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cantabile(歌うように)

 

 濁った海へと夕陽が沈んでいくのが見える。


 起きなければ、と頭で考える。

 起きよう、と脳内で反芻する。

 起きなきゃ、と口に出す。

 よし起きるぞ、と声にしたところでようやく身体が指示に従う。


 ヘドロのような疲労がこびりついており、身を上げるのには難儀した。


「つっ」


 よろよろと上半身を起こし、サイドテーブルからピッチャーごと水を呷る。

 喉を滑り落ちる水は冷たいが、それ以上に全身が熱い。

 湯たんぽもカイロも蹴っ飛ばし、熱を帯びた布団を払う。全身汗みずくだった。


 隣で丸くなっていた梟雲が身じろぎする。


「……ふぅ」


 前頭葉をムカデが這い回るような痛みは消えていた。

 だが全身の血管には檻のような疲労が淀み、手足を動かすだけであちこちが軋む。

 万全には程遠い。


(クソ。みっともねえ……!)


 誰よりも先にへばってしまうなんて、と俺は歯噛みした。

 歯噛みついでにココナッツ菓子を口へ運ぶ。こりりと噛めば甘く濃厚な脂肪分が舌に溶けた。

 飢餓状態にあった肉体は正直で、俺は次々にチーズやら何やらを咀嚼する。


(どうする……?)


 逃げるか、留まるか。

 俺もまた鶚と同じ選択を迫られている。


 逃げるつもりなら道案内のために鶚を説得する必要があるし、鶴宮の目を逃れなければならない。そして和尚や鴨春とはここでお別れだ。

 留まるつもりなら全員一緒に行動できるが、得体の知れないキリコ人間がほぼ確実に敵となる。

 どちらも一長一短で、ベストな選択肢が見つからない。


(……)


 鶴宮を殺して和尚と鴨春を連れて逃げるというプランもあるが、他ならぬ和尚が納得しないだろう。

 強大な戦力たりうるハゲを助ける場合、他の連中も助けなければならない。


(うまい方法はないか……何か……)


 そうこうしている内に梟雲が目覚めた。

 くあ、と子供のようなあくびをした彼女もピッチャーへ手を伸ばし、両手で掴んでごくごくやり始める。

 たっぷり500ミリリットルは水を飲んだ梟雲が口の端をワイシャツの袖で拭い、俺を見つめた。


「げんき?」


「元気だよ。出るも残るも地獄なこと以外はな」


 俺は梟雲にも分かるよう簡潔に状況を伝えた。


「からす、そといく」


「そと?」


「くつのおとする。からす、ひとつかう」


 ああ、と思わず俺は膝を打った。


 そうだ。

 俺は和尚、鴨春、鶚、鶴宮といった狭い関係性の中でしか現状の打破を考えていなかった。

 ここには他の生存者もいる。

 そいつらの中に何かずば抜けた身体能力や慧眼に恵まれた奴がいるかもしれない。

 うまく巻き込めば鶴宮をかく乱したり、和尚を説得する材料になるかも。

 例えば疑心暗鬼に陥らせて殺し合いをさせるとか。

 そのドサクサで逃げ出すとか。


(……俺の話術でそれは無理だな。ってか、そんな奴が居たら和尚たちが主導権握ったりしないんだよな……)


 生存者の中に人並み外れた超人が混じっている可能性は低い。

 だが身体の慣らし運転と情報収集は必要だ。

 俺は梟雲を引き連れ、二階のレストランへと向かう。






 そこでは6~7人の生存者が食事を摂っているところだった。

 言い方は悪いが俺と同じ「普通」の連中ばかり。

 ざっくりラベルを貼るなら、おっさん、おばさん、気の弱そうなお兄さん、背の低い少女、気だるげなお姉さん、といった感じか。


 彼らは手に手に皿を持ち、冷え切ったウインナーやバゲットをぱくついている。

 過度に緊張している様子はなかったが、俺と梟雲がレストランに入るや一斉にその視線がこちらを向いた。

 十を超える目玉に凝視され、俺はうろたえる。


「あ、ど、どうも。和尚と鴨春が世話になってますあの、烏座といいます……」


 俺は飛び込み営業を指示された新入社員のようにへこへこと頭を下げた。

 彼らの間に満ちていた緊張感がふっと緩み、梟雲もまた殺気を引っ込める。


(誰かと一緒じゃないとあしらわれるな、これ……)


 このホテルでもキリコ襲撃時に人間同士の醜い争いがあったのだろう。

 彼らが信を置く人間である和尚、鴨春、鶴宮のいずれかがいないと世間話もできそうにない。


 和尚と鴨春は外に出ているはずだ。

 もう夕方だが、戻ってきているだろうか。二人の部屋はどこだろうか。


「からす。きょう、あまいのほしい」


 梟雲はテーブルの一つに山積みされていたオレンジジュースの瓶を手にしている。

 誰にも見咎められなかったので俺たちはそのまま近くのバーへと足を向けた。





 バーは無人で、その奥のラウンジにも人はいなかった。

 俺バーの入口付近の席に、梟雲はカウンターに腰かける。

 カウンターには酒瓶が山積みになっており、いつでもそれを掴めるように配置されているのが分かった。


(万全だな)


 梟雲がジュース瓶の蓋を歯でガジガジやって開けるのを見つつ、俺は椅子に深くもたれた。

 単独行動するのが馬鹿らしく思えるほど、ここには色々なものが揃っている。

 温かいベッド。食事、水、キリコ対策の酒。

 そして真偽はともかく脱出用の船。


(やっぱり……残るか、ここに)


 それが最良の選択のように思えた。

 ――――いや。


 分かっている。

 俺は疲れ切っているのだ。


 これ以上頭を使いたくない。

 これ以上身体を酷使したくない。

 そんな叫びが身体中の細胞と言う細胞から放たれている。


 俺は今まである意味一人ぼっちだった。

 梟雲は正常な思考能力を失っているし、鶚はいつ裏切るとも限らない。

 その緊張感に耐えながらここまで走ってきた。――――いや、泳いできたと言うべきか。

 ともかく俺は今の今までひどい興奮と緊張状態にあった。


 そこに来て和尚と鴨春に、この恵まれた環境。

 俺の緊張の糸はすっかり緩んでしまっていた。


 一度緩んだ糸を張り直すのはなかなか難しい。

 五月病みたいなものだ。

 俺の全身が休息と安息を欲している。思考停止を求めている。


「あー……」


 俺はゆっくりと目を閉じた。

 そうだ。

 このままこうして休んでいれば明日になって、その時には――――




「よお。ここ、いいかい?」





「っ!?」


 真上に数センチ飛び上がった俺が見たのは背の高い男だった。


「……」


 梟雲はじっとそいつの姿を睨みつけているが、男の方は意に介していないようだ。


「すまねえな。向こうはどうも居心地が悪くてよぉ」


 まず目についたのは薄いアーモンド色の肌だ。

 それに彫りの深い顔立ち。


(外国人……?)


 東南アジア辺りの生まれだと言われても違和感がないし、それでいてどこか日本人のような雰囲気も纏っている。

 言語に癖や訛りは感じられないので育ちは間違いなく日本だろう。

 表情は朗らかそのもので、いかにも人懐っこそうだ。


 髪は秋の稲穂を思わせる淡い金色で、ビーズを絡めた鉢巻のようなものを額に巻いている。

 ひと昔前ならヒッピーとか呼ばれる類の人間が愛好する髪型だ。


 黒い革のジャンパーに黒い手袋を嵌めた男は返事も聞かずに俺の向かいに腰かけ、でん、と皿を置く。

 飛び跳ねたチーズが軟着陸した。




「オーヤソーイチってよ、知ってるか?」




 質問の意図が理解できず、俺はムンクの叫びさながらの奇怪な表情となった。


「はい?」


「おーやそーいちだ。日本にはそういう奴がいるんだろ?」


 男はむしゃむしゃと細切れのチーズを口へ運ぶ。

 手袋を嵌めたまま手づかみで食事をする奴を俺は生まれて初めて見た。


(ちょっとイってるのか、この人)


 梟雲と同じタイプかも知れない。異常事態に置かれたことで頭のおネジが飛んでいるのだ。

 参ったな、と俺はいささか辟易する。

 そういえば電車の列に並ぶ時も、高速バスの二人掛けの席に座る時も、俺は決まってこの手の『ちょっと話通じない感じの人』と隣り合う。

 何なんだろう。俺は変人を引きつけるフェロモンでも出てるんだろうか。


 袖の匂いを嗅いでいると男は呵呵かかと笑った。

 何がそんなに面白いのか、ヒッピー氏は枝豆を食らうようにチーズを口へ運んでいる。


「何だ、知らねえのか。大宅壮一おおやそういちだよ。そいつはな、テレビが日本で売れだした時分に『一億総白痴化が起こる』って言ったんだと」


「はあ」


「みっともねえとは思わねえか? いや、老人くせえことがじゃねえよ。新しいモノを否定しちまう魂がみっともねえんだ」


 前言撤回だ。

 この人、結構訛りがある。方言とはまた少し違うようだが。


「人はよ、そんな毎日進化しちゃいねえのよ。株式会社じゃあるめえし、昨日の俺より今日の俺が、今日の俺より明日の俺の方がマシにならなきゃならねえなんて誰が決めたよ? ……いいじゃねえか、バカになっても。それでも、ちゃあんと新しい方向へ進んで行けりゃあよ」


 男はむぐむぐと白チーズを咀嚼しながら詠うように続ける。


「この世に新しいモンが生まれた。こりゃ俺が知ってるものより劣ってる、俺が手にしたモノよりアホだ、このままじゃ世界中間抜けになっちまうと騒いで、それで何が起こる? てめえらがこしらえたモノや文化だって一つ前の世代からはそう言われてるに決まってんだ。やれ幼稚だやれ劣化だってよ。違うか?」


「あー……ソッスネ」


「そうだろ!? そうなんだよ!」


 酔っ払いかも知れないな、と俺は真水の在り処を目で探る。


「そうよ。新しいモンは正しいんだよ。いつの時代もよ。あれだ。人生と同じだ。人類の精神性ってやつも、新しいモンとうまーく折り合いながら、試行錯誤しながら前へ進むわけよ。止揚しようってやつよ」


 何を言ってるんだこいつは。

 ――――という表情をあの梟雲が見せているのが滑稽だった。

 彼女は険しい表情のままポカンと口を開けており、どうすべきか迷っているようだった。


(和尚……アホが居るなら先に言えよ……)


「セ・ベ・ふん・ふ・サトゥーレ」


 鼻歌を歌いながらチーズを食むそいつの無邪気な姿に俺はいささか脱力する。


「ふんふんふん、あ、ソーレ」


 しかもうろ覚えじゃねえか。小学生が無理に洋楽を口ずさんでいるようでこっちが赤面しそうだ。



「キリコだっっ!!!!」



 弛緩した空気を切り裂いたのは女性の悲鳴だった。


 俺の心臓も飛び上がり、強靭なポンプとなって全身に熱い血を送る。

 少なめの脳みそに酸素が巡り、少なめの筋肉が力を取り戻す。


「鷺沢さんっ!! かもちゃんっ! ……誰か呼んできて! 手の空いてる人は配置についてっ!!」


「っ!!」


 俺と梟雲は同時に立ち上がった。

 椅子を蹴るほどの勢いだったにも関わらず、目の前の男はチーズを食らう手を止めない。


「キョウ、行くぞ」


「うん!」


(……)


「どぅ、ら、ら、ら、ら~」


 ちらと振り返ったが男はまだ鼻歌を歌いながらチーズを喰い続けているところだった。

 こちらに一瞥も寄こさないそいつを異常者と断じ、俺は吹き抜けへ駆ける。






 吹き抜けを見下ろす二階の円周通路にはレストランに居た連中、それに上階から降りて来た連中、そして俺に馴染みのある連中が揃っていた。

 和尚と鴨春は二手に分かれ、水没した一階から二階へ続く階段を塞いでいる。

 二人が手にしているのはでかいドアだ。


 キリコの数は10を下らない。

 連中はパーツに分かれた状態で俺達が潜った水没玄関を通過してくる。

 からん、からんからん、と大きな貝殻が触れ合うような音がした。あれが鳴子らしい。


「和尚!」


「慌てないでください! 慌てないで!」


 和尚は俺ではなくその他大勢に声を掛けていた。


「大丈夫です! さあ引きつけますよ! お酒の用意を!」


 和尚と鴨春は慎重だった。

 ホテルの壁面は大理石のようにつるりとしており、骸骨の指が引っかかる場所はない。

 必然的にキリコは階段へと集まり、こちらへ向かってくる。


 ゾンビと対峙する機動隊、とでも例えれば良いだろうか。

 階段でかちゃかちゃと人型へ戻ったキリコは例のモタモタした動作で和尚と鴨春に近づく。

 じりじりと後退する二人の背後からオッサンオバサンその他が二人一組で飛び出し、キリコに柄杓のような器具で酒をぶっかけた。


「今です!」


 凝固するキリコを打ち砕いたのは和尚の鉄拳と踵、そして鴨春の振るう手製のハンマーだ。

 破砕する骸骨には目もくれず、二人は次なるキリコを睨んでいる。

 その隙に酒をぶっかけた連中は別の待機人員と入れ替わり、盾役の二人の背後に隠れた。

 鶴宮の姿もある。奴の動きは機敏で、無駄がない。


(慣れてるな)


「慣れてるね」


 言われ、はっと斜め上方を見る。

 黒インナー姿の鶚が物憂げに手すりに肘をついていた。


「一見するとぼんやりしてるけど、皆、いつキリコが来てもいいように緊張してた。だから動きが早い。それに」


 消防隊のように規則的な動きはかつての抜角たちを想起させた。

 ただし決定的に違う点が一つ。

 それは――――


「地の利がある」


 俺が呟くと、うん、と鶚は頷く。


「この建物は円筒状だから、キリコは穴の底から登って来る形になる。こっちの方が圧倒的に有利だよね。……他の窓さえ破られなければ」


「! からすあれ!」


 梟雲が俺の腕を引いた。

 はっと見れば海面のキリコが一か所に集い、こきこきと茎が折れるような音と共に重なり合っている。

 鶚ですら頬杖をつくのをやめた。


「もしかしてあれって……!」


 知っている。

 複数のキリコが脊椎を軸に結合する化け物。

 抜角の一団を壊滅させた巨大キリコだ。


「和尚! でかいのが来るぞ! 逃げろ!!」


 複数の頭蓋骨を有するキリコは巨体を以ってあっさりと二階へ手を掛け、脚をかけた。

 俺も含めた全員が慌てて三階へ避難するも、ムカデキリコはもう階段まで這い上がっている。


「ヤバい!」


「逃げて! おくっ、屋上なら」


 取り乱す生存者たち。

 統率が乱れかけ――――



「騒がなくてよろしいッッ!!!」



 爆音にも等しい一喝で誰もが耳を塞いだ。

 かたかた、と階段の骨までもが震動しているように見える。


「恐れなくていいんです! 私がいます!」


 凝固した人型キリコを一撃の元に粉砕し、和尚が階段を駆け下りる。

 その蛮勇さ加減には鴨春ですら声を上げた。


「鷺沢さんダメです! 戻っ」


 和尚は駆け下りる道すがら、一体のキリコとすれ違った。

 跳躍しながらの回し蹴りでそいつをバラバラにするや、禿頭の勇者は逃走を図る液状生物を掴み上げた。

 ちょうど、漁師が網を掴み上げるように。


「ふんっ!!」


 和尚は何の怯えも見せずにキリコをぶわりと宙に広げた。

 それは既に通路を覆わんばかりの巨体を有していたムカデキリコの尾てい骨に引っ付き――――


「今です!! 私に酒を!!」


 はっと夢から覚めるようにして生存者の目に勇気の炎が燃える。

 和尚の手元へと一斉に酒が浴びせられ、そこからピキピキと凝固の音が走り、巨大キリコ全体を包む。

 無数の酒を浴びる和尚は微動だにせず、巨体が死にゆく様を見つめていた。


 そして、すうっと息を吸い――――


「飛んで! 踏み潰しなさァァいっ!!!」


 生存者が一斉に三階の縁から飛んだ。

 一人、二人、三人。

 殺虫剤を浴びたムカデさながらに立ちすくむ巨大キリコは二十に近い靴に踏みつけられ、バラバラに飛び散る。

 和尚、鴨春、鶴宮の三人は丁寧に液状の本体を踏み殺しているところだった。


「……マジかよ」


「ひと、つよい」


 梟雲が感心するように呟く。


「きょう、いかなくてもかってる」


「カラス」


 鶚だ。

 彼女はさりげなく四階まで移動しており、やはり俺を見下ろしている。


「私、ここにいることにする」


「……ああ。何かそれが安全っぽいな」


 今の連携は完璧だった。

 ここまでの統率力を発揮する和尚と鴨春がいてくれるのなら、もしかすると美羽ですら敵ではないのかも知れない。


「そうだな。俺もここにいようと思ってる」


 ただし、と俺は歓喜に沸く生存者を冷静に見つめる鶴宮の姿を認めた。

 奴はゆっくりと俺を見上げ、意図の掴めない笑みを浮かべている。


「……後はあいつを」





「セ・ベ・ふん・ふ・サトゥーレ」





 唐突に男の歌声が響いた。

 それは吹き抜けの上にも下にも響き、円筒状の建物全体に伝わる。



「ふん・ふんふんふん・カフェオーレ」



 誰もが互いに顔を見合わせる。

 俺じゃない。

 和尚じゃない。

 鶴宮でも、他の生存者でもない。


「ふん、ののの、ふ、ふーふ」


 ――――誰だ。

 声が上がり、誰かがそこを指差し、視線が集中する。


「ふふふん、あー……とぅらとぅら~」


 聞いたことがあるようでない曲はそのフレーズで終わりを告げた。

 二階通路の手すりに身を預け、そいつは俺達をぐるりと見渡す。


 稲穂の髪に鉢巻き、褐色の肌、黒いジャンパー。

 さっきバーで向かい合った、あのヒッピー風の男だ。


 先ほどは気付かなかったが、彼はデニムの腰回りにロングパレオのようなものを着けている。

 透ける布地にあしらわれていたのは百を超える無数の紅葉だ。緑色ならカナビスと見間違えたかも知れない。


(あいつ……?)


「こんにちは、諸君! ……違えな。こんばんは、だな」


 男は黒手袋をぺしんと打ち、はにかむように笑う。


「こんばんは、諸君! 俺ァ――――」


 海中を泳ぐ魚までもが息を止めるようだった。




「――――カフーだ」




 途端、誰もが息を呑むのが分かった。

 カフーと名乗った男は手すりを両手で押すようにして離れ、軽く両手を広げる。


「姓は……古い雅を食らうと書いて、古雅食こがしき。名は火の楓で火楓かふう古雅食火楓こがしきかふうってぇ名だ」


 さて、と登壇したての講師を思わせる所作で後ろ手を組み、奴は通路を数歩進んだ。


「俺ァ諸君らを助けに来た。あの忌々しいHDL社のクルーザーは今や俺のモンだ。十人ぐれえなら助けてやれる」


 こつ、こつん、と靴音が響く。

 誰もがカフーの挙動に目を奪われる中、俺はちらりと鶴宮を見やった。


(! いない……?)


 奴の姿が、無い。

 さっきまで居たはずの場所から煙のように消えている。


 焦りの余り周囲を見回す俺目がけてカフーの言葉が飛んでくる。


「まあ焦るな! 俺も船も逃げやしねえよ。……だが助かるには一つ条件がある」


 奴はジャンパーを、そして黒手袋を脱いだ。

 素肌に直に着ていたらしく、ギリシア彫刻と見紛うほどの筋骨隆々とした肉体が露わになる。

 サモアかどこかの格闘家でもなければこんな身体は持ちえないだろう。


 だが俺はある事実に気付いていた。


(腕の色が違う……?)


 カフーの両腕は明らかに胴体の褐色とは異なる色をしていた。

 ――――義手だ。


 奴は腕に手を掛けたかと思うと、かぱりとそれを『外した』。

 ギプスでも外すように気楽な所作を目にした次の瞬間、何人かの女が悲鳴を押し殺す。


「~~~~!!」


 義手の下にあったのは。

 美羽と同じ『キリコの腕』だ。


 上腕二頭筋を輪切りにするような形で腕が途切れ、つなぎ目からは白く太い骸骨が伸びている。

 カフーは骨の指を軽く開閉し、告げた。



「俺の船に乗りたい奴ぁ、腕か脚を一本落としてくれ。そしたら助かるぜ」



 火楓は観葉植物の影から一振りの刀を取り出した。


 刀。

 まがい物とは思えぬほど眩い光を放つそれに俺の顔が映る。

 奴は抜き身を手にしたまま、白い歯を見せて笑った。


「どうした? 笑えよお前ら。苦しい時ァ……笑うもんだぜ?」


 こりり。

 こりりり、と。

 海中から雨後の筍のごとく次々に浮かび上がるキリコ達が、俺達の代わりに終末を笑っていた。



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