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a tempo(元の速さで)

 

 ぼろぼろ、ぼろろ、と。

 靴の下のコンクリが砂岩のように砕けて落ちる。

 粉となって舞う灰色。


 ピラミッドを建造した古代の奴隷のごとく、車を曳くキリコがじりじりと近づいて来る。

 本土側からもハーバー12側からも。

 ぴし、ぴしし、と橋全体が悲鳴を上げる。


 カウントダウンは始まっている。


「下ろして!!」


 俺にしがみついた切鴇美羽きりときみはねが喚いた。

 切断された両腿をばたつかせ、俺のキリコを奪おうともがく。


「嫌だ! イヤ! 死にたくない……!」


 とうとう彼女は涙で顔をくしゃくしゃにしてしまった。

 だが離すつもりはない。


「離したらお前、キリコを本土に連れてくだろ」


「つ、連れて行か……行く!」


「……」


 俺はじろりと彼女を睨んだ。

 きっと冷血動物にでも見えたのだろう、ひっと美羽は恐怖に呻く。

 だが実際のところ、俺の顔面からは血の気が引き、尻穴はツララを突っ込まれたように冷え切っていた。


(死にたくねえよ……! 俺だって……!)


 歯の根が合わないし、膝もさっきからガタガタ震えている。

 橋そのものの振動に紛れていなければ美羽はとっくに俺のチキンっぷりに気づいていただろう。


(お前のことなんか放っといて逃げ出したいんだよ、こっちだって!)


 だがそれを口に出すことは許されない。

 ちょっとでも弱気な言葉を口にすれば俺はそのまま流されてしまう。

 なぜなら俺は狡いから。


 嘘でも格好をつけないと今にも逃げ出してしまいたくなる。


「何で!? 何でカラスさん私の邪魔するの!?」


 彼女は俺の骸骨脚を指差した。


「凄く高く飛べるでしょ? 気持ちいいでしょ? 今なら何でもできそうでしょ?!」


 美羽は口角の吊り上がった不吉な笑みを浮かべていた。


「私はずっとずっと我慢してきたの!! お父さんのこともお母さんのことも家のこともぜんぶ!! それがやっと自由になったの!! なれそうなの!!」


 キスされてしまいそうな距離まで顔面を近づけ、彼女は歯を剥いた。


「好きなことやって何が悪いの!!」


 美羽の叫びをスイッチに。

 橋全体が上下に揺れた。


 震度4ぐらいの揺れ。

 ごごご、と石臼を挽くような轟音。

 足元がぐらつく。

 骸骨がクラブの女のように腰をくねらせて踊る。



 橋が。

 氷山のように崩れていく。



「!!」


 イグロゾアを介して伝わる崩壊の気配に俺は車体を力強く蹴った。

 ハンミョウのように弧を描いて跳ぶと骸骨共は神輿を囃す群衆のように両手を上げる。

 こりこり、こりりと骨が鳴る。


 この骸骨共と心中する気なんかない。

 俺はきっちり生きて帰り、きっちり楽しい人生を送る。


 がん、がしゃ、とボンネットを蹴り、ルーフを蹴る。

 赤い車を飛び越える。キリコをかわす。青い車を蹴る。キリコをかわす。


 ぴしりと足元に亀裂が走る。コンクリートがビスケットのようにひび割れる。

 より強く車を蹴る。

 キリコが脚をもつれさせる。

 その頭上を飛び越える。自動車の八艘跳びだ。


(あ……)


 気付き、俺は自嘲する。

 ハーバー12側へ逃げて来てしまうな。

 このまま本土の方へ逃げていれば助かっていたのに。


 ――――馬鹿だな、俺は。


 そんなことを考えながら俺は美羽の問いに答える。


「……まあ、別に好きなことやって悪くはないけどさ」


 首に腕を巻きつけ、乳でも吸うような体勢で俺の胸に顔を埋めていた美羽がこちらを見上げる。



「それ、お前の力じゃないだろ?」



 不眠不休の液体生物。

 人間離れした筋力。

 ――――どれも人の手には余る代物だ。


「今どんなに浮かれてても、いつかお前、追いつかれるんだぞ」


「!!」


 俺の言葉をどう誤解したのか、美羽は後方を見やっていた。


「お、追いつかれる!? 何に? どこ!?」


「違う。そっちじゃない」


 お前の人生が、親と正面切って喧嘩もできなかったお前自身に追いつかれるんだよ。

 化け物を味方にしようと、社会が滅びようと、惨めな自分を知ってる奴らを抹殺しようと。

 自分の無能さからは逃げられないんだよ。


 どうして笑ってくれないの、じゃねえよ。

 お前こそちゃんと笑えよ。

 ――――自分の情けなさを。


 吐き出そうとした言葉が呼吸で乱れ、美羽に届かない。

 キリコの脚は不眠不休でも美羽を抱える上半身は生身だ。

 そろそろ腕が限界に来ている。


 背後では崩落音が続いていた。

 少しでも足を止めれば崩落に巻き込まれる。

 今は口を閉じ、走るしかない。


 びっしょりとインナーに冷や汗が滲む。

 橋の入り口まではあと100メートルほどだ。


 あと何分持つだろう。


 5分ぐらいだろうか。

 5分。

 5分でいい。

 頼むから。


 神様。


(300……299……298……)


「美羽。捕まっ」


 俺は神様を信じていないので。

 当然、祈りは天に届かない。


 がつんと着地した車が傾ぎ、真下へ働いていた重力が斜め後方へ。

 視界は斜め上の青空へ。


「うっ!?」


 ずるずるとキリコの脚が滑る。

 生身の脚は滑るどころかあっという間に宙を踏む。


「くっ、く、くっ!!」


 キリコの脚を闇雲に伸ばし、ウエハースのような橋の床版を引っ掴む。

 イグロゾアの助けを得た脚はもはや三本目の腕だ。

 手の五指とまったく同じ感覚で広がった右脚の骨がしっかりと灰色のコンクリを掴んでいた。


 橋にも当然、骨がある。

 鉄の骨、いわゆる主桁しゅげただ。

 支承と橋脚の助けなくして鉄骨は水平に伸びることなどできない。

 俺の靴から数十センチ下で、むき出しの主桁がギギギと軋み、曲がっていく。


「きゃあああっっっ!!!!」


 とうとう美羽は悲鳴を上げた。

 灰色の粉塵が巻き上がり、欠けたコンクリ片が鉄骨を転がって落ちていく。

 遥か下方ではぼしゃぼしゃとシチューにジャガイモを落とすような音。


「はっ……はあっ!!」


 心臓が止まっているのではないかと思うほど指先が冷えている。 

 離せば死ぬ。

 離せば死ぬ。


「! 止まった!」


 鉄骨は軋むのをやめた。

 そしてコンクリの崩壊も停止する。


 右脚一本で橋を掴んだ俺は逆さ吊りになっていた。

 胸に美羽を抱きかかえ、そして俺の視界には――――


「っ」


 ジェットコースターのようにひん曲がった鉄骨。

 未だ噴煙を纏うそれは灰色の海へ続く地獄の弧を描いている。


 あっという間に頭へ血が昇り始めた。

 視界が薄れ、顔がぱんぱんに腫れていくのが分かる。


「か、カラスさん登って! ねえ!」


「分かってる! 喚かなくても――――」



 こりりり。



 顔を上げた俺は落ち窪んだ眼窩を見つめていた。

 キリコだ。

 一体の骸骨が今、崩れゆく橋の崩落部にひょっこりと顔を覗かせている。

 その衣服は何の因果かブレザーだった。

 かつて美羽が身に着けていたものと同じ、十三鷹とみたか学園のブレザー。


「イグロゾア!」


 俺にしがみつく美羽が歓声を上げた。


「来て! ねえ! こっち!」


「やめろ美羽!」


「何で!? 助かる為だよ! ほら! こっち!」


 美羽は俺の首から片腕をほどき、骸骨の化け物へ手を伸ばした。

 それだけで俺たちのバランスは崩れかけ、ぶらぶらと左右に揺れる。

 くっと右脚に力を込めるが、加減が分からない。

 強く掴み過ぎればコンクリウエハースはボロボロになりかねなかった。


 地面と平行なコンクリの橋は俺の数メートル上方で滑り台へと変じていた。

 ずるりと這い寄る骸骨は斜面へ至り、そのままずるずると滑り落ちて来る。


「そう! こっち! おいで!」


「やめろ!」


「やめない! 私はもう、どこにも――――」


 俺の首から片腕を離した美羽がイグロゾアへと手を伸ばす。

 滑り台を下る骸骨は見る見る内に俺達へ近づき――――



 がつっと鉄骨に弾かれて宙を舞った。



「えっ」


 美羽の手が空を掴み、それを嘲笑うようにして骸骨が海へ飛ぶ。

 障害物の認識を着用者に委ねるキリコは鉄骨の僅かな凹凸に気づけなかったのだ。

 そしてイグロゾアは美羽の手を掴むこと叶わないまま、音もなく海へ。


「あ」


 ずるん、と美羽が俺の腕から滑り落ちる。

 彼女は咄嗟に俺の首を掴んだ。


 少なくとも体重45kgの美羽が。

 俺の細い首を。


 ――――全力で。


「ギひっ!?」


 喉仏を潰され、気道を締め付けられ、意識が飛びかける。

 頸椎がぴきぴきと軋み、視界が白む。



 俺は死を覚悟した。



 が、次の瞬間には解放されていた。

 急激な酸素の流入に激しくむせ込み、目に涙が浮かんだ。


 血液と酸素が通ったことで死にかけていた脳みそが動き出す。

 俺は解放された。


 ――――つまり。


 逆さまになった俺は海面を見上げる。


 哀しそうな微笑を浮かべた切鴇美羽が灰色の空へ落ちていった。








 少女は悲鳴も残さず白い泡となって消えた。


 追いかけることはできない。

 梟雲の時と違い、高さは20メートルを超えている。

 追えば死ぬ。


 耳が音を認識しなくなっていた。

 世界が色を失い、右脚がコンクリを離しそうになる。

 湧き上がる虚無感が重力と共に俺を頭上の海へ引きずり込もうとする。


「っ!」


 すんでのところで踏みとどまり、上半身を引っ張り上げる。

 皮肉なことに女子高生一人分の体重が消えた今、脚で掴んだ床版が崩れる心配はなくなっていた。 


「えほっ! うぇほっ!」


 橋へ這い上がった俺は激しくむせ込んだ。

 そのせいだろう。

 熱い涙が止まらない。

 鼻水も止まらない。


「~~~~っっ!!」


 俺がもっと上手に諭してやれていれば。

 もっと女の子をあやす術に通暁していれば。

 いや彼女を受け入れてやっていれば。


 ――――助けられたんじゃないか?


「っ……!」


 顔が歪み、情けない泣き顔を形作る。

 俺がもっと賢ければ。

 いやもっと強ければ。


 助けてあげられたんじゃないか?


 ボロボロと流れる涙が頬を濡らす。

 俺はこんな惨めさと一生付き合って行かなければならないのか。


 何が自分の情けなさを笑え、だ。

 お前はこの状況で何を笑――――


「!!」


 地響き。

 頭より先に身体が動いた。


 美羽という重石を捨てた俺の身体はあっという間に橋の入口へ。

 振り返ればそこには断絶された橋と今もなお軋り続ける鉄骨のレール。


 キリコはすべて海へと没した。

 結び付けられた奴らは自由には動けない。

 この様子だと一体で落ちた連中も瓦礫に巻き込まれているだろう。


「ハァ、ハー……! ハ、ヒー!」


 呼吸がおかしい。

 喉を締め付けられたせいか、それとも体力が限界に来ているせいか。


 がっくりと膝をつき、両手をつく。

 手と手の間に汗がぼたぼたと落ちる。


 衣類の散乱したその土地も揺れていた。

 ハーバー12はもう間もなく海へ引きずり込まれてしまう。

 目の前の橋も根元までボロボロに沈んでしまったのだからこの島は跡形もなく――――



 ――――待て。



 目の前で橋が切れている。

 目の前で。


 この橋脚の真下には和尚たちがいる。


「っ!」


 立ち上がり、がくんと膝が折れそうになる。

 両手を両膝に当てる。

 中腰のまま踏ん張り、また立ち上がる。


「くそっ、くそっくそっ!!!」


 キリコ脚一本で斜面を転がるように駆け下りる。

 いや、実際途中から俺は横転していた。

 もう生身の脚が限界に来ているのだ。


 海岸ギリギリのところで踏みとどまり、海に臨んだ俺は気づいた。



 ――――クルーザーが消えている。










「和尚っっ!!?」


 辺りにはゴミの山。

 それにこれまで何度も街で見かけた真っ赤な楓。

 人間によって植樹された楓が葉を散らし、無機質な海面を彩っている。



「和尚! 梟雲!! 鶚ッ!!」



 誰もいない。

 誰も。


 カフーも。

 鴨春も。

 キリコ人間ですらも。


「っ! まさか」


 俺は遥か前方にちらりとそれを認めた。

 鯨の腹のように真っ白な何かが今まさに灰色の波間へ消えて行こうとしている。


 ひっくり返ったクルーザーだ。

 船体の真上にあるのは俺が先ほどまで立っていた橋。

 さああっと総毛立つ。


 俺は自分でも気づかない内にキリコの処理に時間をかけ過ぎていたのだ。

 そうこうしている内に戦闘集団はクルーザーごと岸を離れ、あんな場所まで。


(ほ、放り出されたのか!?)


 崩落の余波と沈降による振動で2メートル近い波が立っている。

 高低差4メートル近い上下震動でゴミ山がシェイクされ、泳げるはずのイグロゾアまでもが波に揉まれている。


「くっ、そ!! おおい!! おおおおおおいっっっっ!!!」


 生け簀がすぐそこを漂っているのを認め、俺はすぐさまそれに飛び乗る。

 櫂も無事だがそれは使わない。


 使うのは脚一本。

 いや六本。


 六節の脚を美羽のように二股に分かち、イカダに取りついた俺はめちゃくちゃにバタ足を繰り返した。

 どばばば、と白波が立ち、赤い楓を巻き込み、生け簀がぐんぐんと前へ進む。


 波は壁となって俺の視界を塞いだ。

 妖怪塗り壁のような高波。


 怖い。怖い怖い怖い。

 本能が竦み上がる。

 全てを見捨てて逃げろと要請する。

 今なら一人だけでも逃げられるぞ、と。


(っ!!)


 だが逃げない。

 俺は善人じゃないが畜生でもない。

 人は嫌いだが人がいないと生きていけない。

 俺の惨めさを薄めてくれるぬるい泥沼でないと生きていけない。


 灰色のビッグウェーブに飲み込まれ、生け簀諸共俺の身体がひっくり返りそうになる。

 ここで俺は攻めへ転じる。

 いや、攻めじゃない。


 守るんだ。前へ。


「うらああああっっっっ!!!!」


 無謀なサーファーのように脚をばたつかせ、高波を突き破る。

 分厚い海水の膜の向こうには激しい落差が待っており、ふっと一瞬浮遊感すら覚える。

 数メートルの高低差。

 落下の衝撃で生け簀を握る手が緩みそうになる。

 ゴミの山が顔を叩き、楓が張り付く。


「――――! ――――!」


 喉が裂けるほど喚き散らす。


「! ――――す!!」


 逆巻く波の轟音がすべての音をかき消していたが、確かに女の声が聞こえた。

 濃い鼠色の波の先に小さなイカダがの破片が浮いている。


 そこに小さな手が。


「鶚っ!?」


 ビート版に見立てた生け簀を押す。

 ぐんぐんと押す。


 やがて見えたのは一際多くのゴミが浮かぶ場所。

 この世の果てのような海に崖定鶚が浮いていた。


「……――――すっ!! ――――らすっ!!」


「喋るな水飲むぞ!!」


 ゴミをかき分け、ゴミをかき分け、楓の山に頭を突っ込んだ俺はかろうじて鶚の元へたどり着く。

 だが彼女は既にイカダの破片から手を離すところだった。


 シンクロナイズドスイミングのように白い手のひらが海面に立ち――――


「危なっ!!」


 ギリギリのところでそれを掴む。

 掴み、引っ張り上げ――――られない。


 一際高い波が彼女を攫って行ったのだ。

 小さな身体が波に揉まれ、灰色の水のカーテンの向こうへ。


「おい! おい!」


 がぶっ、げぶぶっと鶚は大量の水を吐き出していた。

 もう何分も持たないだろう。


 キリコ脚で水を蹴った俺は咄嗟に手足の動きを逆さにした。

 つまり、逆手で生け簀に捕まり、六脚をぐんと直線にして伸ばしたのだ。


 六倍のリーチ。

 先端は五指にも等しい自由度の骸骨手。


 がっしりと五本指の残る方の手を掴んだ俺は彼女を引き寄せようとし、すんでのところで踏みとどまった。

 どっどっどっとエンジン音がする。

 まさかカフーか、と辺りを見回すが奴の姿は無い。


「―――す! カラスっ待ってください!」


 はっとして鶚のいる方を見る。


 和尚だ。

 俺は波の向こうに作務衣姿の和尚と彼に支えられた梟雲の姿を認めた。


「和尚っっ!!」


「カラスっっ!! くっ、ぐあっ」


 驚くべきことに和尚はこの荒波の中にあって人間一人を抱えたまま立ち泳ぎしていた。

 パワータイプにも程があるだろう。


 だが距離が遠すぎる。

 それにもう波が引き始めている。

 俺達に恐れをなしているんじゃない。攻撃の手を緩めているわけでもない。

 次なる波で完全に俺たちを仕留めるために今、引いているのだ。


「和尚! 和尚!!」


「カラス!! 鶚をっ、鶚を起こしてくださいっ!!」


 切羽詰まった声。

 おそらく和尚も限界なのだ。

 体力もそうだが、片目が見えないハンディキャップが大きすぎる。

 彼の視界は俺の半分しかない。

 もし俺を見失えば次に見つけられるとは限らない。


「鶚っ!! 鶚起きろっ!!」


 キリコの脚にギリギリと力を込める。

 生け簀が暴れ出し、俺はプールサイドに捕まる小学生のように腕を潜り込ませる。


「和尚をっ和尚に手を伸――――」


 意識を取り戻した鶚は。

 瞬時に状況を見て取ったらしい。


「……」


 その口元に逡巡が。

 その目に怜悧な光が。



 俺は海水の冷たさを思い出す。

 氷よりも冷たい灰色のうねりが全身の穴という穴から侵入し、俺を骨の髄から凍らせていく。



 ただならぬ空気を前に和尚が息を呑むのが見えた。

 それでも彼は止まらない。

 力なくうな垂れた梟雲の手を掴み、必死に片腕で水をかく。


 鶚までもう三メートル、二メートル。

 俺は吠えた。


「鶚っ!!」


 和尚もまた吠えた。


「鶚っ!!」


 ずぶ濡れでゴミまみれで顔には楓を貼りつかせた崖定鶚。

 彼女は――――



「ゴメンね和尚」



 冷笑を浮かべ――――



「……五分の一しかなくて」



 四本指の欠けた片手を差し出した。



 がつっと容赦なく和尚が握った瞬間、その指がぽきりと折れた。


「いいィィ痛ぁっっ!!! くくくびってくびっ手首掴んでえっ!!」


「くっ!!」


 和尚は波に揉まれながらもどうにか鶚の手首を掴む。

 だが子供のような鶚の手首はあまりにも細い。

 下手をすればそこもへし折られる可能性があった。


「あ、脚の方が良かったのでは!? 鶚! こっちに脚を」


 かあっと顔を赤くした鶚が吠える。


「今日パンツ穿いてないの!!」


「まっ、マジかよ!」


 おほっと手に力を取り戻した俺を鶚が睨みつける。


「あんたが濡らしまくったせいでしょ!!」


「おおお和尚!! 代わってくれ!」


「できることならそうしていますっ!!」


「おっ、ぱいのゆび! あとでぜんぶおる!!」


 いつの間にか目を覚ました梟雲が殺意のこもった眼で鶚を睨んでいた。

 怒りで火が点いた彼女はキリコの腕を失っていた。残る腕はへし折られており、和尚が必死に彼女を抱きしめている。


「違うの! き、気の迷いだったの!」


 ぶいい、ぶおお、とまたモーター音。

 どこだ。


 辺りを見回した俺は気付く。

 海上を漂う真っ黒なシルエットに。



 咲酒鴨春。

 幸運にも半畳ほどの浮材を掴んだ彼女が近くに浮いている。



 いや、近い。近すぎる。

 もう生け簀からほんの数メートルの場所だ。


 彼女は静かに俺に近づいていたのだ。

 正確には俺ではなく生け簀にだ。


「……!」


 ゴミだらけの黒髪からはホオズキの髪飾りが失われていた。

 片目に青あざを作り、鼻血を流し、それでも彼女は悪辣で強靭な意思を光らせている。


(ヤバっ……!)


 あろうことか。

 波が彼女に味方した。


 俺達は緩やかな波によって持ち上げられ、彼女の方へ引き寄せられる。

 ここで俺は自らの過ちに気づく。


 両腕で生け簀を掴み、伸ばしたキリコ脚で鶚を掴む。鶚の手首を和尚が掴み、更に梟雲を抱いている。

 この状況で彼等を引き寄せられるのは俺の脚元までだ。


 安全地帯である生け簀の上へ導くにはまず俺自身が這い上がらなければならない。

 美羽を抱きっぱなしで。

 生け簀に捕まりっぱなしで。

 既にぱんぱんに張った腕の筋肉だけで。


「ぐっ……ちくしょっ!!」


 骸骨脚を畳むことはできた。

 数珠つなぎとなった俺達の距離は人間同士のそれへと戻っている。


 だが俺が生け簀に這い上がれない。

 腕力が足りない。

 筋肉が足りない。


 だというのに、鴨春はぐんぐんとこちらへ近づいて来る。

 最悪なことに彼女は抜き身を掴んだまま浮材に上体を預けている。


「大丈夫です落ち着いて!!」


 和尚だ。


「彼女は既にキリコの脚を失っています!! 片脚ではここまで泳ぎ――――」


 ざぶう、と緩やかな波が俺達を彼女の方へ。

 もうほんの2メートルほどしか離れていない。


 俺の目には濡れた黒髪を梟雲と同じように乱した彼女の顔色までもが見えていた。

 真っ白な顔面。

 そこに秘められた静かな狂熱。


「ふ、ふふっ」


 奴は笑う。

 俺たちか、あるいは自らの幸運を。


「言ったでしょう。人は……掴み取らなければならないと……! 掴み取る者こそが」




「しゅーーーーーーーんっっっ!!!」




 どどどどっと波を泡立たせるエンジン音。

 鴨春の更に向こうへ目をやった俺が見たのは、黒髪の女子高生より大きな浮材に捕まった褐色半裸の男だった。


「おおおおいっっっ!!! カハハハハッ!! そら見たことかよ!! 人生って奴ァまさに喜劇だ!」


 古雅色火楓こがしきかふう

 彼の片腕には骸骨の腕が健在だった。


(マジか……)


 俺の腕から更に力が奪われる。

 奴が強いとは思わない。

 奴が優れているとは思わない。

 だが確実に鴨春より厄介な「何か」を持っている奴だ。


「カフー! 無事でしたか!」


「ったりめえよ!! こいつァまさに夜明け前の闇って奴だ! 知ってっか? つまり」


衒学的ペダンチックな語りは後で聞きます」


 鴨春は瞬く間にドーナツ状の生け簀にたどり着いた。

 俺の掴む側と逆側にしがみつき、片腕を伸ばす。

 どこにそんな力が残っているのかと思う程の目ざましいアクションだった。


「さあ、手を!!」


「おおよ! 助かるぜ! なあ、みんな!!」


「みんな?」



 カフーの白い腕がざぶざぶと海上に姿を現す。

 その威容に誰もが息を呑んだ。


 まるで地引網の綱のように。

 ぴんと張ったキリコの腕は十メートル近い長さを保持していたのだ。


 ブドウの房かアリの巣のように枝分かれした骸骨の腕。

 その枝一つ一つにキリコ人間がくっついていた。

 ある者は脚を。

 ある者は腕を。

 カフーの腕という竜骨にぴたりとくっつけ、息も絶え絶えに海上へ顔を出す。


「なあ見ろよシュン!! 俺達ァ生き残った!! カハハハっ!! そこのハゲにも黒髪ねーちゃんにも負けてねえっ!!」


「……」


「どうって事ァねえのさ! なあ、とぅら、とぅ、ふふ、はーってな!! カハハハっ!!」


 波間にカフーはなおも笑っていた。

 それにつられ、生き残ったキリコ人間たちも蕾がほころぶようにして笑みを浮かべる。


 鴨春は口を開かなかった。

 開かないまま、くるりと反転する。


 先ほどの俺と全く同じポーズだ。

 逆手で生け簀を掴み、片脚を伸ばすポーズ。


「お? どうしてえ!?」


「すみません! 私にもゾアを!」


 鴨春がそう叫ぶとカフーは陽気に笑った。


「ああ、何だそんなことかい! おおよ! ほら」


 ぞろろろろ、と白い骸骨が海上をうねり、鴨春の脚へ近づく。


「使」


「ありがとう」


 カフーが吠えるより早く、咲酒鴨春はイグロゾアを奪い取った。

 ただし一体分じゃない。



 ――――カフーの従える全てのイグロゾアを、奪った。




「あ?」


 めきめき、ごききん、と。

 鴨春の脚に数百本のキリコ脚が集結する。

 生存者が一人、また一人と支えを失い、房を離れたブドウの粒のように波間へ、水底へ、消えていく。

 真珠のネックレスから芯を抜いたような様。

 一人、また一人。

 命の灯が絶望の悲鳴と共に海へ消える。


 それはカフーですら例外ではなかった。

 片腕を失った褐色の男は冷たい海に放り出され、あっぷあっぷともがく。


「がっ!? シュン! どうしてえ!? いけねえ!! そいつ返しやがれ! みんな溺れちまうっ!! 溺れちまうッッ!!」


 割り箸でミニチュア模型を組み立てる様を倍速再生したかのような動き。

 組み上がるのは城でも船でもない。

 人骨数十本を贅沢に用いた骸骨の騎士と骸骨の馬だ。


「シュ」


「私は常々思っていました。真に強く、美しい命の世界には――――カリスマは不要なのだと」


 カフーは訳が分からないとばかりに回転している。

 まるで洗濯機に放られたハンカチだ。


「分かるでしょう? あなたのようなカリスマは秩序を乱すんです。気高く強い命に満ちた世界に必要なのは波風を好む益荒男ではなく、静謐を求める女」


「う、ぐっ! シュン……シュンッ!!」


 カフーは片腕で波をかき分けながらなおも鴨春へ手を伸ばしていた。

 決して届かないその手を伸ばす行為は和尚のそれにも似ている。


「シュン!! 俺ァいい!! だがせめてっ……せめて俺らを信じてついて来た奴らをッ」


「不要です。本土へたどり着けば私の手の者がいますから」


「なっ!?」


「より強いユニットが約束されているのに有り合わせの駒を生かす必要はない」


 カフーは魚のようにぱくぱくと口を開閉させている。


「まあ、平たく言えば私の求める理想郷にあなたのように性格破綻した××××は不要なのです」


「こ、殺すのかい、俺を……!!」


 カフーは哀しそうにそう吠えた。

 おそらくはキリコによる自滅を狙ってのことではなく、純粋な哀願の情に駆られて。


「いいえ。殺すだなんてとんでもない」


 咲酒鴨春はくすりと微笑む。



「ゴキブリを踏み潰す時に殺意を抱きますか?」



 カフーの顔に絶望が過ぎった。


「どうしたんです? 人生は喜劇なんでしょう?」


 鴨春は最後に笑った。


「笑ったらどうです?」


「ァ……カ……」


 褐色の肉体が。

 新しきを求めた男が。

 灰色の海へと消えて行った。







「さて」


 生け簀に身を乗り上げた鴨春は俺を見下ろしている。

 彼女の足に連なる骸骨は既にちょっとしたモニュメント並みの巨大さを誇っている。


 ずぶ濡れのセーラー服。

 海藻のように垂れた黒髪。

 片手には抜き身。


 まるで魔女だ。


「人生は劇的。良い言葉ですね」


 鴨春は俺に向き直る。

 もはやいつ手が離れてしまうかも分からない俺へ。


「もっとも、永遠に誰かの脇役にしかなれない人生もあるのでしょうけれど」


「! おい」


「主役は私です」


「おい!!」


 俺が吠えると彼女は不愉快そうに俺を見下す。


「何ですか」


「後ろ、見た方がいいぞ」


 ふっと彼女は青紫の唇を歪める。


「そういうものを浅知恵と呼ぶんです」


「……」


 ぎらり、と刀が振り上げられる。


「もう一匹、虫を踏んでおきましょう」


 天を差す刀。

 そして――――




「おい」





 聞こえたのは野太い声。

 その正体を知るのは俺一人。


「お前が鴨春おうしゅんか」


 不意に現れたわけではなかった。

 俺は確かにホバーのエンジン音を聞いていた。

 それもさっきからずっと。


「ッ!!?」


 ばっと振り返った鴨春の目の前に居るのは。

 ダイバースーツのようにぴっちりした黒いインナーを身に着けた男。

 身の丈は2メートル超。

 ガチガチに固めた金髪のオールバック。


 ごつり、とホバークラフトから生け簀へ飛び乗る。


「なっ、誰だ貴様っ!!」


 男の存在感は鴨春をして心胆寒からしめるものだったのだろう。

 彼女は咄嗟に刀を振るう。


 が、巨躯の男の寸前で止めた。

 彼女は今、「殺意」を抱いたからだ。

 ゴキブリならともかく、明らかに自分より巨大な成人男性を前にすれば人間的な感情を抱くのは当然。

 勢いのままに刀を振ればイグロゾアが彼女自身を殺す。


「質問しているのは俺だ」


 とっくに本土へたどり着いた男。

 ――――俺の兄貴、鶏闘軍覚とりとうぐんかく


 彼は尻ポケットからくしゃくしゃになった写真を取り出す。


「お前がオウシュンか。十三鷹に頼まれて来た」


 兄貴は俺達には目もくれない。


「黒髪、制服、タイツに赤い――――ふむ? まあいい。それから――――キリトキ……ミウ? はどこだ。この写真だと脚がついているようだが車椅子だと聞いてる」


 俺の脳みそは生涯最高のスピードで回転した。


 十三鷹緋勾とみたかひこうだ。


 緋勾は鴨春と美羽を助ける為に兄貴を寄こしたのだ。

 だが彼女は携帯端末を失っているし、生憎とWEBも使用不能なのだろう。

 そこで写真が託された。


 出逢った当初、鴨春は特徴的な女だった。

 黒髪。黒制服。黒タイツ。赤い髪飾り。

 今のずぶ濡れの姿にすら一応はその片鱗を残している。


 だから――――


 振り返る。

 俺の仲間たちを。


 何の因果だろう。

 ハーバー12を覆っていた真っ赤な楓が今まさに「彼女」の黒髪に纏わりついている。


「兄貴ッッ!!」


 実弟の叫びにも兄貴は眉一つ動かさなかった。


「何だ、バン」


「そいつは鴨春じゃないッッ!!!」


 俺はすかさず「彼女」を示した。

 もう一人の黒髪の女。

 ――――墨下梟雲を。



「こっちが鴨春だっ!!」



 兄貴は冷ややかな視線を返した。


「……そんなわけがあるか。制服と髪飾りはどこだ」


「よく見ろ兄貴! 髪にホオズキがついてるだろ!」


 梟雲の髪には楓が貼りつき、髪飾りの様相を呈している。

 髪はずぶ濡れで乱れているが、凛とした顔立ちには鴨春に近いものが確かにある。


「……。制服はどうした」


「着てるわけないだろ! 何日経ったと思ってるんだよ! だいたい――――」


 俺は鴨春をちらりと見やる。


「本物の鴨春はいきなり兄貴に斬りかかるのか?!」


「……。十三鷹の名前を出せばすぐに話が通ると聞いていた。しかし、そうか。そいつがか」


 兄貴は写真をまじまじと見つめ、それから和尚に支えられた梟雲をじいいっと眺める。


「……写真写りが悪いな、お前」



 ぱききん、と骸骨の山が動いた。



 巨大な騎士のモニュメントが崩れ、バラバラと海面を叩く。

 その光景に兄貴が注意を向けた。


 その刹那、鴨春が近くに浮遊するホバークラフトへ目をやるのを俺は見逃さなかった。

 生け簀と違い、自力で動かせるホバークラフト。


 彼女が欲しがらないわけがない。


「ほお。でかいキリコだな。祭りでもやってるのか」


「……!」


 ぎらりと目を光らせた鴨春が刀を青眼に構えそして――――



 兄貴ッッ!!



 ――――なんて、叫ぶのが正しいのだろうが。


 俺はこう思っていた。


 ご愁傷さま、と。



「なっ!?」


 鴨春の斬撃をいともたやすくかわし、兄貴は彼女の片脚を掴んだ。

 ばだん、と引きずり倒される女子高生。


「何なんだお前はさっきから」


 明らかに苛立った兄貴の全身が岩のように肥大化する。

 肩に。

 腕に。

 胸に。

 脚に。

 背中に。


 イグロゾアが毟り取ってゴミのように打ち棄てた人間の血肉が、筋肉が盛り上がる。


「もたくた、もたくたと!!」


 手斧のように少女の身体を片手で持ち上げ、兄貴はそれを生け簀に振り下ろした。

 反撃はおろか反応すら許さない容赦の無さで。


 がづごん、と一撃で鴨春の頭部がかち割れる。

 ごじゃっ、と二撃で鴨春の顔面がひしゃげる。

 ばぎゃっ、と三撃で鴨春の頭蓋骨が砕ける。

 血しぶきが舞い、海面を叩く。


「なっ、なっ、なっおおおやめなさいっ!! やめなさ」


「鬱陶しい、ガキだ!! あ!?」


 兄貴はボロ雑巾と化した鴨春を片手で掴み上げ、膝を曲げて蹲踞の姿勢を取る。

 ぼちゃん、と刀が海へ没した。


「なまくらが。いつかのホストの方がよっぽど気合が入っていたな」


 ふん、と兄貴は鼻を鳴らし、鴨春の足首を掴む手を放した。

 どさりと生け簀に落ちた鴨春は、驚くべきことにまだ生きていた。

 血だらけの顔を板切れに押し付け、ナメクジのように這っている。


「ガ! ァァ……」


 兄貴は犬の糞でも見るかのように這いつくばった少女を見下ろす。


「わだ、しっ。わだしが私がっ、ァっ……! つつ、強い、強い、世界、人ヲっ」


「うるさい」


 兄貴は黒いブーツの底を鴨春の側頭部に当てた。

 黒髪と血液とその他諸々で顔を汚した鴨春は俺を見つめたまま苦し気に呻く。


「う、グガっがっ! づよ、っ、づよい、者だけろっ」


「しつこいぞお前」


 兄貴は最後に一言吐き捨てた。




「貴様のように弱い奴は死ね」




 ごぎゅん、という音と共に眼球がぼろんとまろび出た。

 兄貴は顔をしかめていた。

 もちろん、ブーツが汚れたからだろう。


「いかんな。……仕方ない。ミウとかいう奴を探すか」


 いや、と兄貴はハーバー12を見やる。


「あの調子だともう無理だな。帰るか」


「あ、兄貴ッ!!」


 手が白く冷たくなり始めていた俺は耐えられずに叫んでいた。

 ホバーへ乗り移ろうとしていた兄貴は蚊でも止まったかのようにぺしりと首を叩き、振り返る。


「何だ」


 このままでは兄貴は俺を見捨てるだろう。

 助けてはくれない。

 助けてはくれないのだ。


 だから――――


 だから、挑もう。


 目の前で平然と人を殺した兄貴に。



「ね、義姉さんに怒られるぞっ!!」



 俺の叫びに兄貴は不愉快そうに眉を上げる。

 赤の他人ならこの時点で半殺しだ。


「何ィ?」


「はっ初めの日に! ほ、ホームページ、からっ! 問い合わせフォームで連絡を入れたっ!」


「……」


「兄貴のコーヒー屋の問い合わせフォームだ! あれ、義姉さんの携帯にも自動転送されるだろっ!? 届いてるはずだ! 俺が助けてって言ってることが!!」


「……お前」


「義姉さんは俺が困ってるのを知ってる!! 兄貴、そのまま帰ったら弟を殺したって見損なわれるぞ! いいのかよ!!」


「ハッタリのつもりか」


 兄貴は動じず、鴨春の死体を海へ蹴落とした。

 どぼりと軽い音を立て、まるで顔のないモブのようにして鴨春が海に散る。


「俺は」


「まだ会ってないんだろ!? だから緋勾に取引を持ち掛けられた! いいのかそのまま帰って! 後悔するぞ!?」


 矢継ぎ早にまくしたてる俺を見て兄貴は軽く肩をすくめた。


「バン。下らな」


「ごちゃごちゃ言ってねえで助けろ!! 俺たちを!!」



 俺の怒号が海に響くと、呼応するかのように波が立った。

 どばああっと生き残った橋脚を白波が叩く。


 そのまま数十秒、俺たちは睨み合っていた。


 ――――やがて。


「……」


 ふっ、と。

 兄貴はほんの少しだけ嬉しそうな顔をした。


 そしてずかずかと俺に近づくと鶚の手を掴む。

 どさりと俺は尻もちをついた。


「ずいぶん骨のある台詞をほざくようになったな、万骨ばんこつ


 それは兄貴にしては珍しい冗談だった。

 鶚と和尚、梟雲を一度に引き揚げた兄貴は食い殺すように獰猛な笑みを俺に向けている。


「何か心境の変化でもあったのか?」


 くたくたの身体を生け簀に寝かせ、天を仰ぐ。

 数日前と変わらない、笑えるほどのコバルトブルー。


 辺りには濃い潮の香り。

 それに血臭。

 それから腐臭。


「いや……何も変わってねえよ」



 そう。

 俺の人生はいつも通りだ。


 金を得て。

 命を得て。

 女を得て。



 ――――それでも、いつも通り惨めなままだ。



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