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Più mosso(それまでより速く)

 時刻は早朝。

 冬の遅い日の出を待たず俺たちは出航する。

 まだ星が残る群青色の空。

 凍えるような風が肌にも傷にも突き刺さる。


 和尚は片目を潰された。

 俺は片脚を潰された。

 みさごは片手を潰された。


「最高にツいてるね」


 櫂を操ることのできない鶚は大人しく荷物を支える役割を果たしている。

 その彼女が毒を吐いた。


「ああ。ツいてるな。とりあえず生き残ったわけだし。武勇伝も一個できた」


 きい、ちゃぷ、と俺と和尚が交互に波をかき分ける。

 和尚は立ったまま、俺は座ったまま。

 すっかり水を吸った木の板は黒ずんでおり、オレンジの浮きだけが異様なほど網膜に明るく映る。


「それにお前も助かった」


「……」


 鶚はいつものように即座にではなく、一拍置いて悪態をつく。


「向こうに戻ったら慰謝料要求するから。あの金持ち三人衆に」


「そうしよう。ついでに鴨春と美羽の親御さんには……娘のクサイ演説をばらすぞって脅すか」


「カラス」


 物思いに耽っていた和尚が口を開く。


「あの三人組のことですが」


「ん?」


「鴨春と美羽さんの意図は分かりました」


 檻の中で聞いた話は和尚に一言一句共有していた。

 カフーはよく分からないが、鴨春と美羽の思惑は分かったのでそのすべてを。


「笑えるだろ? 二人揃って「私が世の中を変えてやる」だってさ」


 カラス、と和尚は漕ぐ手を止めた。

 慣性でイカダを動かすわけにも行かず、俺もオールを操る手を止める。


「……自分より未熟な者がいる。自分より社会を知らない者がいる。自分より道理に通じていない者がいる」


「?」


「それを嗤うのが大人のやることですか」


 胸を押し飛ばされたように感じ、俺は座ったままよろめいた。


「あなたは今何歳ですか」


「じゅ、18」


「あなたが幼い頃に考えていた18歳の背中は、今のあなたのように卑陋ひろうなものでしたか」


「……」


 言葉の意味はよく分からないが、何となく肺が縮こまる。

 俺はたぶん、恥ずかしいことをやっている。


「彼女達が間違っていると思うのなら笑うのではなく、まず正しておやりなさい。それが」


 つ、と和尚は額に手をやった。 

 いや額じゃない。

 ――――失った目の辺りだ。


「……すみません。ちょっと疲れているようです」


「オイ、大丈夫か和尚」


 ええ、と言いつつも和尚は苦しそうに眼を押さえている。


「痛み止めは? あっただろ?」


「飲んでいません」


「何でだよ! 飲めよアホ!!」


「分かっています。分かっていますが……処方箋でもない薬を飲むのはちょっと」


「ガキかあんたは!」


 俺はそう茶化したが、和尚の考えていることは分かる。


 ――――『これから一生、片目のない人生が待っている』。

 その確信がどれほどのストレスとなって彼にのしかかっているかは想像に難くない。

 おかしな言い方だが、痛みは不安を忘れさせてくれる。

 和尚はわざと自分の身体に激痛を残しているのだ、と分かった。


(……ヤバイぞ。今、あいつらに襲われたりしたら)


 和尚の憔悴を目の当たりにした俺は今さらながらその恐怖に襲われた。


 五体満足の状態ですら太刀打ちできなかったカフー、鴨春、美羽の三人組。

 もしこの状況で奴らと出くわしたら――――





 真っ先に異変に気付いたのはみさごだった。




「……ねえ」


 ちゃぷ、と海に手を入れた彼女は恐る恐る呟く。


「水の流れ、おかしくない?」


「水?」


 俺と和尚は海面へ目をやった。

 そこにあるのは濁った藍色の海。


「おかしいって何が――――」


「さっきまで」


 ごく、と鶚が生唾を飲む。

 再び開いた時、その唇は震えていた。


「水、和尚の方からカラスの方に流れてた、のに。今、カラスの方から和尚の方に流れ、て……」


 すうっとイカダがひとりでに動き始める。

 鶚の言う通り、俺の方から和尚の方へ。


 ――――つまり、内陸の方へ。


「イっ!?」


「っカラス漕いで! 漕ぎなさい早くっ!!」


 俺たちは慌てて櫂を手に水を掻く。

 進行方向に逆らって流れる海水は粘るコールタールのようで、イカダは遅々として進まない。

 先ほどまで快速そのもののスピードで進んでいた板切れつきのウキは、とうとう波に揉まれて回転を始めた。

 ぐるぐる、ぐるぐると。


 賃貸マンションと背の高い植樹。

 歯科医の看板と不動産屋の看板。

 スーツを着た女の笑顔が映る看板。


 賃貸マンションと背の高い植樹。

 歯科医の看板と不動産屋の看板。

 スーツを着た女の笑顔が映る看板。


「お、おいおいおいおい!」


「二人とも捕まっていなさい! 振り落されますよ!!」


 四肢のいずれかを負傷した俺と鶚は必死に板切れにしがみつく。

 回転の速度は緩やかだが、進行方向から流れ込んで来る濁った海水は瞬く間に渦を巻き、うねりを伴い、ゴミの塊を運ぶ。

 かき混ぜられた海水が腐臭すら飲み込んだ潮の匂いをまき散らし、鼻腔を凌辱する。


 波に巻かれたイカダはコーヒーカップさながらの回転を繰り返し、笹舟が波に揉まれるように上下する。

 俺と和尚は櫂を握りしめ、鶚は荷物を放すまいと必死に抱きかかえた。


「沈降が始まってる!!」


 鶚が女子のような悲鳴を上げる。


「わざわざ教えてくれてありがとうっ!!」


 俺が吠え返す。


「落ち着きなさい!!」


 ぱあん、と頬を張られるような錯覚。

 回りながらだというのに、器用にも和尚は俺達を声で殴った。


「無限に運ばれることはありません! 必ずどこかで止まります! 持ちこたえて!」


「そんなこと簡単に言……どわっ!?」


 一際激しく灰色の波が押し寄せた。

 ごご、と何か想像もできないほど巨大な物体が軋み、綻び、崩れ、壊れ行く音。

 ハーバー12が悲鳴を上げている。


 俺は恐る恐る内陸部を見やった。

 平地に近い島中央部からは、ざざ、とか、どざ、という不吉な倒壊音すら聞こえて来る。

 俺は乾いた唾を飲み込んだ。


「鶚。これ、もしこのまま引っ張られ続けたらどうなるんだ……?」


「島を支えてる柱じゃなくて土地の方がダメになったってアイツが言ってたから、たぶん――――」


 ざぶ、どぱ、と波が周囲の建築物を叩き始める。

 白波が立ち、波濤が泡を抱いては吐き出す。




「――――このままだと海の底まで引きずり込まれる」




 ひゅお、と冷たい風が吹く。

 背筋が震え、耳に聞こえる波音が激しさを増す。


 すっと息を吸うと同時に、俺と和尚は猛然と櫂を振るい始めた。


「お、おおおおっっっ!!!!」


「く、うっっ!!」


 ざぶっ、どぶん、ざぶっどぶん、とめちゃくちゃに櫂を波へ。

 上下するイカダに合わせて海面も激しく上下する。

 気づけば宙に浮くかのようにイカダは波の頂上に。

 気づけば水の壁を前にしたかのごとくイカダは波の底へ。

 飛沫を被り、脚に激痛が走る。


「ぐ、アっ……!」


「カラス! 手を止めないでください!!」


 ほんの数秒俺が手を止めるや、視界は360度の景色を映し出す。


 歯科医の看板と不動産屋の看板。

 スーツを着た女の笑顔が映る看板。


 歯科医の看板と不動産屋の看板。

 ピンク色のカーディガン。

 スーツを着た女の笑顔が映る看板。


 歯科医の看板と不動産屋の看板。

 ピンク色の――――


「えっ」


 かりかりかりかり、と誰かが俺たちを嗤った。

 そいつらは建物の遥か高みから波に揺られるイカダを眺めている。



「かーらすさーん!」



 渦巻く波の中に響いたひどく朗らかな声。

 赤と黒のチェックスカート。角度のせいか、中は見えない。

 深窓の令嬢を思わせる楚々とした顔立ちにドクロのイヤーカフ。

 切鴇美羽きりときみはね


「すいえーですかー!?」


「一緒におよ、ぐか!」


「煽り返すな!! 漕げ!!」


 虚勢を張った俺の頭を鶚がぺしんと叩く。

 俺の声が波間に飲み込まれたせいか、美羽は更に声を張った。


「あの檻から逃げるなんてすごいねー! ってえ! シュンがー!! 褒めてた、よーーーー!!」


 湯船に洗面器を何度も突っ込むようにして俺たちは漕ぎに漕ぐ。

 本当に少しずつだがイカダが前方へ進み始めた。

 一メートル、二メートル。


「やったっ!」


 流された分を取り戻すように更に一メートル。

 もう一メートル。

 一メートル。


「行けます! 行けますよカラス!」


「だああっ!! 囃すな!! 腕限界だっつの!!」


「……」


 ぱんぱんに張った両腕。

 これは筋肉痛確定だ。

 だが漕ぐ。漕ぐ。漕ぐ漕いで――――



「無~~~視~~~~するなっっっ!!!!」



 かちゃちゃ、がちゃ、と壁を骨脚が蹴る。


 ――――一人分じゃない。


 そう気づいた次の瞬間、多脚のキリコ人間が三人、数メートル先の家屋に着地した。

 美羽だけじゃない。

 見覚えのない女が二人増えている。


「! 追ってくるつもり……!? そっちだってこの波に巻かれたら死ぬんだよ!?」


 がしゃしゃ、と二人のキリコ人間が前へ出た。

 一人はパンツスーツのOL、一人は少し太ったジャケットの女。

 小さな蜘蛛のシルエットを持つ二人が跳躍する。


 もちろん、笑いながら。


「死ぬのはそっちだよ。……だから、助けてあげるね!!」


 建造物に張り付いた多脚のキリコが次々に脚を伸ばす。

 海老に触手を伸ばすイカのごとき動きに俺と和尚はのけ反り、鶚も伏せる。

 そして動きを止めれば止めた分だけ、俺たちは内陸へ引きずり込まれる。


「くっ、そ!!」


 あっという間に稼いだ距離的アドバンテージが失われる。

 楓の葉のようにイカダは軽々と元来た方角へ吸い込まれていく。


 キリコ人間たちは壁を跳ね、家屋を蹴り、植樹にしがみついて俺たちを追って来た。

 美羽の顔には自然な笑みが、他の二人には貼りついたような笑みが。


「ジリ貧だぞこれじゃ!!」


 俺の叫びに応じたのは鶚だった。

 彼女は手荷物から小さなボトルを取り出す。


「アルコール!! 持って来てる!」


「なりません!! 使ったら彼女達は海に――――」


「四の五の言うな和尚!! あんたは漕げ!! 道連れにされるぞ!!」


「待ってよカラスさーん」


 奇怪なアシダカグモと化した美羽が迫る。

 奴らは飛び石を渡るように建造物の屋根を跳び、俺達に迫る。


「一緒にホネ生活しようよ~~~~!!」


「っそんなことの為に追ってきたの!?」


 鶚が素っ頓狂な声を上げ、美羽が鷹揚に頷く。


「だってカラスさんは生き残った人だから。きっと私たちと一緒になれるよ。それに」


 もじもじと骸骨多脚生物が太ももをすり合わせる。


「やっぱり私を助けようとしてくれた時のこと思い出すと、カッコ良かったって思」



「嘘つけ」



 俺の言葉にぴくりと美羽が反応する。




「俺達を『橋』に行かせたくないんだろ? だからわざわざ足止めに来た。違うか?」




 俺の言葉は波濤の隙間を縫って連中の耳に届いたらしい。

 美羽が、二人のキリコ人間が、動きを止めて俺を見る。


「は、橋……?」


「ハーバー12と本土を結ぶ橋のことですか、カラス!」


「たぶんな。あの橋の桁下けたしたは確か20メートルを切ってる。だから――――」



 ほとんど何の前触れもなく。

 小太りの女が跳んだ。


 跳び、俺たちの乗る小さなイカダに着地する。

 震動だけで鶚が吹っ飛びかけ、和尚が体勢を崩し、俺も落水寸前に陥る。


 だが誰も落水はしなかった。

 踏ん張り、踏みとどまり、一斉に得物を手にする。

 和尚が櫂を。

 俺も櫂を。

 鶚はアルコールのボトルを。


「くっ!」


「うっ!?」


 二本の櫂を四脚で捉えた小太り女は残る二本を鶚に伸ばしていた。

 投擲姿勢の鶚の手首をキリコの脚が掴んでいる。

 ギリギリと力を込められ、アルコールを握る鶚の手から力が抜ける。

 小太りの女が笑いかける。


「残念だったね?」


 鶚もまた笑みを返す。


「あなたがね」


 鶚は最後の一本指を自らの後頭部へ。

 簪の根元に針金で輪を作っていた彼女はそれを引き抜き、手の平で輪部を押し込むようにしてイグロゾアに突き刺す。

 簪からは液体が滴っていた。 


「ぐ、あっ!?」


 ピキピキピキ、と湖面を覆う氷にヒビが走るような音。


「おら邪魔だっ!!」


 次の瞬間、小太りの女は俺の拳で海へ。


「カラスっ!?」


「よーちゃん!!」


 美羽は叫んだが、すぐには追い切れない。

 小太りの女はがぶがぶと海水を飲みながらあっという間に内陸側へ引きずり込まれていく。


「そら見ろ!! 見捨てられるぞアンタ達は!!」


 俺が煽ると、残されたOLキリコが驚愕と共に美羽を見やる。


 そうだ。疑え。

 疑ってぶっ壊れろ。


「カフーもそいつも! 自分勝手な奴らは死ぬまで自分勝手なんだよ!! ほら目ぇ覚」


 ひゅお、ひゅお、と二人のキリコ人間は建造物を伝って内陸部へと跳躍する。

 あっという間に連中は俺達への攻撃をやめ、味方の救助に向かった。


 その判断にはほとんど時間を要していない。


「まし、て……」


「……。面倒臭いね。仲間割れはしないみたい」


 ずずず、と海面が揺れる。

 足の下の下、地面の底で何かが轟く。


 さああっと和尚の顔色が変わった。


「っカラス!! いけません!! 早く漕がなければ」





「からーーーーーーす!!!」




 ああ、と俺は愛されるこそばゆさを実感しながら悪態をついた。

 来ちゃったのか、と。


「梟雲!」


 オレンジ色の浮き具に丈夫な足場を渡したドーナツ状の生け簀。

 ウキの数は優に10を下らず、見るからに安全な足場だということが分かる。

 どこで見つけたのか、上だけ黒いライダースーツを纏った墨下梟雲すみしたきょううんが進行方向から流れて来た。


 顔に憔悴の色はなく、むしろ焦燥を感じる。

 片腕を三角布で吊るし、片手で櫂を握った梟雲は流れのままにこちらへ近づく。


「きょう、きた!!」


「お、おお!」


「……何で来ちゃうの、アホ」


 鶚が途方に暮れたような声を漏らす。

 頭数は増えたが状況は同じ――――いや、余計に悪くなった。


 生け簀はイカダより波を受ける面積が広い。

 より強い力で進まなければあっという間に押し戻されるだろう。


「からすいきてる? いっしょにかえる!!」


 はっ、と。

 誰よりも速く和尚が反応した。


「梟雲!! 上をっ!!」



 墨下梟雲には二つの不利があった。

 一つは櫂を手にしていること。

 もう一つは襲撃者が冬の朝日を背負っていたこと。



 太陽を背負われてはさすがの梟雲も一時、怯む。

 その一瞬を見逃さず、襲撃者は派手な音と共に生け簀へと降り立った。

 ごどっ、と足場が軋み、揺れる。

 片手を封じられ、片手で命の櫂を握った梟雲は転倒しそうなほどに大きく体勢を崩す。



 セーラー服に黒タイツ。

 片脚はキリコ。

 梟雲と一メートルと離れていない場所へ降り立ったのは咲酒鴨春だった。



 手には白刃。

 カフーの刀だ。


 だがキリコ人間は殺意を抱けば自滅する。

 奴は何もできない。

 ――――そう、思っていた。



 にたり、と笑った鴨春は空いた手で何かを片脚に掛けた。

 何か。

 キリコを瞬時に殺す何か。

 例えば、アルコール。



 しっかりと床板を踏んだまま殺意を封じる足枷を殺し、咲酒鴨春が身を乗り出す。


 一歩、踏み込み。

 正確に梟雲の心臓を貫く。








 ――――






 ――――が、これは失敗した。





「ウっ!」


 梟雲は狡猾にも胴体に何かを仕込んでいたらしい。

 鴨春の刃は長身のドクロ仮面を殺害するには至らず、「何か」に突き立ったまま動かなくなる。



「ほお」



 だが鴨春の反応は速かった。

 刀を引き、返す刃で一撃を見舞う。



 梟雲の片腕が宙を舞う。

 イグロゾアが貼りつき、梟雲の目に殺意が灯る。



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