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appassionato(情熱的に)

 

 うっ、と。

 呻いたのは俺だけではなかった。


 それまで見たこともないほどの数のキリコが次々にエントランスをくぐり、井戸の底を思わせる水面で人の形を形作る。

 三人一組で挑むとか、囮を使うとか、そんな小細工が通じないほどの物量。

 こりり、こりりり、とキリコが階段を昇り始める。


 一歩、また一歩。

 三体、五体、七体。

 十体、二十体、三十体と数を増やすにつれ生存者の顔から血の気が引いていく。


「なあに。何も心配する事ァねえ」


 火楓は抜き身を肩に担ぎ、軽い調子で告げた。

 奴のところへ向かうキリコは一体として存在しない。


「ちょいと俺のところへ来て腕を出しゃいいだけだ。スパッと輪切りにしてやらぁ。そしたらキリコをくっつけて」


「お待ちなさい!」


 和尚だ。

 彼は今、恐慌に陥りかけた生存者を庇うように仁王立ちしている。


「あなたが沼月さんの言っていたカフーさんですか」


「おお、そうだぜ別嬪坊主。俺がカフーさんだ」


「外に出る船を操縦できるそうですね」


「できるさ。檻の中は退屈でよぉ」


「……まさかキリコまで本土へ連れていく気ではないでしょうね」


 俺と梟雲はその言葉にぎくりとしたが、真上のフロアでじっとしている鶚は特に驚いた様子を見せなかった。


「そりゃお前――――」


 カフーは馬鹿にするなとばかりに手をちょいと振り、続けた。



「連れていくに決まってるだろ? こいつらは新時代の天使サマだぜ? ……ちょいと脂肪分が足りてねえようだが」



「ふざけるなッッ!!」


 大気を震わす怒号と共に和尚が吠えた。

 階段を昇りつつあったキリコまでもがこりり、こりりと体勢を崩し、互いにもつれ合う。

 すかさず鴨春が酒を放るも、多勢に無勢だ。


「何が天使ですか!! こんなものを本土へ持ち込めば」


「腕、落としゃいいんだよ」


 カフーは人差し指で耳の裏をかいていた。


「誰も彼もにそれを強要する気ですか!?」


「するさ。新しいモンを受け入れられねえ奴ァ死ねってことよ」


 くくっと含み笑ったカフーは俺を見やった。


「そうだろ兄ちゃん? 電子書籍が流行って紙の本が死んじまったように! ケータイが流行ってカメラ屋が消えちまったように! ヒトの身体にゃもう肉は要らねえ。疲れず、休まず、動き続けるこの骨さえありゃあいい」


 きっと和尚が射殺すような目を俺に向ける。

 カフーが親しみを込めて俺に話しかけたと思っているようだ。


「あー……俺はどっちでもいいかな」


「どっちでもいいなんざねえなあ!」


 ひゅん、とカフーが刀を一振りするとキリコ達がざわめき出す。

 骸骨は二階の半裸男を素通りし、次々に和尚達を追い始める。


「嘆かわしいぜ! 新しさを否定しちまったら人間終わりだぁ! 古い商売! 古い伝統! 古い発想! 古い人間もなぁ、俺が根こそぎ洗い流してやんよぉ!」


 指揮棒のように構えた切っ先で円周通路の生存者を示し、カフーは舌なめずりする。


「そーら。考えてる場合じゃねえぜ? 人生に悩んでる暇なんざねえのよ。どっちだお前ぇら。早く決めな。来るか。死ぬか!」


「決まり切ったことです! そのような邪」


 邪悪な振る舞いは許さない。

 そう言おうとした和尚の肩を鴨春が掴んでいた。


「構わないで! 今は逃げないと!」


 彼女の言は正しい。

 俺と梟雲、和尚率いる一団、鴨春率いる一団は今三階の円周通路に居る。

 水没した一階から湧き出すキリコは次から次へと階段を這い上がり、今にも三階に至らんとしていた。


「おっ、和尚ボートは!?」


「四階の大ホールです!」


「アホか!! 何でそんなところまで上げたんだよ!」


「キリコが来た時に壊れたら困るからでしょ」


 言い残し、誰よりも速く鶚が駆けだす音が聞こえた。

 奴が含み笑う声はおそらく俺しか聞いていなかった。


(野郎っ、一人だけ逃げる気か……!!)


 それまでのフロアはエスカレーターのように階段が上へ上へと連なっていたが、三階から四階への階段は円周通路を半周しなければたどり着けない。

 和尚と鴨春はそれぞれの生存者を率い、必死に通路を駆け抜ける。

 俺は彼らより上階への階段に近い位置に立っていたが、それでも鶚には追いつけそうもない。


 鶚に和尚達のボートを持ち上げる腕力はないが、分厚い発泡スチロールを組み合わせた俺たちのイカダは別だ。

 ちょいと非常階段からそれを投げ捨て、海に飛び込むなり何なりすれば一丁上がり。


 この状況下で最も有利な位置に居たのは鶚だった。


「からす!」


 カフーは手で庇を作り、俺たちの様子をのんびりと眺めていた。


「うで、おとす? あいつ、ころす? はげといっしょ? おっぱいころす? きょう、どうしたらいい?!」


 梟雲はいくつかの選択肢があるおかげでだいぶ取り乱していた。

 彼女の言う通り、この状況での選択肢は複数ある。


 ①カフーに腕を落としてもらう。

 ②戦国武将のようにキリコの大群に突っ込んで活路を切り拓く。

 ③和尚達と合流して逃げる。

 ④和尚達を足止めし、鶚を追いかけて背中を刺す。二人で脱出する。


(……)


 確実に助かるつもりなら①が正しい気もするが。


「和尚達と合流する」


「なんで?」


「それはもちろん……」


 両手で揉んだ方が気持ち良かったから。

 骨にするなんてとんでもない。

 ――――というのは黙っておこう。無事帰る時まで。


「カラス! 突っ立ってないで早くこちらへ! 奥です! 奥へ!」


 和尚の一団はあっという間に俺達の元へたどり着いたが、俺は違和感を覚える。

 ――――数が少ない。


「! 和尚! おい人がっ!」


「えっ?」


 和尚も振り向き、ようやく気づいたらしい。


「よぉよぉよぉ大歓迎だ!」


 火楓の声はすぐ近くで聞こえた。

 二階にいたはずの奴はいつの間にか三階へ達しており、ひらりと楓柄のパレオをはためかせながら足を止めた三人の前に立っていた。

 オッサン、お姉さん、それに子供だ。


「そーら腕出せ」


「なっ、何をしているんですかっっ!!!?」


 和尚の叫びは悲鳴にも近かった。

 が、足を止めた連中は事故でも偶然でもなく自らの意思でそうしているように見えた。


 連中は冷静に和尚と火楓を天秤にかけたのだ。

 火楓は決して理性的な人物ではない。

 はっきり言って頭のおかしい人間だ。


 だが確かな事実が一つだけある。


「ちょっとどいてろ、よっ」


 奴は自分をすり抜けて生存者の方へ向かおうとしたキリコを平然と手で押し返したのだ。

 キリコは力なく後ずさり、がしゃがしゃと階段を転げ落ちていく。


「なあ? どうって事ァねえだろ? こいつらは『仲間』を攻撃したりしねえのよ。賢いからなぁ」


 骸骨の右腕をぷらぷらと振り、カフーはけらけらと笑った。


「見てただろ? 俺ァこの腕一本で階段すっ飛ばして上に登れンだ。お前ぇらもすぐにこうなる。そら、腕ぇ出せ」


「お、おやめなさいっ! そんな……」


「止める理由、ないだろ。あいつら助かりたくてそうしたわけだし」


 俺が呟くと和尚はうっと呻いた。


 すっと三本の腕が差し出された。

 彼らの瞳に見えるのは純粋な生存欲求だけだ。


 カフーがこの後どんなろくでもないことを考えているのか。

 いや、そうじゃない。


 あの半裸野郎の考えていることは訳が分からない。

 ただ、その行動は確実にろくでもない結果を招く。

 それが分かっていてもついて行かずにはいられないのだ。


 生きるためにあらゆる手段を講じることのどこに悪がある。

 鶚ならそう言っただろう。


「おお、そうだ。一個だけ注意しな。……笑えよ。俺がお前ぇらを斬ったら、『笑え』。キリコが引っ付いた状態で、絶対ぇに怒ったり憎んだりすんじゃねえぞ」


 言うが早いか、すぱっ、すぱっと骸骨の腕は瞬く間に太さの違う三本腕を切り落とした。

 一拍遅れて血が噴水のように宙を舞い、三種の悲鳴が入り混じる。

 おっさんの、お姉さんの、子供の悲鳴。


 その光景を直視した俺の意識は吹っ飛びかけた。

 慌てたように梟雲が俺を支えたが、他にも数人の男が気を失いかけるのが見える。


「からす! ねないで!」


 するり、と。

 音もなく透明の「何か」が磨き抜かれたホテルの床を這う。

 毛足の長い絨毯の上を寒天のように滑るそれをカフーが掴み上げ、ひょいと三人の腕に投げつけた。


「笑えっっ!!」


 その時だけ、火楓は真剣な顔をしていた。


「笑いやがれっ! 憎むな! キレんなよっっ!!」


 べしゃべしゃと切断された二の腕に張り付いたキリコが血を止める。

 ゼリー状の生物の中を血煙が舞い、やがて肩に近い場所へ滞留した。ちょうど切断面を塞ぐような形だ。


「正念場だぜ、ほらよ!」


 カフーが脇をすり抜けた二体の骸骨を押しやる。

 こりり、こりりり、と近づく骸骨を前に三人は膝をつき、のたうち回り、泣きわめいている。


「笑え。いいな……笑えよ」


 子供とお姉さんは笑った。

 公開収録でテロップを出されたオーディエンスのようにへらへらと虚ろな笑いを浮かべる。

 彼女達を通り過ぎたキリコの身体からするりと腕の骨が抜け、切断面にくっつく。

 液体生物が抜き取ったようにも見えた。


「うあっ、ああっ、うわっ!!」


 おっさんは笑えなかった。

 彼の腕にも骸骨の腕は生えていたのだが、それはまるで制御不能のマニピュレーターのごとくめちゃくちゃに暴れ回り、やがておっさんの喉を掴む。


「ひぐっ! ……ぶっ」


 めぎゅん、と妙な音がしたかと思うとおっさんは前のめりに倒れた。

 血だまりは秒速5センチ以上のスピードで床に広がり、絨毯の毛を寝かしていく。


「だァら言っただろうが! キリコ……『ゾア』は俺らの考えを読むんだぜ。頭ン中で「ぶち殺す」なんて考えた日にゃあ、殺意で暴走するに決まってらあ! なあ?」


 カフーは自らのこめかみを骸骨指で叩き、お姉さんと子供を見やる。

 二人は信じられないといった表情で新たな自分の腕を見つめていた。


 その白骨化した腕は明らかに二人の制御下に置かれている。

 子供は手を開き、お姉さんは器用にも髪を手櫛で梳いて見せる。


「な? 好きに動くだろ? そりゃそうさ。こいつらは元々そういう風に創られてるからなァ」


(そういう風に……?)


 ちらりとカフーが俺達を見た。




「こいつらは……『イグロゾア』って奴ァ、医療器具だからなァ」




「い、医療器具ぅ?」


 後ずさる俺が声を上げるとくくっとカフーはコメディアンよろしく俺を指差す。


「おお、そうさ。機械の義手より正確で、手間の要らねえ未来の手足よ! ……もっとも、少ぉし青写真と違っちまったがな。カハハッ!!」


(ちょ、ちょっと待て。キリコが医療器具で何だって……?)


 考えている暇は無い。

 キリコ人間と化した二人をすり抜けた骸骨が今にもこちらへ迫って来る。


 遠からずお姉さんと子供も同じことを始めるだろう。

 人間が憎いわけじゃなく、殺しが愉しいわけでもない。

 手にした身体能力を試してみたいという、ただそれだけの為に。

 二本足で歩くことを覚えた子供が所構わず走り回るのにも似ている。


 そこにおそらく罪悪感はない。

 美羽を見れば分かる。

 度を超えた力を手に入れた連中にとって俺達はいわゆる、「旧人類」なのだから。


「和尚! 突っ立ってんな! 逃げるぞ!」


 足を止める奴が、増えた。

 和尚の輪から更に二人が抜け、それを認めたカフーは追撃する骸骨の先頭を引きずり戻し、二人の安全を確保する。


「よおよおよお! 大歓迎だ! さあ腕出せよ! まずは生き残らねえとなァ! カハハハッッ!!」


「っ!」


 鴨春側でも一人が輪を抜けている。


「いけない! これは……」


 またしてもカフーの抜き身が銀色に閃き、数本の腕が飛んだ。

 今度は合格率が高めだった。

 二人中二人が無事にキリコの腕を手にし、感触を確かめるようにして拳を開閉させている。


「よおし兄弟! いや兄弟と呼ばせてくれ! お前ぇらは今この瞬間から! 新時代の先駆けって奴だぜ!」


 さあ、とカフーは俺達を見やる。

 キリコが雁首を並べ、その向こうには片腕を骸骨に変えたキリコ人間たち。


「古い時代をぶっ壊さねえとなァ」









「和尚!! は、走れってマジで! マジだぞオイっ!!」


「先に行ってください! 殿しんがりは私がっ!!」


 和尚は拳を構え、すぐ傍にあった背の高い観葉植物を砂利だらけの鉢から引っこ抜く。

 ぶおん、とそれを振り回した禿頭の男をカフーは面白そうに見つめていた。


「鴨春、カラス達の援護を!」


「分かりましたっ!」


 俺たちはすぐさま四階の奥まで突っ走る。

 そこには黒い札に金字で刻印された『banquet room(宴会場)』の文字。


 分厚い扉の向こうに宴会場を擁する狭い廊下を鴨春が先頭となって駆け抜ける。

 走る速度はバラバラで、梟雲が俺に合わせたことで必然的に俺達は集団の中頃を走ることとなった。


 ごりゅっ、と何かを踏んだ。

 小さくて硬いものだ。


(……?) 


 点々と、床に何かが落ちている。

 他の連中は逃げることに必死となるあまり気づかなかったらしい。


「……ソーセージか……?」


 細くて短い『何か』。

 だが赤く濡れていて、よく見ると薄い貝殻のようなものが付着している。

 貝殻は透けており――――


「ッ!?」


 それが『人の指』だと気づいた瞬間、俺は総毛立った。


 人差し指。


 親指。


 薬指。


 中指。


「カラス? どうし……。……」


 梟雲も気づいた。

 血に濡れた人間の指はヘンゼルとグレーテルの残したパン屑のように点々と俺の行く先に散らばっている。

 集団はとっくに先へと進んでしまっていたが、俺はその指から目を離せなかった。


 血痕は鴨春率いる一団の向かった廊下の奥ではなく、すぐ傍の宴会場へ続いている。



 その指が誰のものなのかは。

 一分足らずで判明した。




「鶚……」


 俺は呆然と立ち尽くす。

 宴会場で身を丸めていたのは小柄な黒インナー、崖定鶚だった。


 彼女の顔は今や蝋のように真っ白で、見開かれた瞳は焦点が合っていない。

 ぱく、ぱく、と。

 腹話術の人形のように口を開閉する彼女は――――


 かろうじて五指の残る右手で血だらけの左手を覆っている。


 鶚の頬は涙で濡れていた。

 だがそこにあるのは「痛い」「苦しい」「辛い」といった感情ではない。

 もう二度と自分の人生が元通りにならないと知ったことによる「喪失」だった。


(……!)


 こいつはクズだ。

 俺以上のクズだ。

 同情には値しない。


 だが俺はこの時、そう思いこまなければならないほどの強い怒りが湧き上がってくるのを感じていた。

 まるで水底の砂から気泡が立ち昇っていくように。

 ぽこりと無意識下で膨れ上がった小さな怒りの感情が、意識の水面へ向けて浮かび上がっていく。


「『イグロゾア』はな、カラス」


 ぶ、と唾を吐いた男が居た。


 長い黒髪を揺らした男。

 誰よりも先に『逃走』の一手を潰すべく先回りしていた男。


 ――――鶴宮沼月。


「知覚した人間が『骨を欠いている』と判断するとその隙間を埋めようとするんだよ。切鴇美羽はお前らと別れ別れになった後、すぐにキリコに掴まって仲間入りだ」


「……お前、身体、人間だっただろ」


 俺が暗い声で呟くと、ははっと鶴宮はしたり顔で笑う。

 奴は鶚を大股で跨ぎ、俺の方へ近づいて来た。

 胸元ではネクタイがぷらぷら揺れている。


「俺、親父がクソチンピラでな。高校の時、彼女に手え出されそうになってさ、半殺しにしたんだよ。……そしたらあいつ、××人を雇いやがって」


 ぱかっと鶴宮は口を開けた。

 そこは真っ赤に濡れていた。

 鶚の血だ。



「俺の『歯』を、ぜ~んぶ砕いて抜きやがった」



 そこに生えていたのは餓狼としか表現しようのない犬歯だった。

 よく見れば透明の何かが纏わりついており、唾液と血液の混合物が不自然に浮いているのが見える。


「入れ歯だったのか、お前」


「ああ。もう一年付き合いが長かったら話してたかもな」


 つまりこいつは大講義室でキリコに絡まれた後、さっきの連中のように口をキリコに侵されたのだ。

 そして運良く「殺意」も「敵意」も抱かずに――――キリコ人間への生まれ変わりを果たした。


「……」


 梟雲が一歩前へ出ようとするが、俺は押しとどめた。


「鶴」


「何だ」


「死んでくれ」


「ひでえこと言うな、お前」


 鶴宮はくつくつと笑った。


「できるなら……やってみろよ、っ!?」


 俺は地を蹴っていた。

 クラウチングスタートを切らない俺のダッシュに鶴宮はほんの一瞬だけ驚いていた。

 だが俺の速度は奴の想定を上回らなかったらしい。


 ファイティングポーズを取り、あっという間に奴にたどり着くも、放った拳は空を切る。

 鶴宮は鮮やかにこれをかわしたのだ。

 ともすればストレートを放った俺の拳にキスぐらいできたのかも知れない。


「おいおいどうした! ハエでも飛んでた、かっ!?」


 ぼぐっと頬を殴られる。

 視界が強制的に九十度ねじれ、唾が吹っ飛んでいく。


「そらっ。ボディが、がら空きだっ!!」


 めごん、と筋肉の薄い腹へボディブローが入る。

 続いて打ち下ろし。

 があん、と脳みそがシェイクされ、視界が歪みそうになる。


「カラス!」


(……)


 痛い。

 顔も、頭も、腹も痛い。


 ――――だが。


 顔を床へ向けたことで俺は鶚の顔をちらりと見ることができた。

 あの「生きること」に執着した、ムカデのようにぎとつく鶚の姿はそこにはない。


 別にレイプされたわけでもないし、殺されたわけでもない。

 犬のように指を噛み千切られただけだ。


 頭ではそう考えつつも、俺の心はこう吠えていた。

 こいつは鶚を汚しやがった、と。


「……!」


 ぽこりと無意識から立ち昇った怒りの泡が意識の表層へ。

 ぱちんと弾けたその瞬間、全身をアドレナリンが満たした。


「し、ねええええっっっ!!!」


 渾身のストレート。

 これを鶴宮はひょいとかわす。


「無駄だって。お前が、俺に勝てるわけ、ない、だろっっ!!!」


 奴はあくまでも軽快に笑いながら俺を殴り、殴り、殴り、そして歯を剥く。


「お前もこっちに来い、よっ!!」


 犬歯が迫る。

 その刹那、俺は全体重を乗せて奴を押し飛ばした。


 初めから勝てるとは思っていなかった。

 暴力という尺度において、俺は鶴より遥かに弱い。


 ――――だからずっと手加減していたこともバレなかった。


「っ!」


 今度こそ俺の全力で突き飛ばされた鶴は背中から床に叩き付けられ、その真上に俺はマウントを取る。

 側頭部を狙わんとして肩を開き気味に拳を振り上げると、奴はこめかみをガードするような体勢を取った。


 違うだろ、と俺は独り言つ。


「人を殺す時に」


 すぐさま手を戻した俺は鶴宮の両目に親指を宛がい、一気に体重を乗せる。


「……「拳」なんか使ってんじゃねーよ」


 ぬめる巨峰の実を皮ごと潰すような感触があった。

 ぱきゅり、と。


「ぐっ、あっ!? ガ、アァァッッ!!!」


 鶴宮は俺を振り払ったが、もう手遅れだ。

 両の眼球は潰れ、既に奴の視界は暗闇に覆われている。

 その証拠に奴は無様にも片手で目を押さえ、片手を振って俺を寄せ付けまいとしていた。


「かっ、カラスお前っ……お前俺のめ、め、目ヲぉっ!!」


「ああ。悪いな鶴。カフーの作る新世界で……お前はド底辺のカスだな」


「てめえっ……!!」


 ぼっと黒髪が浮かび上がるほどの感情が燃え上がる。




「てめえぶっ殺してやる!!!」




 はい。

 おしまい。


「ぁっ」


 びくりと鶴宮が震えたが、もう遅い。

 カフーは言った。

 キリコ、いやイグロゾアは人間の思念を読むと。

 だから決して殺意を抱くなと。


 殺意を抱けば――――


「あ、あ、あ……!!」


 見る見る間に鶴宮の口蓋から牙が外れ、液体生物がこぼれ出る。


「まてっ……まっへうえ! おれぁ」


 ばづん、と嫌な音を立てて鋭い牙が鶴宮の首に突き立てられた。

 それは気道に穴を開け、血管を傷つける。

 ぷしゃああ、と小さな血しぶきを開けた鶴宮は水揚げされた魚のようにひゅーひゅーと呼吸に苦しみながら膝をつく。


「……キョウ。鶚を」


「うん」


 梟雲は小走りで鶚の元へ向かい、彼女を背負う。

 俺はテーブルの上にあるものを認め、それを懐にしまった。


「待、へ」


 とうとう前のめりに崩れ落ちた鶴宮がひしゃげた眼球で俺のことを見ていた。

 喉から溢れ出す血はとうとう床に広がりつつある。

 鶴宮の命はもう一時間ともたないだろう。


「お、ぼえれろ」


「……」


「おぼえ、れろ。か、あす。のろ、っれやる」


 深い怨嗟が奴の口から煙った。


「ああ」


 大学でこいつと死別した時、俺は随分冷静だったように思う。

 今は――――


 もっと、厭な気分だった。


「憶えてるよ。鶴」


 ぐったりした鶚を引き連れ、俺たちは宴会場を後にする。



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