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slur(音を結びつけて)

 


 攻勢に出てはならない。

 そのスタンスは変えなかった。


 危険性を削ぎ落すこともせず鶚を連れ回すことはできない。美羽を追うなんて論外だ。

 そもそも船を失った俺達には目的地すら存在しない。


 教会へ帰還することは決して愚かな選択ではない。

 そう思いたかった。



 何度も道を迂回し、尾行されていないことを確認し、キリコを避け、時に追い払い、道すがら物資を回収し、どうにか帰還した時には数時間が経過していた。

 もうジジイはキリコの餌になっているだろう。

 兄貴はとっくに温かいベッドで嫁さんと一緒だ。

 もしかしたら和尚や鴨春もとっくに脱出しているかも知れない。


 俺はと言えば燕から奪った物資をほぼすべて失い、貴重な脱出手段を失い、助けるはずの女の子が化け物になっていた。

 手元に残ったのは手榴弾女が二人。

 そう考えると何だか惨めな気分になる。


 惨めな気分。

 つまり、いつも通りだ。気にしてもしょうがない。


「ふい~……死ぬかと思った」


 ざばりと屋内の階段へ身を投げ出した俺はどっと仰向けに倒れた。

 教会の居住棟は意外と天井が高く、見上げていると気が遠くなってしまいそうだ。

 今さらだが、この木造建築があの大雨の中でも雨漏れしなかったことは凄いことなのかも知れない。


(きっついな……。やっぱり下手に進まなくて正解だ)


 衣服はたっぷりと海水を吸っているし、全身が濡れた砂のように重い。

 それにあちこちの筋肉が悲鳴を上げていた。


 どうにか首だけを持ち上げ、梟雲に手を伸ばす。


「ほら、キョウ」


「ん」


 梟雲は俺の手を掴んでひょいと階段に飛び移った。

 ――――小脇に抱えた鶚と共に。


「……ぅぅ」


 インナー姿の梟雲は鶚を椅子か何かのように軽々と運び、かつて自分が臥せっていたベッドへ放り投げる。

 ワイシャツで両腕をギチギチに縛られた鶚は俺達と別方向へ逃げなかったことを死ぬほど悔いているに違いない。

 もはや脱出は不可能だ。


 なぜなら――――


「さ、さ、寒い」


 海中で下着姿にされ、梟雲による身体検査を受けた鶚はそのままの格好でここへ運ばれている。

 そりゃ寒いだろう。


(白か……)


 意外だった。海水で透けたパンツ越しに見えるのは安産型の良い尻。

 ブラは乳首周辺だけ布が厚く、それ以外が透けている。普段からこれを着けているんだろうか。


 ――――それにしても肉感的な身体だ。

 腹周りを見る限り決して太っているわけではないのだが、つくべき所にしっかり肉がついている。


(ごちそうさまです)


 俺は両手を合わせた。

 今なら神様も仏様も信じられる。


「こっち見ないで……!」


 鶚は歯を軋らせたが俺を睨む余裕は無いらしく、身体をイモムシのように丸くする。

 丸くすればするほど胸や尻といった女性的な曲線が強調されて眼福なこと極まりない。


「見るな! 見るなぁ……!」


 鶚は屈辱のあまり泣きだしそうな顔になっていた。

 やれやれ、と紳士な俺はブランケットを掛けてやろうとしたが、ひやりとした直感が手を止める。

 生死のかかったこの状況で暢気に女らしさを見せるほど鶚は間抜けじゃない。


(……)


 むくむくと警戒心が身をもたげた。


 こいつは毛布の下で何を始めるか分からない。

 今のこの恥じらいだって十中八九演技だ。

 ぼんやり魅入っていれば支払いを要求されるだろう。金か、もしくは命で。


「からす」


「どうし……おわっ!」


 上半身丸裸になった梟雲は廊下で男物のインナーをぎゅっと絞っていた。

 強靭な筋肉にしっとりと脂肪の乗ったその肉体は「エロい」ではなく「美しい」と称するにふさわしい。

 腹筋は割れているが腰部には柔らかな肉がついている。

 つんと上向いた円錐型の乳房は大きいものの、彼女の腕は片手で赤子を抱けるほど力強い。

 戦乙女、なんて言葉が脳裏を過ぎった。


「あ、お……」


 俺は魚のように口を開けたまま彼女の裸体に魅入っていた。

 風俗であまりにも美人過ぎる女に当たると逆に勃たないなんて都市伝説もあるが、どうやらあれは真実らしい。

 鶚の下着姿で血の巡っていた俺の下半身は英国紳士も真っ青の礼儀正しさで頭を垂れる。

 そのまま脱帽してしまわないか不安になるほどに。


 その間も梟雲はぎゅうっとインナーを絞り、しっかりと水を切っている。

 びちびち、と水たまりが更に大きくなった。


「からだ、ふく」


「あ、ああ。そうだな」


 俺はせかせかとパンツ一丁になった。

 両腕を縛られた鶚は顔を真っ赤にしてぐるんと転がり、俺に背を向ける。

 俺の裸を見たくないという所作にも見えるし、作戦を立て直しているようにも見える。


「服、乾かさないとな。俺の荷物、ダメになっちまったし」


 教会に戻る途中、いくつかの建物を物色することはできた。


 アルコール類はもう見つからなかったが、小さな商店の落とし物カゴからはライターが見つかった。

 例のデザイン事務所に戻ってよく調べると、十本近い栄養ドリンクとゼリータイプの栄養補給食品が手に入った。

 これが何よりありがたい。


「ふく、ぜんぶぬぐ」


「へ? うおっ」


 梟雲は言葉の通り、一糸纏わぬ姿となっていた。

 濡れた恥毛まですっかり晒した彼女は俺のトランクスを半ば無理やりずり下ろす。


「きょう、ぬれたからびょうきした。からす、びょうきだめ」


「あー……うん、そうね」


 俺は縮こまったモノを両手で隠した。もちろん片手で足りるという事実は気にしないようにしながら、だ。

 梟雲は別室からタオルを拝借して俺に投げた。


「ふく、かわくまでまつ。よるになったらねる」


「……」


「……」


 俺と鶚は嫌な沈黙に包まれた。


 正直、夜は迎えたくない。

 目覚めた時には海の底かも知れないのだ。

 今は一刻も早く外へ出なければならない。


 だが夜にキリコと出くわせば最後だ。

 もう手元にアルコールなんて残ってない。あのデカイ奴とエンカウントしたらそれだけで詰みだ。

 それに鶚を連れてふらふら歩き回れば背後からぐさりとやられる恐れがある。


(畜生……! 荷物失くしただけかよ)


「おまえもぬぐ」


「え? ひゃっ!?」


 梟雲は問答無用とばかりに鶚のパンツを掴み、ずり下げた。

 あまりにもえげつない行為だが、拘束された鶚は抵抗すらできない。

 ぷりん、とはちきれんばかりの美尻が現れる。


「おほっ」


 この時初めて俺のモノは両手で覆い隠すに相応しい長大さを得た。詩的表現を排すれば勃起した。


「ちょちょちょちょっと!! 私はいい! 私はいいから!」


「よくない。ぬぐ。びょうきはいいけど、おまえぶきもってた」


 そう。

 イカダで鶚の身体検査を強行した梟雲はカーキ色の上着から細々した道具類を発見していた。

 カミソリ。十徳ナイフ。香水。丸めた下着。高そうな腕時計。

 ビーズ、針金、ネクタイピン、凧糸に折りたたみ式の歯ブラシ。

 実はウエストポーチを身に着けており、その中に先端を尖らせた金属製の櫛を隠し持っていたことも分かっている。

 美羽を追い払った梟雲がすぐにこいつを捕まえなければ、喉元に突きつけられていたかも知れない。


「も、もう隠すところなんてないでしょ! 離して! ……カラス!!」


 俺を呼ぶ声は甲高く、厳しい。

 だが俺は紳士のスマイルを浮かべる。


「大丈夫。……俺はあっち向いてるから」 


 パンツより先に中身を見るなんてロマンに欠ける振る舞いだ。

 女の子のプライベートゾーンを覗き見る時は、その子のパンツを俺の手で脱がせた時であってほしい。

 俺は10代男子の美しいプリケツを鶚に向け、両手を股間から離す。


「違う!!! このバカ止めてって言ってるの! 私はもうどこにも」


「かくすところ、まだある」


「ふぇ?」


「ふたつある」


 梟雲は鶚の白い脚を引っ掴むと、ぐいと自分の方に引き寄せた。

 ――――そんな感じの音がした。


「あな、ふたつある。ぱんつのなかにある」


「ひぃっ」


 完全に子供のような悲鳴を上げた鶚は梟雲を蹴り飛ばそうとするが、腕力が違いすぎる。

 ほとんど大人と子供の喧嘩だ。

 もさもさとベッドの上で暴れた鶚があっさりと押さえつけられた。


「変なことしたらこ、声上げるから! 人を呼んであなた達を――――」


「うるさくしたら、おしりのあなをびりびりにする」 


「ひぐっ……!!」


 鶚が本気で顔面蒼白となるのがありありと分かる。


「ま、待って! 待ってお願い!」


「うるさい。びりびりするぞ」


「ぅ、ぅ……うぅぅぅ~~~~~~!!!」


 鶚は魔女裁判で処女膜検査を受ける少女のごとく屈辱に耐えていた。






 簡単な食事を終えた俺たちは布団にくるまっていた。

 もう午後になっており、陽は傾き始めている。


 ぱちっぱちっと燃える炎はあまりにも小さい。

 どこからか流れ着いた金属製の洗面器に浸水を免れた本をぶち込み、煙が充満しない程度に火勢を調節するとこれが限界だったのだ。

 だがこんなものでもないよりマシだ。


 俺と梟雲はシーツと布団を厚く着込み、焚き火で暖を取るようにして洗面器に両手を掲げる。 

 試行錯誤した結果、どうにか洗面器の周囲に衣服を吊るすこともできたが、自然乾燥と大差ない気がしていた。


 鶚はむっつりした顔で文字通り簀巻きにされている。


「鶚」


「何」


 ぐりん、と首だけを出した手巻き寿司のような鶚がこちらを向く。

 布団の下は腕をきつく縛られた全裸だ。梟雲は念入りに足首も縛っている。


「ちょっと話そう。今後のことだ」


「……」


 彼女に選択肢は無い。

 今、こいつの生殺与奪を握っているのは俺だ。

 もちろん知恵と情報は欲しい。だがそれは生存に不可欠な水のようなものではない。

 無いなら無いなりにどうにかする。


 つまり、協力してくれないのであれば切り捨てても構わない。


「船のことだ。お前、あれどこで気づいた?」


「終わった話なんて聞いてどうするの」


 鶚は俺の問いを一蹴する。


「他に考えることあるでしょ。あの子の……美羽の言ったことが本当ならもう時間が無い」


「……あと数日でここが沈むってやつか」


「当てずっぽうには聞こえなかった。何となく察しはついてると思うけど、あの子、他の誰かと組んでる。そいつが言ったんだと思う」


 他の誰か。

 まあ、和尚や鴨春ではないだろう。


「カフー、か」


「そうだね。」


 んしょ、と鶚が炎越しに俺を見つめる。


「誰だか知らないけど、組んでる以上はそいつも身体がキリコ化してると見るべき」


「キリコ化……あれってさ」


「ストップ」


 鶚は唐突に話を切った。

 そして数秒たっぷりと待ち、ふうっと息を吐く。


「優先順位は、①脱出手段、②キリコ全般、③美羽たち、④その他、だから。別に考えるなとは言わないけど、あの子のことは一旦忘れて」


「和尚と鴨春は?」


「いたねそんな人たち」


 鶚は軽く嘆息する。


「④でいいでしょ」


「いや、あの二人はほぼ自動で俺達の仲間になるんだから優先度は高い。④和尚と鴨春、⑤その他、だ」


「仲間? ……五人になった状態で、三人乗りの船を見つけたらどうするつもり?」


 ぎろりと鶚は猛禽の瞳で俺を見やる。

 こいつは二人乗り以下の船を見つけたら平然と俺達を殺しに掛かって来るだろう。


「一人乗りに二人乗りは無理だけど、三人乗りなら四、五人乗ったって平気だろ、たぶん」


 ふん、と鶚が小さく鼻を鳴らし、梟雲は俺達が発言するごとに交互にその顔を見ている。


「じゃあそれで。①脱出手段、②キリコ全般、③美羽たち、④和尚と鴨春、⑤その他」


「おう」


「おうじゃないでしょ。当て、ないの?」


「無いから聞いてるんだよ。お前こそ無いのか」


「無いからあそこでお爺ちゃん達を見てたんですけど?」


「嘘つけ。手っ取り早く手に入るのがあそこだったから、だろ。……考えてること、全部言えよ」


「……」


 鶚は不満そうに俺を睨んだが、それ以上に鋭い目つきで梟雲が彼女を睨んでいる。

 俺が一言「GO」と言えば鶚の尻穴は前の穴と合流するかも知れない。


「ハーバー12の地理、思い出せる?」


「……ちょっとだけ」


 鶚は大げさに溜息をつく。


「ここはだいたい直径4~5キロの人工島。陸までは1キロを軽く超えてる。海は大荒れで、泳いだら確実に死ぬ」


「うん」


「大雑把に言うと島の中心はバカみたいに広い公園。それを取り囲むのが商業施設と居住区。オフィスビルとしょぼいリゾート施設は海沿いに建ってる。補足は?」


「ビルに入ってるのは中小企業かベンチャーがほとんどだ。あと、福祉施設もかなり入って来てる」


「そうだね」


 梟雲は新たな火種を洗面器に投入する。

 ここには神父の私室と思しき部屋があり、そこから適当な小説をかっぱらってきたのだ。

 ――――一応、聖書や神学系の本を燃やすことは止めた。焼いたらキリコが襲ってきそうな気がする。


 いっそデスクに置き去りにされていたノートPCを起動した方が熱源になるのかも知れない。

 いつまで電源がもつかは怪しいところだが。


「で、カラス」


「ん?」


「ここからはたぶんカラスが知らない情報」


 鶚は微かに優越感を滲ませ、続ける。


「沿岸部にはロジ系の企業も入ってるらしいの」


「ロジ系?」


「早い話がモノを溜め込む倉庫。申し訳程度だけど」


「! 海運ってことか?」


「そう。船が残ってるかどうかは賭けになるけどね。それから……」


 鶚は脳内地図をダウンロードするように斜め上方を見ていた。


「西側にはマリンスポーツ用のハーバーもある。確か水上バイクとホバークラフトがあったはず」


 兄貴と燕の顔を思い出す。

 まだあの二人が使った脱出手段は残っているだろうか。


「それに」


「まだあるのか?」


「うん。福祉施設に手漕ぎのボートがある。ここはただのメンタル系やフィジカル系だけじゃなくて、終末医療や老人福祉施設もあるから。夏場には浅瀬で船に乗せることもあったらしいの」


「落ちろ落ちろって思ってるんだろうな、色んな奴が」


「マリンスポーツのインストラクターが監視してたんだって」


「……」


 どうもおかしいと思ったら、鶚の話はほとんどが伝聞系だ。


(こいつ……。今の、自分の知識から引っ張り出してきた感じじゃないな)


 鶚は出会った当初、脱出手段に見当をつけていなかったはずだ。

 ネットもまともに使えないこの状況で、こいつがどうしてそれだけの情報を手にしているのか。


「拷問でもやったのか?」


「お尻の穴びりびりはやってない、とだけ言っておこうかな」


 そうだ。

 こいつは俺と違って救命浮き輪を手にした状態で津波に飲まれた。

 その分、リカバリも早いに決まっている。

 俺より素早く立ち上がったこいつは、その分多くの人間と出会う機会に恵まれたはずだ。

 もしかしたらそいつらを全員――――


「で、後はどれにするか、って話」


「――――」


 一か八かだが、一般にあまり知られていない海運倉庫。

 兄貴と燕が実際に利用したマリンスポーツハーバー。

 完全に未知のエリアとなる福祉施設。


 どこの船が無事だろうか。

 どこへ向かえば俺は脱出できるだろうか。


 考え込んでいると、「からす」と梟雲が俺を呼ぶ。


「どうした? 本が足りないか?」


「ふね、いえにあった」


「ん? ……ああ、そうだな。たぶん何か知ってたんじゃないのか、あそこの医者。この島の構造に問題があるってことを」


「ただの整形外科医が、ねぇ」


 鶚は小馬鹿にするような笑みを浮かべる。


「別に本当にそうかは知らないけどさ、実際に屋上に船が隠してあったんだから当たらずとも遠からずだろ。……ん? 何だ」


「これ。きょう、ひろった」


 俺の布団を引っ張る梟雲が差し出したのは小さな財布だった。

 おそらく屋上でキリコを退治している最中に死体へ近づき、つまずきでもしたのだろう。

 その時見つけてズボンのポケットに突っ込んでいたらしい。


 札束はすっかり濡れていた。

 濡れるどころかぴったりと貼りついて複数人の肖像が融合したように見える。これでは使い物になりそうもない。

 カード類はまだ使えるだろう。俺が医者の筆跡を真似したり、キャッシュカードのパスを見破るエスパーだったら、だが。


「きょう、やくにたった?」


「あー……うん」


 俺の声音ですべてを悟ったのか、梟雲はしょぼんと萎れてしまった。

 しまったねぎらいの言葉ぐらいかけてやるべきだった、と後悔しながら領収書類を調べていた俺は気付く。


「ん?」


 硬さを保ったままの紙がある。


「名刺……? 濡れてないな、これ」


「最近の名刺は無駄に手が込んでるからね、学生のキラキラネームみたいに。私もインターンで山ほどもらった」


「HDL……エッチディーエル?」


「見せて。『HIGH DESIGNED LIFE』。ハイ・デザインド・ライフ社……ああ、知ってる。確か再生医療か何かのバイオベンチャー。ここに来てる企業の一つ」


 俺はさらに財布の中を漁ったが、それ以外の名刺は医者自身のものすら出て来なかった。

 と言うか、医者って名刺交換なんてするんだろうか。


「……名刺、これしか入ってないな。整形外科医に何の用だ?」


「営業でしょ。再生医療の研究開発やってるからってそれ一本に全力投球してるわけじゃないだろうし。片手間で何かやってたんじゃないの?」


「ふーん……」


 それ以上のことは俺には分からなかった。

 整形外科医と言えば筋肉を傷めたり靭帯を切った時に世話になる場所だ。

 ――――それから骨折した時も世話になる。


(骨、か)


 俺は名刺を懐にしまい、鶚に向き直る。


「……鶚」


「ん?」


「これ、どこを選んでも誰かと出くわすだろ」


「そうだね。島、沈んでいくのは目に見えてるし。みんな必死だと思う。それに――――」


 鶚はいささか不服そうにその名を口にした。


「美羽ちゃん、わざわざ船を潰していったでしょ? あれ、自分は間違いなく助かるっていう確証があるからやってると思う」


「ああ。それは俺も思った」


「なら分かるよね? あの子たちが確保してる脱出手段が今挙げた三つのどれかだった場合、間違いなく正面衝突することになる」


「……」


 切鴇美羽。

 あの幸薄そうな女の子が今やすっかりハーフキリコだ。

 梟雲のように気が触れたわけじゃなさそうだった。

 何か心境の変化があったのだろう。


 理性を保ったまま針の振り切れた奴は、ヤバい。


(それに……)


 懸念はもう二つある。


 一つは目の前で暗い笑みを押し殺している鶚だ。

 こいつの言葉を100%信じることは危険だ。彼女はおそらく俺達を出し抜く算段を整えている。

 かと言ってこいつを殺せばどの方角にどの施設があるのかを知る術がない。


(どれを選んでもこいつの手の平で転がされることになる、と)


 もう一つはシンプルに俺の能力に帰結する。


 俺は弱い。

 頭も、身体も。

 だから兄貴や燕、梟雲や抜角といったえりすぐりのサバイバーと出くわした場合、高確率で死ぬ。


 だが現状、キリコの魔手をかいくぐって生き延びている連中はもれなく強者ばかりのはずだ。

 オフィスビルで。

 賃貸マンションで。

 水没した繁華街の百均で。免税店で。レストランで。

 人々は奪い合い、争い合い、生き延びようとしているはず。


 脱出手段が減れば減るほど、そいつらが行動範囲を広げることは目に見えている。

 いずれかの脱出ポイントに向かった際、エンカウントする可能性は低くない。

 そしてそうなった時、俺は、梟雲は、そいつら相手に生き延びることができるだろうか。

 いつ襲ってくるとも分からないキリコに怯えながら。


(……)


 選択肢は三つも提示された。

 なのに俺は、暗澹とした気持ちになっている。


 どれを選んでも地獄行きだ。

 そう、脳内でキリコが笑っているようだった。


「からす……」


 梟雲が不安そうな声を上げる。


(……正しい選択を奪い合う、か)


 ――――違う。


 俺は「狡賢い」から「賢い」を差っ引いた人間だ。

 椅子取りゲームに参加しても勝ち目はない。

 知恵は鶚に劣る。

 力はその他大勢に劣る。

 そこが出発点だ。


(抜け道があるはずだ。……海の上……)


 よく考えろ、俺。

 人類が海を利用する理由は運輸と娯楽以外にもあるはずだ。

 例えば――――


「! 鶚」


「何」


「ここ、確か寿司屋があるよな。飯屋でも普通に「獲れたてピチピチの魚」が目玉料理だって書いてあった気がする」


 そう。

 ここは海の上なのだから当然、海産物が提供される。

 それはどうやって確保するのか?

 ――――船だ。


「バカガラス」


「ああ!?」


 ふう、と鶚は情けない弟を見るような目をした。


「船があればどこでも魚を獲っていいわけじゃないの。ハーバー12に漁船はないよ。出されてる魚はぜんぶ養殖。南側にそういう企業があるの。フルーツ魚っていうんだっけ? そういう方面に特化したベンチャーが来てる」


 く、と俺は歯噛みしたがもう一歩思考を進める。


 必要なのは何も「船」でなくていい。

 そこそこ丈夫で、オールさえあれば「ただ浮かぶもの」でも全然構わない。


 ――――ただ浮かぶもの。


「……鶚。ここ、魚の養殖をやってるのか?」


「やってるよ。ブリとか。スーパーに安く卸してるはず」


 じゃあ、と俺は口を開く。


「『生けいけす』があるんじゃないか? でかい網で魚を囲って、海にぷかぷか浮いてるアレが」


「っ!?」


「網さえ切っちまえば乗れるだろ、人。で、オールを調達すれば丈夫なイカダになる。実物見ないと分からないが、ああいうものって上に人が乗れるように橋を渡してあるよな?」


「は、はあ? そんな……いや、無理、でしょ」


「無理かな。生け簀って米俵みたいな浮き具がついてないか? 沈むかな、あれ」


「……」


「人数がいればいるほど漕ぐ力が強くなる。逆に、単独で生き残ってる奴には使えないからまだ誰にも使われていない」


「……」


 鶚が黙り込んだ。

 つまり、そういうことだろう。


「そんな……何でわざわざ裏道みたいな……」


「そうしないと戦っていけないんだよ。俺みたいな小物は」


 行先は決定だ。








 そして夜が訪れた。

 念のため周囲に鳴子を巡らし、俺たちは早々に床に就く。


 ――――おそらくこれがこの島で眠る最後の機会だ。

 キリコは確かに危険だが、さすがにここから先、悠長に体力回復に時間を割くことはできない。

 ハーバー12が数日で沈むという美羽の言葉が真だった場合、逆説的に「今日までは沈没の危険性を無視してもいい」という事実が浮かび上がる。

 体力を温存する機会もおそらくこれが最後だろう。


 火は誰かの注意を引く恐れがあるので熾さず、どうにか乾いた服の上から布団を何重にも巻いて眠る。

 川の字、と書くと奇妙だが。

 梟雲を中心に、俺と鶚が左右に布団を並べていた。

 もちろん、鶚の拘束は緩めたりはしない。


(あー……)


 今更だが。

 温もりを取り戻した俺は緊急事態における雄の本能として反り立つほどに勃起していた。

 これはもう乾いた服に着替え、鶚と数時間に渡って話し続けた時から続いている。

 飲み物が栄養ドリンクばかりだったのも効いているのだろう。


 思い起こされるのは濡れた白い下着に包まれ彼女の肉体ばかりだ。

 美しい半球状の乳房。

 まろびでるほどもっちりした尻。

 手のひらをそっと乗せれば、卵豆腐のようにトロっとした感触がするはずだ。


(ヤりたい……)


 鶚は実質、俺の捕虜だ。

 捕虜になった女の処遇なんて昔から一つだけだろう。

 知恵と情報は貰えるだけ貰った。今度は俺が返す番だ。

 ――――より即物的な形に変換して。


 お口で飲んでいただければ喉の渇きも癒せるし、ちょっとしたタンパク質の補給にもなる。それにお互い気持ち良い。

 まさにウィンウィンじゃないだろうか。


「……」


 むくりと身を起こした俺は四つん這いで鶚の元へ這い寄ろうとし――――


「……」


 すう、すう、と寝息を立てる梟雲の顔を見た。

 闇の中でも彼女の寝顔は穏やかで、口さえ閉じていれば美女であることを思い知らされる。


(こいつマワされかけたんだっけ)


「あー……」


 何だか厭な気分だ。

 俺は今、梟雲がぶっ壊れる原因になった連中と同じことをやろうとしている。

 そう考えるとどうもテンションが上がらない。


「んー……」


 やめておこう。

 キリコみたいに噛みつかれでもしたら大変だ。


(サクっと向こうで抜いて寝るか……)


 むくりと立ち上がろうとすると、足首を掴まれた。


「からす」


 梟雲だ。

 数秒前までごく自然な寝息を立てていたはずの彼女が目を覚ましている。


「トイレだ。どこにも行かない」


「からす、これ、いる?」


「ふぇ?」


 すっと差し出されたのは脱ぎたての白い下着だった。


「な、何でこれが要るんだよ。パンツぐらい持ってるって」


「からす、それみながらしてた」


「……はい?」


「そこ、ごしごしって」


 股を指差され、一気に顔面が熱くなる。

 確かに梟雲を看病した夜、俺は自慰に耽った。

 あの時こいつは起きていたらしい。


「や、あの。違うんだ。でけえアメンボに刺されたんだよ」


 ぶふっと鶚が噴き出した。

 怒りがこみ上げる反面、襲っていたら確実に何か悪いことが起きていただろうと痛感する。

 色仕掛けを食らって殺されたのでは死んでも死にきれない。


「てめえ起きてんじゃねーよ」


「アメンボに刺されてあのサイズ……? ぷふっ」


 があん、と惑星すら砕くハンマーで頭部を殴られた気分になる。

 木っ端みじんになったのは俺の雄としてのプライドだった。


「お前っ……見、見て……く、くそう……!!」


「ぷっ。ふふっ!」


 くつくつと笑う鶚から目を背け、梟雲に向き直る。


「あのな? 何でもないんだ。つまり、男にはそういう日があるというか、あの」


「……きょ、きょう、しらない。しらないからだいじょうぶ」


 ぷいと横を向いた梟雲の顔が夜目に赤くなるのが分かる。


(この野郎、しっかり分かってるじゃねーか!!)


 俺は半べそをかきながら部屋を出て行こうとした。

 ――――が。


「からす」


「あん?」


「きょう、しらない。しらないけどしってる」


「は、え?」


 突如として天井を見上げる格好となり、俺は一瞬、何が起きたのか分からなくなる。

 梟雲に引きずり倒されたのだ、と気づいた時にはふわりと長い黒髪が頬に触れていた。

 ぬるり、と。

 何かが俺の唇に触れている。


 つう、と唾液の橋が渡った。

 その先には憂いを帯びた墨下梟雲の顔がある。


「からす、がまんしてる」


 すっと俺の耳元に口を寄せ、彼女はおずおずと囁いた。


「きょう、あの……いいよ」


「え、いいってあの、何が……んっ」


 その一瞬だけ、俺は墨下梟雲がただの大学生に戻ったかのように錯覚した。

 野暮な俺を咎めるように口づけをし、ぬめる舌を滑り込ませた梟雲は一分以上も俺を昂ぶらせ続ける。

 ぷあ、と口を離した彼女は長い舌で唇を拭っている。


 ばくっ、どくっと不規則に心臓が高鳴っている。

 口内には梟雲の唾液の味がまだ残っていた。

 俺と同じものを食べ、同じものを飲んだ梟雲の味。


「え、ちょ」


「待っ……え、そ、ここで? ちょ、わ、私が寝れなくなるからせめて隣の部屋で」


 梟雲は親猫が子猫にそうするように俺の唇を、頬を、顎をぺろぺろとなめる。

 次第にキスが熱を帯び、俺もそれに応じ始める。

 ヘタクソ同士で唇を押し付け合い、ぎこちなく舌を絡める。


「え? え、え、ええっ? ちょ、ちょちょ。私! 私いるんですけど!」


 身を離した梟雲は優しく俺の頭をかき抱き、枕に乗せた。

 すぐ真横で鶚が目を白黒させているのが見えたが、俺はもう何を言えばいいのかすら分からなくなっていた。

 心臓が全身に血液を送り込む度、全身が跳ねている。


 そしてゆっくりと。

 梟雲の顔が俺の下腹部に降りていく。

 熱い吐息が触れる。


「ぁ、ちょ。……んっ」


 甘い痺れと共に俺は女のような声を出した。

 黒く甘い蜜が俺の身体を這い上がり、俺の全身をすっぽりと包んでいく。


 珍しく絶句する鶚の視線を感じながら、俺と梟雲の体温が混じり合い、一つになった。

 一つになったまま、今までよりもずっと熱くなる。




 生まれて初めての殺人の感想は、「思っていたより硬い」だった。


 生まれて初めての情事の感想は、「思っていたより柔らかい」――――



 ――――ではなく。



 ――――



「思っていたより早い」だった。 








 翌朝7時。

 俺達は日の出と共に行動を開始する。



 そして地上4メートルまでせり上がった海面と、そこに流れ着いた無数の紅葉を目の当たりにしていた。

 終末の日も、思っていたより早く訪れそうだった



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