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Allegro moderato(穏やかに速く)

 


 破傷風がどうとか。

 凍えるからどうとか。


 そんなこと、考えている場合じゃなくなった。



「二人とも跳んで! 早く! ……早ァァく!!」


 切羽詰った和尚の声に俺はすぐさま海へ。

 テンポ遅れて鶚が続く。


 俺達はキリコから離れた場所へ飛び込み、剣山にでも飛び込んだかのような感覚に悲鳴を上げた。

 びきいっと全身の筋肉が硬直し、そのまま沈んでしまいそうになる。


「いいいたたたたっっ!!」


「つつつ冷たっっ!! 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬって!!」


 ガチガチと歯を鳴らす俺達のすぐ傍に和尚が飛び込む。

 こり、こりり、という音を聞いた彼は弱音の一つも吐かず俺達を促す。


「追ってきています! さあ早く!」


 水深はざっと1.5メートル程度か。

 溺れることこそないものの、泳がなければ十分な移動スピードを得られない深さだ。

 俺は高校以来久しぶりの平泳ぎで前へ進む。


「待ってカラス! どこ行くか決めてるの?」


「ハーバー12を出る! ヤバいぞここは!」


「そんなこと分かってる!」


 ちゃぷぷ、と俺の隣まで泳いできた鶚がキリコの方へ頭を向けた。

 彼女は後方を見ながら両手両足をクラゲのように動かし、器用について来る。


「このまま泳いで出て行くつもりじゃないでしょ? 本土まで1キロ以上あるのに!」


「カラス、泳ぐのはダメです!」


 長い手足を駆使したクロールで俺に並んだ和尚も鶚の意見に同意を示す。


「この辺りの海は潮の流れが速い。……あまり言いたくありませんが、あの雨の後、泳いで逃げ出そうとした人が何人も打ち揚げられています」


「分かってるって。出るなら絶対船が要る」


 だが、と俺は歯噛みする。


 俺は船舶の運転免許なんか持っていないからレジャーボートや小型船での脱出は難しい。

 カヌーやカヤックのような櫂船なら平気だが、きっと同じことを考えている奴が大勢いる。

 もうレジャーショップにも残っていないだろう。


 かと言って陸路は危険すぎる。

 橋はいつ崩れてもおかしくない。キリコ騒ぎでやぶれかぶれの人間が押し寄せれば、指数関数的に危険度が増す。


 空路はそもそも不可能だ。


 つまり今の俺達が島を出る方法は極めて少ない。

 それを吟味している余裕もない。


「今はあいつから離れるのが先だ。追いつかれたら――――」


 こり、こりり、という音はなおも聞こえている。

 肉を裂かれて殺された雉谷や鳩子の姿を思い出し、ぶるりと震える。


「……あいつ、足は速くないよ」 


 鶚はなおも後ろ向きのクラゲ泳ぎをしつつ、キリコをじっと見つめていた。


「自分でバラバラになって水の上を流れたりはできないみたい。知恵はないのかもね」


 ちらと後方に目をやると、確かに骸骨はもたもたと水の中を歩いていた。

 筋肉も脂肪も無いので水の抵抗は少ないようだったが、それにしても遅い。

 まっすぐ泳げば余裕で振り切れるスピードだ。

 このまま振り切れるのなら――――


「鶚。大学の敷地内で安全な場所って分かるか? 俺、4月に腸炎起こしたからサークル入ってない。中の構造があんまりよく分からない」


「……。外、出ないの?」


「あいつらさっきのボートを追いかけて行っただろ。今ならまだ学校の中の方が安全だ。ってか……」


 キリコから逃れ、島の外に脱出する。

 文字にすれば実にシンプルだが、その過程で為すべきことは実はかなり多い。


 まず市街地を移動する手段の確保。

 濡れた服も乾かさなければならないし、夜になれば暖を取る必要もある。

 それに和尚が言っていた通り、島内に残る水と食料は既に目減りしつつある。

 電気が停止した世帯では冷蔵庫の中身が駄目になっているだろうし、コンビニの商品は今頃、水の上をぷかぷか浮いているだろう。


 キリコに追われて大学を出て、そこで手詰まりになったら最後だ。


「外の方ができることが少ないだろ、たぶん」


「……分かった。こっち」


 くるりと前を向いた鶚に続き、俺と和尚は冷たい冬の海を泳いだ。

 こりり、こりこり、とキリコが俺達を呼ぶように音を鳴らしている。






 俺達が汚れた海を泳いだのはほんの数分のことだった。

 だが皮膚感覚は徐々に失われ、身体の芯まで冷えたことによって顔だけがぼうっと熱く感じられる。


「ここ。窓から入って」


 鶚が案内したのは校舎の南側だった。

 一階の半分までもが水没しているのは大講義棟と変わらない。

 揚陸艦のように階段へ身を引き揚げた俺たちは骨も凍るほどの寒さに足踏みする。


「ささ、さささ寒っ! み鶚! きき、き、キリコ来てるか?」


「ぅぅ。ぅぅぅ……。たた、たぶん大丈夫。おお音、聞こえないかから」


 歯の根が合わない会話の中、俺はキリコの移動スピードを思い出していた。

 初めに雉谷を喰ったキリコは数メートルしか離れていない俺を攻撃することはおろか、触れることすらできなかった。

 廊下で出くわした二体のキリコも半ば待ち伏せのような形で鳩子を襲った後、俺に追いすがるほどのスピードを見せていない。


(足が遅いのか……?)


 早計するつもりはない。

 だが今のところキリコは『走るゾンビ』や『水の中のサメ』のように無茶苦茶な速度で俺たちに迫ったことはない。

 振り切ることはそう難しくないのかも知れない。


 そして蹴りの一撃でバラバラになる程度には防御も脆い。

 パーツになっても動くことができるし、再び人型を取ることもできるようだが、一時的に戦闘不能に陥らせることは可能だ。


 逆に、腕力は桁外れだ。

 今のところ、キリコに捕まった奴は例外なく死んでいる。

 対応を誤ることは死を意味する。


「ああ、あんまりはは速く、ないね」


「ああ。ああ、ああ。でもゆ油断はしし、しない」


「二人とも静かに」


 ずぶ濡れの作務衣を身体に張り付かせた和尚は数秒間目を閉じ、階段を静かに上がるとまた目を閉じていた。

 俺達よりも遥かに薄着であるはずだと言うのに和尚は寒いの一言すら口にしない。

 ゆっくりと瞼を上げ、彼は俺達を手招きする。


「音がしません。大丈夫でしょう。鶚。どちらへ行けばいいですか」


「右。廊下の突き当りに私の部屋、あるから」


 和尚はすぐさまそちらへ向かい、手近な部屋のドアを一つずつ開け、キリコの不在を確認していた。

 廊下を挟んで向かい側の窓は開いており、そこから冷たい風が吹き込んでいる。


(寒いな。後で閉めないと)


「? ここは?」


 がちゃがちゃと鍵のかかった部屋の前で和尚が足を止める。


「そこが私の部屋」


「ちょっと待て。私の部屋って? 学校に住んでるのか?」


 こく、とびしょ濡れの鶚が頷く。


「部屋って言うか、私の『部室』」


「へえ。一年でも部活作れるんだ」


 きっ、と鶚はそれまで以上に鋭い目つきで俺を睨む。


「私、三年。もう二十歳なんですけど」


「はあ!? は、二十歳? 嘘だろ?」


 140センチ程の体躯を上から下まで眺め、俺は顔を引き攣らせる。

 だが胸元を見た瞬間、すべてを悟った。


(でかい……!) 


「ちょっと」


 濡れた胸元を庇った鶚が射殺すような視線を向ける。


「今度変な目で見たら殺す」


(直球過ぎるし本気だろコイツ……)


「鶚! カラス! あっちからキリコの音がします!」


 はっと俺たちは和尚を振り返る。

 部室とは逆側にも廊下が伸びており、和尚はそちらを窺っているところだった。

 校舎へ続く廊下の向こうにキリコの姿はまだ見えない。

 だが、こり、こりり、と確かに不穏な音が近づきつつあった。


「どうしますか。かくなる上は私の拳で……」


「まあ待ってって」


 俺はやんわりと和尚のファイティングポーズを解かせ、壁や天井に視線を這わせる。

 果たしてそれは見つかった。


「坊さんが骸骨殴るとか冗談にもならない……っしょ!」


 手動式の防火扉だ。

 そこそこの重量があるものの、和尚と二人で引っ張ればあっという間だ。

 があん、とまず扉が視界を塞ぐ。

 そしてきこきこきこ、とハンドルを回して完全に扉を固定し、クランク状のパーツをきっちりと格納する。


「これで良し」


「これで良しって……本当に?」


 鶚は疑念を拭いきれない顔で遮蔽物を見ている。


「キリコって人間を引き裂くぐらい力が強いのに、こんな扉で防げるの?」


「人間を……引き裂く……!?」


 和尚に説明している暇はない。俺は禿頭の疑問を手で制し、言う。


「俺が知ってる限り、あいつは人間を『掴んで』八つ裂きにした。グーでぶん殴ったり、爪を立てて引き裂いたことはない、はず」


 雉谷は腕をもがれ、足をもがれて肉を喰われた。

 鳩子は首をへし折られた。

 いずれも『掴む』動作がトリガーになっている。


「……! そっか。扉を破ったりはできないね」


「待ってください。それだけじゃ危ない」


 こめかみに指を当てた和尚が割って入る。


「何かの間違いでハンドルを回したりしたら……」


「回す脳みそは無いだろ、さすがに。あったらさっきの海で自分の身体をバラして追いかけて来てるはず。向こう側のハンドルを掴むにはカバーを開けなきゃならないし」


 おお、と和尚が手のひらに拳をぽんと置く。


「なるほど」


「それで、カラス?」


 鶚は階下へ目を向ける。


「こっちはどうする気? ここも閉じて籠城する?」


「まさか」


 俺はすぐ傍の掃除ロッカーを開き、長いモップとバケツを取り出す。

 新設の大学のくせにこういうレトロな掃除道具が常備されているのは学長の趣味だという。

 今だけはそれに感謝を捧げた。


「鳴子ですか」


 和尚がピン、と頭に豆電球を浮かべたように見えた。


「そう。……今、本当にヤバいのはキリコが人間の『何を』探知してるのか、『どこまで』探知するのかが分からないこと」


「そうだね。目も耳も鼻もないのに人間を追いかけるとか、普通じゃない。かと言ってアレは幽霊とか妖怪じゃない」


 鶚は静かな、しかし決然とした表情で言葉を継ぐ。


「必ず何か理屈が挟まってる」


「ああ。それを見つけるまでは探り探りだ」


 地面と水平にしたモップが大腿の高さになるよう、俺は階段に即席の鳴子を設けた。

 海から揚がったキリコが脚を引っ掛ければ大きな音がするだろう。


「あいつらは多分これをかわせない。登ってきたら音がする」


「音がしたら?」


「窓の向こうに逃げる」


「待ってください。カラス。ここはこうしましょう!」


 大きな声を上げた和尚は更にロッカーの中身をかき出すと、空っぽにしたそれをぐいと持ち上げた。

 重量挙げの選手さながらの挙動に俺と鶚は道を空け、彼が最上段にそれを置く様を眺める。


 どおん、と横倒しにされたロッカーは階段の横幅をうまい具合にカバーしていた。

 海からキリコが揚がってもここで立ち往生するだろう。

 ふう、と息を吐いた和尚は鶚を見やった。


「椅子か机、ありませんか」


「! あるよ。こっち」


 鶚の案内で隣の部屋から机を調達した和尚はそれをロッカーの上部に並べていく。

 機動隊が盾を並べるようにして机と椅子が階段の下を睨んでいた。


「これで良し」


(結構脳筋だよなこの人……)


 ありがたいような、ありがたくないような。

 この人が暴力で俺たちを支配しようなんて考えたらひとたまりもない。


「へぐちっ!!」


 和尚がくしゃみをするのを見、俺達は自分たちの現状を思い出す。

 服を着たまま寒中水泳をしてまだ身体も拭いていないのだ。

 このままでは間違いなく体調を壊す。


「こっち! とにかく中入って。ヒーターあるから」




 鶚の部室には小さな看板がぶら下がっていた。


 『ミリメシ研究会』


「……」


「……ミリ、メシ? つまり……ミニチュアの食事を創作するサークルですか」


「違うよ」


 かあっと頬を染めた鶚は、やはり年齢よりずっと子供に見えた。

 彼女は怒っているわけではない。

 自分の趣味嗜好がマイナーなものであることを暗に示され、羞恥心を覚えているようだ。


「ミリタリーのご飯。『ミリ飯』」


「な、なるほど」


 和尚はちらりと俺を見やった。

 変わった趣味をお持ちのようですね、とでも言いたげだ。


(俺が知るかよ……舌がド変態なんだろ)


「な、何、その顔」


 鶚は幼い顔にふてくされたような表情を浮かべる。

 それは先ほどまでの険悪な顔とはまた違う、ほんの少し緩やかな感情だった。


「ミリメシ美味しいよ? ……ご飯と一緒に食べれば」


 かちゃり、と鶚がドアに鍵を差す。



 油断していたわけじゃなかった。



 鶚がかちゃりと鍵を開けるまで確かに部室のドアは施錠されていた。

 廊下は防火扉。

 階段には鳴子とバリケード。

 出入り口なんて存在しない。


 ――――窓を除けば。



 何かが俺の肩に触れた。

 そう感じた次の瞬間、俺は建物の外から和尚と鶚の背中を見ていた。


「えっ……」


 二人がゆっくりと振り返り、驚愕に青ざめる。

 そしてヤモリよろしく窓枠に手を掛けた骸骨もまた振り返る。

 ありえない力で俺を建物から引きずり出したそいつの腕が、挨拶をするようにぶらぶらと揺れていた。


 そう。

 遅く、鈍く、脆いキリコも『掴む』ことにかけては超一流だ。


 奴が外壁の突起を『掴んで』登ってくることぐらい、予想すべきだった。


 そう思いながら、俺は再び極寒の海へ落下する。



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