの三女子に危害を加えかねない奴を通すわけにはいかない。
俺は水底から小さな木槌を拾い上げると、奴が元来た方向へぽーんと投擲した。
ぽ、ちゃん、と派手な音が上がる。
「!!」
人間の呼吸音らしきものが聞こえ、ドクロ仮面が走ってくる気配が伝わる。
走る。
水の中を走る。
――――合理的じゃない。
念のため水中に身を潜めた俺はドアの影から奴の脚を見ていた。
作業着を思わせる素材の真っ黒なズボンには迷彩模様が描かれており、ブーツも厳めしい。
俺のような一般市民にとって迷彩柄から連想されるものは一つだ。
(自衛隊……? いや……)
いくら何でもありえない。
今まさに豪雨に見舞われている首都圏を放り出してこんなところに自衛隊が来るはずがない。
里帰りしていたはぐれ自衛隊員だろうか。だったらハーバー12の都市部に向かうはず。
そもそも、真っ黒な迷彩服なんてものがあるのだろうか。
(ミリタリー……部?)
ミリメシ研究会。
鶚が結成したというサークルの名称から自然とその考えが浮かぶ。
もしかするとドクロ仮面は大学で迷彩服を着用するタイプのサークルに属していたのかも知れない。
着の身着のままで活動しているのか、何らかの合理性があって着用しているのかは判断できないが。
いや、と俺は考え直す。
奴を目撃したのは大学の敷地内だったが、だからといって大学関係者だとは限らない。
ドクロ仮面がキリコ出現より先に活動していたのだとしたら、奴の素性を探る術はない。
(まあいい。とにかく今は……)
俺はそろそろと水中を移動する。
床に手をつき、壁面の突起を手掛かりに、だが唯一の武器であるドアだけは手放さず。
時折振り返ってみるが、奴が戻ってくる様子は無かった。
屋上へ引き返した俺は遅まきながらある事実に気づいた。
鉄扉だ。
屋上には園児の侵入を防ぐための頑丈な扉がある。
「……おい。おい?」
鉄扉に張り付いた俺は拳骨で軽くそこを殴った。
「カラス?」
鶚だ。
彼女はがちゃんと鍵を開けると鉄扉を僅かに開いた。
「どうしたの? もう浮袋が見つかった?」
「ドクロ野郎が来てる」
さっと鶚の顔色が変わる。
「……尾行された?」
「分からない。でも気をつけろ。あいつ変な動きするぞ」
何かの存在に気づいて部屋の前まで来ておきながら、ろくに探しもせずおめおめと立ち去る。
さっきの動きは明らかに不自然だった。
もちろん奴はキリコに餌を投げ込む人間の存在に気づいているのだから、そちらを優先する気持ちは分からないでもない。
俺も血に飢えたシリアルキラーならたぶんそうするのだろう。
実は俺に気づいていなかったか、あるいは大きな魚でも泳いでいてそいつが立てた波紋だと誤解した可能性も否めない。
――――だがどうにも引っかかる。
「理屈に合わない、か」
俺の話を聞いた鶚は神妙な顔で考え込んだ。
だが怜悧冷徹な彼女をもってしても答えは浮かび上がらない。
俺も鶚も、あるいは緋勾や鴨春も基本的には理屈で物を考える。
それは対面する相手もまた理屈に沿って動くことを前提としている。
警戒心の強い奴は移動スピードが遅く、下手な罠は通用しないだろう。
迂闊な奴はサクサクと動き回るが、ちょっとした罠で足を止めるかも知れない。
警戒する。警戒する。あ、ここではやっぱりいいや。でもここでは警戒する。ここもいいや。ここはどうしよう。やっぱり警戒する。
そんな不規則な挙動をする殺人マシーンが居たら予測も読みもあったものじゃない。
「もしかして――――」
「?」
「ううん、何でもない」
「そうか。とにかく、俺か和尚だと確認してからこの扉、開けろよ」
「最初からそのつもりだよ」
「だよな」
杞憂だったか。
そう思って踵を返した瞬間、俺は凍り付いた。
「からーーーーーーす!!!」
和尚だ。
身をかきむしりたくなるほどの怒りに駆られ、俺は歯を剥いた。
(あのハゲ脳みそまでハゲてんのかよクソ、あの、ハゲ!!)
獰猛な感情が血流に乗って這い上がり、みちみちと顔面で音を立てるようだった。
「カラス!! やりましたプールを見つけました! それも二つです!! それにロープも!! これで脱出できますね! カラス、どこですか? からああああああす!!!!」
もうダメだ。
和尚の声は不必要によく通る。仮にドクロ仮面の中身がゴリラだったとしても完全に和尚の存在に気づいてしまっただろう。
最悪、居場所まで。
(どうする……!?)
ドクロ仮面は迷いなく和尚の方へ向かう。
鉢合わせた場合の選択肢は二つ。戦闘か、逃亡か。
だが飛び道具を持っていることが明らかで、しかも既に殺人を経験している異常者を相手にどこまでの抵抗ができるだろう。
二対一だからどうとでもなる。理性はそう告げる。
だが俺は喧嘩なんかやったことがない。
いざ鉄火場に立ったとして、この手は動いてくれるだろうか。足は竦まないだろうか。
棒立ちでガタガタ震える俺を前に和尚が死んだら? それこそ詰みだ。
では逃亡が正しい選択だろうか。
いや、違う。なぜなら俺達は救助艇が来るまで屋上に待機しなければならない。
いざ到着したとしても子供たちを移し替える必要がある。
その間、奴がむざむざと指を咥えて見ているとは思えない。船を襲われでもしたらひとたまりもないだろう。
(どうするどうするどうするどうするどう――――)
「カラス」
ひやりとした鶚の声が俺の耳に触る。否、障る。
「こっちに来て。今すぐ」
「え」
思わず間抜けな声が漏れた。
彼女の浮かべた冷笑は俺を嘲ったものではなかった。
「今、このドアを閉じちゃえば安全だよ?」
言葉の意味はゆっくりと俺の脳に染み込んできた。
染み込めば染み込むほど、その言葉が複雑怪奇な現実にパチリと噛み合い、美しい正方形の結果を形作るのが分かる。
いや、正確にはそれは正方形じゃない。
きっと歪な形をしている。
だがそれ以上に美しい解を、と告げられた時、俺に導き出せる答えは無い。
「……このドアを完全に閉じれば屋上は安全圏になる。和尚は死ぬけどね」
鶚がツララのような言葉を俺の耳に差し込む。
「その後、カラスと鴨春が二人で死体を海に投げ込む。できるだけ、建物に近い場所に。そしたらドクロ仮面は外へ出られない。キリコの壁に閉じ込められる」
ドアの隙間から見える童顔。
ともすれば飲み会の席でさんざんにいじられ、ネタにされ、涙目でカルアミルクでも飲むはめになりそうな幼い顔立ちに、酷薄な笑みが浮かんでいる。
「後は簡単。子供を全員突き落として殺す」
「!」
息を呑む。
だが鶚の言葉は俺に呼吸の暇すら許さない。
「本当はあの保育士も、園長も、子供がいることをウザがってる」
鶚が話す間も和尚の声は聞こえていた。
聞こえていたのに、言葉として脳に届かない。
「コンビニのコーヒーを飲みたい、親と会いたい、彼氏に抱かれたい。そういう正直な感情を押し殺して、何の縁もゆかりもない子供を護らなきゃならないことに疑問を持ってる。もしドクロ仮面に殺される和尚の悲鳴が聞こえれば後はこっちの思う壺」
どこか呪術的なリズムを持った鶚の言葉は俺の耳朶を侵し、思考を止める。
まるで脳内で延々ループする電気街の歌声のように。
「ほんの、ひと押し。あとほんのひと押しであの人達と私達の利害は一致する。……子供をみんな殺せば、席は足りるよね?」
大人が四人。俺、鶚。金持ちが三人。
問題なく船が動く。
「私一人じゃダメなの。私一人だと意見として弱い。女の世界は弱肉強食だから。下手すると返り討ちにされる」
でも、と鶚は囁く。
気づけば彼女はドアをより大きく開き、俺の耳元で囁いていた。
俺の立つ園内は湿った闇で、彼女の立つ屋上は乾いた光に包まれている。
「あなたが仲間に加われば私たちは正しい側に立てる。……大丈夫。一度でもこのプランを口にしてしまえば誰もがこう考える。逆らったら自分も子供達と一緒に殺される、って」
からからに乾いた口内から唾液の臭いが漂う。
俺は何度か生唾を飲み込み、ようやく言葉を絞り出した。
「緋、勾と美羽が黙ってない」
「黙ってるよ。だって先に私たちを見殺しにしようとしたのはあっちでしょ?」
「……」
そうだ。
そして美羽もまた、積極的ではないにせよ見殺しプランを受け入れた。
誰も彼もが真っ黒なのだ。
「仮に助かった後で誰かが裏切ったとしても権力が押し潰してくれる。裁判になったら十三鷹は庇わざるをえないから。ノブレスオブリージュがあるから死を迫りました、なんて裁判記録、残せないよね」
鶚は面接官と向かい合った就活生がサークル活動について話す時よりも饒舌に続ける。
少しだけ息を切らしていたが、そこに疲労や興奮の色はない。
あるのは希望に満ちた悪意の笑顔。
「私たちは共犯者になるの。十三鷹という大権力がバックについた共犯者。それって世間的には……犯罪者じゃないよね」
ふっと笑った鶚は、でも、と凍るような視線を向ける。
「もしカラスがそっちに降りていくつもりならドクロ仮面相手に立ち回りながら和尚を助けないといけない。ねえ、本当に生き延びられる? いざとなったら私はこのドア、閉めるよ?」
全身に重油がへばりつくような感覚。
そうだ。
和尚を助けることには多大なリスクを伴う。
俺は思考しなければならなかった。
吟味し、検討し、判断し――――
「二秒あげる。すぐ決めて。生きるか、死ぬか」
崖定鶚は選択を迫り、闇に包まれた階段の下を覗き込んだ。
「からーーーーす!! どこですか? からーーーーす」
何も知らない和尚の声が能天気なほどによく響いていた。