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espressivo(表情豊かに)

 


 取り返しのつかない過ちを犯したことに俺はようやく気づいた。



 和尚。鴨春。鶴宮。

 俺はこいつらのコミュニティと接触するべきではなかったのだ。


「カフー……?」


「ああ。その人が……ここを出る手段を持ってる」


 鶚の表情からは疑念が消えない。


「何でその人、一人で出て行かないの?」


「さあ。人助けをしたいんだろ」


 鶴宮は勝ち誇るような笑みを浮かべたまま、ちらりと俺を見た。


「……どうした、カラス。黙りこくって」


「和尚は」


 鶚が割って入った。

 美羽と鶴宮の共通点に気づいた彼女の表情には静かな緊張が読み取れる。


「会ったの? そのカフーって人に」


「いいえ。直接お会いしたことはありません」


 和尚は鶚の言葉を引き受けた。


「会ったこともない方を信用するのはおかしい、と言いたいのですか」


「そう。会ったこともない人間が10人乗れる船を持ってて、しかも動かせる? 都合が良すぎる」


「そうでしょうか」


 鴨春が一歩前へ出た。

 真っ黒なタイツを指先で少しかき、その仕草を目で追う俺を軽く睨んでいる。


「お嬢の船だってあなた方にとっては『都合の良すぎる』代物だったはずです」


「そうだね。でも、それが二度も続くなんておかしい」


「これを」


 鴨春が見せたのは携帯端末だった。

 どこかで誰かのものを拾ったのか、それとも彼女自身の携帯に防水加工が施されていたのか。

 彼女の操作一つでクリアな画像が映し出される。


 緋勾のものよりでっぷりした胴を持つ、大きなクルーザーの写真だ。

 背景は青灰色の海に沈んだオフィスビル。

 その海にも無数のゴミと瓦礫が浮かんでいる。

 間違いない。水没後のハーバー12だ。


(!)


 俺は人知れず息を呑む。


「彼に着いて行った時に撮影したものです。鷺沢さんもご一緒でした」


「……本当に使える船なの?」


「鶚」


 俺はどうにか平静を取り繕い、彼女に囁く。


「胴体、見てみろ。たぶん使える船だ」


「胴体?」


 鶚は船体に目をやり、微かに驚いた顔を見せる。


 そこには濃いピンク色で『HDL』の三文字が描かれている。

 社内サークルなのか、そもそも輸送手段として船舶を保持していたのかは分からない。

 ――――ただ、猛烈に嫌な予感がする。


「俺が嘘つくことに何のメリットがあるんだ? ミサゴ先輩」


 鶴宮は傷ついたように呟く。

 こいつはこうやって人心に訴えかけるのが巧い。

 俺より理路整然と話せる上に、情で揺さぶりをかける術も知っている。


「居もしない人間、ありもしない船をちらつかせて、人助けする鷺沢さん達を煽って……あれか? 最期はひゃーって大笑いして一緒に海の底か? さすがにそこまで狂ってはないな。俺は生きて脱出したいし、他の人達もできるだけ多く助かって欲しいと思ってる」


 これには鶚も返す言葉を持たなかった。


「……ところが、カラスと先輩はそうでもないらしい」


 その声は暗かったが、どこかおどけるような調子を帯びている。

 敵意を巧妙に隠し、周囲を焚きつけるための言動だと分かった。


「俺をキリコだと言ったり、船は嘘だと言ったり……。何か信用されてないな。イケメンだからか?」


 焚きつけると言っても革命を叫ぶ青年や魔女狩りを促す為政者のように断定的なものではない。

 佞臣が主君の耳に聞こえるよう独り言つのにも似た迂遠な言い回し。

 聞く者に言い聞かせるのではなく、自発的に猜疑と敵意を抱くよう計算された声色。


「そうだな。悪かった」


 現状、和尚達の前で鶴宮がクロ、つまり「キリコ人間」だと立証する術はない。

 だが俺と鶚は確信を持っていた。

 カフー。HDL。キリコの群れから逃れた事実。


 俺はその事実を噛みしめるようにして心の中で呟いた。


(こいつは「敵」だ)


 だがうっかり鶴宮と敵対すれば、こいつのアジテーションで和尚と鴨春が敵に回る可能性が出て来る。

 いや、二人だけじゃない。

 このホテルにはあと10人ほどの生存者がいる。そいつらまで焚きつけられたら一大事だ。


 鶚と俺とで論陣を張って立ち向かうこともできるだろう。

 こいつはキリコ人間だ、つべこべ言わずに殺せ、と。


 だがそれはおそらく徒労に終わる。

 鶴宮の強みは「脱出手段を持つカフーとのパイプ役を務められること」だ。

 どういうわけだか知らないが、カフーとやらは和尚達の前に姿を現していない。

 鶴宮を葬ったはいいがカフーとの連絡手段が途絶えてしまえばここにいる連中は全滅する。

 十中八九、このホテルの生存者は鶴宮に味方する。


(! そうか。こうなることを見越して……張本人と会わせてないのか)


 カフーと船。その双方を和尚や生存者達の前に披歴してしまうと事実上鶴宮は用済みとなってしまう。

 だからあえて船だけを見せた。

 言ってしまえばこれは鶴宮の生存戦略だ。

 誰も奴を殺すことはできないし、危害を加えることも許されない。

 俺はそう察した。


(こいつ、船を盾に女の子にちょっかい出したりしてないだろうな。鴨春とか)


「?」


 目線を向けられた女子高生は不思議そうに俺を見ている。


(まあいいや。……)



 ――――逃げよう。



 俺はそう決断する。


 ここは危険だ。

 カフー、美羽、鶴宮といった「キリコ人間」の影がちらついている。

 それに人間が増えたことで利害関係が半端に複雑になっているのも気に入らない。


「つまりお前らはギリギリまで生存者を集めて、それからカフーの船で脱出するんだな?」


「そうだ。それが一番安全だからな」


「分かった。ありがとう」


 俺は立ち上がり、梟雲を呼ぶ。


「……行こう」


「? どこへ行くんですか、カラス」


 和尚だ。


「まさかここを出ていくわけではないでしょうね。当て所なく行動していたのでしょう?」


「あー……まあ、うん」


 脱出に使えそうな生け簀がある。

 思わずそれを口走りそうになったが、慌てて喉の奥へ引っ込めた。


 鶴宮に脱出手段を知られてはいけない。

 奴が俺に対して明確な殺意を抱いているとは限らないが、美羽と同じ「キリコ人間」なら抜角と同じように平然と俺を襲う可能性がある。

 生け簀でのこのこ外海に出たところで、こいつとカフーに気づかれたら最後だ。

 クルーザーで瞬く間に追いつかれ、海にドボン。


「ではここで休んでいてください。大丈夫です。何も恐れることはありません」


 和尚と鴨春は互いに頷いた。

 そこにあるのは哀れな乞食を救う聖職者様の御姿だった。

 曰く、自分がされて嬉しいと思う事を他人にもしてあげなさい、だ。

 ――――自分がされて嬉しいからってよそ様が喜ぶとは限らないのに。


 このままこいつらと一緒に居れば何か、死よりも厄介な事態に巻き込まれるような気がする。

 それが何なのかは分からないが。

 今の美羽や鶴宮の脳みその中にあるのは死よりもおぞましい汚泥のような気がした。


「や、うん。たださ、他にも脱出手段あるかも知れないだろ。ただ座って待ってるだけってのも」


「何を言っているんですか。下手に動き回ってキリコに出くわしたらどうするんです」


 迷いの無い声。曇りの無い瞳。

 鶚とは真逆の、どうしようもなく御し難いストレートな意志を感じる。


 ああ、と俺は無性に腹が立って来た。

 和尚は鶴宮と組めば本気で助かると思っているらしい。それがまずムカつく。

 それに和尚をうまく言い含めたとしても鶴宮が一言で俺の行動を封じてしまいそうなのも気に障る。


 ――――殺してやろうか。

 梟雲にそう命じて。


 ぴくり、と相棒が敏感に俺の殺意を察知した。


「からす。する?」


 梟雲はごくさりげない所作で拳を握り、開く。

 彼女に一言「殺せ」と命じればおそらく鶴宮は殺せる。義憤に駆られた和尚も俺と二人がかりなら――――


 ――――いや。

 鴨春が刃物を持っている。

 そして彼女も不穏な気配に気づいたのか瞳を細めていた。


 和尚と鴨春の二人を相手にすればさすがの梟雲も敗ける。

 いや、敗けたからってどうだと言うのだ。

 要は俺が生き残ればいいんだ。


 俺が――――


「カラス?」


 ひゅー、ひゅー、と隙間風が吹くような音が聞こえていた。

 何故だか分からないが、ひどく癇に障る。

 和尚の声も、鴨春の視線も、鶴宮の気配も、鶚の表情も、梟雲の香りも。

 海も、キリコも、カフーも、美羽も。

 船もそれに――――


(?)


 息が、できない。

 思い切り呼吸をしているつもりなのに脳まで酸素が行き届かない。

 視界の四隅に黒い靄が生まれたかと思うと、そのままじわりと視野全体を侵食する。


「っ」


 ぐらりと身が傾ぐ。

 踏みとどまり損ない、そのまま顔から床へ。


 俺の名を呼ぶ声がいくつも重なる。








「……低体温症かもね」


 鶚の声が聞こえる。

 俺は褞袍を着たうえに湯たんぽを抱き、そのまま炬燵の中へぶち込まれたかのごとき熱の中で意識を取り戻す。

 どうやら梟雲がくっついているらしく、腕全体に柔らかな感触も伝わる。

 彼女はすやすやと眠っているようだった。


 見慣れない天井は小豆色で、アラベスク紋様が描かれている。

 背中にはふかふかのベッドの感触。

 そのまま果てしない地の底まで沈み込んでしまいそうだった。


 心拍はひどく不規則だ。

 意識はしっかりしているのだが喉がカラカラで、前頭葉の辺りをでかいムカデが這い回っているような感覚がある。

 カイロと湯たんぽでぐるぐる巻きにされているにも関わらず、指先が冷えているのが分かった。

 俺は自分が冷たさに慣れたのだとばかり思っていたが、単に感覚が麻痺していただけらしい。

 それも比喩ではなく文字通りの『麻痺』だ。


「鶚。カラスの病状が分かるんですか!?」


「分かるわけないでしょ。でも心当たりはある……というか、あり過ぎる」


 鶚が俺の額に手を置いた。

 小さく、冷たい指の感触。


「鶴宮。お客様の中にお医者様は?」


「いない。看護師もな」


 鶴宮は気の毒そうに俺を見やる。

 こいつは倒れ伏した俺に真っ先に駆け付け、頬を叩き、瞼を開いて覗き込んでいた。

 俺を殺す気じゃないのか。そんな言葉を呟いたら怒鳴られた。

 その辺りで記憶が途切れている。


「水だ。とりあえず」


「鴨春。ネットは?」


「繋がりません。接続が不安定過ぎます。……他の方々にも聞いてきます」


 たたっと黒タイツの少女は駆け出して行った。


「カラス? カラース?」


 ぺしぺしと鶚が俺の頬を叩く。

 声なんか簡単に出せる。何なら大地讃頌でも歌ってやる。

 そんな気持ちとは裏腹に俺の喉から出たのは掠れた声だった。


「起き、てるょ」


「そう。水は飲める?」


 彼女が差し出したのはストローの刺さったコップだった。

 首を伸ばし、ちゅううっとどうにか吸い上げる。

 熱い喉を、食道を滑り落ちる水がひどく冷たく感じた。


「み、さご。顔、こっち」


「ん?」


 彼女の髪には大きな羽根型の髪留めがついている。

 やや長い髪からはぷわりと甘い香りが漂っていた。

 和尚と鶴宮が何やら話し合うのを横目で見つつ、俺は囁く。


「どう、する」


「どうもこうも」


 鶚は口元に酷薄な笑みを浮かべた。


「リゾートに来たわけじゃありませんからねえ……」


 ねっとりとした声。

 おそらくこいつは和尚と鴨春のボートを奪って逃げるつもりだろう。


「やめ、とけ」


「ん?」


「本気、で鶴が人、集めてるならボー、トなんか、放っておくわけ、ない」


 ぜえぜえと息を吐きながら俺は言葉を絞り出す。

 冬の乾いた空気を、数度の湿った咳が汚した。


「……」


 俺の言わんとすることが伝わったのか、鶚はすっと瞳を細める。

 和尚と鴨春は確かにタフで、肝も据わっている。キリコ相手なら獅子奮迅の活躍を見せることだろう。


 だが一から丸太舟を造るのはこれが初めてのはずだ。

 材料となる樹木も、くり抜いた道具も、オールも、すべてが出来合いの代物。

 前後左右の重心は? 底の厚みは? 強度は? 波への耐性は?

 すべてが手探りで、見様見真似だ。


 あの丸太舟は和尚と鴨春の運動神経でかろうじてバランスを保ち、いざ沈没しても乗り手の二人が優れた身体能力の持ち主だから大丈夫、という極めて不安定な前提の上で使用されている。

 それは二人も承知しているし、鶴宮も口を酸っぱくして伝えているはずだ。

 でなければホテルの誰かが奪取を図るに決まっている。


「のったらしぬ、ぞおまえ」


 くしゃ、と鶚は髪をかき上げた。


「……」


 こいつにはイカダが残されている。

 が、それを使って脱出するかどうかは考えどころだ。


 外にはいつキリコが現れるとも限らない。

 小さい奴ならともかく、でかいキリコを一人で対処できるほど鶚は強くない。

 俺の脱出案である生け簀は単独行動する彼女には使えない。

 さりとて彼女自身が提示した他の脱出案――――福祉施設の船、運送業者の船といった選択肢には強者の影がちらつく。キリコ以上に厄介な連中と鉢合わせになる可能性もある。


 鶚にとってもカフーの船は魅力的な選択肢に違いない。

 何せここには梟雲、和尚、鴨春という強力な武器が揃っており、そのいずれもがひとまずは彼女の敵ではない。

 敵は得体の知れないカフー、美羽――――それにもしかしたら鶴宮――――のキリコ人間。

 連中の手の内はある程度分かっている。キリコの身体能力を駆使した直接行動のみだ。


 ゲームで例えるなら、たった一人で未知のダンジョンへ突っ込むか、複数パーティーで既知のボス勢と対峙するかの違い、といったところか。


 俺ならどっちを選ぶだろう。

 そんなことをぼんやり考えていると鶚は踵を返し、その場を去っていった。


「あ、おい鶚先輩! 待てって」


 鶴宮は出ていく途中でちらと俺を見やり、ふっと小さく笑った。

 それがどういった類の笑いなのか、俺には判断できなかった。


 残ったのは和尚だった。

 彼はじっと目を閉じていたが、やがて音もなく俺に近づく。


「カラス。あなたは疲れているんです」


「そりゃ……どうも」


「沼月さんの身体には異常がありませんでした。彼はれっきとした人間です」


「……」


 そうだ。それが不思議でならない。

 奴がキリコ人間なら美羽のように分かりやすい特徴があるはずなのだ。

 それとも奴はキリコの包囲をただかいくぐり、本当に偶然カフーとやらに出逢ったのだろうか。


「このような状況において善意を疑ってしまう気持ちは分かります。私も大学ではボートを奪われましたし、あのクルーザーでも、このホテルでも、人の業とでも呼ぶべきものに触れています」


 和尚が俺の目線の高さになるよう膝をつく。

 さらりと言ってのけたが、このホテルもキリコに襲われた際は修羅場と化したに違いない。

 そこではさぞ醜い人同士の争いがあったのだろう。


「ですが闇雲に疑念を向けるのはよろしくない。物事の曇りを見透かそうとして目を細めても、見える世界が狭まるだけです」


 ベッドサイドにはスカート型の電灯が置いてあった。今はもう光を放ってはいない。

 グラスの水が微かに揺れ、ハーバー12が今この瞬間も軋んでいる事実を伝えている。


「鶴宮さんが我々に危害を加えるつもりがないことは確かです。今はその現実を信じるべきでしょう」


「……それで、うらぎられ、たら?」


「その時はその時です」


「そんなりくつで、あんたはじぶんのいのち、あきらめるのか」


「え?」


「みさごは、なにをやってでもいきたいってよ」


 奴のぎらついた瞳は苦手だ。だが同時に眩しくもある。

 何をしてでも生きてやる、という雑草の強靭さ。

 無理も道理も踏みつけて、自分だけが助かる道をただ希求するスタンスは一匹の獣のようでもあった。


 弱肉強食というシンプルでプリミティブな言動に触れたからだろうか。

 今の俺の耳に和尚の言葉は虚しく響く。


「つるがきりこだったらあんたは、しぬ」


 ともすれば女並みに美しい和尚の顔立ちに陰が差す。


「べつに殺せ、とまでは言わない、けど。せめて武器をもたせないとか――――」


「……カラス。五戒を知っていますか。五つの戒律と書くのですが」 


 俺は眼球の動きだけで知らないと告げた。


不殺生戒ふせっしょうかい不偸盗戒ふちゅうとうかい不邪淫戒ふじゃいんかい不妄語戒ふもうごかい不飲酒戒ふおんじゅかい。簡単に言うと、生き物を殺さない、盗まない、肉欲に溺れない、嘘をつかない、酒を飲まない、です」


 静かに告げた和尚は微笑む。


「私もまた生き物です。私自身を殺すような振る舞いをするつもりはありません」


 まっすぐに俺を見つめる瞳。

 鶚とベクトルこそ違うが、和尚の目の奥にもまた強靭な意志を感じた。

 それは信じるに足るものだと感じられる。



「大丈夫ですよ、カラス」


 とは言え俺は鶴宮への警戒心を緩めるつもりはなかった。

 和尚の気持ちは理解できるが、美羽という強烈な前例の存在が感情論や性善説を拒絶している。

 奴の行動には十分に注意を払わなければならない。


「明日の昼には船への移動を始める予定です。私はそれまでにできるだけ多くの生存者を探します」


 和尚はゆっくりと立ち上がり、ドアへ向かう。


「カードキーは私と鴨春が預かっておきます。ああ、電池式なのでオートロックは生きていますよ。安心して休んでいてください」


「まて和尚! 窓、と下、キリコが来る、かも」


「窓側は大丈夫です。キリコは力ずくで破れない引き戸を嫌いますし、酒瓶でトラップをこしらえています」


(酒瓶……そうか)


 このホテルは二階にバーがある。

 キリコを弱らせる酒なら山ほどあるのだろう。


「あなたは気付かなかったようですが、遺骨はエントランスに集めていますからキリコはそちらに寄って来るでしょう。そして下層には鳴子があります。奇襲の心配は要りません」


 和尚は静謐な知性を湛えた瞳で俺を見やると、再び作務衣の背を向ける。

 かちゃ、と軽い音と共に分厚いドアが閉じた。



 窓の外に見える光はまだ午前のものだ。


(寝る、か?)


「からす」


 梟雲が布団の中をもぞもぞと動き、俺の首元にひょっこりと頭を出す。

 熱を帯びた女の匂いが布団の隙間から溢れ出した。


「きょうにころすっていって」


「ん?」


「きょう、からすしかすきじゃない」


 じいっと梟雲は俺を見つめ、血走った瞳に俺の顔を映す。


「はげも、まっくろも、おっぱいも、つるもころす。ほかのやつもみんなころす。いけすで、からすときょうはにげる」


「……」


 確かに、それが一番手っ取り早いのだろう。

 だが――――


「ダメだ、キョウ。みんなお前を……けいかいしてる」


「みんなねてからころす」


「カード、キーがあるから、入れない、んだ。鶴とみさごは……出て来ない」


 むう、と梟雲は不満そうに唇を尖らせた。


「きょう、ドア、こわす」


「だめだ。おまえがけが、する」


 それに、と俺は梟雲の頭を撫でてやる。

 彼女は日光浴をするトカゲのように気持ち良さそうに目を細め、俺に顔を寄せた。


(女の子に何やらせようとしてるんだ、俺は……)


 発狂した奴だから何人殺させても構わないとか、俺は畜生か。

 大体、いくら強いからといって女の子の暴力に頼るというのも情けない。


「いいよ。もう少し待とう」


「わかった。きょう、まつ」


 梟雲は微かに恥ずかしそうな上目遣いをした。


「……きょう、あったかいのして、いい?」


「あったかいの?」


 もぞりと梟雲は布団に潜り込み、モグラのように俺の下腹部へ。


「あ、ちょ、まった。まてって……」


 ぴ、かちゃ、とロックが解除されると梟雲がベッドの足元から転げ落ち、身構えた。


「だれ」


「すみません。やはり誰も――――あら?」


 鴨春だ。

 彼女は小さなカートを押して入室すると、それをベッドの傍で止めた。

 首を向けると水のたっぷり入ったピッチャーが四つと、食べ物の乗った平たい皿が見える。

 チーズやベーコンといった安いエネルギー源が多く乗せられている。


「もう、いったよみんな」


「そうでしたか」


 鴨春は黒髪をゴムのようなもので束ねていた。

 俺は彼女の髪飾りを借りていたことを思い出し、それを片手で外す。


「鴨、春。これ返す、よ」


 真っ赤なホオズキ色の髪飾り。

 鴨春はその存在に気づいていたのか、凛とした表情を綻ばせた。


「やっぱり私のだったんですね。ありがとうございます」


 彼女は嬉しそうに髪を結い直した。

 真っ黒な装いに紅色のアクセントが眩しい。


「鴨春。お前、つるのこと、どうおもう」


「鶴宮さんですか」


 鴨春は表情を険しくした。


「正直、得体の知れない人だとは思います。……余裕って言うんでしょうか。何だか不自然な雰囲気があるんです」


 彼女は和尚ほど人を信じるタイプではないようだ。

 思い返せば彼女は緋勾と同じドライな金持ちなのだから、生き死にについてはより厳しい目を持っていることも頷ける。


「たぶん、みはねとおなじ、だ」


 キリコに襲われないという安心感。

 それがあれば自然と気は大きくなる。


「美羽さんと同じ、ですか」


 鴨春の表情が曇った。


「ご老人を殺めるような人ではなかったんですが……」


「やったのは事実、だ」


 鴨春はグラスに水を注ぎ足すと、神妙な顔で俺を見つめた。


「カラス。お願いがあります」


「おね、がい?」


「もし美羽さんが姿を見せたとしても殺さないであげてください。お酒で無力化するか、説得を」


「……」


 前者はともかく、後者は無理な気がする。

 前者の後で後者なら分かるが。


「それは美羽が、かねもちだから、か?」


 彼女の無二の友である緋勾は確かそう言った。

 この世には生きるべき奴とそうでない奴がいる、と。


 もし鴨春が同じ考えを堅く信じているのなら危険だ。

 予想もつかない行動に出られては困る。


「地位やお金というものは自分で手にした時にのみ価値を持ちます。その意味では、私も、美羽さんも、お嬢も。素封家でも資産家でもない、ただの子供です」


 思いがけない言葉に俺は眉を上げた。


「お嬢の言い分は間違ってはいません。私達には権力があり、富がある。一定の影響力ある私たちがそれを行使することはこの非常時において極めて重要です。ですが……」


 鴨春は憂いを含んだ表情で窓の方を見やる。

 年齢に不釣合いな成熟した色気を感じ、俺は口を噤んだ。


「私達はまだ、自らの力で何かを手にしてはいません。まだ何者にもなれてはいない。……うまく言えませんが、その機会を持たないままただ『金持ちの娘』として死んでいくのは不幸だと思うんです。美羽さんも、お嬢も」


 それ以上の言葉は無かった。

 なので俺もそれ以上は追及しない。


 彼女が立ち去る気配を見せたところで、鴨春、と俺は呼びかけた。


「せっとく、むりならころ、せよ。しぬぞ」


 黒髪の女子高生は少しだけ思案に耽り、顔を上げた。


「……お嬢、ああ見えてお茶を点てるのが趣味なんです」


「お茶?」


「ええ。濃茶です。とても濃厚で喉にどろりと来るお茶です」


 喉越しを思い出したのか、鴨春は曖昧な笑みを浮かべた。


「ですがお嬢の周りには紅茶を嗜む方ばかりで、腕を奮う機会がないと嘆いていました」


 ふっと鴨春は小さく笑った。


「私がいてあげないとお嬢のまずいお茶を飲む人がいなくなります。……だから、死にませんよ」


(……不味いのかよ)


 心の中でそう返したが、彼女は既にドアの向こうへ去っていくところだった。




 無理に話したせいか、ひどく身体がだるい。

 ここで眠ることはタイタニック号の甲板で眠ることとほぼ同義だが、この状態では仕方がないだろう。

 こうして温かい相棒もいることだし、と布団に潜り込む梟雲と抱き合う。


「からす」


「ん?」


「きょうもいっしょ。だからこわくないよ」


 考えを見透かされていたようで俺は気恥ずかしさを覚えた。


「いっしょならどこもこわくない」


「ああ。……そうだな」


 俺は梟雲を胸に抱き、安らかな眠りに落ちる。





 目が覚めたのは夕方だった。


 ――――そして、キリコの大群が現れた。



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