lamentabile(哀れに)
(子供……!)
俺は思わずオール代わりのモップを止める。
(クッソ、犬の方がマシだっつの……)
慣性を得たポリバケツが海上を漂う。
俺はバランスを取るべく足裏に力を込めた。
子供。
緊急事態にこれほど鬱陶しいものはない。
例えば目の前の海に落ちた時。
道路に足のつく大人とつかない子供では生存率がゼロと100ほど違ってくる。
大学の敷地で溺れかけた俺には分かる。
水中でパニックに陥った人間は「周りの人間を巻き添えにするかも」なんて冷静な思考ができない。
まして子供なら。
平然と救助者を道連れにするだろう。
もし。
もしここで子供を一人でも助けてしまったら。
俺はそのリスクを負ったまま逃避行を続けるはめになる。
金持ちや権力者にはドライなイメージがつきまとうが、もし溺れる子供にほんの少しでも情けをかけてしまったら。
あるいは物理的に近い場所で海中に放り出されることがあったら。
話は水中に限らない。
陸の上でも、高低差においても、子供は足を引っ張る。
――――俺の「成り上がりプラン」が台無しにされてしまう。
「……」
数秒のフル回転を経て、俺の灰色の脳みそはシンプルな答えをはじき出した。
子供は見捨てろ、だ。
(……お前はどう思うわけ?)
鶚と目が合う。
彼女は片目を細め、片目を見開いた奇妙な笑みを浮かべていた。
まるで悪逆非道のサイコパスだ。
わ た し は べ つ に い い け ど
(あー……そりゃお前はな……)
これからニワトリにやるミミズが成虫だろうと幼虫だろうと関係ない、とでも言いたげな表情。
鶚は俺のように今後の生活に利する何かを得る気がないから当然だ。
生存を第一目的としている鶚はキリコの習性把握のために躊躇なく子供を生贄にするつもりだろう。
むしろ彼女にとって子供は好ましい生き物なのかも知れない。非力な彼女でも力ずくが通じるのだから。
うえええ、うえええっっ、と。
耳をつんざく悲鳴は聞こえ続けている。
「カラス! 鶚! 急いでください!」
「っ。待てって和尚! もうちょい考」
「何を考えることがありますか!!」
がつん、と声で殴られたように感じ、俺はよろめきそうになる。
「考えることなんて後でいい! 今は動くべき時です!」
「キリコがうじゃうじゃしてるのに後でゆっくり何かを考えてる暇なんてないと思いますけど~?」
「ならば体で考えればいい!! 助けながらです!」
鶚の茶々で赤くなった和尚が怒鳴り返す。
櫂を駆る和尚のスピードはあまりにも速く、あっという間に俺達は引き離される。
まるで賞金つきのレースにでも出ているかのようだ。
「……ちっくしょ。あのハゲ……!」
置き去りにするか。
そんな考えもちらりと頭を過ぎるが。
(和尚がいないとパワー不足過ぎる……)
俺と鶚だけではキリコへの対処が頭脳頼りになる。
頭脳だけでは突破できない局面が必ず出て来るし、和尚がいれば鶚が変な気を起こすこともない。
「行くの?」
「行くしかないだろ」
「そうだね」
お気の毒様、と口を動かした鶚が器用に波をかき分ける。
遊具の一つ一つに至るまでピカピカで、石ころ一つないほど安全だった保育園は一階部分が完全に水没していた。
そして転落事故防止を謳うハーバー12の保育園に二階なんてものは存在しない。
生存者の行き場は限られていた。
「どなたか!! どなたかいらっしゃいませんか! 生きている方!」
和尚の怒号を追って敷地に入った俺達が目撃したのは、十体を超えるキリコの群れだ。
こりり、こりりり、と哀れな犠牲者が肋骨の檻で踊り、鳴いている。
取り残された園児たちは屋上に避難しているようだった。
彼らにとって僥倖だったのは屋根の構造だ。
ねずみ返しなどと称される、庇が大きく突き出した傘型の屋根。
その強靭な握力で壁面を登ることすらできるキリコだが、奴らの指先には吸盤がついているわけじゃない。
庇に張り付いて移動することはできないので、必然的にロッククライマーのような難儀を強いられている。
奴らは雲梯を移動するようにぎこちなく屋上へ近づくが、それを阻む一つの影があった。
「誰!? 生きている人ですか!」
ちらりと屋上に誰かの姿が映る。
園長と思しき中年の女性と、それを護るように立つ一人の女子だ。
肩まで届く黒髪を赤いホオズキの髪飾りで束ねた、すっきりした顔立ちの女子高生。
濃紺のセーラー服に黒タイツなんて装いは本職の高校生だろう。
彼女は板切れと長い箒を組み合わせた、トンボを思わせる得物を手にしている。
虫かごの網目に爪を出す甲虫を叩き落とすかのように、屋上を行ったり来たりしながらキリコをぼちゃぼちゃと海に退けさせている。
「気を付けて! 今落ちたのがそっちに行きます!」
ホオズキ子の凛とした叫びの通り、保育園に登っては落ち、登っては落ちを繰り返すキリコの群れがこちらを見やる。
海に浮かんだ頭蓋骨も、ろくろに乗った粘土のごとくゆらりとこちらを向いた。
「そうです! こっちだ! こっちに来なさい!」
作務衣姿の和尚はオールを持ち上げ、シュートを決めたホッケー選手よろしく上げ下げした。
ようやく追いつきかけた俺はすぐさまモップを前方の道路に突き立てて急停止し、つんのめりそうになる。
キリコ達は新鮮な人間を前に、こりこりこりこり、と腹の楽器を鳴らして喜ぶ。
「おいコラ和尚ォ!! 血迷ってんのか!」
オールでハゲ頭をぶん殴り、そのまま餌にしてやりたい衝動を何とか堪えた。
「ど、どうするんだよこの数!」
「良かった……こっちへ来ます」
「何も良くねえよこの……ハゲ!」
ほっと胸を撫で下ろす和尚の脳天目がけて俺はオールを振り上げた。
鶚が止めなければ本当に殴殺してやるところだった。
「待ってカラス」
ひゅんひゅんひゅん、と何かが風を切る音がした。
見上げればホオズキ子が何かを振り回している。ロープに繋がったそれは勢いよく宙を舞った。
人間の腕だ、と俺の脳が認識した次の瞬間、それが海面を叩く。
ぱしゃ、という軽い音がした瞬間、キリコ達は命じられたかのようにそちらを見る。
屋根に登ろうとしていた奴は手を離して落下し、バラバラになって海面に浮かぶ。
もう俺達まで数メートルの距離に迫っていた『浮きキリコ』までもが落下した腕の方へ流れていく。
「早く! こっちの廊下から屋上に出られます!」
屋上には数人の保育士と園長らしき年配の女性、それに二十名弱の子供が居た。
女ばかりの保育士は明らかに若い。下手すると俺たちと同年代だ。
――――子供、産んだことあるのだろうか。
(たったこれだけ……?)
俺の知る限り、この保育園にはもっと大勢の保育士が居たはずだ。
当初は少人数で経営していたらしいが、島内へ進出した企業の女性従業員からクレームがついてわざわざ増員したらしい。
女の力は偉大だ。
が、目の前には明らかに若手と思しき保育士しかいない。
「……まあ、見捨てるよね。他人の子供なんだし」
鶚が冷ややかに呟いた。
「だとしてもここまで大っぴらに逃げ出すか? 後で大変だろ。責任とか色々」
「安い給料のために自分の子供見捨てる方が鬼畜じゃない?」
それに、と鶚は鼻を鳴らす。
彼女が一瞥を寄こしたのは屋上の縁だ。
その向こうから、ぶちぶち、むちっむしっという肉裂き音が聞こえて来る。
「死人に口なし、だよね」
「……」
子供が二十人弱。
適切な大人の誘導無くしてキリコから逃げ遂せることは不可能だ。
「はい。みんなお兄さんにちゅ~~~もぉ~~~~く!!!!」
パンプキン飾りを持って来た和尚は誰よりも先に園児たちの元へ駆けつけた。
作務衣にハゲ頭という特徴的な出で立ちに、園児たちの視線が集中する。
「みんなもう泣いてないかな? つるつるのお兄さんが助けに来たよ!」
長身の和尚は子供達の目の高さまで身をかがめることができない。
なので、四つん這いになるような形で禿頭を園児たちに向ける。
人類にはそういう本能があるのだろうか。
青い帽子やスミレ色の帽子をかぶった園児たちは恐る恐る和尚の禿頭に手を伸ばし、つるりつるりと撫でている。
よほど気持ち良かったのか、撫でた子の何人かは飽きることなく和尚にくっつこうとしている。
「……よくやるね」
鶚は呆れたように呟いた。
彼女は屋上へ続く鉄製のドアを見やる。
「大丈夫かな、あれ」
「大丈夫です。子供たちが登って来れないよう、施錠は厳重になされています」
硬質な声が響いた。
黒髪黒セーラー黒タイツのホオズキ子だ。
胸元のリボンは白。
「救助隊の方、ではないですよね」
彼女は女武者を思わせる凛然とした表情に、微かな失望を浮かべていた。
「残念だけど、違う」
鶚の言葉に彼女はうつむいた。
ホオズキ子のすぐ傍にはまったく同じ制服に白いカーディガンを合わせた女子が居た。
リボンは黄色で、手首を天然石のアクセサリーが飾る。
ゆるゆるとした栗色の髪とは裏腹に、彼女の目つきは俺達を値踏みするように動く。
――――話しかけない方が良さそうだ。
それからもう一人。
俺は極力その子を意識の外に追い出すようにしていた。
なぜならその子は膝から下を持たず、電動式の車椅子に乗っていたからだ。
幸薄そうな顔立ちのその少女もセーラー服を着ている。リボンは黄色だ。
ミディアムロングの黒髪は片側でまとめられ、束ねられた毛先が右の鎖骨に触れている。
耳には薄紅色のイヤーカフが二つ並ぶ。
「……ごめんなさい」
「!」
俺の不安を見抜いたかのように、薄幸そうな子は薄笑みを浮かべる。
まるで海外のドキュメンタリー番組に出て来る「かわいそうな子」を具現化したかのような女子だ。
「ごめんなさい……」
今にも泣きだしそうな顔を見、俺は数歩後ずさる。
こんな時、どんな言葉を掛ければいいのか俺には分からなかった。
「別に、何も悪くない、だろ」
幸薄そうな子はなおも微笑む。
自分が子供以上に足手まといだと痛感している人間の顔だ。
これから自分を助けるであろう俺に対して、先んじて詫びを入れている。
きっと自分は迷惑をかける、と。
その気持ちの先回りはキリキリと俺の胃と胸に締め付けるような痛みをもたらした。
気を抜けば薄らいで消えてしまいそうなほどの儚い存在感に俺は目を離せなくなる。
「あー……カラス」
「え?」
「カラスだ、俺。カーって鳴くカラス。名前な」
別に話し続ける必要はなかったが、この子の悲壮感は心臓に悪い。
少しでも気を紛らせておきたかった。
「美羽です。美しいに羽でミハネ」
「ミウって読むんじゃないのそれ」
「よく言われるんですよ。でも母がおばあさまにダメだって言われたらしくて」
「マジか。俺もキラキラなんだけどな」
「え? どんな名前なんですか?」
「内緒だ」
美羽はくすぐられたかのように微笑んだ。
花も恥じらう、とはよく言ったもので、楚々とした彼女の仕草には俺もどきりとする。
どきりとしたが、少しだけ安堵していた。
この子は笑ってくれた。
俺は今、この子の惨めな人生にほんの少しだけ喜びを与えてやれたのだ。
だから。
――――いつかこの子を見殺しにする時、少しは罪悪感も薄れるだろう。
視ればホオズキ子は新たな人間の腕を園の敷地のできるだけ遠くに放擲するところだった。
ねえ、と鶚が口を開く。
「どうしてそれが囮になるの?」
「……あのガイコツは血液に反応します」
「!!」
思わず俺も振り返る。
「待って。私たち、怪我なんかしてないのに襲われたんだけど」
「優先順位の問題だと思います」
ホオズキ子はトンボを担ぎ、いつでも、どこへでも駆け付けることのできる体勢を崩さない。
「四肢が欠損するほどの怪我をしていると最優先で攻撃されます。その次が失血している者。最後が無傷の人間」
ああ、とホオズキ子は付け加える。
「もちろん、骨がついていることが前提です。肉の塊を投げたり袋詰めにした血液を使っても囮になりません。血の匂いがする場所には骨がある、って判断してるのかも」
「試したの?」
ホオズキ子はきゅっと唇を真一文字に結び、屋上の硬い床へ視線を落とす。
彼女の手には拭いきれないほどの血液とアンモニアの匂いが染みついている。
園長も、保育士たちも、園児も。
よく見れば皆、ホオズキ子から距離を取っていた。
「……知りたくなんか、なかった」
「……」
「あいつらは悪魔です。子供も、大人も、本当に無関係に……」
今更だが、俺はこの辺りの海が異様に塩辛い匂いを発していることに気づいた。
それに色も妙だ。
この辺りの水は色が濃く、より濁っているように見える。
もしかすると水底には肉塊が――――
「カラス。鶚」
和尚は一人の子供を片手で抱き、一人を背負い、一人の手を握っていた。
抱かれた子は人差し指を含み、和尚の胸元に頭を預けている。
「朗報です」
「茶柱でも立ってたのか」
「冗談言わないでください」
和尚の穏やかな反応に、おや、と俺は不審を覚える。
妙にメンタルが落ち着いている。
「レスキュー隊が来ているそうです」
「え」
「よっしゃ!」
俺は快哉を叫んだが、保育士たちは微妙な顔をするばかりだ。
園児たちや女子高生も同様で、何だか自分がひどく恥ずかしいことをやってしまったかのように錯覚する。
「重要なのは順番です」
その時になって初めて最後の少女、白いカーディガン子が口を開いた。
冷淡な彼女の声を聞いただけで園長や保育士が委縮する雰囲気が伝わり、俺は違和感を覚える。
(……?)
「私たちは県境の十三鷹学園高等部から来ました」
「だろうね。制服、見覚えあるし」
「トミタカ?」
鶚が俺の方をちらりと見、告げる。
「旧家のお嬢様学校。芸能人の子供が門前払いされるぐらい徹底した血統主義で有名」
「ええ、ん! んん!」
ホオズキ子が咳ばらいをした。
それ以上は許さない、と鋭い瞳が告げている。
「命には序列があります」
カーディガン子は太陽が東から昇ることを確認するかのように問うた。
「今のうちに決めてくれますか? 誰が私たちと一緒に来るのか。そして誰がここに残るのか」
こりりり、と食事を終えたキリコが俺達を見上げていた。