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brillante(輝かしく)

 

 墨汁の海から浮かび上がるようにして。

 白い骸骨の全身像が俺達の前に現れた。


 そいつは何故か羽飾りのついた鍔広帽子を被っており、こりり、こりり、と進む度に大きな羽が揺れている。

 赤い非常灯の下、相変わらず緩慢な動きでキリコは俺達に手を伸ばす。


(……)


「……」


 一体。

 潰した方が安全だ。

 俺と鶚は目線をぶつけ、まずその合意を交わす。


 複数体が待ち構えている場合は避けて通ることも視野に入れていた。

 今の俺達に複数のキリコを相手取る余裕は無いからだ。

 背後を取られるリスクを負ってでも複数の骸骨との対決は避けたい。 


 こりり、こりり、と奴が近づく。


(慌てるな……慌てるなよ……!)


 どくっ、どくっと心臓が跳ねている。

 血液と共に何かマズい物質が流れているのか、ピリピリと視界が赤く明滅する。


 大学で。インテリアショップで。整形外科で。ホテルで。

 俺はキリコと何度も対峙してきた。

 だが俺の傍には常に暴力装置が居てくれた。

 和尚。兄貴。梟雲。俺が威を借りた虎たちは今、ここには居ない。


 暗闇がそうさせるのか、両手を伸ばしてこちらへ近づくキリコはこれまで以上に禍々しく見える。

 ずいぶん歯並びの良い頭蓋骨は禿頭の老人が笑うように口を開けている。

 開いた顎の奥には、闇。


 通路幅は5メートルほど。

 俺と鶚は左右に分かれ、ゆっくりと後ずさる。


 キリコは俺達の負傷度を見比べ、より深刻な欠損を持つ方へ目を向けた。

 すなわち指を喪った鶚の方へ。


 はっ、はっと鶚が不規則に息を吐いている。

 彼女も必死だ。

 掴まれたら最後、俺の力でも彼女の力でもキリコを引き剥がすことはできないのだから。


 花弁に見紛う骨盤が闇に浮かぶ。

 膝蓋骨しつがいこつがこりりと触れ合う。 

 手根骨しゅこんこつがクロールするように動く。


 伸ばされた腕を――――


「ふっっ!」


 鶚は上着で吊るしていた瓢箪型のトレーを振るう。

 ちき、ちき、と指骨が金属盾に触れ、もどかしそうな音を立てる。

 銀の軌道が闇に三日月を描く。

 ちき、ちゃき、とキリコの手は何度も何度も鶚に阻まれた。


 キリコ化とアルコールを除いて有効なキリコの対処法③。

 『掴ませない』。


 フェイントを知らないキリコは何十回、何百回弾かれても同じように手を伸ばす。

 右。右。左。右。左。

 トレーのように「面」で指を防ぐことのできる武器は有用だ。いつぞや俺たちがドアを護身具としたように。

 鶚は片手で器用にトレーを振るうが、じりじりと追い込まれていく。


「カラスぼけっとしないで!!」


「あいよっ、と!!」


 地を蹴った俺はカートに飛び乗った。

 しゃああ、と小さな車輪がツルツルの廊下を滑る。


 キリコとすれ違った瞬間、抱きかかえるようにして「ソレ」をもぎ取り、一メートル先でカートから飛び降りる。

 びいい、とゴムのようなものが引っ付いている感触があるもの、それはやがてぷつりと途絶えた。

 後に残るのは積み木が崩れるのにも似た乾いた崩壊音。


 対処法④。

 『背骨を抜く』。

 見た目にはおどろおどろしくとも所詮は人体だ。

 背骨という軸を失えば


「ッ! このっ! このっ!! このっ!!」


 鶚はべちゃりと床に伸びた液状生物を見つけるや、速やかに踏み殺しにかかった。

 小人を殺す巨人のようにめちゃくちゃに靴を振り下ろし、頭蓋を蹴り、手足の指骨を散らす。


 体重を乗せた俺がひとっ跳びしてのしかかると、べじゃあっとクラゲが飛散するようにして透明の液体が通路を汚した。

 恐怖に高鳴る鼓動が興奮のそれへと変じ、俺も泥遊びをするように夢中になって足踏みを繰り返す。


 一分もすると暗闇には静けさのみが残った。

 壁をずるりと伝い、イグロゾアの破片が床に落ちる。


(上々だな)


 俺は勝利の余韻を噛みしめた。


 殺せる。

 きちんと性質を理解して、適切に処理すれば非力な俺達でもこいつらを殺せるのだ。


「ちょっと遅いんじゃ、ないのっ?」


 鶚は軽く息を切らしていた。

 ―――――いや、違う。

 ひどい汗だ。

 額はびっしょりと濡れ、前髪も乱れつつある。


「……。悪い悪い。戦う鶚先輩が格好良くて、つい」


「ハッ……ふざけて、ないで。早く、して」


 べしゃりと濡れた靴で一歩を歩みだし、鶚は僅かにふらついた。

 が、それを巧妙に隠して前へ進む。


(手の怪我がヤバいな、これ)


 鶴宮に噛み千切られた指には痛々しい包帯が巻かれている。

 鴨春は簡単な止血処理はやってくれたらしいが、おそらくモルヒネや医療大麻といった本格的な痛み止めは使用していない。


 俺たちは戦士じゃない。痛みは容易に心を折る。

 もしかするとそれすら見越して鴨春は鶚の手を放置したのかも知れない。

 あの状態で二時間も放置されたら鶚は疲弊し切っていただろう。


「ここがキリコの研究に使われてたのなら、どこかに器材をストックしてる部屋があるはず」


 風呂敷のように上着で銀のトレーを包み、鶚はぶんぶんとそれを振り回す。

 彼女は努めて気丈に振る舞っているようだった。

 俺はあえて詮索せず、闇に一歩を踏み出す。

 もちろんカートも一緒だ。


「ああ」


「アルコールがあればベスト。それにキリコを潰せる重い……冷蔵庫とか」


「れ、冷蔵庫を運べって?」


「カートがあるんだからできるでしょ」


 むしろ今運ぶべきはお前の方だろ、という言葉を喉の辺りで止める。

 やせ我慢しているのは明らかなのだから、言えば気分を害するだけだろう。



 俺たちの進行速度はゆっくりだった。

 姿勢を低くして闇から闇へ。

 数メートル進んでは相棒を待ち、数メートル進んではまた相棒を待つ。



 相手が視覚に頼る生物なら角を曲がる時も大いに注意しなければならないが、キリコはそうではない。

 どうせ索敵範囲に入ってしまえば気づかれるのだから、下手に神経をすり減らさない方がいい。



 防水扉が降りていたのは檻付近の一か所だけで、それ以外の場所で進路を塞がれることはなかった。 

 ――――ただ、他の扉も見つからなかった。


 いや、見つかりはしたのだが。


「くっ! ここも……!!」


 鶚が拳でカードリーダーを叩く。

 いや、溝が見当たらないからスキャンするタイプのセキュリティキーだろう。


 黒い端末には青いライトが灯っているばかりで、数値を入力する箇所も、鍵を挿し込む穴も無い。

 ホテルと同じく独立電源で動いていると思しき部屋の壁は厚く、窓も見当たらない。

 室内への侵入は不可能だった。


「鍵、開けられないか」


 俺はキリコの足音に耳を澄ませながら呟く。


「無理。さっき手錠開けられたのだってぶっちゃけ奇跡なんだから……」


 がんがん、と黒い端末を叩く鶚は悔しそうに歯噛みした。

 だが仕方のないことだ。

 これだけの金持ち企業の、これほどまでの暗部。

 素人に破れるほどセキュリティが甘いわけがない。


(道具は無し、か)


 アイテムの一つでもあれば脱出が楽になる。

 そんな考えを嘲笑うかのように数メートルおきに現れる部屋の扉は堅く閉ざされていた。


「カラス。もう諦めよう」


 鶚はぜえぜえと息をついている。

 キリコと遭遇してから十分以上が経過しているのに、だ。


「武器があればと思ったけど、こうなったらとにかく外に出ることを優先しよう」


「分かっ……」


 がん、がががん、ががん、と。

 ありえない場所から音が聞こえる。


 ――――後ろだ。


「ちょっ、ちょっ、ちょっ、ちょっ!!」


 鶚は慌てて俺を掴み、その背後へ逃げ込む。


「おい俺を盾にするなっつの!!」


「っ! カラスあれ!」


 がが、がしゃ、ガラガラ、と落盤を思わせる骸骨の雨が降る。

 白い砂埃を上げて数人分の人骨が空調ダクトから落下したのだ。


「なっ!? 何でキリコが真下に……」


「……範囲だ」


 え、と俺は鶚を振り返る。


「私たち、あのキリコの『下』じゃなくて『横』の知覚範囲に入ったんだ! 檻を抜けちゃったから!!」


「っ」


 キリコは自分より下部にある生命を探知できない。

 その推論に至ったのは何も俺達だけじゃなかった。

 カフーや鴨春もそれに気づいており、こうして罠を張っていた。

 ――――逃げるぐらいなら殺す、という静かな意思を秘めた罠。


 よりにもよってそいつらは人間型ではなく、ムカデ型に結合し始めた。

 こりりり、と頭が三つ連なり、脊椎がこりこりと肋骨を吸い上げつつ一本に繋がらんとする。


「ヤバイッッ!!!」


 俺はカートをそいつら目がけて勢いよく押し出した。

 もう関係ないだろう。

 今、アレと戦う余裕なんかあるわけがない。


「逃げるぞ鶚ッ!! 走れ! 走れぇぇぇっっっ!!!!」




 高校時代の体育の授業ですらこんな全力疾走を経験したことはなかった。

 俺たちはペースを一切落とさず、互いが互いを追い抜こうとするかのようにめちゃくちゃなスピードで廊下を走り抜けた。

 どこをどう走ったのかすら分からない。


 ただドレスを着たキリコを突き飛ばし、ジャケット姿のキリコを蹴っ飛ばし、シルクハットのキリコに体当たりを食らわせて猛牛もかくやの速度で突っ走る。

 鶚は数メートルと距離を開けず正確についてきていた。


 巨大キリコは俺達を見失い、悔しそうにこりこりと鳴き続ける。

 その音はダクトを伝って出口付近の俺たちの耳にも届き、総毛立つ思いだった。



 俺に数少ない幸運があったとすれば。

 その日は目を見開くほど見事な月が煌々と輝く夜だったことだ。


 切鴇美羽が俺達を導いたHDL本社二階まで逃げ込んだ俺達は、無人と化した廊下の左右に目を走らせる。

 ――――居ない。


 否、居ないと言うか。


(……『配置』できなかったんだな)


 結局のところ、キリコを操ることなんて誰にもできない。

 使命感に突き動かされるイグロゾアはカフーや鴨春が何と言おうと生存者を求めて彷徨うのだ。

 地下の連中はおそらくアルコール類で凝固させられていたのだろう。

 燕や鶯がやったのと同じ手だ。


 俺は凍てつくような夜の廊下を何度か見やり、進むべきを模索する。

 見えるのは明るいグリーンの非常灯と、地下と同じく施錠された部屋の数々。

 どこかで謎解きをすれば鍵が手に入るなんて、そんなことはありえない。


 廊下に連なる窓から外を見下ろせば黒くうねる海が目に入る。

 水の高さは変わっていないようだが、一階が完全に水没した状態には変わらない。

 俺達は事実上の一階に立っている。


 ――――今はとにかく脱出だ。

 もたもたしていたらカフー達が現れるかも知れない。


(待て待て。今の鶚を海になんか入れたら)



 俺は振り返り。

 ぐらりと身を傾がせる崖定鶚がけさだみさごの姿を見ていた。



 彼女は糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちようとしている。


「鶚ッ!!」


 俺は自分でも信じられないほどの敏捷性を発揮し、崩れ落ちる彼女の身体を抱き止めていた。

 心のどこかで彼女の体調が危険域に達していることを察していたからも知れない。


 抱き止めた鶚は目をきつく閉じ、生まれて初めて風邪を引いた子供のように震えている。

 顔面は文字通り蒼白で。

 唇は青紫に変色し。

 カチカチカチカチと歯の根が合わなくなっている。


「おい……おい!!」


 言葉を発することも困難なのか、鶚はゾンビのように呻いた。


「わっかんねーよ!! 何て言ってるんだ!!」


 半ばパニックを起こしかけた俺は慌てて自分の口を閉じる。

 ここでこうしていたらあっという間にカフー達がやってくる。

 それに地下のキリコもだ。


(どうする……おい、どうする!?)


 キリコ人間は。

 和尚と梟雲は。

 鶚の怪我は。

 ハーバー12の沈降は。


 脳裏に渦巻く様々な難問の中で俺は思考停止に近い棒立ちとなっていた。

 硬直を破ってくれたのは他ならぬ鶚本人だった。


「……て」


「あ、ああ!?」


「出、て外、に」


「出るってお前……!」


 指をもぎ取られ、その傷も塞がらないまま海へ落ちたら鶚はどうなる。

 じゃあこの建物はと言うと、恐らくカフー達の根城だ。

 検証していないから何とも言えないが、キリコの「造血幹細胞探知」をキリコ人間と化したカフー達も使えるのならたちどころに居場所がバレてしまう。


「外もダメ中もダメっておい……!」


 おまけに鶚はこの通り。

 俺は悲鳴に近い呻きを漏らした。


「どうするんだよぉ」



 かん、と。

 何かが窓にぶつかる。

 魚が跳ねた音じゃない。



 はっと顔を上げる。

 だがそこにキリコの姿は無かった。


 微かに安堵する俺の視界に別の何かが飛んでくる。

 かん、かん、と。

 今度は少し強めに窓を叩いていた。


(……?! 何だ?)


 海に面した窓の奥。その闇へと目を凝らす。


 夜の海は墨よりも黒く、波打つ水面は月光をまばらに照り返していた。

 その中に不自然なものを認め、俺はため息をつく。


 ああ、と。

 俺は神様に感謝すべきか怒るべきかを判断しあぐねた。


 闇にきらりと光が見える。

 二つだ。

 二つの光。

 ライターか、ペンライトか。


 ――――いや、よく見ると三つだった。


 なぜならそこには禿頭の男が混じっていたから。








 二階に接舷したのは作務衣姿の和尚、鷺沢湖舟さぎさわこしゅう墨下梟雲すみしたきょううんだった。

 二人は手に手にオールを持っていたが、それを放り捨てるようにして俺たちを窓から引き下ろす。


 どん、と水面に浮かぶ木の板の上に着地する。

 鶚は腕の中に抱いたままの着地だ。


「カラス! 無事でしたか……!」


 感極まったかのように涙ぐむ和尚を俺は両手で制した。


「今は勘弁してくれ」


 和尚は燃やされた衣服を新調していた。

 紺色の作務衣にデニムを穿き、乾いた裾をひらひらと風に流している


「からす……!」


 折れた片腕に白布を巻きつけ、梟雲が俺に抱き付く。

 彼女の肌からはまだ甘い女の香りがしていた。


 濡れた衣服は着替えられ、明るいブルーのワイシャツに灰色のデニムを穿いている。


「からす! きょうやったよ! ちゃんとはげつかまえた!」


「ああ。ああ! よくやった梟雲!」


 俺が感激したのはそのことだけではない。

 二人は小さなイカダを造っていたのだ。


 大きなオレンジ色の米俵。

 そう評することができそうなウキを三つに、木の板を三角形に渡した手製のイカダ。

 俺の記憶に間違いがなければ、このタイプの浮材は海にしか存在しない。


「きょう、いけすさがした」


 梟雲はむふんと鼻を鳴らす。

 俺は微かに厭な予感を覚える。


「お、おいまさか壊したんじゃないだろうな」


「いえ、大丈夫です。これらは脱出用の生け簀とは別のものを分解して組み立てました」


 和尚は力強く宣言したかと思うと、しょんぼりとうな垂れる。


「だいぶ手間取ってしまいましたが、彼女の言葉を手掛かりに探し回りました。助けが遅れてしまったことはその……非常に申し訳なく思っていますが」


「いや、いいよ」


 むしろ正しい判断だ。

 闇雲に俺達を探し回っていたら和尚が低体温症を引き起こしていたかも知れない。


 正しく足を手に入れて。冷静に捜索する。

 一見すると遠回りだが、それこそが最速の道だったに違いない。


 すぐにでも飛び出したい気持ちを堪え、こうして確実な手段で助けに来てくれたのだろう。

 和尚も成長したんだな、なんて台詞が脳裏をよぎる。


「よ~しよしよしよし!! キョウは偉いなあ!」


「えへへ~!」






 俺達を乗せたイカダはHDL社から十数メートル離れた場所で停止する。

 とぷん、たぷんと揺れる黒い波の向こうにHDL社ビルが見えるものの、そこからキリコが這い出して来る気配はない。

 索敵範囲を逃れたのだろう。

 俺はほっと胸を撫で下ろす。


 梟雲は片腕にも関わらず実に見事にイカダを操っていた。

 この分だと、彼女は普通に和尚や鴨春のボートで脱出できたのかも知れない。

 後の祭りだが。


 かりそめの陸地へ上がったところでようやく和尚がその話題に触れた。

 ――――俺がずっと抱いていた鶚の話題に。


「鶚……? どうしました。何か話を」


 見る見るうちに和尚の表情が険しくなる。

 彼はオールを手放し、鶚の頬に手を当てた。

 医者のように目をぐいと開き、眼球にライトの光を当てている。


 先ほどから鶚の様子は変わっていない。

 恐ろしいほど震え、怯え、そしてぐっしょりと汗をかいている。


「まさか破傷風ですか」


「分からない。狂犬病ってことはないだろうけど」


 今の鶚は俺達の言葉を聞いているかどうかも怪しい。

 ともすれば口角に泡すら噴いているように見える。


 俺は彼女が唸るのを聞き、努めて明るく答えた。


「大丈夫。大丈夫だ。本土までたどり着ければ病院が」


「……たないかも知れない」


「っ」


 和尚は切羽詰まった表情で俺を見る。


「冷や汗、顔面蒼白、呼吸の不全……まともな状態ではありません。ショックを起こしかけている。最悪の場合、本土にたどり着く前に――――」


 鷺沢湖舟さぎさわこしゅうは言葉を切った。

 俺もその言葉の先は聞きたくなかった。


 俺は医者じゃないから鶚の身に何が起きているのかは分からない。

 分かるのは彼女をこのまま本土へは連れていけないということ。


 和尚と梟雲を漕ぎ手として、俺が彼女を支えることはできる。

 だがそれをやると生け簀の移動速度は大きく損なわれる。

 損なわれたら損なわれた分だけ――――鶚は死に近づく。


「だったら……どうするんだよ」




「ころせばいい」




 ぎょっとして振り向くと墨下梟雲すみしたきょううんが非情な目で鶚を見下ろしていた。

 闇に光る猛禽のごとき瞳。


「からす、やさしい。やさしいけど、だめ」


「……」


 わざわざ説明を求めるまでもない。

 今ここで鶚を見捨てれば健常者が三人。

 生け簀を使って容易に脱出を達成できるだろう。


 本土へたどり着いたら緋勾とコンタクトを取り、速やかにハーバー12の制圧を申し出る。

 これだ。

 完璧だ。

 これぞハッピーエンドだ。


 もはや指先がかするほどの場所に、俺の求める「理想の結末」が待っている。




「なりません!!」




 強い口調で断じたのは和尚だ。

 彼は今にも鶚を絞殺さんとする梟雲を睨み返す。


「カラス。鶚を助けましょう!」


「いや、助けるったってどうやって……」


「病院です」


 はっと俺は息を呑んだ。

 病院。

 和尚が一番最初に目指していた場所。


「私に医術の心得はありません。ですが一人でも誰かが生き残っていたら――――」


「ありえるわけ、ないだろ」


 口ではそう言いつつも。

 俺はその希望にすがらざるを得なかった。


「輸血が必要だったらどうする? 抗生物質を打てるのか? 俺たちは素人」


「行かなければ分かりません! カラス!」


 断言され、俺は後ずさった。

 後ずさると梟雲が胸元に抱き寄せるようにして俺を包む。


「からすはいかない。きょうといっしょにでていく」


 姉のように俺を抱きしめた梟雲は、ちう、と頬にキスをした。


「いけす、あんないできる。きりこ、こないうちににげる」


 そうだ。

 このまま脱出するのが最も安全で賢い道なのだ。


 もし和尚の言う通りに鶚を助けようとしたら?


 島内はキリコだらけで。

 カフー、鴨春、美羽のクレイジー三兄妹が揃っていて。

 生存者はごく僅かなので俺たちは格好のターゲットで。

 しかもハーバー12はいつ沈んでもおかしくない。


 だから賢い俺はもちろん――――


「からす! きょうといっしょにきて!」


 梟雲は泣き出しそうな顔でそう告げた。


「からす! からすはいっしょにかえるの! きょうはからすがすきなのッ!!」


 ああ、分かる。

 梟雲は何も鶚が憎いわけじゃない。

 俺を助けようとして最善を尽くしてくれているのだ。


 だから――――


「カラス! 鶚を見捨てるつもりですか!?」


「……」


 和尚の気持ちも分かる。

 だがそれは自己満足に過ぎない。


 見返りを求めない心。滅私の奉仕。自己犠牲。

 それらは確かに美しい。

 美しいが、軽い。


 俺は絶対に死にたくない。


 生きたい。

 生き残っていい思いをしたい。

 梟雲を何度も抱きたいし、金に溺れたい。贅沢をしたいし、楽して生きて行きたい。

 ――――そして満足と幸せの中で天寿を全うしたい。

 死ぬまで生きていたい。


 和尚はそうじゃないのだろうか。

 無様に生きるより美しく死ね、なんて言葉がある。

 ナンセンスだ。

 生き続けることより優先される正しさなんて存在しない。

 命より重いものなんてない。

 もしそんなものがあると言う奴は。

 無意識に自分の命を、人生を軽く見ているのだ。


 和尚のやろうとしていることは美しいが、軽いのだ。

 自分の命を軽く見るような奴の言葉が、必死に生きようとする者の心を動かすことはありえない。


 ああ、と俺は自分の思考に真実の一端を見たような気がした。

 和尚と鶚が噛み合わなかったのはそもそもそういうことなんだ、と。



 逆の立場なら喜んで俺を見捨てるような奴を。

 どうして助けてやらなきゃならないんだ?



「私だって分かっています……! 鶚は許されないことに手を染めて来たのでしょう?」


 ぎりりと奥歯を軋らせる和尚の姿に俺は言葉を失った。


 和尚だって頭では分かっているのだ。

 今、この瞬間こそが自分の生死を分かつ時かも知れないと。


 他人を殺さない。

 しかし己も殺さない。

 それこそが和尚の歩む道だった。


 死にたいわけがない。

 和尚だって生きたいに決まっているのだ。

 逃げ出してしまいたいのだ。

 それでも踏みとどまっている。崖っぷちで。


「……血の匂いがするんです、この手からは」


 和尚は鶚の小さな手を包み、ぎゅっと握る。


「生きようとする妄念のあまり、きっと大勢の人々を傷つけて来たんでしょう、この子は……!」


「……」


「それでも見捨てるわけにはいかないじゃないですか!! 今ここで鶚を見捨てたら私たちは……彼らと……カフー達と同じになってしまう!!」


 ああ、違う。

 違うんだ和尚。


 何を以って「カフー達と同じ」と言っているのか知らないが。

 人殺しの有無なら俺だって同じだし、梟雲だって同じだ。


 でも同じで何が悪いんだ。

 生きる為だ。その為に人を殺したり、見捨てたりして何が悪い。


 傷ついた奴を助ける為に自分の命を危険にさらすなんてできない。

 弱い奴は――――


(……)


 弱い奴は死ねばいい。

 ――――弱い奴は。



 兄貴の後姿が脳裏をよぎる。

 そうだ。

 俺はあの人のように正しい道を歩むべきなんだ。


 自分の利益の為に忠実に。

 狡賢く。




「和尚。……すまん」



 和尚は悲しそうに睫毛を伏せた。

 俺の真意を察したのか、梟雲はオールを手に背を向ける。


「……本当にヤバくなったら俺達を盾にしてくれ。最後まで生き残ってほしい」


「?」


「で、俺達にお経読んでから……最後に一人で死んでくれ」


 俺は性悪女を背負った。

 病み、湿った、途切れ途切れの呼吸。

 ぷにゅりと柔らかい乳房の感触。


(……)


 また兄貴に鼻で笑われてしまいそうだ。

 お前は本当にバカだ、と。

 バカで賢くない、と。


 だが言い訳はしない。

 俺は嘲笑わらわれて当然のことをやっている。


「行くぞ、和尚」



 ――――つまり、いつも通りってことだ。



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