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Allegro(快速に)

 

「――――す! ――――!」


 鶚を背負った梟雲は四階の最奥へ向かって走る。

 靴音が絨毯に吸い込まれるのを感じながら俺も後を追っていた。


 過剰分泌されたアドレナリンによって火照った体が急速に冷えていく。

 ともすれば走ることをやめてしまいそうなほどに全身が重い。


 指先の血と粘液を拭った俺は虚脱感による深いため息をついた。

 和尚の怒鳴り声とカフーの笑い声は着実に背後へ近づいてきているのに、だ。


 こりり、こりりり、というBGMの音量も一メモリずつ大きくなっていく。

 まるで友人殺しをやった俺を咎めるかのように。


(あー……)


 ついカッとなってやってしまった。

 そんなフレーズが脳裏をよぎる。


 燕や鶯と違い、鶴宮は決して殺意を持って俺に襲い掛かってきたわけではなかった。

 もしかすると話し合う余地があったのかも知れない。


 だがその可能性を探る術はもうない。

 誰かも言っていた通り、人生には悩む暇なんてないってことだ。


(呪ってやる、ね)


 手に残る鶴宮の体温を握りしめ、俺は奴の怨嗟を記憶の水底に沈めた。

 たぶん何度も浮かんでくるんだろうな、と思いながら肩をすくめる。

 まあ、忘れてしまうよりそっちの方がいいだろう。


「からす! きいてる?!」


「っ、お、あ、聞いてます!」


 角を一つ曲がり、トイレを通り過ぎた。

 通路には大きな壺やら絵画やらが飾られており、窓から差す夕陽を照り返す。


「ふね、みっつしかない! きょうとからす、どうする?」


「……」


「おっぱいはころす? はげとまっくろは?」


 俺、梟雲、鶚、和尚、鴨春を除けば生存者はせいぜい4~5人だ。

 イカダに一人、丸太舟に一人ずつ。

 彼女の言う通り、このままでは完全な椅子取りゲームになってしまう。


(殺す……ってのは無理か)


 こっちへ逃げて来た連中は腕一本と引き換えに生存をちらつかせるカフーを拒んだ。

 例え命を約束されるとしても、本土へキリコをばら撒かんとする奴とは組めない、と態度で示した勇者の一団。

 鴨春を筆頭にどいつもこいつも強い精神力の持ち主だ。

 下手に悪知恵で隙を突こうとすれば返り討ちにされてしまうかも知れない。


 なら答えは簡単だ。

 善なる行為に勤しめばいい。


 俺は鬼畜でも外道でもない。

 善なる行動が良い結果を生むのなら、それを選ぶに越したことはない。要はバランスだ。


「泳ぐ」


「およぐ」


 走りながら梟雲は鸚鵡返し、目をぱちくりさせた。


「……。え。およぐ?」


 俺の口から画期的な解決策が出て来ると期待していたのか、彼女はややうろたえる。 


「泳ぐ」


 イカダは一つで船は二つ。

 それらを『脱出に』使えば確かに椅子取りゲームになる。

 だがそのプランは船が素人作であるという時点で実現不可能なのだ。それは誰もが分かっている。


 ――――ここで『生け簀を使う』という俺の切り札が活きて来る。


 生け簀は魚を囲うという性質上、ほぼ例外なくドーナツ型や四角形となっている。

 台風ぐらいじゃびくともしないほど強力な浮袋をいくつも連ねた状態で、だ。

 ここにいる全員と和尚を足してもきっと余裕で水に浮く。


 なら話は簡単だ。


「和尚と、キョウと、鴨春が船の『上』だ」


「ん。でもがいこつ、くる」


「お前らはキリコをぶっ叩け。俺たちが犬ぞりみたいに船を引っ張る」


「……」


 梟雲は泥臭い逃走手段に疑問を抱いているようだった。

 だがおそらくこれが最適解だ。

 なぜなら泳ぎ手も乗り手も誇り高い勇者様なのだから。

 虚を突いて船を奪うような奴はとっくにカフーに与している。


 裏切りの心配がないのなら一丸となって行動した方が生存率は上がる。


「はだか、くる」


「いや、来ない。『足場』が無いからな」


 俺はちらりと窓の外を見やる。

 このエリアは美羽に追い回されたあの場所より海が近い。

 海に近いということは必然的に建築物が減る。その上、4メートル以下の構造物はすべて水没している。


 キリコの腕を何本生やそうと無駄だ。

 カフーは10メートルと進まない内に足場を失うだろう。


「おおきいがいこつ、くる」


「その時は誰かが腕を落とせばいいさ」


「え」


「あいつらが嫌がってるのは『本土にキリコを連れていくこと』であって、『キリコ人間になること』じゃない」


 だから。

 本当に窮地の窮地に追い込まれ、俺が『くそう! 俺も腕をキリコに変えていたら助かったのに』なんて叫べば、猛者たちのうち誰かは気付く。


 ――――自分が腕を切断してキリコ人間になり、巨大キリコに挑めば皆を救える、と。


 その道具が鴨春の腰に差さっていることも俺は知っている。

 あのでかい出刃包丁を使えば肘から下ぐらいさっくり切り落とせるはずだ。


 嗚呼、と俺は首を振る。

 正義の心は素晴らしい。

 俺のような弱者は積極的にそれを利用させてもらおう。もちろん無料で。


「ってか、誰かが腕を落としてキリコをおびき寄せて、またキリコを外して、またおびき寄せてを繰り返せばハメられるんじゃないか……?」


 俺は思わぬ副産物に笑みを浮かべた。


(……神様がついてるな、今日は)


 きっと鴨春達は俺より数分先にこの「カルネアデス問題」に直面している。

 ここまで走り抜けてきたはいいが、じゃあ誰が助かるのか、という極限状態にありがちな問題に。


 そこで俺の出番だ。

 実はハーバー12には水産系のバイオベンチャーが進出していて、でかい生け簀がある。

 それを使えば一人も欠けることなく皆で出られるぞ。

 そう高らかに宣言すればどうなるか。


「うふふっ」


 拍手喝采雨あられだ。


 無事に本土へ戻ったら皆、こぞって俺に「お返し」をしてくれるに違いない。

 職は緋勾に斡旋してもらうからいいとして、次は何が必要だろう。取引先かな。

 営業職に配属されたら労せずしてノルマ達成だ。

 ああ、でも俺は管理部がいいな。経理とか、総務とか、人事とか。土日休めて営業と出張が無い仕事がいい。

 うっかり鴨春に惚れられでもしたらどうしようか。本土で緋勾と取り合いになるかな。


 そんな妄想をしている間も鶚はぐったりと梟雲にもたれかかっていた。

 彼女が俺の浅知恵を嘲ったり、逆に驚いたりもしないことが少し寂しい。


「からす。着く!」


 俺達の前方には非常階段を示すグリーンの灯りと人だかりが見えていた。

 その中には見覚えのある黒髪の女子高生もいる。


「おーーーーーい!! 鴨春!!」


 俺は大声を上げながら彼らに近づいた。


「置いてくなよ!! 船だろ? 大丈夫。実はこの――――」



 予兆はあった。

 鶴宮が俺達より先に船へ先回りしていたという、予兆は。


 どうしてその可能性に思い至らなかったのだろう、と。

 俺は自らの底の浅さを呪った。



 俺が目の当たりにしたのは。

 拳大の穴が空いた丸太舟が二つと、八つ裂きにされた発泡スチロールのイカダだった。  







「あ……?」


 間抜けな声。

 はあ、はあ、と自分でも気づかない内に荒い息が漏れる。


 思考停止しているというのに、脳みそと肺は貪欲に酸素を求めていた。

 新たな空気を取り込む度に全身を熱が伝い、鶴宮に殴られた場所がずきずきと痛み始める。


「は……え?」


 非常階段付近に安置された丸太舟は船底に穴を開けるだけでは足りないとばかりに、サイドカー部分までへし折られている。

 オールに至っては影も形も見当たらない。もしかすると階段の外へ投げ捨てられたのだろうか。


 これでは浮くことはおろか展示物にもなりやしないだろう。


(やってくれたな……鶴宮ァ……!!)


 脱出の途が絶たれた。

 その直感で俺の胸に黒い炎が燃える。


(あんの野郎……もう二、三回殺しとけば良かった!!)


「か、からす。ふねがしんでる!」


 鶚を背負った梟雲は眉を八の字にして困惑の表情を浮かべる。

 安いワイシャツにはうっすらと汗が滲み、下着の形が見え始めていた。


(ヤバいな。やっぱそう甘くないか……)


 船がなければ速度が稼げない。

 速度が稼げなければキリコ達を振り払えない。

 最悪、カフーが素泳ぎで追いついてくる。


「鴨春!」


 俺がそう叫ぶと、泡がぱちんと割れるようにして周囲の時間が動き出す。


「おいどうする!? もうカフーが来ちまうぞ!」


 はっと気づいたように他の生存者たちも鴨春の名を呼ぶ。


「鴨ちゃん!」


「鴨ちゃんっ!!」


「……大丈夫。大丈夫です」


 セーラー服姿の鴨春は必死に自らの感情を抑え込んでいるようだった。

 ホオズキの髪飾りを留め直し、胸に手を当てている。


「取り乱さないでください。方法はあります」


「! マジか」


「ええ。皆さん、まずは深呼吸してください」


 自分より遥かに年上の大人にまで頼られても彼女は決して取り乱さなかった。

 集団を率いる者としての振る舞いを弁えている。

 やっぱり頼りになるな、と思いながら俺は胸を撫で下ろした。


 すー、はー、と。

 俺も含め生存者が一斉に深呼吸をする。


「落ち着きましたか? 大丈夫ですね?」


 鴨春は振り返り、きりりとした表情のまま言葉を継いだ。


「では皆さん、まずは――――」





 笑ってください。





 その言葉を聞いた瞬間、誰もが凍り付いた。


「鴨、春……?」


 俺は引き攣った笑いを浮かべたまま彼女に問う。

 鴨春はキリコ人間になれと命じているらしい。


 ある意味妥当だ。

 こいつらは何もキリコ人間になることそのものを拒んでいるわけではないのだから。

 一時的にあの姿を取ってキリコから身を隠し、そしてカフーから逃げ遂せる、というのは決して非現実的な選択肢じゃない。


「ま、待て待て。確かに腕落とせばキリコからは助かるんだろうけどさ、モロに逃げ出した俺達にカフーが何するか――――」


「そうだよ鴨ちゃん! あんな姿になったら絶対めちゃくちゃやりたくなるって!」


 口々に正義の言葉を放つ生存者たち。

 だが鴨春は凛然とした笑みを崩さなかった。



 ――――違う、と。

 気づいたのは俺が一番初めだった。



 そこから波紋が広がるようにして周囲の連中の息遣いが変わっていく。


 咲酒鴨春は凛とした表情の中、口の端を僅かに持ち上げて笑っていた。

 そこには今しがた心変わりしたかのような卑屈さは見られない。


 もしかしたら彼女が笑ったのは今が初めてではないのかもしれない。

 もしかしたらずっと前から。

 例えばホテルで合流した時から。

 例えばクルーザーで分断された時から。


 例えば、この島へ来る前から。

 こいつは笑っていたのかもしれない。


 その考えに捉われた俺は、ゆっくりと視線を下ろす。



 ――――そう言えば俺は。


 こいつが黒タイツを脱いだ姿を。


 知らない。



「大丈夫です、皆さん。ご覧の通り逃げ道はありません。それにカフーは無駄に寛大な男です」


 黒髪の女子高生は高貴さすら感じさせる微笑を浮かべる。


「どうか安心して……諦めてください」


 裏切られたわけではない。

 俺達はどうやら初めから騙されていたらしい。

 一体いつの時点を「初めから」とすればいいのかは分からないが。






 鶚が浮いた。

 否、梟雲が手を離し、駆けたのだと分かった。

 猛牛さながらの突進。


 だが僅かに一手、鴨春が上回った。

 黒タイツに覆われた脚がまるで別の生き物のように梟雲の利き腕に絡みつき――――


「せー、のっ!」


 ぐん、と鴨春が上体を反らせた。

 捕獲と同時に彼女は梟雲の腕を掴んでいたのだ。

 そう気づいた時には腕ひしぎ十字固めが完成していた。


 ぼぎん、と嫌な音が響く。


「~~~~~ッ!!?」


 梟雲が膝をつくと、鴨春はその顔を蹴って後方へ跳ぶ。


 そしてスカートの中へ両手を入れ、前屈をするようにしてするりと黒タイツを足首まで下ろした。

 無機質な白い右脚に手を添え、ジッパーを下ろす仕草を見せたかと思うと、そこには真っ白な骸骨の脚が覗く。

 ぱかりと二つに割れた義足が転がり、再び少女は黒タイツを穿いた。

 ただし、不要な右脚側は包丁で切り裂いて。


 ほかほかの黒タイツが床にとぐろを巻き、こつりと骸骨の右足が床を踏む。


「切り落としやすくなったでしょう?」


 冷笑を浮かべた鴨春は梟雲を見下ろした。

 黒髪の相棒は腕を押さえたまま立ち上がれずにいる。

 関節を外されたのか。いや、折られていると見た方がいい。


 奴の目は俺を見た。


「うっ、おっ……」


 俺は梟雲の肩を掴み、鶚の襟を掴み、じりじりと後退した。

 生存者も後退するが、今度は背後から激しい衝突音が聞こえる。


「くっ!」


 だあん、と強く踏み込んだ和尚がこちらへ駆けてくるところだった。

 作務衣を乱した和尚は白い半身を覗かせていた。


「カラス! 鴨春! そっちは――――」


 不穏な気配を察したのか、ききっと急停止した和尚が目をぱちくりさせている。


「お、鴨春!? な、その脚、は」


「鷺沢さん」


 鴨春は生存者越しに和尚へ言葉を放った。


「私を見ている場合ですか?」


 和尚が顔を歪めた次の瞬間、窓を破って通路へ褐色の影が飛び込んだ。

 砕け散るガラス片が夕陽に煌めく。


「和尚っ!!」


「そらァっ!! 捕まえたぜ坊主っ!!」


 がっしと真横からカフーに抱き付かれた和尚は崩れこそしなかったものの、苦し気に呻いた。


 異種格闘技戦を思わせる体勢だが、圧倒的に有利なのは不意を突いたカフーの方だ。

 しかも片腕はキリコ。

 さすがの和尚も力負けしており、両手両足でホールドを決めた半裸を振りほどけないでいる。

 立ったまま踏ん張っているのが奇跡的な程だ。


「カハハッ! そうかい、シュンもサプライズやっちまったのかい」


 ユーカリに掴まるラッコを思わせるカフーは俺達を見やり、告げる。


「さァ、選択の時間だぜ。チンケな意地張ってゾアに殺されちまっても誰も褒めちゃくれねえぜ?」


 腕を切り落として一時的に忠誠を誓い、隙を見て闇討ちするなんてことはできない。

 それは「殺意」を伴うからだ。

 だからこそカフーはあけっぴろげに俺たちを誘っている。


 そうこうしている内にも通路の向こうからは山ほどの骸骨連隊が迫りつつあった。

 こりり、こりりり、と教師に駆け寄る子供のように白いキリコが近づいて来る。



 生存者の全身から活力が抜け、濃い絶望が大気を汚染するスモッグのように漂う。

 俺とて例外ではない。


 鶚はそもそも戦闘不能。

 梟雲は片腕を折られた。

 和尚はカフーに抱き付かれて動けない。


 前方にはカフー。

 後方には鴨春。


(……)


 俺の力では突破も脱出も不可能だ。


 じゃあ腕を落とすのか。

 ――――それはイヤだ。


 何故ならそれをすることはカフーに服従することでもあり、とりもなおさず本土へキリコを連れていくことでもある。

 もちろん本土で起こり得る大虐殺に罪悪感は覚える。事実上、その協力者となってしまうことにも。


 だがそれ以上に。

 せっかく手に入れた緋勾という後ろ盾が。

 せっかく楽勝モードに入りかけていた俺の人生が。

 ――――ぜんぶ、台無しになってしまう。


 それが何より嫌だった。

 喉をかきむしりたくなるほど嫌だった。


 カフーが本土にキリコを解き放てば血と暴力が世界を覆う。


 俺は弱い。

 そして賢くもない。

 生存の為に平気で自分の腕を捨てるような豪傑共の世界では生きていけないのだ。

 世の中はもっと強い奴、弱い奴、善い奴悪い奴も一緒くたになってゴミゴミしているべきなんだ。

 俺が腐肉を漁り、おこぼれを頂戴して、うまい具合に生きていけるように。


 俺の将来設計はカフーの思想と相反する。

 その事実を俺は噛みしめた。


「よお、兄ちゃんはビビっちまったか? カハハッ!」


 褐色の男は和尚を殺したりはしない。

 ただ抱き付いているだけ。

 ただ抱き付いているだけだが、もう一分とせずにキリコが追い付いてしまう。


 ここに来るまでに選んだいくつもの行動を悔いながら、俺は覚悟を決めた。


「キョウ」


 折られた腕を庇いつつ、梟雲が吐息で返事をする。


「鶚頼む。もう一回、ジジイの時と同じことやるぞ」


「! ……」


 通じたかどうかは分からない。

 だが今は信じるしかなかった。


「和尚!!」


 俺は叫ぶ。


「悪いな」


 俺はまっすぐに通路を突っ走り、宴会場から拝借したマッチを取り出した。

 火薬のついた丸い頭部を擦り、放る。



「……ばいばいだ」



 まだアルコールに濡れたままの作務衣。

 そこにフランベのごとき焔が上がった。


「のわっ!?」


 カフーが目を見開き、和尚を手放す。


「うっ……お、ああああああっっっっ!!!!」


 燃える。

 和尚が派手に燃え上がる。

 そして俺の狙い通りのことをやってくれた。


 彼は文字通り火事場の馬鹿力とでも呼ぶべき突進で通路を駆け抜け、キリコを吹っ飛ばし、通路を駆け抜け、キリコを吹っ飛ばし、通路を駆け抜け、キリコを吹っ飛ばした。

 突き飛ばされた骸骨は容赦なく和尚を掴んだが、死の淵に追いやられリミットの外れた和尚には敵わない。

 無数のキリコを全身に纏わりつかせた和尚は瞬く間に通路の奥へと消え、そして――――


 数十秒後、だぱあん、と水柱の上がる音がした。


 それの音を俺は背中で聞いていた。

 なぜならマッチを放ると同時に180度ターンして鴨春の元へ駆けていたからだ。


「お、おおおおらああっっ!!!」


「!!」


 鴨春は一本足打法のようにキリコ脚を構えたが、すんでのところで俺は手の中の「それ」を放った。

 ――――人間の指。


「ッ!!」


 動体視力に優れる鴨春はこれを知覚し、理解し、判断し、反応してしまった。

 つまり得体の知れない放擲物への回避を優先した。


 立ち上がった鶚の手を引き、梟雲と俺は一気に船の横を駆け抜け、非常階段のドアを破る。

 びょう、冷たい夕方の風に顔を叩かれ、俺も、鶚も、梟雲も手で視界を覆う。


 視界は一面のオレンジ。

 じきに夜の帳が降りればハーバー12は闇へと沈む。


「――――!」


「! ――――っ!」


 分厚い鉄扉の向こうでは鴨春と生存者たちが争う音がする。

 彼らがどうなるかなんて考えている場合じゃない。

 もうこれが最後のチャンスだ。


「キョウ! 飛べッ!! ……あ、や、ちょっと待った!」


 海面はせり上がっているとはいえ、ホテルの四階だ。

 さすがに高すぎる。


 もしかしたら死ぬかも知れない。

 壁面に打ち付けられて骨折するかも。

 いや何かに刺さってしまうかも。


 そんな懸念も何のそので、俺の相棒墨下梟雲は鉄柵を乗り越えて飛んでいた。

 片腕を折られた激痛に耐えているとは思えない、あまりにも鮮やかな跳躍だった。

 どぼおっと水柱が立ったが腕を痛めているせいか、梟雲はすぐには浮かび上がって来ない。


 残されたのは無言の鶚と俺。

 見下ろせば海面は遥かに遠い。もはやちょっとしたバンジージャンプだ。


「ぅ……いや、もう一階ぐらい降りてからでも良いんじゃ……」


「……」


 俺は借りて来た猫のように大人しい鶚の手を引いて非常階段を駆け下り、三階鉄柵に足を掛けた。


「よし、ここからなら――――」


 すう、と息を吸った次の瞬間、俺は確かに飛んでいた。



 ――――下ではなく、『上』に。



「おおおああっ!?」


 クレーンゲームの商品よろしく凄まじい力で持ち上げられた俺は嫌というほどの浮遊感を味わう。

 真下には遥かに遠い水面。

 血の気が引いて足が冷たくなる感覚。


「きゃっ!?」


 僅かに遅れて鶚も俺の傍まで飛んだ。

 いや、『飛んだ』のではない。『引っ張り上げられた』のだ。


 カフーが現れた時点で当然警戒しなければならかったのに、鴨春や鶴宮のせいで記憶から抜け落ちていた「彼女」が。



「カーラッスさーん」



 赤と黒のチェックスカート。

 シルバーチェーンを垂らしたベルト。

 冬ものにしては生地の薄い、淡いピンク色のカーディガン。

 耳に嵌めていたイヤーカフは髑髏の意匠へと変わっていた。


「つっかまーえた」


 非常階段の裏に二本脚で掴まり、残る四本脚で俺達を捕獲した切鴇美羽が嬉しそうに笑う。

 コウモリのように逆さまになったお嬢様はスカートを両手で押さえつけていた。



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