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accelerando(だんだん速く)

 


「キリコに橋を渡らせる? ……」



 一見すると頓狂な考えだが、誰もが反論を飲み込んだ。


 なぜなら現に今、『アクアリウム』と名付けられた橋梁を白い軍勢が進んでいるのだ。

 それは割り箸を這い回る白アリを思わせた。


 骸骨。

 骸骨。

 ――――山のような骸骨。


 奴らは奈落の底から現世へ手を伸ばす亡者のごとく、連なる車両へ手を伸ばす。

 次々にドアが開かれ、ひっくり返ったトレーラーが揺れ、イグロゾアが死肉を食らう。

 こりり、こりりり、という幻聴すら聞こえるようだった。


「馬鹿な……」


 和尚は半笑いすら浮かべて首を振る。

 もっともだ、と俺も肩をすくめる。


 あの橋には亀裂が入っており、いつ崩落してもおかしくない状態だ。

 例えるなら表面張力限界まで水の張ったビーカー。

 人間を地面に縫い付ける豪雨と乗り捨てられた乗用車の山は、現代建築の想定すら上回る荷重を以ってアクアリウムにヒビを入れた。


 真っ当な理性を持つ人間は橋を脱出ルートにすることを諦めた。

 水死体になる奴が出ようと海へ漕ぎ出したし、キリコが出現した当初も籠城を決め込む奴が居たぐらいだ。


 だが真っ当じゃない奴はこう考えた。

 なあんだ、あそこから外に出られるじゃないか、と。

 それも体重の軽いイグロゾアなら楽勝じゃねえか、と。


「きりこ、でていく?」


 梟雲が怯えたように自らの骸骨腕を下ろした。


「……すぐには出て行かないよ。問題があるから」


 鶚の呟きに和尚が眉を上げる。


「あそこ、歩道から下が見渡せるようになってて転落防止の柵がついてるの。結構丈夫なやつが」


「さく?」


「そう。柵。……子供だろうとはしゃいだ大学生だろうと落ちない、丈夫な柵」


 その代わり、と鶚は俺達を順に見回す。


「水はけが悪いの。たぶん橋にはまだ雨の真水が溜まってる場所がある。キリコは真水に触れると弱るから、すぐには――――」


「いや、もう関係なくなる」


 俺が訂正すると鶚が目を丸くした。


「どういうこと?」


「服だ。服を着たキリコが大勢出て来ただろ」


 あ、と和尚が、鶚が、大きく口を開ける。



「連中、キリコを防水仕様に変えてる」



 橋を進むキリコをよく観察するとどいつもこいつもお洒落をしているのが分かる。


 帽子にドレスにタキシード。

 和服にジャケット、ジャンパー、フード。

 レザースーツにカウボーイハット。

 サラリーマンもナースもいる。警察官も消防士も。


 まさに死者が踊るカラベラ祭りだ。

 人間に取って代わらんとする骸骨の軍勢は少しずつ少しずつ橋を進む。

 死体を見つけては肉を剥ぎ、骨を抜いては腹に収める。

 血に濡れた骸骨はこりりと笑い、次の獲物を探して進む。

 ブーツに長靴といった装備で足周りの浸水を防いだ連中は真水も血の池も構わずに踏み、飛沫を上げている。


 その様は俺に終末を幻視させた。


「もう真水でもアルコールでもキリコは簡単には止まらない」 


 俺が言うと和尚は沈痛な表情で海面へ目をやり、梟雲は目を逸らす。

 鶚は唇を噛んでいた。


「だから――――まあ、もちろん逃げた方が賢いわけなんだが……」


 俺はいつものように軽く肩をすくめた。

 そうすれば誰かが止めてくれるだろうと思って。


(……あれ?)


 誰も何も言わない。

 強い潮風が和尚の作務衣をはためかせ、梟雲の髪を乱し、鶚の担いだ袋を叩く。


「あー……和尚。逃げちゃっていいかな?」


 俺の期待した反応は返って来なかった。


 和尚は何も言わない。

 病院で手酷くやられたことがトラウマになっているのか、即席の眼帯を嵌めた目を手で覆う。


 和尚は確かに人命を尊重する。

 だが自分の命も同じ程度に尊重する、と言っていた。

 劣化鴨春であるカルメンに目を奪われた和尚は蛮勇的な行動が何をもたらすのか察しているのだろう。

 海上では本物の鴨春が梟雲を一蹴する場面に出くわしており、恐怖は倍増しているに違いない。


「なあ、梟雲。……」


「きょう、むり」


 梟雲は腕の怪我が深刻だ。

 片腕は切断されているし、へし折られたもう片方の腕は素人が無理に固定しているのでおかしなくっつき方をするかも知れない。

 彼女は一刻も早く病院へ向かうべきだし、これ以上の負傷すれば心のみならず体までボロボロになってしまう。


「み、鶚」


 指を失い、昨夜までショック状態に陥っていた鶚はまた顔色が悪くなりつつある。

 背負っている袋をついに下ろすと、がしょん、と重たげな音が響いた。


「カラス」


「んー?」


「あのまま放っておいたら誰かがキリコを止めてくれると思う?」


「や、そんな人手が本土にあったらハーバー12に救助が来てる」


「だよね」



 そのまま数分、沈黙が流れた。



 俺が口にした逃亡の二文字。

 これを和尚が躍起になって否定することも、鶚が冷笑を以って迎え入れることも、梟雲が賛成することもなかった。


 海は灰緑色に姿を変え、コールタールのようにどろりとうねる。

 背後からは沈降を告げる轟音がじわじわと迫って来ていた。

 かなりのアドバンテージを稼いではいるが、ぼんやりしていれば巻き込まれてしまうだろう。


 沈痛な面持ちとなる三人を見、業を煮やした俺は思わず声を上げる。


「……いやいやいや! 何だよそのテンション」


 あれほど人命救助にこだわっていた和尚が心をへし折られている。

 あれほど無鉄砲な振る舞いをしていた梟雲がしおらしくなっている。

 あれほどぎらついた殺意を見せていた鶚が弱腰になっている。


「あいつら止めなきゃ帰っても意味ないだろ!? 橋渡って来ちまうぞ?」


 いや、俺にも分かっている。

 この三人はそれぞれに取り返しのつかない深手を負った。

 和尚はあと一つでも目を失えば全盲だ。

 梟雲は両腕を。鶚は十指を。それぞれ失う一歩手前のところまで追いつめられている。


 もうこれ以上何も失いたくない。

 その気持ちが彼らに二の足を踏ませている。

 いや、カフーや鴨春に立ち向かうことを諦めさせている。


 ――――だがダメだ。


 手足を引っ込めて守りに入ったら負ける。

 仮に本土へ逃げ遂せたとしても、逃げて逃げて逃げ続けることはできない。

 いずれカフー達はイグロゾアを繁殖させ、本当に骸骨の楽園を築く。

 そうなった時、『前へ』守らなかった奴は残らず死ぬ。

 このハーバー12で死んだ引きこもり共と同じように。


「……。……」


 それに何より、と俺は天を仰ぐ。


 このままじゃ俺の人生プランが台無しだ。


 あとちょっとなんだ。イージーモードの人生まで。

 あとほんの少し。

 キリコ達を押しとどめ、カフー達の妄想を阻止すれば俺には薔薇色の人生が待っているんだ。


 ド安泰な就職先。

 金持ちがバックにいるという安心感。

 腐臭を放つ俗世に俺が作った楽園。

 カフーに言わせれば古い時代の賜物だし、鴨春にしてみれば醜い弱者の寄り合いなのだろう。

 だが俺にとっては最も住み心地のいい汚泥だ。


 人類の未来もイグロゾアも知ったことじゃない。

 俺の幸福なる人生の為に奴らは潰す。

 もちろんこの三人にも動いてもらう。


「……分かった。じゃ俺も条件同じにする」


「?」


 俺は鶚の大きなバッグに手を入れる。

 中にはナースステーションから拝借した短いナイフが入っているはずだ。


 三人が力の失せた瞳で俺を見る。


「このズッタズタの脚、切り落としてやるよ。それで……それでも弱い俺が動いたらお前ら一緒に来てくれるよな?」


 誰も何も言わなかった。

 俺は苛立ちもそのまま袋へ手を突っ込み、ナイフ――――


 ――――ではなく、なぜかスプーンを取り出す。


 二度見する。

 三度見する。


 何でスプーンなんだ。

 なぜ入ってる。鶚、なぜ入れた。


(あ、あれ。ナイフって入ってないの?)


 俺は鶚の荷袋に手を入れて中を探るが、ナイフらしきものは入っていない。

 仕方なく俺はスプーンの表裏を見、演説を続けた。


「あー……うん。このズッタズタの脚、切り落とせば……うん。俺が一番雑魚だからな。その……そんな雑魚でも世の中の役に立」


 俺は生け簀の上で傷ついた脚を伸ばし、骨虫に噛みつかれた場所にちょいとスプーンを刺す。

 途端、脚が破裂するほどの激痛が爆ぜた。


「おぐっ!! どぅ、どぅう……。お、ァ。そんな雑魚でもほら、ちゃんと世の中の役に立とうとしてるんだから、ぜ、ぜひ強かったり賢かったりする皆さまにおかれ、ましては」


 スプーンで脚をつつく。

 ――――痛い。

 気のせいか脚は腫れあがり、普段の二倍にも膨れているように見える。


「やっぱりその……痛っ! 帰るべき社会の為にっ、っ、ここは食い下がった方がいい、いいんじゃっ、ない、ですかねえっ!!」


 スプーンでがしがしと脚を叩くが痛いばかりで切れもしない。

 おい早くしろ、と俺は心の中で悲鳴を上げた。

 このままだとスプーンで死人が出るぞ。



「あ、あんな連中放っといたままどこ行く気だよお前らっ!」 



 さっと誰かが俺のスプーンを取り上げた。



 そいつは作務衣姿で立ち上がり、俺の胸ポケットへスプーンを挿し込む。

 そしてどしんとあぐらをかいた。


「勝算は……ありますか」


 珍しく和尚がそう問うた。

 今まで勝算も見込みもなく、むやみに危地へ踏み込んでいた和尚が、だ。


 彼も命が惜しいのだろう。

 だがそれは間違ったことじゃない。

 生存の為に死力を尽くすこと、知恵を巡らせることは卑怯でも何でもない。


「ない」


 浄玻璃の鏡を思わせる瞳に見据えられ、俺は素直にそう告げた。


「でも見つける」


「見つかりますか」


「無きゃ作る」


「……そうですね。……。一つ、イグロゾアを制する案があります」


 和尚は櫂を手に取った。

 まず一人。


「からす」


 梟雲は既にオールを海へ突っ込んでいた。

 和尚の動きとリンクすることで生け簀は進路を橋へと変える。


 彼女はカフーや美羽に近い側の人間だ。

 気は触れ、倫理には悖り(もとり)、元の社会で健全な生活を送ることのできる見通しも立っていない。

 いっそ連中と一緒に狂った踊りを踊った方が幸せなのかも知れない。


 だが幸か不幸か俺の側にいてくれている。

 だから俺には彼女を元いた社会へ連れ帰る責任がある。

 彼女を元の人間らしい生活に戻すためには残念ながら人間社会が必要なのだ。


「きょう、むずかしいことわからない」


「ああ」


「でもかんがえてることはある。……かふー、ころす」


 梟雲は一言二言を囁くと、そのまま水を掻き始めた。


「……」


 鶚は重たげな荷袋に身を預け、俺たちのやり取りに溜息をついていた。


 力自慢が二人もこちらについた以上、もう彼女一人の力で脱出することはできない。


「悪いな。付き合わせて」


「いいよ、別に」


 鶚はどこか茫漠とした目で本土を見ている。


 誰よりも生き意地汚くハーバー12を生き抜いた彼女が今何を思うのか。

 端正な横顔からは窺い知れない。


「……戻った時、さ。やっぱり人がいた方が便利だね」


「緋勾は俺のだ」


「じゃあ美羽ちゃんをもらおうかな」


 美羽。

 連れて帰れるかな、と思う。


「鴨春でもいいんだぞ」


「そういう趣味はないの」


 彼女が黒インナーをぴんと伸ばすと、胸肉がぶるりと震えた。


「私も一つ、考えてることがあるの」


 聞いてくれる? との問いに俺は肯んずる。




 ゆっくりと。

 俺たちのノアの箱舟は死神たちの元へと向かう。



 生け簀を操り進むこと十数分。



 ハーバー12の外周部を進む俺たちの目に大型クルーザーと「奴」の姿が見えてきた。

 褐色の上半身。

 特徴的なカエデのパレオ。  


 アクアリウムの袂に停泊した船は未だ陸と地続きのままだった。

 辺りには彼らがキリコにコーディネートしたと思しき衣類が散乱している。



「よお、おたくらか!!」



 古雅色火楓こがしきかふうは俺達を見つけると嬉しそうに両手を広げる。

 彼の傍には数人のキリコ人間の姿もあった。

 ホテルで敵味方に分かれていた連中だ、と俺は気付く。

 今は仲良く味方なわけだ。


「とっくに出て行ったのかと思ったぜ」


 カハハッ、と短く笑った奴は表情をそのままに声だけを低くする。


「……わざわざ息の根止めに来るたァご苦労サンだな」


 半身をキリコに変えた奴の味方が続々とクルーザーの甲板へ。


「まァだ分からねぇか。俺らの強さは本物だってよぉ」


 奴の片腕は野武士と同じように複数の骨が接合してできた不気味なものへと姿を変えていた。

 俺と鶚は生唾を飲み、和尚が身を硬くする。

 やはり奴らはイグロゾアの扱いに長けてきている。

 複数体を組み合わせたり衣装をまとわせたり。


 いずれこいつらはイグロゾアを真の意味で「操る」だろう。


「何をそんなに必死になるんだ。時代のうねりに逆らって、強い俺らに噛みついてまで、おたくら何を守ろうとしてンだい?」


 奴は両手で天を仰ぎ、ぺちんと片手で顔を覆う。


「脱皮しようとしてるこの時代を! 人類を! 社会を! 認められねェ! いつまでもいつまでも自分が時代と共にあると思ってる!! こいつァ恥ずかしい! 年寄りの考えだ! 時代は人を待たねぇ! 若かろうと何だろうとモタモタしてたら置いてかれンだよ!!」


 開いた指の隙間から奴はこちらへ笑みを向ける。

 獰猛ながら殺意のない、無邪気な笑みを。


「言っただろ? 古い奴ァここで埋もれて沈んじまいな。後は俺らが好いように、時代をこしらえてやっからよぉ。カハハッ!」


 距離、10メートル。

 俺は櫂を置き、慣性そのままに流れる生け簀の上で返した。


「……おい、カフー!」


「おおよ。何でぇ」


 飄々とした目に射竦められるも、俺は片足で立ち上がる。

 9メートル。


「最後に勝つのは強い奴でも正しい奴でもない」


「ほお?」


「ましてお前の言ってる新しい奴でもない」


 8メートル。

 カフーはぎらりと目を光らせた。


「じゃ、何でぇ? 最後に勝つのは一体いってえ誰だ?」



 決まってるだろ、と俺は口元を歪める。

 それはもちろん――――



 ――――ズルい奴だ。



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