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dolce(柔らかに)

「お、和尚っ!?」


 ぷくぷく、と黒い水面で泡が弾ける音が聞こえる。

 それも遥か遠く。


「ちょっ……」


 窓に張り付いていたヘッドフォンに眼鏡のキリコがカタカタと歯を鳴らす。

 強いて呼ぶなら名は「ナード(根暗野郎)」か。

 こいつが和尚を引きずり落としたらしい。いつだったか、大学で俺がやられたように。


「最近のオタクはアクティブ過ぎんだろ」


 窓枠に犬の下半身を引っかけたナードは和尚を放り捨てた手をぷらぷらさせている。

 まるで肩をすくめて俺をせせら笑うような仕草だ。


 と、隻腕のキリコ、「野武士」が一歩俺へ近づく。

 ちゃり、という短い歩行音にただならぬものを感じ、俺は一歩退く。

 距離は5メートルほどだ。これ以上近づけてはいけない。


 鶚を背負った今の状況では足ぐらいしか出せるものがない。

 対処を誤れば終わりだ。


(……。待て。落ち着け。落ち着け)


 俺は思い直す。こいつは所詮キリコだ。

 HDLの地下にいた奴と同じ、ただのキリコ。

 こいつらは馬鹿の一つ覚えみたいに俺に突っ込んで来る。

 それものろのろしたスピードで。


 だから手の動きさえ見ていれば避け――――


「うっ」


 がぐん、と意図せずして俺は体勢を崩した。

 映画じゃサラっとやってるが、人間一人担ぐのは重労働だ。

 トレーニングなんて一切やっていない大腿の筋肉が唐突に「あ、もう無理」と緩んだのだ。




 その挙動が無ければ俺は死んでいた。




「え?」


 頭頂部を掠める「何か」の感触に俺は間抜けな声を漏らす。

 目線を上げるまでもない。

 数メートル先に立つ野武士の右腕から伸びた「何か」が白い鎖のような軌道を描き、俺の目と鼻の先で上方へ伸びている。

 ソフトボールで言う「ライズ」の軌道で浮かび上がった「何か」は数秒前まで俺の顔があった辺りを掴んでいるようだった。


 肩から順に上腕骨と尺骨・橈骨とうこつ

 その次に続く手首の手根骨を無視してまた上腕骨、尺骨・橈骨。

 そしてまた上腕骨、尺骨・橈骨。


 十人分はあろうかという人間の腕を接いだ「野武士」は歪んだ眼窩を俺に向けている。

 奴の手が5メートルの距離を無視して俺の顔面を掴もうとしたのだ。


 その事実に気づいた途端、俺は飛び退いた。


「どわあっっ!?」


 鶚を背負ったまま四つん這いとなり、カサカサカサカサ、とゴキブリにも似た猛ダッシュを決めた俺はパニックに陥る。


(何だアレ何だアレ何だアレ何だアレ何だアレ!! ずるいだろっっ!!!)


 じゃららら、と伸びた腕が引っ込む音がした。

 蛇腹剣と呼ばれるフィクションのギミックのようだ。いや、この場合はただのマジックハンドだろうか。

 ともかくアレは――――


(奇形……!!)


 人骨の構造じゃありえない。

 かと言ってスパンコールで蓑をこしらえるミノムシだとか、ペットボトルの蓋に住み着くヤドカリのような自然な

 人為的な――――


「きゃああっっ!!」


 もちろん俺の悲鳴だ。

 すぐ傍の床を野武士の手が叩いたのだ。

 ヤクザが振り回したチェーンが地を打つような音に尻の穴がきゅっと窄まる。


 だが本当に危ないのは鶚の方だ。

 その事実に気づくや俺は床を押して立ち上がり、何度も振り返りながら走り出した。


 射程距離が広すぎる。

 懐に踏み込んで奴を殺すイメージが沸かない。

 このままでは鶚を背負った俺の体力が尽きてしまう。


「和尚和尚和尚和尚和尚和尚へるーーーーーーーぷっっ!!!」


 確か外にはフラメンコドレスを着たキリコも居た。名前はカルメンとでもしようか。

 それにさっき和尚を投げ捨てたナード。

 目の前の野武士。

 少なくとも三体、異形のキリコがいる。

 あまりにも分が悪い。


 まず外の二体を和尚に始末してもらって。

 それから野武士も和尚に始末してもらう。

 他にもキリコがいるならそれも和尚に始末してもらう。


 完璧な作戦だ。


「……」



 俺の数メートル先に。

 ナードが着地するところだった。



「お、おいおい。外行ったんじゃないのかよお前。……あっちのハゲの方が、ほら、カルシウム摂ってるぞたぶん?」


 かちゃ、かちゃ、と犬の下半身が大義そうにこちらへ方向転換する。

 ヘッドフォンのキリコは落ち窪んだ眼窩で俺を覗き込んだ。

 メガネのせいで若干知的に見えるのがまたウザい。


「いや~……オタクがイジメをやるのはちょっと……ルール違反じゃねえの?」


 後ろには野武士。

 前にはナード。


 ――――ヤバい。


 咄嗟に辺りを見回す。

 暗く冷たい病院の廊下はどこもスライド式のドアが閉じてしまっている。

 スライド式。

 キリコの手なら容易に開けることのできるドア。

 共同部屋なら鍵もなかったはず。


 遥か下方でざぶざぶと水が暴れる音が聞こえた。

 それにこりこりかりりという例のキリコ音。


「カラス!! いけませんっ!! このキリコ普通ではないっ!!」


 見れば分かるんだよハゲ、という言葉をすんでのところで飲み込む。


「おそらく人の手が入っている!!」


(人の手……)


 野武士の伸縮する腕。

 ナードのキメラじみた下半身。

 ああ、と俺は得心した。


「……お前らか」


 イグロゾアに手足と顎の使い方を仕込んだのは自分だとカフーが言っていた。

 奴は何らかの方法でイグロゾアに新しいモーションを「調教」することができるのだろう。

 つまりこの二体は新たな手足を得た火楓かふう美羽みはねの「実験サンプル」だ。

 キリコがどこまでの動きをトレースすることができるのか試しているのだ。


 つまりあの二人の劣化人形。


 そう考えると同時にナードが飛びかかってくる。

 美羽にそっくりの下半身に引っ張られるモーションで。


「ッ!!」


 上半身の骸骨は猛牛に揺さぶられるカウボーイのようにのけ反る。

 下半身は犬と言うより四つん這いの人間に近いモーション。

 かちゃっ、かちゃっかちゃっと瞬く間に距離が詰められる。

 初速こそ緩やかだがあっという間に最高速に乗った人獣キリコが迫る。


 だが遅い。

 美羽より遥かに遅い。


 俺の手は病室の入口へ伸びる。

 用があるのはドアじゃない。

 手指の消毒用アルコールだ。


 ボトルを掴むのに一秒。

 更に一秒で頭を押して、どろっとした液体を手の中に。

 押したままもう一秒待って。

 ――――もうちょっとだけ待って。


 とうとう眼前へ迫ったナード目がけて手の中身を放る。

 にょるん、とやや粘性を帯びた液体が大きなシャボン玉のように飛ぶ。狙いは脊椎。


 ぴちゃりとエタノールが爆ぜた瞬間、既に跳躍していたナードが硬直する。

 俺とすれ違うようにして背後の床へ突っ込んだそいつは、がしゃあっと音を立ててバラバラになった。


「お座り――――うっ、おっ!!?」


 がじゃん、とアルコールのボトルを野武士の手が掴む。

 万力のごとき握力で掴まれたボトルはあっという間に引っ張られ、宙に小便のような軌跡を残す。

 が、これは悪手だ。


「アホめ! そのまま死」


 ぱしゃりと着流しにアルコールが付着するも、野武士は平然とこちらへ歩み寄ってくる。

 歪んだ眼窩は怒るように吊り上がっていた。


「あ、あら?」


 服だ。

 服のせいでアルコールがイグロゾアまで届かない。

 冬物で生地が厚いのか、染みになった様子もない。


「……」


 じゃりり、と野武士が床を踏む。

 彼我の距離はほんの5メートル強。

 ――――逃げるしかない。


「っクソ!」


 一目散に走り出した俺は、ずしりとのしかかる鶚の重みに呻いた。

 膝が折れそうになる。

 太腿がぱんぱんに張っている。

 酔っ払いのようによろよろと左右によろめく。


 そいつを下ろせば楽になれるぞ、バン、と頭の中で誰かが囁いた。

 たぶん俺よりずっと強くて賢い生き方のできる男が。


(下ろせるかよ)


 どうしてだ、と聞かれた気がした。

 金は緋勾がくれるはず。カラダは梟雲で満足できる。

 だったらその女に何の価値がある、とそいつは囁いた。

 油断ならない殺意を胸に収めたそいつを、どうしてわざわざ助けるんだ、と。


「……!」


 答えず、走り続ける俺は奥歯を噛んだ。

 ぼたぼたと額から汗が滴り、前髪を伝って毛先から床へ。


(このまま上に……いや、ダメだ。20メートルも引き離せない……!)


 それどころか引き離せば野武士の標的は和尚に変わる。

 徒手空拳を武器とする和尚にとって野武士は相性が悪すぎる。

 おそらくは「イミテーション鴨春」であるカルメンの相手をしながらこいつを相手取るなんて不可能だ。


 ――――俺だ。

 俺がこいつを何とかするしかない。


 ははは、と誰かが俺の脳内で笑う。

 どちらも置いて逃げればいいだろう、と。

 生存の最適解を知っている奴が正論を吐く。


 分かっている。

 この場面では二人を見捨てて逃げることこそが正しい道だ。


 だが俺は今まで嫌な事からも苦しい事からもうまい具合に逃げてきた。

 これからもきっと逃げ回る。

 だからたまには。対峙するのも悪くない。

 きっと履歴書に書けるぐらいの経験にはなるだろう。


「……、……らす」


 あまりにも激しく揺さぶられたせいか、鶚が俺の名を読んだ。


「下ろ」


「さねえ。寝てろホルスタイン」


 野武士と一定の距離を取った俺はじりじりと後ずさる格好となった。

 まかり間違っても奴を和尚の元へ向かわせてはならない。


 だがアルコールはダメだ。

 接近すればキリコ腕の餌食。

 どうする。


(思い出せ……!)


 4月。

 俺はウイルス性の腸炎で病院に担ぎ込まれた。

 血圧はバカみたいに急降下して、上も下も大洪水。

 胃液の色が愛用の目薬と同じイエローであることを何十回も確認する羽目になった。


 その時に担ぎ込まれたのがこの病院だ。

 だから病棟の間取りは何となく分かる。


(病棟……ナースステーション、トイレ、風呂……)


 野武士が迫る。

 一歩、一歩と距離を詰めて来る。

 俺は7メートルの距離を保ったままゆっくりと後ずさる。


 膝ががくがくと笑っている。

 畜生。ちゃんと運動しておけば良かった。


「――――! ……――――っっ!!!」


 和尚の悲鳴が聞こえる。

 一気に体温が下がる。

 滴る汗すらも冷たく感じる。


(! そうだよ。盾だ!)


 初心に立ち返る。

 俺のスタイルは「前へ守る」こと。 

 必要なのは武器じゃない。命を守りつつ前へ進める便利な――――



「からすっっ!!」



 鶚が絞り出すように吠えた。

 はっと気づいた時には手遅れ。

 脚に激痛が爆ぜる。


「ぁぐうううっっっ!!?」


 何かが突き刺さっている。

 何か白いものが。

 ――――「骨虫」だ。病室のベッドにでも潜んでいたのか。


 トラバサミのように俺の左足に食いついたそいつはどうやら赤ん坊、もっと言えば新生児の骨らしい。

 脹脛ふくらはぎを噛みつかれる激痛に俺は喘いだが、幸いにして骨はまだ貫通しておらず、被害面積も小さい。

 せいぜい足首から膝まで。

 損傷軽微だ。


「アアアアアッッッッ!!!? いいいいでえええっっ!!!」


 どだん、と尻もちをつく。危うく鶚を潰しかけた。

 カーテンのように赤い血が流れ出し、ズボンを染める。

 骨虫はなおも俺の脚に食いつき、ジタバタと脚部に当たる肋骨をうねらせている。まるでひっくり返したダンゴムシの足だ。

 きちきちきちきち、と動く短い骨に吠える。


「離ぇっ……離れろしねえええっっ!!!」


 がっしと骨を掴んだ俺はその選択を後悔した。

 凄まじい力で暴れるキリコに俺の腕力などが敵うはずもない。

 逆に裁断機シュレッダーじみた骨の駆動は激しさを増し、べきべきと肉に骨が食い込む感覚を味わう。


「ああアアアァああああっっっ!!!!」


 女のような悲鳴が喉から迸る。

 痛い。痛い。痛い。

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。


「あああらあああああっっっっ!!!」


 ほんの少しだけ手の平に残ったアルコールをこすり付ける。

 びくりとキリコが怯えるのが分かった。


 すかさず両手で床を這い、病室入口のアルコールを手に。

 びしゃりと中身をぶちまけてやると骨虫は今度こそ本当に沈黙し、ころりと虫のように転げ落ちる。


 残ったのは俺の血痕と。

 無慈悲な死神めいて近づいてくる野武士。

 それになおも続く和尚の悲鳴。


「痛ぇ……!! 痛ぇよぉ……!!」


 泣き言を言うな、なんて言葉があるが。

 この状況で泣かない奴がいるか。むしろ泣いて何が悪い。

 壁に手をついて立ち上がり、一歩踏み出す。


「ぎゃああああっっっっ!!!!」 


 爆発四散しそうなほどの激痛が脚を襲う。

 よりにもよって右。俺の利き脚だ。


「畜生……ちくしょっ……ふぐっ……!!」


 涙と鼻水を垂れ流し、俺は片足一本で前へ進む。

 鶚の全体重が左足に乗る。

 みきみきと骨が、筋が悲鳴を上げる。


「……らす。私、おとりに」


「うるせえ!! 揉むだけじゃ済まねえからな!! 吸うから! 吸ってやるから!!」


 俺はぐじゅぐじゅと泣きながらそう叫ぶ。

 野武士の足音が近づいてくる。


 冷たい壁に手を置き、片脚で跳び、片脚で着地。

 ひぎい、と悲鳴が漏れた。

 さっきまで熱かった全身は血が抜けるにつれて冷たくなるようだった。


「盾……盾っ……!!」


 呼ばれて飛び出たのは無数の骨虫だった。

 病室から。階段から。かりかりかり、と十に迫る数の骨虫が姿を見せる。

 こいつらは探知範囲が狭いのだろうか。いやどうでもいい。


「んのっ!! やろっ!!」


 びゅ、と消毒用アルコールを手の平に広げ、撒く

 凝固する骨虫を後目に別の骨虫へ。また別の骨虫へ。

 一匹また一匹と床を飾るオブジェと化した骨虫。


 それらをばぎゃっと破砕する者が居た。

 野武士だ。

 奴は歩くような速さで、だが確実に俺との距離を詰めて来る。


 もう一刻の猶予もない。

 俺は壁に手をつき、決死の片脚跳びで前へ。前へ。

 背後から伸びる手が恐ろしいのだろう。鶚は俺にしがみつき、ガタガタと震えていた。


「盾……! 盾っ……!! ……。……」


 盾。

 盾って。

 足がこのザマなのに盾なんか手にしてどうするんだ。

 追い込まれて死ぬだけだ。


「……武器になる盾っ!! 酒のついた盾っ!! ないのか!! よおっ!!」


 フロア案内図を超え、ナースステーションを超え、

 ぱっと目に飛び込むものがあった。

 それは――――


(AED!!)


 真っ赤なバッグのような物体が病棟廊下に設えてある。

 中心にはハートマークと稲妻の印。

 医療ドラマとゾンビ映画で見たことがある。自動体外式除細動器、AEDだ。

 確か空港だとかショッピングモールなんかに設置されてる、自動で電気刺激を与えられる優れものだ。

 ぶっ倒れた老人の胸にこれを当てるとショックを与えて蘇生できるらしい。


「ちくしょっ、やった! これなら……!」


 着流し姿の野武士を振り返る。

 奴はもう6メートルの位置まで近づいていた。


 攻撃の瞬間、イグロゾアは必ず稼働部に付着している。

 つまり伸びる手の先端には間違いなく奴の本体がくっついているのだ。


 攻撃の瞬間を見極めて腕にアルコールをぶっかけるのは無理だ。

 だがAEDをボクサーのように構えて迎撃すれば確実に仕留められる。

 AEDは起動した瞬間に通電するらしいから、触れただけでボンッだ。


 イグロゾアは化け物だが、生物に違いはない。

 昏倒した人間を蘇生させるほどの電力に耐えられるとは思わない。


 足を止めた俺は汗だらけの指を蓋に引っ掛ける。

 よりにもよってチャック式だ。

 つるつる滑る指。

 近づく野武士。


 じいいっとチャックを開けた時、野武士は既に射程まで数歩の位置に迫っていた。


 中身を見た瞬間、俺は愕然とする。


「ああっっ!??」


 出て来たのは体重計を思わせる機械。それに蓋の裏に記された簡易マニュアル。


 だが俺の知ってるAEDじゃない。

 俺の想像していたAEDは固定電話の受話器が二つ伸びる形状のそれだ。

 これは違う。

 なぜか――――


「何でシールがついてんだよぉっ!!!」


 本体からは古い血圧計を思わせるコードが伸び、その先端には小さなマウスパッドのようなものが二つ。

 どうやらそれらを心臓にくっつける仕組みらしい。


「ふざっ、ふざけんなテレビで嘘教えんじゃねーよ!!」


 びゅお、という風切音。

 咄嗟に器具で顔を庇う。

 がいん、と勢いよく伸びたキリコ腕の勢いでよろめき、体勢を崩す。


 斜め上方を見ながら俺の目の前に選択肢が浮かぶ。

 鶚を押し潰すか、右脚をつくか。


 ――――すまん鶚。


「ぎゃぐううっっ!!」


 俺の体重をモロに食らい、鶚が濁った悲鳴を上げる。

 だが既にここは野武士の射程内。

 一秒たりとも止まってはいられない。


「おおおお、らああっっっ!!」


 匍匐前進で一気に数メートルの距離を稼ぐ。

 あのまま右脚をついていたら俺は確実にその場にうずくまっていた。

 激痛で判断が遅れれば死ぬ。

 そう考え鶚を潰した。


「う、ぐっ……!」


 オンブバッタのように俺に乗る鶚が呻く。

 両肘を交互に突き出し、俺はなおも前へ。前へ。


(もう、手段が……!!)


 片脚が死んだ。もう攻撃は不能だ。

 アルコールは届かない。

 盾じゃ時間稼ぎしかできない。

 もはや病室に逃げ込むことすら怪しい。

 いや、それどころか今骨虫に襲われたら終わりだ。


(どうするんだよ!! クソぉっ!!)


 じゃりり、じゃりり、と野武士がもうそこまで迫ってくる。

 右足からはとっくに感覚が消え失せていた。


「!!」


 すぐ近くにドアを認め、床を這う俺はしゃにむに突っ込んだ。

 金属の手すりがハードルのように立ち並ぶ室内はタイル貼りだった。

 更に奥はパーテーションで幾つかに区切られており、一つが完全に開いている。


「風呂……!!」


 よりにもよって何もない場所だ。

 脱衣かご。キャスターのついた椅子。タオルの山。鏡。長めのシャワーヘッド。洗面器。無害な石鹸。

 浴槽の中は空っぽ。


 背中の鶚が熱く激しい息を吐く音が真っ暗な浴室内に反響していた。

 そこに重なるのは野犬のような俺の息。

 シャトルランを数セットこなした後のように口内がからからに乾いている。


 すりガラスから差し込む月光のお陰で視界は確保されている。

 だからこそ俺には分かってしまう。

 どれもこれも役立たずの道具ばかりだ。


「クソ……! くそ!」


 せめて調剤薬局がこのフロアにあれば。

 劇薬をぶっかけて殺してやれるのに。


 さっきも考えた通りイグロゾアは生物なのだから――――


「……」


 はたと息を止めた。


 そうだ。

 イグロゾアは生物なのに。

 しかもアメーバみたいな生き物なのに。


 どうして。

 ――――どうして××に××××ても平気なんだ?





 冴えたやり方ではなかった。

 だが俺に切れるカードはそれしかなかった。





 ちゃりり、と野武士が浴場に姿を現す。

 鬼ごっこは終わりだとばかりに奴は俺を見やる。

 歪んだ眼窩は百戦錬磨の老武士を思わせ、蛇腹腕を隠す着流しは汗にも涙にも濡れていない。


「よう」


 俺の挨拶にも奴は会釈を返さない。

 創造主に似て傲慢な奴だ。


「来いよ」


 俺は浴槽の縁に尻を乗せていた。

 足元のタイルは濡れているので滑らないよう気をつけなければいけない。

 奴が滑ってくれたら御の字だが、そう甘くもないだろう。


 野武士は正確に5メートルの位置まで近づき、腕をゆらめかせた。

 その瞬間、鶚を潰さないよう角度をつけて俺は浴槽の中へと落ちていく。 


 ――――思い切り蛇口を思い切り捻りながら。


「ぐっ!!」


 横っ腹をしたたかに打ち付ける。

 右脚に熱が爆ぜたが、脳が痛みを拒否しているのか痺れたようにしか感じない。


 見上げれば中空を伸びる骸骨の腕。

 それはがしゃんと浴槽の縁を掴み、目的物がいないことに気づくやずるりと外れてタイル床を打った。



 さああああ、と。

 水が噴き出した。

 それは伸びたキリコの腕に降り注ぐ。

 流れた水はタイルを伝い、奴の足元まで届く。 


「……」


 頼む。

 頼む神様。

 いや、俺は神様なんか信じてないから死神様に祈ろう。


 頼む死神様。

 こいつに、「死」を。



 ――――祈りはどうやら届いたらしい。



 がちゃ、がちゃちゃ、と野武士が不規則な音を立てる骨楽器と化す。

 すかさず俺は浴槽を飛び出し、縁を踏んでシャワーヘッドを掴んだ。

 ざあああ、と水を噴き出し続けるそれをキリコに向ける。


 崩れゆく骸骨が水を浴びる。

 がしゃしゃ、がちゃちゃ、と結合力を失った人骨は哀れな音と共にタイルを打つ。

 骨の山を着流しが多い、音は消えてなくなる。

 水は霧となって舞い、月光に煌めく。


 一分もそうしていただろうか。

 きゅっと蛇口を締め、俺はイグロゾアに近づいた。

 そいつは水の中でスライムのような確かな存在感を持っているため、容易にそれと知れた。


 びしゃびしゃに服を濡らした匍匐前進で近づき、指先でぶにゅりと押す。

 ぶぴゅ、とアメフラシのように何かが噴き出す。


「浸透圧、だっけ?」


 俺はかつて生物の授業で覚えた知識を呟く。

 確か水分子は濃度の薄い方から濃い方へ移動する、だったか。


 海水と海水魚の持つ水分とでは前者が圧倒的に濃い。

 放っておけば海水魚は無限に水分を奪われてしまうので、海水を摂取しつつエラから塩分だけを排出することで体内の水分を担保しているのだとか。


 イグロゾアは長時間に渡って海水を平然と遊泳する。

 なら海水魚と似た性質を持っていると考えて然るべきだ。

 海水魚を真水に放り込むと塩分と水分の調整ができなくなり、弱り果てて死ぬと聞いたことがある。


 それはこいつらにとっても同じらしい。

 ぐでぐでになったイグロゾアを後目に、俺は片足で跳ねながら浴室を出る。


「真水を浴びたら死ぬ、か」












 そう言えばキリコはあの豪雨が晴れ、ハーバー12が水没を始めた頃に現れたのだった。

 それ以降、真水に浸かる機会はなかったに違いない。


 もしかするともう一度大雨が降ったら奴らは死ぬのかも。

 ――――その時は俺達も死ぬのだが。


 そんなことを考えながら階段に差し掛かる。

 見覚えのある作務衣姿が歩いて来るところだった。


「! 和尚っ!」


「カラス! 無事でしたか……」


 うくっと俺は声を詰まらせる。


 和尚は片目を失っていた。

 だくだくとこぼれ出す血が顔の半分を真っ赤に染めており、作務衣を汚している。

 カルメンは仕留めたらしいが、その代償はあまりにも大きい。


「! その足っ……!! いけません。すぐに消毒を」


 和尚は己の怪我など気にも留めず俺に駆け寄った。

 どことなく動きがおぼつかなく、目以外にも傷ついている場所があるようだ。


 彼は帯をほどいた鶚を背中に担ぎ、俺をお姫様抱っこすると――――


「……いや、逆だろ?」


「カラスが私を抱っこするのは無茶ですよ!」


「分かってるよ! いてて……」









 幸いにして応急処置のセットはナースステーション内部で見つけることができた。

 これで俺の脚と和尚の目、つまり外傷はどうにか取り繕うことができる。

 消毒してガーゼと包帯を宛がうだけの処置だが、無いよりマシだ。


 後は看護師の私物と思しきカバンから痛み止めの錠剤と胃薬を見つけた。

 それに恐らくは夜勤のスタッフ向けに持参したと思われる菓子パンに紙パックのジュース。


 これらで英気を養いつつ、俺達は鶚の処置に取りかかる。

 もっとも、やれることは限られる。


「カラス! これですか!?」


 たたっと和尚がステーションの仮眠室に駆け込んでくる。

 女臭い仮眠室には五つものベッドが用意されており、激務の程が窺える。

 その両手には山ほどの樹脂バッグが抱えられていた。どれも透明で、マジックで何事か書き込まれているものもある。


「ああ。ちょっと見せてくれ」


 鶚は今、毛布に包まれたまま荒い息をついている。

 一番良さそうなベッドに寝かせているのだが状況は芳しくない。


「リンゲル液、リンゲル液……あった。それにブドウ糖液、と」


「点滴、するのですか」


 和尚は恐る恐る問うた。

 が、俺は首を振る。


「注射なら気合でできるかも知れないけど、点滴の注射は無理だ。変なところに刺さったらヤバいし、輸液の量も分からない。鶚、成人してるけど体小さいだろ? 俺達の基準でやったら絶対ヤバい」


「……」


「ど、どうした和尚」


「カラスは医学部でしたか?」 


「いや、半年前に腸炎でぶっ倒れた時に看護師さんと喋ったんだよ」


 半日で帰れると言われたのだがあまりにも凄惨な体験だったので頼み込んで入院させてもらったのだ。

 その時の看護師に笑いながら話された。

 彼女は無事脱出できていると良いのだが。


「これ系の点滴パックって普通に飲めるらしい」


「飲む?」


「そう。飲む」


 俺はリンゲル液の一つをカップに流し込み、ストローを挿して鶚の口に添える。


「鶚。……鶚」


 死にかけのハムスターのように目を閉じていた鶚が薄く瞳を開く。

 嘘のように弱々しい吐息。


「飲め。元気になれる」


 ぁ、と小さく口が開いたが、ストローを突っ込むより早く閉じた。

 ストローの先端をぷにぷにと唇にくっつけるも、彼女は反応しない。


「……貸してください」


 和尚がリンゲル液のパックから直接液を口に含む。

 そして鶚の口元へ――――


「待った。待った待った」


 ギリギリのところでマウストゥマウスを阻止した俺は額の汗を拭う。

 齧歯目げっしもくのように頬を膨らませた和尚が不思議そうに俺を見た。


「俺がやる。……ああ、そうだ。一応、心臓マッサージもやらないとな」


 もむもむもむ、と和尚が何事か伝えようとしている。

 大丈夫なのですか、と問うているらしい。


「おお任せろ! 心臓マッサージと人工呼吸はあれだよ。赤十字の一級持ってるから。がっつり揉みしだいてがっつり口移しして……あっ!?」


 ちううう、と鶚がストローの中身を吸い上げる音がした。

 ちゅううう、ずぞぞ、とカップの中身を飲み干した鶚は毛布にくるまり、そのまま寝息を立て始める。


「……」


「……」


 俺と和尚は顔を見合わせた。

 和尚はリンゲル液で膨らんだ自分の頬を指差す。


「要らねえよ! あんたも怪我人なんだからそれ飲んでちょっと寝てろ!!」


 バリケードを張った俺達は「ちょっと」どころかそのまま深い眠りへと落ちた。

 梟雲を待たせてしまうな、なんてことを考えながら俺も泥の底へ沈む。







「――――。――――らす」


 揺さぶられ、俺は目を開ける。

 脚に違和感を覚えた瞬間、激痛を思い出す。


「ぅくっ!」


「ごめんっ! 大丈夫?」


 目を開くと崖定鶚の姿がそこにあった。

 ジャケットに黒インナー。そして大きな羽根の簪。

 ぱちぱちと開閉する瞳には生気がみなぎっていたし、髪も整えられていた。


「ぉ。大丈夫、か」


 ちらと見れば二つ先のベッドで毛布にくるまった和尚は完全に眠りの底に沈んでいる。

 目以外の傷は浅かったのだが、疲労の程度が段違いなのだろう。

 鶚と俺のやり取りを聞いても穏やかな寝息は全く乱れない。


「ん。もう大丈夫。飲んだアレと……」


 鶚は何とスクワットをやって見せた。

 何だかハイになっているような。


「その他諸々のアレのお陰」


「……何飲んだんだ」


「ひみつ」


 バリケードが一度取り払われた形跡がある。

 俺たちが寝ている隙に復活し、どこぞへ物品を漁りに出たらしい。


「体、熱とか無いか?」


「それはあるかも」


「おいおい……」


「大丈夫。さっきのショックみたいな感じはだいぶ引いたから。痛み止めも飲んでるし」


 そうか、と俺はベッドの中で寝返りを打った。

 多少の空元気からげんきは入っているようだが、それも元気には違いない。

 後は梟雲と合流するだけだ。


(……)


 時間は――――何時だろう。

 昨夜は確か日付が変わるより前に眠った気がする。

 まだ朝にはなっていないことを祈りたいが、仮眠室に時計は無かった。


「鶚。今、何時か分かるか」


「朝の五時」


「……八時まで寝かせてくれ」


「ダメ。って言いたいけど、その方がいいかもね。まだ日が昇ってないだろうし、二人ともそんな感じだし」


 ああ、と俺はもそもそと答えるとそのまま毛布を被って膝を丸める。


 鶚はそれきり数分程口を閉じていた。

 だが俺がうとうとし始めた頃に再び口を開く。


「カラス」


「ん~?」


 瞼が重い。

 俺は鶚がベッドに乗る気配を感じながら枕に顔を押し付ける。


「……ありがと」


「んー……」


 どうでもいい。

 どうでもいいから寝かせてくれ。

 死ぬほど疲れているんだから。




 ちゅ、と。

 何か柔らかいものが頬に触れた。




「!」


 さすがにこれにはぎょっとした。

 振り向けば鶚の柔らかい唇が――――


 ――――ない。


 そこにあったのは親指と人差し指の腹を重ねた妙なポージングと、鶚の意地悪そうな笑み。


「おい。……おい」


「どうかしたの?」


 鶚は素知らぬ顔で含み笑う。

 身体のみならず心にまで生傷を負った俺は


「ひでえ。お礼的なものを貰えると思ったのに」


「あげるわけないでしょ」


 溜息をついた俺が寝返りを打ちかけると、彼女は続けた。


「……ほっぺたにはね」



 今度は唇だった。

 触れたのも、触れられたのも。



 数秒、俺は呼吸を止めた。

 やがて濡れた感触が離れていく。


「みさ――――」


「勘違いしないでね、カラス」


 鶚は氷のように冷たい目で俺を見下ろしている。


「私、別にカラスのこと好きなわけじゃないから」


「!」


 これにはムっとした。


「……俺もだよ。お前、いつ何やらかすか分からないからな」


「そうだよね。必要だと思ったら私はいつでも二人を蹴落とすから」


 つんと澄ました冷笑。

 この野郎、と俺は毒づく。

 どれだけ俺たちが苦労したと思ってるんだ、と。


 一時、俺達の間に不穏な空気が流れた。


 でも、と鶚は俺に覆い被さりながら囁く。


「お礼は……するから」


 微かな、本当に微かな親愛の情のようなものをその呼吸に感じた。

 気のせいなのかどうかは彼女にしか分からない。


 再び唇を重ねた時、俺は確かに彼女の心に触れた気がした。

 ただ、一秒や二秒では分からないので、十数秒触れ続けることにした。

 リンゲル液とブドウ糖の混ざったひどく人間的な味がした。


 ぷぁ、と唇が離れる。

 垂れた前髪を払い、鶚がもぞもぞと俺の毛布に潜り込む。

 小さな身体はポカポカと温かく、彼女の健在を肌で感じた。


「カラス」


「何だよ」


「私、カラスみたいな半端な男、キライ」


「俺も性悪は嫌いだ」


 ずいと俺に顔を近づける。

 鶚の顔はすっかり汚れてボロボロだったが、それでもなお美しいと思えた。


「もっと強かったり、賢かったり、お金持ちだったり、そういう男の方がいい」


 至近距離まで顔を近づけ、鶚は鼻で笑った。

 笑いながら俺の腰に手を回した。


「ああそう。俺も美羽みたいにお淑やかなタイプか、梟雲みたいにイチャラブできる方が好きだっつの」


 俺もまた至近距離で悪態をつく。

 つきながら、鶚の背中を抱き寄せる。

 そしてどちらからともなく、唇を重ねた。



 ただのお礼にしては随分濃厚に舌を絡ませ、鶚は俺の下腹部へ顔を下ろしていく。

 たどたどしさは美羽や梟雲と変わらず、そのことを指摘すると真っ赤になっていた。


 俺が宣言した通りのことにも付き合ってくれた。

 恥ずかしがって腕の中から逃れようとする彼女を抱き寄せ、俺は彼女の髪に鼻を埋める。



 一時間足らずの睦事の中で、俺は崖定鶚のことを隅々まで知ることができた。

 ――――たぶん、鴨春が知らない場所についても。



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