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D. C.(曲頭に戻る)

 


「水深4メートルぐらい、かな」



 鶚が見ていたのは片手持ちタイプの道路標識。

 ブルーの看板に白地の矢印が引かれ、「~まで~キロ」なんて書いてあるアレだ。

 そいつが今、イカダに立つ梟雲の目の高さにある。


 水底に目をやっても道路はもう見えない。

 2メートルの浸水時点ではかろうじて見えていた「止まれ」とか「40」の道路標識はとっくに水の下だ。


「いや、もっと高いだろ。あの標識って10メートルぐらいあるんじゃ……」


「この手の道路標識の『最低基準が』4メートルか、4.5メートルぐらいってだけ。もっと深いかもね」


 鶚は事も無げにそう呟いたが、その表情には緊張が窺える。


 そうだ。

 4メートルだろうと6メートルだろうと関係ない。

 どちらにせよ、今のハーバー12は海と大して変わらないのだから。


 今まで使っていた櫂で道路を押すことはできないので、教会の木材を拝借し、即席のパドルをこしらえた。

 たぽん、ちゃぽん、と梟雲の操るダブルブレードが水をかくと臆病な魚が逃げ出すのが見える。

 裸でイカダに追従する俺の身体をすり抜け、元来た教会の方へ。


 手足を拘束された鶚は浮材を継ぎ足したイカダに乗せられ、じっと周囲の景色を注視している。


「……ずいぶん静かになったね」


 水没までのカウントダウンが始まったハーバー12は静まり返っていた。

 多くの死体が水底へ沈んだお陰か、腐臭はほとんど感じない。

 そこにあるのは水の揺らめきと濃い潮の香りだけ。 


 日の出前の空は夜の名残の群青色。

 少なからぬ建造物が見えなくなった世界は見通しも良く、海と空が繋がって見えた。


「からす。つめたい?」


「冷てえ。心臓止まりそうだ」


 何で俺だけまた寒中水泳なんだ、と愚痴の一つも吐きたくなる。

 だが仕方ない。鶚の拘束を解いて泳がせるのは危ないし、かと言って梟雲を泳がせるとキリコへの対処が遅れる。


「あとであったかくする」


 パドルを止めた梟雲の流し目に微かな艶めかしさを感じ、どきりとする。

 細胞の一つ一つを突き刺すような冷水の痛みの中、俺は昨夜の熱を思い出していた。


 一人の女を好きなようにできる、そう知った瞬間の戸惑い。

 俺の知らない声を漏らす梟雲。その声をもっと聞きたくて楽器を弾くように彼女の身体に手を這わせたこと。

 肌に肌が吸い付くあの幸福感。


 ――――熱くなってきた。


「からす、かおあかい」


「うっ……いや、風邪だ、風邪」


 ふっと梟雲が小さく微笑んだ。


「からす、かわいい」


「いちゃつくのは後にしてくれませんかねぇ」


 鶚がつっけんどんな言葉を放る。

 丸焼き寸前の豚のように手足を封じられた少女は呆れ顔で俺を見ていた。


「キリコの「的」が減ってるんだから、もっと緊張するか私を離してほしいんですけど? ……梟雲。そこ、左」


「うん」


 梟雲はパドルを器用に動かし、道路を左折する。

 道路と呼ぶには見晴らしの良い、車道も歩道も関係ない水の平野。

 水面からにゅっと突き出した建物はタケノコのようにも見える。


「……」


 今のハーバー12は見晴らしが良い。

 キリコがぷかぷか浮いていれば俺達の方が先に発見することができるはず。

 ――――そう思っていたのだが。


「来ないね」


 鶚の視線は梟雲と俺の死角をうまくカバーしている。

 その彼女がキリコの姿を認めていないということは、今俺達が見ている十数メートルの範囲内にキリコはいないということになる。


(……変だな)


 水に浮くことのできる奴らにとって浸水の度合いは関係ない。

 出て来なくなった理由が分からない。


「ぴんくのあいつがつれていった?」


「ピンクのあいつ?」


「美羽のことでしょ」


「ああ」


 何がピンクなのか興味をそそられるが、それはともかく。


「……美羽がキリコを連れて行った、か」


 興味深い発想だが、ややピントがずれている。


「鶚」


「ん。『襲われない』が正しいと思う」


 つまりこういうことだ。

 切鴇美羽は下半身に液体生物キリコを飼っており、そいつをある程度自在に操って骨を纏うことができる。

 だが人型キリコで一個大隊を作り俺達にけしかけるなんてことはできないし、髑髏の助けを呼ぶこともできない。

 おそらく液体生物は骸骨に組み付いた時点で独自の自我を形成するか、骸骨に組み付くまでしか美羽の指示に従わないのだ。

 これまでキリコが見せた単純な挙動から察するに後者だろう。


 美羽が『着ている』限りにおいてキリコは忠実な下僕。だが美羽を離れたキリコはもはや彼女の意図を汲み取らない。

 ――――つまり。


(人間にくっつくとそいつの意思を読み取る……?)


 あながち間違っていないはずだ。

 だが肝心の『人間にくっつく条件』が分からない。

 美羽が身障者であったことと因果関係はありそうだが、どうなのだろうか。


(まあ、逃げ出しちゃえば関係ない、か)


 それを知る機会はできれば訪れてほしくない。

 このまま彼女とは今生の別れを迎えてしまいたかった。


 とぷん、たぷん、と波をかく音は少しずつ早くなる。

 キリコ不在の確信を得た梟雲がスピードを上げているのだ。

 ゴミの山をかき分け、大きめの魚群をくぐり抜け、イカダはぐんぐんと島の周縁部へ向けて進む。


 目指すは生け簀があるという海浜地区。


「なあ、鶚」


「何?」


「キリコの正体って何だ? どうして美羽にくっついてる?」


「そんなことどうでもいいよ。重要なのは殺せるかどうかだけ」


「ドライだな」


「理由を問い出したらキリがない。……この島も同じ。どうして沈んでいるのか?なんて重要じゃない。今こうして沈んでいるんだから、それに対応するのが先」


「人殺しも、か?」


 殺しという言葉を耳にし、ぴくりと微かに梟雲が反応する。


「そう。なぜなにどうしてじゃなくて、必要だからそうしてるだけ」


 鶚の言葉には迷いがない。行動と同じように。

 人を殺す。

 見捨てる。

 謀る。

 裏切る。

 踏みにじる。


 そうまでして生に執着する理由でもあるのだろうか。

 病床の母親がいるとか。将来を誓い合った恋人がいるとか。

 小さな頃に死にかけてこれが二度目だとか。


 そんな俺の考えを見透かしたかのように鶚は鋭い視線を向ける。


「どうしても帰らなきゃならない理由なんて無いよ、別に」


「あ、そう……」


 俺はいささか拍子抜けした。

 そこに海水よりも冷ややかな視線が注がれる。


「必死に生きて何が悪いの?」


「悪いとは言わないけどさ。戻った時やべーんじゃねえの、お前。人間性とか……」


「人間性?」


「少しは悩んだり葛藤するとかさ。社会に出た時、カっとなって殺っちゃうかも知れないだろ」


「――――人間性? うじうじ悩むことがそんなに上等なの?」


 寝転がったままの鶚は俺の鼻先まで顔を近づける。

 その目力に俺は口を噤んだ。


「人間は考える葦、だっけ」


 鶚はゴミでも見るような目で俺を睥睨する。


「私は葦なんかより何も考えない雑草の方が好きだよ。薔薇を枯らしても百合を腐らせても何の言い訳もしないから」


「……」


 梟雲が何かを言いかけ、やめる。

 彼女が言葉と空気を飲み込むこくりという音も波に紛れ、遠ざかって消えた。


 ちゃぷり、とぷり、と船頭の梟雲が立ったままパドルを操る音だけが続く。

 ややあって、鶚が切り出した。


「大きくなったり小さくなったりするし、攻撃部位まで変わってたけど、根本的なキリコの性質は変わってない。……あの子にもお酒は効いた」


「ああ」


「次、遭ったら必ず殺して」


「……分かってる」


 その台詞がかつて自分にも向けられていたと知ったら鶚はどう思うだろう。

 そんなことをぼんやり考えていると――――



「誰か!! 誰かいませんか!!」



 大きな、凛とした声が響いた。

 男の声だ。それも若い。


「私はこの先のホテル「水中花」から来ました!! まだ十分な水と食料があります! 誰か――――」




 その瞬間、俺と鶚はほぼ同じ顔をした。

 つまり目が飛び出そうになるほどの驚愕。


「和尚っっ!!!」


 誰かに聞かれているかも知れない、なんて考えなかった。


「っ!? か、カラスですか!!!? カラス!!」


 和尚の声は以前と何も変わっていなかった。


「梟雲! 声のする方に――――」


「からーーーーーーーーす!!!」


 白波を立てて建物の影から姿を現したのは鷺沢湖舟その人だった。

 つるつるのハゲ頭。深緑の作務衣。それに今はデニムを穿いている。

 少し疲れているようにも見えるが、全身から発せられる活力のオーラとでも言うべきものはいささかも損なわれていない。


「! はげ! はげ!」


 梟雲はきゃっきゃと無邪気にはしゃいでいる。

 ハゲは子供に好かれるのだろうか。


 和尚は細長い丸太舟に乗っていた。それもバイクで言うサイドカーが装着された形状の舟だ。

 上から見るとひらがなの「り」のような形になる。

 どこで調達したのだろうか。


「か、からす……」


 がこん、と手作りらしいパドルを置いた和尚は慣性のままに俺たちのイカダに近づくと、ぐいっと俺を海から引き揚げた。

 泳ぐと分かっていて服を着るわけがなく。

 当然ながら俺は素っ裸だ。

 膜のように全身を伝う海水がざぶざぶと水面を叩いている。


「ちょ、ちょっと待っ」


 いつぞやの鶚のように丸太舟に引っ張り上げられた俺は拒む間もなくぎゅううっと抱きしめられていた。


「ぃぃ痛あああっっ!!」


 筋肉は締め付けられ、ぎりぎりと骨が軋む。

 どう好意的に解釈してもベアーハグでしかないその行為に俺は慌ててタップする。


「和尚ギブギブギブギブ!!!」


「……良かった……!! 本当に!!」


 肩の辺りに何か熱いものが触れるのを感じ、俺はいささかの気恥ずかさを覚える。


 和尚は俺を抱きしめたまま肩を震わせて泣いていた。

 身の丈180を超える男にしてはみっともない仕草だ。

 苦い笑いを浮かべた俺は心の中でため息をつく。


(俺、あんたのこと見捨てるつもりだったんだけどなー……)


 出逢うのなら役に立つから仲間にしたい。だが出逢わなくても別にいい。

 その程度の気持ちだったのに。

 今こうして嗚咽を漏らす和尚を見ているとどうにもいたたまれない。


「いちゃつくのは後にしてくれませんかねぇ」


 鶚がつっけんどんな言葉を放る。

 丸焼き寸前の豚のように手足を封じられた少女は再び呆れ顔で俺を見ていた。


「鶚!? どうしたんですか? どこか怪我を――――」


「……」


 ずいっと梟雲が和尚の視界を塞ぐようにして立ちはだかる。

 その長身を前にさすがの和尚もたたらを踏んだ。


「? あの、どうされましたか怖い顔をして。私は」


「おあっ!?」


 途端、梟雲が和尚に捕まった俺を引っ掴む。

 そのままイカダに連れ戻せば沈没するから賢明な行動だった。

 しかし反射的に和尚も俺を引っ掴んだので、大岡裁判さながらに身体が引き裂かれそうになる。


「痛い痛い痛い!」


「からす、きょうの」


「?」


「からす、きょうの!!」


 梟雲は顔を真っ赤にして遺憾の意を表明した。

 少しだけ涙目にもなっている。


「からすをぎゅってしないで!」


「す、すみません。嬉しくなってしまいまして、つい」


 言いつつも和尚は俺を手放さないのでいよいよ身体が悲鳴を上げる。

 キリコに捕まれたらこんな気分なのだろう。


「裂ける裂ける裂けるって!! おいやめろ二人とも! 俺の為に争わないで!」


「……言ってて虚しくならない?」


 鶚が白けた口調で呟くとまた別の声が聞こえた。



「鷺沢さん! どうしました?」



 気づけば和尚の来た方角からもう一人の人物が姿を現した。

 彼女はサイドカーのない小さな丸太舟を操っている。


 濃紺のセーラー服に烏の濡れ羽色の長い髪。

 脚を一分の隙もなく黒タイツで覆った少女。

 すっきりした顔立ち。


 金持ち少女隊の最後の一人。

 咲酒鴨春さきさかおうしゅん


「鴨春……」


 俺は溺れてしまうほどの安堵感の中で彼女の名を呼んだ。


 もう大丈夫だ。

 キリコが何人来ようと、美羽が襲い掛かって来ようと。


「カラスさん……?」


 彼女は目を白黒させ、俺と、梟雲と、鶚を見比べる。

 それから丸裸の俺の下半身に目をやり、悲鳴を上げた。








 鴨春と和尚の拠点は海に面した6階建てのホテルだった。

 10階建てのオフィスビルも少なくない中、それは決して目立つ建築物ではない。

 だが『水中花』はハーバー12でも屈指の高級ホテルとして知られていた。


 エントランスが中央に位置する円筒状の構造。

 吹き抜けを見上げると部屋数の少なさは一目瞭然だ。下手をすれば1フロアあたり2~3部屋しか割り当てられていないのかも知れない。

 だがオベリスクを思わせる巨大な柱を筆頭に、傷一つ見当たらない紅の壁面、足音を吸う絨毯など、凝った造りが目を惹いた。


 部屋数の少なさと冬場の海浜リゾートという二つの特徴は和尚達にとって追い風となっていた。

 人間が少なく、物資が独占できるのだ。


 半分ほどが水没したエントランスの巨大噴水を通り抜け、俺達は二階へ続く階段の一つにたどり着く。

 冬だというのにわざとらしく咲いたハイビスカスの造花を見やり、俺、梟雲、鶚はフロアの床を踏む。


「安心してください。キリコなら居ません」


 和尚が拳を握りしめる。


「多くの犠牲を払いましたが、ことごとく打ち破りました」


「死闘、でしたね」


 鴨春もしみじみとそう言った。

 二人の話はもう少し詳しく聞きたいが、その前に俺は胸を撫で下ろすことにした。


(揃った……)


 当初、俺にとって必要と思われた人間が一通り揃った。


 武力の和尚。金持ちの鴨春。

 おまけとして悪知恵の働く鶚に、まあ、割と大事な梟雲。

 ――――美羽のことはもう忘れよう。


 手札が五枚揃い、そして役も作れたのだ。

 役の名は『武力のワンペア』か『悪知恵のワンペア』か。『大学生のフォーカード』なんてのもありか。

 とにかく、もうこれでゲームクリアでいいだろう。


(後はこのメンツで生け簀を見つけて脱出を――――)




「よう、カラス」




 その声を聞いた瞬間、俺は凍り付いた。



「……どうした。感動の対面だぞ」


 俺の耳にはまだ『奴』の悲鳴がこびりついていた。

 最後の最後まで醜い姿を見せず散っていった男の声だ。


 それが今。

 すぐ傍の柱の影から聞こえた。

 ――――恐る恐る振り返る。


 長い黒髪。

 洒脱な顔つき。

 得意科目は英語で、茶道部のくせにやたら運動神経のいい男。

 半年前に出逢った時からいついかなる時も「俺達」の中心にいた男。

 ちょっと遊びに行く時も、真面目に講義を受ける時も、「こいつがいないと始まらない」と自然に思えてしまう奴。


「お前、泣くタイプじゃないからな。ここは笑うところだろ?」


 なあ、と。

 いつものように。


 鶴宮は。

 鶴宮沼月つるみやしょうげつは親しみを込めて笑う。


「笑えよ、カラス」


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