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Grave(重々しく)

 甘い黄色ではなく冷たい銀色の月光。

 海面で反射した光は様々に姿を変え、俺たちの目を欺く。

 時に頭蓋骨に。

 時にナイフに。


 三途の川を渡る船頭のごとく、和尚はダブルブレードの櫂を操る。

 夜の海に響くのは、ちゃぷん、とぷんと波が浮きにぶつかる音だけだ。


 そう。

 みさごの呼吸は波の音よりも小さい。

 背中に押し付けられる乳房は大変気持ち良いのだが、鼓動の弱々しさのせいで勃起もできやしない。


(思ったより軽いな。……)


 鶚をおんぶした俺はなけなしの布と紐で彼女を固定していた。

 体力と体格を考えれば和尚の方が適任なのだが、生憎と俺は操船にも戦闘にも向いていない。


 盗賊にパワーと体力を求めちゃいけない。

 俺にできるのは勇者様の横でうまい具合にアイテムを使ったり、敵の状態異常を誘発したり、逃げ回ることぐらい。

 ――――まあ、適材適所って奴だ。


 よく見れば和尚の肌には火傷の痕が目立った。

 それに手だ。

 手がボロボロになっている。


 あのホテルから逃げ落ち、梟雲と合流して海浜の生け簀へたどり着き、その足でHDL本社へ。

 さぞ濃密な時間だったに違いない。

 現にはためく作務衣の隙間からはムッとするような熱気と清廉な汗の匂いが漂ってくる。


 櫂を操る和尚は俺の視線に気づきもせず、懸命に漕ぎ続けていた。

 HDL本社は既に遥か遠くだ。


 今頃、カフーや鴨春達が檻に現れ、肝を潰しているのかも知れない。

 手錠だけならともかく、檻まで破り、キリコ看守まで完全にかわしているとは思うまい。


 奴らは俺達を追って来るのだろうか。

 海の上を滑って。

 いや、キリコ人間は海の上を移動しないから、オランウータンのように建物を伝って追って来る。


(……)


 何だろう。

 何かおかしいような。


 うまく言えないが、何か引っかかる。

 キリコ人間のことじゃなくて、イグロゾアという「生物」のことだ。

 奴らはどうして――――


「カラス」


 ただの板切れとビビッドオレンジの『浮き』を組み合わせたイカダはひどく心もとない。

 少し強い風が吹けばひっくり返ってしまいそうだ。


「彼女は、平気、なのですか……!」


 力強く海水をかき分けながら和尚が問うた。

 ぎいい、と板切れが軋む。


「鶚は大丈夫じゃない。梟雲きょううんなら大丈夫だ」


 彼女とはあの場所で別れた。

 生存率を考えると一緒に行動した方が良いのだが、生還率を考えると別行動せざるを得なかったのだ。


 病院で鶚に治療もしくは応急処置を施し、そこでハッピーエンドとは行かない。

 沈降寸前のこの島からの脱出も並行して考える必要がある。

 なので梟雲には生け簀を運んでもらうことにした。


 もちろん円形ないし四角形の生け簀を一人で動かすことはできない。

 だが「牽引」なら可能だ。

 梟雲は彼女自身が乗ってきた小さなイカダに生け簀を括り、海を大きく迂回して岸へ。

 俺と和尚は快復した鶚を連れ、市街地を突っ切って海へ。


 幸い、俺達の脳内マップを組み合わせると病院から海岸へのルートを導くことができた。

 これが現状考え得るベストな選択肢だ。

 ――――たぶん。

 まあ、違ったら違ったで別にいい。答え合わせは本土でやろう。


「彼女は片腕が使えないのですよ?」


「いざとなったら沖まで逃げればいい。キリコはまだ海に出てないからな」


「……なぜそう言い切れるのですか」


 きい、きこ、と和尚が闇を進む舟を止めた。

 乳酸たっぷりの腕を軽く振って休ませている。

 灯り要るか、と問うも、和尚はゆるく頭を振った。

 彼は小さな化粧水の瓶から真水を補給している。


「キリコが勝手に海に出て本土へ行けるならカフー達はとっくに後を追ってるはずだろ。あいつら、海は泳げないけど船持ってるわけだし。……脱出手段を持ってるのに外へ出て行かない理由は」


「仲間を集めているから、ではありませんでしたか?」


「どう考えても本土の方が多いだろ。沈みかけの島でやることじゃない」


 だから、と言いかけたところで俺は気付く。

 俺はカフー達がここに居残っている正当な理由について何ら思い当たるフシがないことに。


(カフーと鴨春は強い奴、新しい奴を集める為か……? でもな……)


 たった今俺自身が言った通り、それはこの島でやるべきことじゃない。

 和尚に問われるまで俺は自分の思考の陥穽かんせいにすら気づいていなかった。


 何だろう。

 何かおかしい気がする。


 奴らには「余裕」がある。

 沈降しかける島に居残っても平然としていられる「余裕」。

 それはおそらくHDL社の船舶を奪取したことに起因するはず。


 だが行動に微かな淀みがある。

 俺が奴らの立場ならとっととキリコを連れて出ていく。

 わざわざハーバー12に残っている理由は何だ?


「……どうしてでしょうね」


「へ?」


「いえ。キリコが自力で海へ出て行かない理由です」


 和尚も俺と似た疑問にぶち当たったらしい。


「海には造血幹細胞がないから、じゃないのか?」


「魚類がいるでしょう。赤い血が流れている以上、魚にも何らかの形で造血機構が存在するはず」


「あ~……確かに」


 和尚は槍の穂先を立てる武将のごとく、イカダの上にあぐらをかいた。

 疲労の色は濃く、禿頭には水滴のような汗が浮かんでいる。


「岸に流れ着いた水死体は既に食い荒らされているはずです。キリコが探知しているものが本当に造血細胞なら、自然と海へ向かうのでは?」


「ん~……」


 キリコの有効探知範囲はおよそ20メートル。

 その範囲内に人間がいない時、連中は魚類の骨に反応する。

 だから海へ出ているはず。

 もっともな話だ。


 ではそれがなぜ現実に起きていないのか。


(……)


 イグロゾアは人間の造血幹細胞にのみ反応する生物だ、と言われたらそれまでだが。

 まだ何かが引っかかる。


 ハーバー12の人間が喰い尽くされたら連中はどうするだろう。

 海のお魚さんに反応するのだろうか。

 まあ、確かにこの島はぐるりと海に囲まれているから当然――――


「! 静かに」


 吹き矢のように言葉が刺さる。

 俺は思わず身を伏せ、唇に人差し指を当てた和尚を見つめた。


「……。何かの気配がします」


 じっと息を潜め、耳を澄ませる。

 聞こえるのはとぷん、たぷんという波の音と鶚が微かに歯を震わせる音。


「嘘だろ」


「いえ。……あれを」


 和尚が顎で示したのはやや海寄りの方角だった。

 ぼうっと空が明るく照らされている。


 火事だろうか。

 いや、違う。


「きゃ、キャンプファイヤー?」


「おそらく暖を取っているのではないかと。キリコの手足を持つとは言え、彼らも人間ですから。放っておけば低体温症になるのはカラスと同じということです」


 なるほど、と得心すると共に俺は気付く。

 連中が檻に閉じ込めた俺達に張り付かなかった理由もおそらくそれだ。

 疲れも休みも知らないキリコの手足を持つ以外、奴らは俺達と同じ人間なのだ。


「……半裸だった奴が居た気がするんですが」


「おぞましいことですが、あなたと鶚が聞いた話が真実だとするとカフーはキリコ化以外にも何らかの処置を施されているのかも知れません」


「変な薬のせいでで脳内麻薬出っ放しとか、末梢神経がバグってるとか?」


 俺の放言に和尚はぶるりと身を震わせた。


「考えたくもありません」


(いや、素であのキャラならそっちの方が考えたくないけどな)


 ん、と鶚が僅かに口を利く。

 俺はすかさずポケットに手を入れ、梟雲から託された真水の瓶を手にする。


「起きてるか?」


「……」


 鶚は掠れた声で何事かを呟いた。

 意味のある言葉じゃない。

 声を発するぐらいの活力は残っている、という意思表示に過ぎない。


「飲め」


 赤子の口元に哺乳瓶を宛がうようにして瓶口を向けるも、鶚は反応しなかった。

 身体はひどく冷たく、脈は相変わらず弱い。


「口移ししちゃうぞ、み~ぃちゃん?」


 鶚は何も言わない。

 その歯がカチカチと鳴る様は甲虫が蠢く音にも似ている。


「分かった。じゃ、帰ったら何食うか決めよう。俺、塩もみキュウリが得意なんだよ。」


 きゅう、と鶚の全身が縮む。電極を刺されたカエルのように。

 それが


「あーあー寒いのか? ん? おっけ。俺がすぐあっためてやるよ。……だから死ぬな。マジで。頼むから」


 和尚、と俺は有無を言わさぬ口調で告げた。


「飛ばしてくれ」









 中央病院は。

 ひどい腐臭に包まれていた。


「……」


 ここまでの距離を無我夢中で漕ぎ続けて来た和尚が言葉を失い、危うく櫂を取り落しかけている。

 ごつんとオレンジの俵が外壁に衝突し、その煽りを受けて俺もバランスを崩しかけた。


「っとと。和尚」


 俺は言葉を放る。


「分かってたはずだろ。……もう皆、死んでる」


 人間を襲い、「骨」だけを抜き取るキリコが残すもの。

 ビリビリに破れた皮。

 黄色い脂と赤い血に塗れた40キロから80キロほどの肉塊。

 とぐろを巻く腸。

 ひと山の毛髪。

 はみ出した糞尿。


 それらが数日間放置された結果生まれるもの。

 腐臭。血臭。それにアンモニア臭。 


 二階までもが水没した病院は窓という窓から悪臭を放っている。

 窒息を危惧してしまうほどの悪臭に俺は鼻を摘まみ、鶚も不愉快そうに唸った。


 生存者なんて望むべくもない。

 この中にあるのは百を超えるヒトの死肉だ。


「和尚。……ッ、和尚ッ!!」


 後半は彼を気付けさせるための言葉じゃない。

 病室の一つから一体のキリコが顔を覗かせたがゆえの警告だ。


 骸骨はフラメンコドレスのようなものを身に纏い、動きづらそうに上半身を窓から乗り出す。

 そいつはこりりり、と嬉しそうに笑うや下へ降りようとしてジタバタともがいた。


 やがて、どっぼん、と海面に波を起こす。

 ぷかり、ぷかりと浮かぶパーツに突き上げられ、赤いフラメンコドレスも無理やり水面に浮かんだ。

 胸元にしまわれていたのか、黒っぽい薔薇の花までもが浮いている。


「きっ……キリコが服を!?」


「カフーだろ。悪趣味なことしやがる」


 歯噛みした俺の方を見やり、和尚が背後を指差した。


「カラス!! そっちにもいます!!」


 はっと俺が振り向くと、駐車場と思しき屋根の上に一体のキリコ。

 赤縁のメガネとヘッドフォンをつけたそいつは、犬と思しき生物の脊椎と己の脊椎を結合させていた。

 服は着ておらず、乾いた血のこびりついた肋骨から向こうの景色が丸見えとなっている。


「中へ! さ、早く!」


 和尚がすぐさま窓を割り、イカダを内部へ滑り込ませる。

 水没した二階フロアを猛スピードで突っ切り、階段へ。


 念のためイカダを隠した俺たちはすぐさま三階へと達した。

 真っ暗な病院。

 ところどころに非常灯が点灯しているものの、それ以外は視覚的にも聴覚的にも静穏そのものだ。

 ――――嗅覚的には大嵐が訪れているようなものだが。


「病室に行くのですか!?」


 鼻が曲がるほどの異臭の中でも和尚は声音を弱めない。


「ナースステーションだ! 仮眠室があるはずだ」


「薬はどうします?」 


「調剤薬局……は、無理か。ここの外科って――――」


 こりりり、こりり、と。

 またキリコが立ち塞がる音がした。


 今度は一体。

 ただそいつの威容はそれまでのキリコとは異なっていた。



 衣服は野武士のごとき着流し。

 腕は右しか生えておらず、左には幅広の袖口がひらひらしているばかり。

 右側の眼窩にはヒビが入っており、それは頭蓋まで走っている。

 顔の傷のせいか、目の形が吊り上がっているようにも見えた。


「おい。……何かヤバそうだぞ」


 背中の鶚は苦し気に呻いている。

 体感温度はとっくにマイナスだ。


 キリコを切り抜けるのも大事だが、とにかく鶚を何とかしなければ。


「おい和尚! 聞いて――――」


 三階廊下の窓が。

 開いていた。



 数秒後、どぼおおっと何かが海面に水柱を立てる音がした。


 そして『野武士キリコ』が歩き始める。

 重々しく。

 俺の方へ。


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