rallentando(だんだん遅く)
「しかし……このホテルの『水中花』ってネーミング、微妙だよな。海の傍なのに水中花ってどうなんだ」
足を宙に放り出すようにして一歩、また一歩と。
ゆっくりと鶴宮が階段を降りてくる。
白い鎖が全身に巻き付く様を模した黒いワイシャツ。それに白いネクタイ。
長い黒髪を野武士のごとく無造作に束ねた奴は、軽く肩をすくめて見せた。
「そう思わないか? カラス」
――――鶴宮が生きていた。
キリコに捕まり、あの大講義室でバラバラに引き裂かれたはずの奴が。
脳がその事実を理解した瞬間、発せられた指示はシンプルだった。
「梟雲っっ!!」
俺はあらん限りの声で叫んだ。
和尚のハゲ頭をぺちぺちと叩いていた梟雲が弾かれたように飛び出し、俺の傍へ駆ける。
「捕まえろ!」
「うん!」
ブレーキすら踏まず、一陣の黒い風と化したドクロ仮面は一瞬で鶴宮の眼前へ跳ぶ。
梟雲が強すぎたのか、それとも鶴宮が思ったほど強くなかったのか。
勝敗は瞬く間に決した。
「お、おおっ?」
梟雲の足払いを鶴宮はかろうじて防いだ。
が、次撃、次撃、また次撃と立て続けに降る拳の雨に打たれ、呆気なく膝をつく。
そこにヒールキックが入り、気づけば梟雲は地に臥す鶴宮の背中を踏みつけていた。
「ぐえっ」
「からす! きょうやった!」
「よし!」
「なっ、何をやっているんですかカラス!!」
大声を上げたのは和尚だ。
鴨春もまた訳が分からないとばかりに眉を八の字にしている。
「和尚! こいつはキリコだ!」
「いだだだ!! アホか! 俺が骨に見えるのかお前!」
ジタバタともがく鶴宮の声音には緊張感が無かった。
だが俺の方は本気だ。手の平には汗すら滲んでいる。
(あの状況で逃げられるわけがない……!)
こいつは確かにキリコに足首を掴まれていた。
梟雲ですら振りほどけないキリコの手から鶴宮が運良く逃れられるとは思えない。
となると答えは一つ。
――――キリコはこいつを襲わなかった。
現状、その幸運に与ったのは一人だけ。
半身をキリコと化した切鴇美羽ただ一人。
「梟雲! 押さえつけてろ!」
スラックスを留めるベルトに手をやると、うひっと鶴宮は素っ頓狂な声を上げた。
「おおおおっ!? や、カラスお前っ、何する気だ」
「脱げ。見せろ」
「何でだアホかっ!!」
腿を抱くようにして脚を押さえつけ、かちゃかちゃと鶴宮のベルトを外す。
スラックスから覗く足首はハイソックスのせいでよく見えないが、実は脚が骨かも知れない。
いや、脚ではなく腕かも。
いやいや、腕じゃなく指かも。
とにかく脱がす。
脱がせるのだ。
「からす」
梟雲が警告を発し、俺は顔を上げる。
そこには今まさに小坊主を叱らんとするかのごとき和尚の怒りの表情があった。
「カラス!! おやめなさい!!」
「ヒッ」
凛とした声に一喝され、思わず俺は身を竦ませる。さながら仏の威光に怯む小鬼だ。
立ち上がった俺はぴしりと「気を付け」の姿勢を取り、害意が無いことをアピール。
「待て和尚。これには訳が」
「あなたもです。その人から離れなさい」
「んん?」
ぎろりと梟雲が血走った目を向ける。
事実上、このコミュニティで最強の暴力を誇る二人が睨み合う。
「うるさい。きょうにめいれ――――」
「離れなさいっっ!!!!」
音による強打。
そう例えられそうな怒声で梟雲が竦み上がった。
驚いた猫を思わせる仕草を見せたドクロ仮面は目を見開いたままよろよろと後ずさる。
「ぁう」
童心に戻ったせいで和尚の一喝が効いたのだろう。
ぽてりと尻もちをついた梟雲はなおも目をぱちくりしている。
「何て声上げるんだよ鷺沢さん……耳痛え……」
鶴宮は俺と梟雲に報復するでもなく、寝転がったままスラックスをかちゃかちゃやっていた。
「ところで、カラス」
和尚はくるりと背を向け、拘束されたままの鶚を見下ろす。
俺は早々に着替えを済ませたが、彼女はイカダがホテルに着いた後もずっと簀巻きにされたままなのだ。
「さっきから気になっていたのですが、これはどういうことですか。鶚はどうしてぐるぐる巻きなのです」
「和尚っ! 実はカラスが私を無理やり……!」
ここぞとばかりに鶚は嘘泣きを見せた。
つう、と美しい涙が一条頬を伝う。
(この腹黒女……!)
「嘘をお吐きなさい」
ぴしゃりと和尚は言い切る。
「それが真実ならもっと早くから助けを求めていたはずです。あなた、機を窺っていたでしょう」
「……」
図星を突かれた鶚が押し黙る。
「カラス」
「は、はいっ。それはですね。そいつが俺達を襲ったからでして」
「襲った……なるほど。それで、鶚の命を奪わなかったのはなぜですか」
「それはその……色々ありまして」
「最終的には鶚を殺めるつもりでしたか?」
「いや、そ、そんなことは」
「では彼女を解放しても構いませんね?」
「えっ!? や、危ないって和尚」
もぞもぞと和尚は鶚の拘束を外しにかかる。が、かなりきつく縛ったせいで難儀しているようだった。
「鴨春」
「分かりました」
そのやり取りは生活指導教諭と生徒会会長の持つ独特の連帯感を想起させる。
咲酒鴨春は懐から長い出刃包丁を取り出すと、すらりと鞘を払った。
ひゅっと巧みな包丁さばきで黒い少女が鶚を解放する。
(! そうか、こいつら鶚が子供の浮き輪盗ったところを見てないのか……!!)
船からの落下を免れた緋勾は鶚の本性を知っている。
だが落水後に助けられた和尚と鴨春はそれを知らない。
この二人にとって鶚の危険性はかなり低いのだ。
抜角が鶚を侮ったように、この二人もまた暴力という尺度でしか人間を見ていない。
(ヤバいぞ……)
鶚は手をさすりながら立ち上がり、俺以外の誰にも見えない角度でにたりと笑う。
赤い口が裂け、ちろりと蛇舌が覗くようだった。
(こいつを自由に泳がせたらマズいんだって、和尚!)
「さて。それじゃ――――」
悪辣な笑みを浮かべた黒インナーが俺に一歩近づこうとする。
「鶚。カラスは理由もなく女性を縛る男ではないはずです」
釘のように冷たい言葉に触れ、勝ち誇っていた鶚の頬が引き攣る。
「何か攻撃行動を取りましたね?」
「い、いやそんなことは……」
「正座です」
「は?」
「え?」
すうう、と和尚が息を吸った。
「全員そこに正座なさい!!!」
があん、と音の壁にぶつかったかのごとき衝撃でよろめいた俺、梟雲、鶚の三人はその場にひれ伏す。
鴨春が曖昧な笑みを浮かべ、鶴宮がやれやれとばかりに髪をかき上げていた。
円筒状のホテル、「水中花」のフロントは完全に水没している。
破砕された自動ドアから侵入した俺達は二階階段前にイカダとボートを接舷したばかりだった。
ちらりと目をやれば水没しつつあるエスカレーターと、遥か上層階まで続く吹き抜けが見える。
微かに人の声が聞こえるので他にも生存者がいるらしい。
正座した俺の話を聞いていた黒髪黒タイツの少女が青ざめる。
「美羽さんが、人殺しを……!?」
『展示室』というプレートの掲げられた部屋の前に正座した俺は、まず弁解しなければならなかった。
なぜ鶴宮を襲ったのかという弁解を。
――――必然的に、美羽の話をしなければならない。
俺は三人の生存者と合流した際に巨大キリコに襲われ、その最中、美羽に襲われたと告げた。
「本当だ。人間の首を骸骨の脚でへし折った。……そいつ、めちゃくちゃ強い奴だったけど、一撃だったよ」
「そんな……」
「にわかには信じがたい話ですね」
和尚は思案げに顎を撫でている。
髭が生えていないのは手入れしているからなのか、脱毛でもしているからなのか。
「本当だよ。ここにいる三人全員が見てる」
すっと背を伸ばした正座姿の鶚がそう告げる。
「あの子はもう人間じゃない」
「……」
鴨春は悲哀と悔悟をない交ぜにした表情で俯いた。
緋勾の無二の友人である鴨春にとっては、やはり美羽も護るべき相手なのだろう。
「あー……まあ、緋勾はたぶん無事だから安心しなって」
「ええ。それだけが救いです。ですが」
「ですが?」
「美羽さんのことを私はお嬢に何と報告すればいいのか……」
いっそ死んでくれていたら純粋に悲しむこともできただろう。
緋勾が身を投げ打ってまで助けようとした友は化生となって生き延び、人間を襲い始めている。
そんな話を緋勾が聞けば卒倒するかも知れない。
鴨春と緋勾、美羽の関係性を知る俺、和尚、鶚は掛ける言葉を見失う。
重苦しい沈黙の中、それにしても、と和尚が口を開く。
「カラスと沼月さんは知り合いでしたか」
腕組みをした和尚は鶴宮に目をやる。
奴は玉砂利の敷き詰められた造花の花壇に座り、片膝を組んでいた。
「ええ。大学でつるんでたんです」
鶴宮は少しだけ寂しそうな顔で俺を見る。
「……鳩子は?」
鳩子。
鶴宮の恋人。キリコに首をネジ折られて死んだ女。
もう気が遠くなるほど昔の出来事に思えた。
「死んだよ」
「……そうか」
俺は微かに目を細めた。
「冷たいな」
「死んだの一言でわんわん泣けるほど感受性が豊かじゃないんだ」
鶴宮は疲れたような表情で小さくウインク。
そこには「お前も俺が死んだからって泣いたわけじゃないだろ」とでも言いたげなシニカルな笑みが浮かんでいる。
だが俺は笑みを返すことができなかった。
――――やはり疑念は拭い切れない。
「和尚」
正座というのはなかなかに屈辱的で間抜けだったが、ぴりっと気が引き締まるという意味では実に合理的だ。
考えがまとまるし、誰かが茶々を入れるような雰囲気でもなくなる。
「どうしました」
「話は繋がっただろ。鶴宮の手足を調べさせてくれ」
むう、と和尚は押し黙る。
俺の記憶が正しければ鶴宮は間違いなく死の淵に瀕していた。
それが生きている理由は一つ。
こいつがキリコと同化しているからだ。
そしてキリコと同化した美羽は性格が一変し、平然と人間を襲うようになっていた。
――――鶴宮も同じである可能性が高い。
「だ~か~ら~! 普通に助かっただけだって」
鶴宮は助けを求めるように周囲を見渡すが、あいにくと奴の最期を見たのは俺しかいない。
鶚も和尚も鴨春も判断しかねているようだった。
梟雲は水没したエスカレーターにひらひらと流れ着く紅葉を楽しそうに眺めている。
「確認なんだけど、和尚と鴨春は俺達と別れた後、まっすぐにここに来たんだな?」
「ええ」
それが一番驚くべき点だった。
転覆を免れたクルーザーに生き残りの子供達を乗せ、黒服と和尚、鴨春は必死に生存者を捜索した。
だが緋勾や美羽の捜索が絶望的だと知った彼等は一旦、本土への帰還を選択したのだ。
そして目の前の二人はハーバー12への残留を決断した。
和尚は生存者の救出の為に。鴨春は緋勾と美羽の亡骸を確保する為に。
二人は津波の流れを辿り、最終的にこのホテルへと到着したらしい。
「で、鶴宮が後から来た、と」
ええ、と和尚はちらりと横目で鶴宮を見やる。
「身体検査はしたのか?」
「するわけがないでしょう」
(何でしないんだよ……。鶴宮がドクロ仮面だったらどうするつもりだよ……)
「そいつの服を引っぺがしてくれ」
「いや……おいおい」
「鶴宮」
俺は奴を睨みつけた。
「後ろ暗いところがないなら脱げるはずだ」
「……。はあ、やれやれ」
男のストリップを見ることになるとは思っていなかった。
鶴宮は無造作にワイシャツを脱ぎ、鶚のそれと似た保温性の高いインナーを脱いだ。
程良く筋肉の乗った上半身を見せ、背中を向け、奴はベルトにも手を掛ける。
スラックスの下にあったのはボクサータイプのトランクスとハイソックスだ。
念のため靴下まで脱いでもらったが、奴の四肢は人間そのものだった。
(嘘だろ……?)
「おい、もういいか?」
鶴宮はいつまでも眺められていることに傷ついたような表情を見せた。
俺は半信半疑のまま頷く。
(鶴宮は本当に生き延びた、のか……?)
事実はそう告げている。
だが俺の全身には悪寒が残ったままだった。
「なあ、カラス。俺も聞いていいか?」
着衣を整えた鶴宮はぐっと花壇を飛び降り、身を乗り出した。
俺は嫌な予感に身構える。
「お前、どこに向かってたんだ? あのイカダじゃ外海に出られないことぐらい分かるだろ」
核心を突く問いに俺は口ごもる。
「適当に動き回ってたんだよ」
「そうか?」
鶴宮はポケットに手を突っ込んだまま俺の傍に近寄り、じろじろと顔を眺めている。
「目的もないのに動き回るような奴だっけ、お前?」
「ああ、そうだ」
俺は奴から目を逸らす。
「そっか……」
鶴宮はほんの少しだけ残念そうに呟いた。
ただ単に脱出の当てがないことを悔しがっているようにも見えるし、俺が真実を伏せたことに傷ついているようにも見えた。
まだだ。
まだ鶴宮は信じられない。
信じられない内は、生け簀の件は伏せなければならない。
「そのデカイねーちゃんは?」
梟雲は長話に飽きてしまったのか、きょろきょろとせわしなく辺りを見回している。
和尚の目がなければとっくにどこぞへ歩き出していただろう。
「助けた」
梟雲がドクロ仮面であるという事実も伏せておいた方がいい。
和尚の要らぬ疑念を呼ぶだけだ。
そこではたと気づく。
「和尚!!」
「わっ。どうしました?」
「船だよ船! あんた、あの立派なボートどうしたんだ!」
俺は二階階段前に揺らめく『サイドカーつきボート』を顎で示す。
「造りました」
「脳筋……」
ぼそっと鶚が口走る。俺も同感だ。
「この辺りは中央部を流れた津波の到着地点でもあるんです。流木は意外と簡単に見つかりました。それを余っていた刃物でくり抜いたのがアレです」
さらっととんでもないことを言ってのける坊主だ。
そんな技術があるのならさっさと脱出すればいいのに。
「見えますか、あれが」
和尚は二階の一角を示した。
そこには小さな銀のプレートが光っている。
「レストランです。反対側はバーになっています」
「二階にあるんだ……」
鶚が興味深そうに呟く。
「ここには私達3人も含めて約10人の生存者がいます」
「10人?」
「多いね……」
俺と鶚は吹き抜けの天井を見上げる。
そこには確かに人の話し声が聞こえるし、ちらちらと下を覗き込む奴の姿も散見された。
「これでもだいぶ減りました。当初はもっと大勢いたのですが、何度かキリコに襲われまして」
ともあれ、と和尚は気を取り直す。
「今、外にキリコはいません。そしてここは籠城に向いています」
和尚は鴨春、鶴宮の二人と頷き合った。
「私はこのままできるだけ多くの生存者を救出するつもりです」
その突拍子もない発言に俺は思わず立ち上がっていた。
「生存者を探す!? 待て待て。沈没するんだぞ、この島」
「正しくは沈降だな。それにまだ時間がある」
「?」
鶴宮は右こぶしを見せ、それを宙に浮かせるような仕草をする。
「人工島ってのは『浮かせる』『支える』『埋め立てる』のどれかで出来てる。ハーバー12は『支える』だ」
「支える? 脚でもついてるのか」
「ああ、そうだ。海底の岩盤にでかい柱が何本も突き刺さって島を支えてる」
「……それが折れたのか」
「違う」
言葉を挟んだのは鶚だ。
「あの大雨で地盤が先に崩れた、ってこと?」
「そうらしい。あのバカみたいな雨の重みで地盤がひしゃげた。躯体っていう骨組み自体はまだ平気らしいんだが、土地の方が先にダメになった」
「だから変なスピードで浸水してるのか……」
鶚は神妙な顔つきで床の一点を見つめている。
「ああ。実際、沈降はある時点まではゆっくり進むらしい。だから救助活動をやるなら今だ」
「ボートがあるのに救助活動、ね」
鶚は「今すぐにでもあれを奪って脱走したい」とでも言わんばかりの目でボートを見やる。
俺も同感だ。
「海に出る途中でキリコに出くわすかも知れないから、抜け駆けはオススメしないな」
鶚の視線を追った鶴宮がそう釘を刺す。
「変なこと考えず、俺達と一緒に来た方がいい」
俺と鶚が首を傾げると、鶴宮は大げさなポーズでアピールした。
「すぐそこに船があるんだよ。ここにいる全員を連れだせるぐらいの船と、それを操る人間、カフーが」