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perdendosi(消えるように)

 

 誰よりも速くその決断を下したのは梟雲だった。


「からす! にげる!!」


 抜角の命を奪わんとしていた彼女は瞬く間に踵を返し、屋上の縁まで駆け抜ける。

 知性の九割九分と引き換えに手に入れた原始的な生存欲求が、墨下梟雲に最速の行動を許した。


 ――――が。


「待った!」

「待て」


 ききっと急ブレーキを踏む車のように梟雲が停止した。

 同時に声を上げた俺と抜角は互いの目を見る。


「ジジイ。こいつたぶん……」


「浮くだろうな。そういう形をしている」


 ぼりり、ぼりり、と響く音は雀句の骨が折れる音ではない。

 奴の肋骨がめちゃくちゃに胴体から飛び出す音だ。

 食事中は動かなくなるのか、巨大キリコは後ずさる俺達に目もくれない。


「こんなに大きいのに浮く?」


 可憐は既にホッケースティックを構えている。

 怯えた様子も、雀句を喪ったことを悲しむ素振りも見せない。


「単独でもキリコは水に浮くだろう。複数のキリコが連結したこいつもおそらくパーツに分かれて水の上を動くぞ」


「……で、元の形が横に長いからたぶん移動速度が他の奴より早い。こんな奴に追い回されたら脱出どころじゃない、と」


 その可能性がある以上、不用意に水の中へ飛び込むべきじゃない。

 キリコは不眠不休の化け物。

 人間の泳法はもちろん、そこの手漕ぎ船ですらこいつから逃れることは不可能だ。


 ああ、と肯んじながら抜角は金属バットを俺に投げ寄こした。


「使え。こいつはここで殺す」


 ジジイは一本の傘骨を思わせる細い金属棒を腰帯から外す。

 つうう、とスキットルの酒で剣身を濡らし、鴻巣抜角はフェンシングさながらの姿勢を取った。


「……いいのか、ジジイ」


「何がだ」


 べちゃり、ぼちょりと胃袋、内臓、大腸小腸がごちゃ混ぜになってタイルを打つ。

 雀句の昼飯は麺類だったらしい。知りたくもなかったが。


「見てなかったわけじゃないだろ。俺がやったのを」


 殺害の瞬間は見ていないかも知れないが、喉に突き刺さったペンぐらいはジジイにも見えていたはずだ。

 もしかしたら可憐も、俺が雀句を殺めたことに気づいているのかも知れない。


「構わんさ」


「冷たいな」


「迂闊に近づくなと警告はした。後は自己責任だ」


 俺は一瞬、こいつを信じるべきか否か迷った。

 背後からぐさりとやられて囮にされたら笑い話だ。


「心配するな。仇討ちなんて考えちゃいない。今は囮より攻め手の方が必要だ。……違うか?」


 言外に「俺に手を出したらお前の生存確率もグっと下がるぞ」という含みがあった。

 ごもっともだ。

 今は肩を並べた方がいい。

 さもなくば全滅だ。


 ムカデ型のキリコが食事を終え、王子野雀句の骨をその身に取り込み始めた。

 こりり、こりりり、と巨体を這う人骨の動きを観察していれば、キリコの本体が液体生物であることは容易に察せられる。


「からす! おとり!」


「囮?」


「キョウ、おとり!」


「……。あっ、ちょっ!」


 たっと梟雲が巨大キリコ目がけて突っ込んだ。

 やぶれかぶれなんてものじゃない。自殺行為に等しい直進だった。


「あぶなっ!!」


 少し離れた場所に立つ可憐が地を蹴り、X字を描いて梟雲と交わる。

 羽虫に覆い被さるムカデを思わせる動きを見せたキリコは獲物が二体に増えたことで注意を削がれ、その手は宙を彷徨う。

 見上げるほどの骸骨の化け物が戸惑うように動く様はどこか滑稽だった。


「行くぞ。肋骨に気を付けろ」


「あいよ……!」


 金属棒とバットを騎士のように打ち鳴らし、俺達はまず一度交差した。

 指の一部を欠損している俺がいるせいか、巨大キリコはこちらを見やった。

 透明の液体生物に支えられた三面骸骨がこりりと回転し、俺を見る。


 自分の命が狙われている。

 その恐怖に総毛立つ。

 今すぐ建物の中へ避難したい。海へ飛び込みたい。そんな考えが脚に絡み、手に絡むようだった。


 俺は奥歯をきつく噛む。

 逃げるな、と自分に言い聞かせる。

 命以外の何も得られないなら逃げるな、と。


「アアアっっ!!」


 梟雲が角材を振り回し、キリコの脚をめきんと一本吹っ飛ばす。

 ばきゃっと枯れ木の山を踏むような音と共に肋骨の一部が崩れ落ちた。


「そ、れっと!!」


 可憐は一本足打法でもう片方の脚にホームランを決める。

 四本足のうち二本を失った巨体がよろめき、三つの頭蓋骨がこりりり、と不自然に回転した。


「カラス! 勢いを殺すな!!」


 抜角が吠える。

 はっと我に返った俺は自分が疾走途中だったことを思い出し、怒鳴る。


「おおおりゃあああっっっ!!!」


 長躯を持つムカデに迫るや、俺は掬い上げる形のスイングで高らかに十数本の肋骨を吹き飛ばす。

 中には血に濡れた骨も多分に含まれていた。


「っ! 中に飛ばすな! 外だ!!」


 抜角は迫る手をかわし、ハエトリグサのように広がる肋骨を手で掴んでいなし、深くキリコの胴部に踏み込むや、的確に液体部分を貫く。

 音もなくキリコが悲鳴を上げるのが分かる。

 こりりり、こりりりりりっとそれまでにないほど激しく骸骨ムカデが振動し、幾本かの骨が飛び散った。


「今だ、打て! 打て打て打てっっ!!」


 抜角の合図で俺、梟雲、可憐が一斉に得物を振りかぶった。

 ボウリングのピンが吹っ飛ぶかのような軽快な音を立て、ムカデを構成する骨の三分の一ほどが宙を舞う。


 散らばった無数の骨を背景に、鴻巣抜角は目にも留まらない動きでキリコの全身を這い回っていた。


 首元を突き刺したかと思うと、足首の動きだけで90度臍の向きを変え、そのまま稲妻の軌道で肋骨の隙間を駆ける。

 その間も土産とばかりに数度の刺突を見舞い、脊椎を引っ掴んだジジイは勢いよく跳躍し、尾てい骨に当たる部分に金属棒を突き立てていた。

 確かな手ごたえがあるらしく、ぐぐぐ、とジジイの手元が震える。


「逃がすか」


 キリコは危険を察知すると逃げる。

 衝撃でバラバラのパーツに分かれる瞬間、あるいは手足や頭蓋といった攻撃手段を失った瞬間、肋骨や床、水の中といった目立たない場所へ逃げ出してしまう。

 白髪のジジイはキリコに逃走すら許さなかった。


 ぺきき、びきき、と。

 巨大骸骨の全身がひびの入ったガラスのごとき音を立てる。

 生物的な動きをしていたキリコがまるで石化の呪いを浴びたかのように硬直していく。


「仕留めろ!!」


「おっけー、ばっちゃん」


「キョウ!」


「うん!」


 俺達三人は渾身の力を込めて得物を振りかぶる。

 強打の瞬間、手首が痛むほどの手ごたえを感じた。


 凝固した液体生物はぱりん、ぱりりん、と澄んだ音と共に砕け散った。

 ごしゃり、と巨体が崩落し、骨粉が砂埃のように舞い上がる。


 ごろっごろ、と転がってきた頭蓋骨を足で止め、抜角がサッカーボールキックを食らわせた。


「口程にもないな」


「骨は口を利きませんケド、ねっ!」


 可憐がホッケースティックをゴルフクラブに見立て、かつーん、とスイング。

 気の毒な頭蓋骨が激しく回転しながら建物の向こうへ消えた。


「……がいこつじん、つよい」


 俺の相方が会心の笑みを見せる。

 事実、彼女が攻撃した箇所が最も損傷が凄まじかった。


「ああ。でかいだけで所詮――――」



 『それ』を見たのは梟雲に振り返った俺だけだった。

 骸骨の絨毯に音もなく這い寄る不可視の液体生物。



 辺りに散らばった、頭蓋骨と手足の骨を除く無数の骨たち。

 つまり、肋骨の大群。



「っ! 避けろおおぉっっっっっ!!!!」



 幸いにして四人全員が反応できた。

 一メートルほどのスウェイバックを決めた俺達の目の前で、抜角たちが破砕しなかった肋骨の一団がトラバサミのようにがちん、がちん、と噛み合う。

 がちがちがち、と一斉に肋骨共が連なり、脊椎一本に肋骨数十本が集まった奇妙な骨塊が形成される。

 頭蓋骨もなく、胴体の上下に肋骨が生えたかのような骨の塊は古代生物ハルキゲニアにも見紛う。


「おいおい。攻撃器官は手足と頭だけじゃねーの……?」


「知るか。ネットで調べろ」


 抜角の動きは速かった。

 俺の荷物から正確に酒瓶を選び、中身を剣に垂らしている。


「借りるぞ」


「後で返せよ」


「来るよ!」


 可憐が叫ぶや否や、骨の塊がかりかりかりっとゴキブリのような速度で動き回った。

 脊椎を中心に地面へ向けて伸びた肋骨が脚の役割を果たし、天へ突きだした肋骨が獲物を捕らえる仕組みらしい。


 骸骨の絨毯を這う数匹のハルキゲニアはその場で円を描いたかと思うと、おもむろにこちらへ突っ込んできた。


 まず一匹を抜角が串刺しにする。

 蝶の標本でも作るかのような一撃で『骨虫』は凍り付き、そして死ぬ。


「ふううっ!!」


 角材を振り下ろした梟雲。

 だが『骨虫』は木っ端みじんにはならなかった。


 くすんだ白色の肋骨は何と角材を白羽取りしていたのだ。

 勢いを殺された角材から手を離し、梟雲が信じられないといった表情で後ずさる。


「え、ええっ!?」


「どけキョウ!!」


 俺は渾身のフルスイングでそいつを吹っ飛ばし、返す刃で別の一匹も粉々にする。

 長身の梟雲より重心が低いせいか、俺の方が精度が高かった。


「へいへいカモーン!! ……ってあら?」


 可憐を通り過ぎたハルキゲニアは自壊するようにしてボロボロと崩れ去る。

 臨戦態勢だった可憐は骨の塊を爪先でちょいとつつく。

 積み上げたマッチ棒が崩れるようにして骨が骨へと戻った。


「ん~? あれ、ザコ過ぎない?」


「ッ! ギャル子後ろっ」


 遅かった。


 透明の液体であるキリコはとっくに逃げ出していたのだ。

 そして難を逃れていた頭蓋骨にひっつき、ハルキゲニアを操ることをやめる。

 ハルキゲニアが崩れる。

 結果――――


 液状のキリコに引っ張られた頭蓋骨が宙に浮かぶようにして可憐の目の前に。

 恋人が恋人にそうするように、頭蓋骨は褐色の首筋にかぶりついた。


「ぅぐっ!! ぐっ!!」


 決して鋭くはない歯が見る見るうちに可憐の首筋に埋まり、真っ赤な血がどくどくと溢れ出す。

 可憐はじゃれつく犬を引き剥がすようにして頭蓋骨を抑えつけるが、引き剥がせるはずもない。

 あっという間に血のカーテンが彼女の上半身を汚し、ぴゅ、ぴゅぴゅ、と赤い噴水が生まれる。


「どけっ!!」


 抜角が迫り、すれ違いざまにキリコを突き殺す。

 ぐったりと力の抜けた可憐を抱き止め、ジジイは膝をつく。

 既に可憐の首から噴き出す血は勢いを増しており、手遅れであることは火を見るよりも明らかだった。


「可憐!!」


 ぜえぜえと息をついたギャル子は苦しそうに呻いた。


「ごめ、ばっちゃ……も、これ」


「……」


「おねが、い。さ、いご、ばっかくに」


 抜角は静かに目を伏せると、可憐の首に両手を添えた。

 もう目が見えていないのか、虚ろな表情となった可憐が無理やりに笑顔を作る。


「ごめん、ね。でーと、でき、なかったね」


「あの世で待ち合わせだ。先に行ってろ」


「ぁは。女の、子、待たせる、んだ」


「待たせる男は嫌いか?」


「うう、ん」


「……また後でな」


 ぐっと抜角が手に力を込めた。


「カラス!! よそみしないで!!」


 かりかりかりかり、と這い回る二匹の骨虫がこちらへ近づいて来る。

 やはり僅かとは言え指の欠損がこいつらを呼び寄せているのだろうか。


「このっ……!!」


 上からはダメだ。

 金属バットを掲げた俺は振り子打法で一匹を吹っ飛ばすと、そのバットをもぎ取った梟雲がなぎ払いの一撃で骨虫の下半分をバラバラにする。

 残ったパーツがひっくり返った虫の脚のごとく蠢いていたが、俺の渾身の振り下ろしでそいつもまた死んだ。


「きょう、おさけかける!」


 ぴょんとウサギのように跳ねた梟雲が最後の酒で連中を凝固させた。


 骨を破砕する感触が手に残る。

 人を殺した時よりもずっと生々しく感じるのはどうしてだろうか。





 辺りに残されたのは骨屑の山。

 それに胸の上で手を組み合わせ、目を閉じる鴛淵可憐。

 彼女の身体を酒で清めた抜角は自らもひと口を含む。


「……」


 憂いを帯びた額。

 だが奴が何を考えているのかなんて人生経験の浅い俺には到底分からなかった。


 分かるのはただ一つ。

 ――――キリコがいなくなった今、奴を殺せば船はいただきだ。


 俺は骸骨人のルールを思い出させるべく梟雲の方を振り返る。

 ドクロマークの無い奴はどうするのかを思い出させるために。


「なあ、キョ――――」


 がっし、と。

 彼女の足首を白い手首が掴んでいた。

 その向こうには恨みがましそうな頭蓋骨。


「ふ、うううっ!!?」


 ぶおん、と梟雲の身体が宙を舞った。

 いつだったか、大学の窓から外へ放り出された俺のように。


 宙を舞う梟雲を目で追った俺は弾かれたように飛び出した。

 フライを捕球する外野手のごとく走った俺は、床でバウンドし、屋上の縁から落下した梟雲にかろうじて追いつく。

 フェンスはキリコにもぎ取られたのか、彼女を止めてくれるものなど何も無かった。


「ぐっ!!!」


 筋がぶっち切れるんじゃないかと思うほどの激痛を除けば、人生最大の幸運かも知れない。

 梟雲の腕を両手で掴み、俺は何とか屋上に踏みとどまる。

 ぎりり、と両腕が悲鳴を上げていた。

 からん、からんからん、と取り落した金属バットがすぐそこで地を打つ。


 げふっと痛々しい咳をした梟雲が顔を上げた。


「から、す」


「喋んな! 落ちたら……ッ!!」


 梟雲の数メートル下に広がる海面には。

 いつの間にか十体弱のキリコが集結していた。

 おそらく最初の攻撃で吹っ飛んだ骨共だ。でなければ周辺から集まってきたのか。


 ――――いずれにせよ、落ちたらあっという間に奴らの餌だ。


 つう、と俺の頬を冷や汗が伝う。


(違う……!)


 こりり、こりり、と。

 俺を見上げるキリコ達が次々に壁面に取りつき、人体を形成していく。

 奴らは今にもこの壁を登り、俺の元へたどり着いてしまいそうだ。


 高さは十メートルもないだろう。

 ぼんやりしていたら連中はあっという間に俺の手足を掴む。


「くっ、ジジ、ジジイ!! おいジジイ!!」


 ばっと顔を向けると、鴻巣抜角は既に梟雲を襲ったキリコを仕留め、船を屋上の縁へ運び終えたところだった。

 奴は――――


「……」


 奴は退屈なドラマでも見るかのような白けた目を向けている。

 ああ、そうだ。

 俺が奴の立場なら同じことをやっただろう。


 そのまま抜角は俺の残した荷物を漁り始める。

 航海には先立つものが必要だからだ。


「クッソ……!!」


 脳内で兄貴が笑った。

 何をしている、バン、と。


(今、今ならあいつを……あいつを殺せば船を……!!)


 抜角は油断している。

 俺に背を向けていることじゃない。

 奴は自分が酒と人の脂を浴びていることを失念している。

 その証拠に俺の荷袋から取り出したマッチやロングタイプライターを無造作に放り捨てていた。


 そして俺と抜角の間には先ほどまで使っていた金属バットが落ちている。


(殺れる……今ならあのジジイを!)


 全速力で駆け、ライターを拾って奴を燃やし、そのまま殴り倒せば俺だけは生還出来る。


 ぎちぎち、と腕の筋肉は軋み、靴はずるずると滑っていく。

 ほら急げ、急げバン、と。

 兄貴の声が脳内で反芻されるようだった。


 この手を離せば生き残れるぞ、と。


「……からす」


「ああ!? 黙ってろ……!!」


 もう限界だ。

 力み過ぎたことで腕は真っ白になっているし、手の中には汗が滲み出している。

 今にもずるりと手が滑り、彼女を取り落してしまいそうだ。


「がいこつじん、かつ」


 梟雲は短く告げた。



「キョウがいなくても、カラスががいこつじんちーむ、する」



 はっと息を呑む。


 梟雲はそれまで見せたこともないような瞳をしていた。

 喪失感にやっと気づいたかのような、乾いた悲哀の表情。


 まさか、と俺は悪寒に襲われる。

 こいつは確かに骸骨人が勝つ、骸骨人が勝つ、と口ずさんでいた。

 ――――『私が勝つ』とは一度も口にしていない。


 呆気に取られる俺の手からずるりと梟雲の手が滑る。


「カラスいるから、キョウ、もうげーむはおわりでいい」


 それは暮れていく夕陽の存在に気づいた子供のような笑顔だった。

 少し寂しげで、名残惜しそうで、しかし満足げな表情。


 ああ、ああ、と俺はようやく気づいた。

 こいつはこのゲームからリタイアしたがっていたんだ、と。


「ばいばい、からす。……キョウ、ちょっとつかれた」



 俺の手を引き剥がし、墨下梟雲はキリコの集う海面へ堕ちていく。  

 最後に彼女はこう呟いた。



 いきてね、と。



 残されたのは脱出の準備を進める鴻巣抜角の後姿。

 それにすぐそこに落ちている金属バット。


 脳内には「さっさと来い」と言わんばかりに背を向け、俺より先を往く兄貴の姿。


「……」


 海面に白い水柱が立つ。


 ――――……せいせいした。


 肩から重荷が降りるような気分だ。

 これで俺は身軽になった。後は傷ついた抜角のジジイに「やっぱり俺も助けてくれ」とおねだりして、隙を見て火を放ち、船を奪うだけだ。

 本土に戻れば兄貴と緋勾が待ってる。

 帰り道、ちょっと殺人鬼と意気投合しちゃってさ、なんて話をしたら二人はどんな顔をするだろうか。


「……」


 急がなければならない。

 急がなければ、今にも抜角は出発してしまう。


 海面の白い泡が薄れ、キリコが梟雲に近づいていく。

 温かい肌を持つ梟雲。

 知性の欠けた、バカバカしい仕草をする女。

 何度か笑顔を見せてくれたドクロ仮面。

 その彼女が骸骨の群れに覆われようとしている。


 手の汗を服で拭った俺はにっこりと笑い、バットを拾って一歩を踏み出した。




 ――――海へ向かって。




 ひゅう、と冷たい風の中を俺は落ちていく。

 バン、と脳内で兄貴が俺を呼ぶ。

 バン、何をやっているんだ、と。


(いや、違うんだって)


 俺はそう告げる。

 だが兄貴は容赦なく、万骨、と侮蔑のこもった言葉を投げた。

 やっぱりお前はバカだったな、と。


(違う。俺は……バカじゃないって)


 言い訳がましく聞こえたのだろう。

 脳内の兄貴はひどく失望したような溜息をついていた。


(いや……違うんだって。ここで船、奪ってもさ、またさっきみたいなデカブツと出くわすかも知れないだろ?)


 どぶん、と俺は暗く濁った海の中に沈んでいた。

 一メートルも沈まないうちに体が浮上し始め、欠けた指にちりりと熱が爆ぜる。


「ぶあっ!!」


 顔面を覆う厚い水の膜が割れ、新鮮な酸素が取り込まれる。


「か、からすっっ!!?」


「ぶああっ!! 冷たっ! 冷たぁっ!!」 


 驚いたのは梟雲だけではなさそうだった。

 近づいていたキリコ達はこりこりと音を立て、俺の立てた波と衝撃とに揺られている。


 同情か、失望したぞ、と脳内の兄貴が俺から遠ざかっていく。


(違うって、兄貴)


 俺は心の中で呟いた。


 ――――こいつがいたら、「次」があるかも知れないだろ?


 俺一人だけなら、抜角に敗けたり逃げられただけですべて終わりだ。

 でもこいつがいてくれたら、このまま抜角に逃げられても次の機会が巡ってきた時にがっちり捕まえられる。

 梟雲がいればコンティニューできる。

 ただ、それだけのことだ。


 生きて罪を償えとか、そんなおセンチを言うつもりはない。


(……合理的な判断、だろ? 兄貴……)


 兄貴は答えてはくれなかった。

 とっくに脳内からあの野太い声は聞こえなくなっていた。


 かわりに聞こえるのは軽い骨がすーっと近づいて来る気配。

 数は七か、八か。


「カラス……」


 きゅっと俺を抱き寄せ、梟雲が震えた声を漏らす。

 さすがのドクロ仮面も立ち泳ぎをしながらキリコには対抗できないらしい。

 俺は静かに目を閉じ、金属バットを構える。


(肉を剥がれたら、痛いんだろうなー……)


 水面に浮かぶキリコは完全に俺たちを包囲しており、空っぽの眼窩がじいっとこちらを見つめていた。

 もうほんの数十センチのところまで近づいており、今にも手を伸ばしそうだ。


 お前に「次」なんてないぞ、と消えていく兄貴が嘲笑った気がした。

 こりり、こりりり、とキリコ達もまた嗤っていた。

 

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