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con fuoco(火のように)

 


 兄貴だ。

 兄貴が助けに来てくれた。

 やったぜ。これで助かった。


 ――――なんて気分に浸れたら良かったのだが。



 俺の胸中を満たしていたのは諦念と失望だった。

 賭けてもいい。

 兄貴は俺を助けたりしない。

 これは思春期の弟に特有の悲観的な見通しじゃなくて、単なる事実だ。


 だが助かりたい気持ちは指から血が噴き出す毎に強まっていく。

 ずぐっ、ずぐっと先端を削られた指が拍動に合わせて揺れる。

 嫌だ。

 死にたくない。死にたくない。

 絶望寸前の脳みそにそんな信号を伝えるかのように。


 兄貴が助けてくれるわけがないという確信と、それでも助けて欲しいという狂おしい生への執着が混じった結果、俺はひどく無様に呻いていた。


「ヴぁいい(兄貴)!!」


「あー……あんた、誰?」


 燕は既に鉄板に巻かれた包帯を解いていた。

 血を洗い流した鉄板にはまだ人の脂がぬめっている。


「肉を焼いているな、お前」


 ぴったりと完成させたオールバックの金髪に意味もなく手を這わせ、兄貴は野太い声で続ける。


「俺はタンパク質を愛している」


「おー……つまり、食いたいって?」


「焼いた肉に食う以外の用途があるなら聞きたいな」


「ヴぁにき(兄貴)! ヴぁにーき(兄ー貴)!」


 展示用のベッドにずどんと巨躯が沈むとスプリングが悲鳴を上げるばかりか、数メートル離れた俺のベッドにまで微かな振動が届いた。

 だがNFLのラインマンに匹敵する日本人離れした体躯を前にしても、燕は怖気づいた様子を見せない。

 相変わらず真意の読めない淀んだ声で、兄貴に言葉を投げる。


「で、その次にあんたは何が欲しくなるんだ? 水が欲しい、寝床が欲しい、武器が欲しい、か?」


「要らん。荷物になる」


 短い言葉だったが、鶯がびくりと震えるのが分かった。

 奴は俺が寝かされたベッドに隠れるようにして燕と兄貴の会話を窺っている。


「ヴぁにき(兄貴)! ヴぉれだ(俺だ)! ヴぁんあ(バンだ)!」


「金なら出す。俺には肉が必要だ」


「あー……要らね。どうせ盗んだ肉だ」


「そうか。……そいつは?」


 ようやく兄貴が俺に注意を向けた。

 遅すぎるだろう。さっきからどれだけ呻いたと思ってるんだ、こいつは。


「あー……俺らさ、さっきまで女の子マワしてたわけ」


「ほう」


 この「ほう」は純粋な相槌だ。

 俺もご相伴させてもらいたいね、とか、そういうことを考える奴もいるんだな、とかいう私情はこれっぽっちも挟まれていない。

 それで続きをどうぞ、という意味での「ほう」。

 ――――当然、性犯罪被害者へ向けた憐憫の情すら含まれない。


「そしたらこいつが俺達の物資、持ち逃げしようとしてた」


「ほう」


「そのまま輪切りにしても良かったんだけど、せっかくなんで弟に殺しを経験させようとしてる。この島に悪い気持ちを捨てていきたい」


「そうか」


 兄貴はすこぶるどうでも良さそうに頷き、呟く。


「肉が喰いたくなる話だ」


「あー……今の話にそんな要素があったか……?」


「ああ。腹が減った」


「恐竜かよあの人……」


 鶯が怯えたように呟く。

 恐竜。的確な喩えだ。


「肉ならこっちだ」


 燕に促され、ベッドから身を起こした兄貴が俺の目の前を通り過ぎていく。

 こちらをちらりと見てウインクでもしてくれたら、なんて淡い期待は持つだけムダだ。


「ヴぁにに(兄貴)! ヴぁにい(兄貴)!」


 とにかく声を上げなければ。

 助けてくれないと分かっていても。

 ちょっと注意を向けてくれるだけでいい。そこから糸をするすると引っ張り出すようにして兄貴が俺を助けたくなるように誘導しなければ。


 二階の奥へ消える二人を見送り、鶯が俺の脇腹を小突く。


「うるせーよクソザコ兄ちゃん」


「ヴぁれがクソザコヴぁ(誰がクソザコだ)」


「おめーだよおめー。……んー」


 ハサミをしょきしょきやりながら鶯は考え込んでいた。

 俺を切り刻みたいのは山々だが、お食事中の恐竜を前にそんなことをすれば不興を買う恐れがある。

 どうやらそう判断したのか、奴はベルトにハサミを差した。前から見られてはいけないと思ったのか、更に尻側へ移動させている。


 しばらくして紙皿に山盛りの肉を抱えた兄貴が戻ってきた。

 一応は他人のテリトリーであるというのにこの振る舞い。

 それまで無表情だった燕の顔に明確な呆れの感情が見て取れる。


 はむ、はふっとベーコンもハムも一緒くたに口へ運び、兄貴は呟く。


「美味い。オーガニックな味がするな」


「あー……冷えてるだろ。焼き直してやろうか?」


「いや、要らん。腹に入れば一緒だ」


「あー……そう」


 傍若無人な振る舞いを見せる金髪オールバックは自分の心臓の辺りまで紙皿を持ち上げ、一心不乱に肉をぱくついていた。

 燕は交渉の余地ありと判断したのか、無用な争いは避けるべきだと判断したのか、鉄板を地面に向けている。

 二人は互いに約2メートルの間合いを維持したままこちらへ近づいて来る。


 このままではまずい。

 この兄貴は俺を探したり助けに来たわけじゃない。本当に肉の匂いに誘われてここへ来たに過ぎない。

 用が済んだら兄貴は普通に出て行ってしまう。

 とにかく注意をこっちへ向けなければ。


「ヴぁ・に・き(あ・に・き)! ヴぉれあ(俺だ)! ヴぁん(バン)!」


 はぶしゅ、はふっ、ほう、と焼きそばのように肉を頬張る兄貴は俺を一顧だにしなかった。


(ダメか……クソ!)


 仮に注意をこちらへ向けたとしても兄貴が助けてくれる保障はない。

 だがそれでもやらなければならない。

 今、頼れるのはこの人だけなのだから。


 はむ、ほふしゅ、もくっもくっと。

 まさに恐竜を思わせる咀嚼音が数分、続いた。

 皿が空になったところで兄貴はペットボトルの水を飲み、燕を見やる。


「おい」


「ん?」


「そいつの顔が見たい」










 燕は怪訝そうに兄貴を見やる。


「何で?」


「もごもごうるさいだろう。知り合いかも知れない」


「……知り合いだったらどうする?」


 ぎらり、と鉄板に兄貴の顔が映った。

 ひくっと鶯が喉を鳴らしハサミに指を入れる。


「どうもしない。それは男だろう?」


「あー……若い男だ。まだ高校生ぐらいだ」


「なら問題ない。現状、俺が助けるとすればそれは妻と両親だけだ。そしてその三人は本土にいる」


 にべもない言葉だったが、燕はこれまでの兄貴の言動から納得したらしい。

 この男は頭がおかしいからたぶん今のは本音だ、とでも考えているのだろう。

 そして悲しいかな、それは大当たりだ。


 燕は俺の顔に被せたビニールに手をやり、ぐいと持ち上げる。

 解放された瞬間、俺は目を見開いて吠えた。


「ヴぁにき(兄貴)!」


「バン」


 兄貴は珍しい虫を見つけたかのように片眉を上げた。


「知り合いか」


「弟だ」


 たった数秒のやり取り。

 燕の手元が僅かに動いた。が、兄貴は即答した。


「戻していいぞ」


「え」


「戻していいと言ったんだ、そのビニール。何か意味があって被せていたんだろう?」


 兄貴はベッドにずしんと腰かけると、小さくあくびをする。


「いいベッドだ。我が家にも欲しい」


「……弟なのか、こいつ」


「ああ。弟だ」


「ヴぁにい(兄貴)! ヴぁすけて(助けて)!!」


「あー……たぶん、「助けて」って言ってる」


「そうだな」


 兄貴はペットボトルの水を一本飲み干すと、巨大なタブレット端末をチェックしていた。

 携帯端末は指がでかすぎて扱えないのだ。


「つい数日前、電話で話したばかりだ」


 ああ、そうだ。


 キリコが出る少し前、俺は兄貴に電話をかけた。

 なぜなら本土に住んでいる兄貴がハーバー12に来ていることを知っていたから。

 念のため無事を確認しておきたかったのと、万が一を考え、俺の居場所を伝えておくために電話をした。

 兄貴は普段通り、俺を粗雑に扱ってくれた。

 歴史的な豪雨で大学に閉じ込められたと言ってはみたが、返事は「そうか」だ。


「あー……こいつ、助けないわけ?」


「特に理由が無い」


 燕は額に困惑と怒りのようなものを滲ませる。


「兄弟だろ、あんた達」


「ああ。鼻筋が似ているだろう? ……では俺は行く」


「ヴぁにき(兄貴)! ヴぁにいい(兄貴ぃ)!!」


 兄貴はベッドから尻を上げ、当然のように出口へ向かった。

 燕は信じられないといった表情でオベリスクを切り出したかのような巨躯を見つめている。

 こつ、こつ、とゴツいブーツが俺の目の前を通り過ぎ、あっという間に遠ざかっていく。


 太陽が東から昇るように兄貴は平然と俺を見捨ててくれた。

 分かり切ってはいたが、なおも俺は叫ぶ。


「ヴぁにき(兄貴)!! ヴぁにいヴぁすけろっヴぇ(兄貴助けろって)! ヴぁにいき(兄ィ貴)!!」


「あー……」


「うえ……」


 燕が同情するような目で俺を見つめている。

 鶯までもが憐憫の目をしているのが屈辱的だった。




「あ、そうだ言い忘れていた」




 兄貴が振り返ると、燕が身を強張らせる。

 俺は祈りが天に届いたことでベッドの上から身を乗り出したくなる。


「何だ? 助ける気になったか?」


「肉の焼き加減はもう少し考えた方がいい。あれでは旨味が落ちる」


「……あー……おい、待てよ」


 引き止めたのは燕だ。

 奴は山吹色の髪をかき上げ、がりがりと頭皮をかいている。


「マジで助けないわけ?」


「しつこいぞ。何で助ける必要がある。そいつは盗みをやって制裁されるところなんだろう? お前こそ、そいつを見逃すつもりか?」


「あー……いや、見逃すつもりはないけどさ」


「ならいいだろう。俺は今、一刻も早く妻の元に帰る必要がある。その次は両親、それから妻の両親、それに店の無事を確認して――――」


「店?」


「コーヒーショップだ」


「あー……『コーヒー』ね」


 燕はおそらく違法薬物の隠語か何かだと思っているのだろうが、兄貴の職業は正真正銘のバリスタだ。

 このでかい身体をカウンターに収め、嫁さんの両親が経営する小さな店でコーヒーを淹れている。

 ハーバー12に来た理由も大手コーヒーチェーンの新店視察とメニューチェックの為だ。


「――――店の無事を確認して、伝票類と豆を避難させて、そして営業再開の目途が立ったなら、助けに来てやってもいい」


「あー……かわいそうだと思わねえの?」


「思わん。この状況で自衛の一つもできない役立たずは邪魔だ」


 何だかどこかで聞いたセリフだ。

 俺の脳内だった気がするのだが、気のせいだろう。

 特大のブーメランが頭に突き刺さる感覚を味わいながら、俺は兄貴の冷酷な視線に射竦められる。


「そいつにはいつも教えてきた。この世の全ては奪い合いだ。弱い奴は死ね」


「……」


 まあ、分かり切ってはいた。

 この人は俺が憎いわけじゃない。嫌っているわけでもない。

 ただ「その他大勢」と同じ扱いをする。

 兄貴にとって大事なのは両親と、嫁さんと、嫁さんの家族だけで、俺はいわば血の繋がっただけの他人。

 兄貴の「大事な人ランキング」4位以下の連中、すなわちほぼ全人類に対してたった今口にした方針が適用される。


 この世の全ては奪い合い。弱い奴は死ね。


 俺とて例外じゃない。俺の命の序列は兄貴の中では最低に位置する。

 だから助けてくれない。分かり切ったことだった。


 ――――だが。


「ヴぁにき(兄貴)! ヴぁにきヴぁのむ(兄貴頼む)! ヴぉ、ヴぉんかいらけ(こ、今回だけ)! ヴぉんかいらけでいいヴぁら(今回だけでいいから)!」


「……」


「ヴぁのむ(頼む)! ヴぃっしょうのヴぉねがいヴぁから(一生のお願いだから)! ヴぁじヴぉろされヴんヴぁって(マジ殺されるんだって)!」


 俺の必死の懇願も兄貴には届かなかった。


「ああ、骨は一か所にまとめておいてくれ。手間が少なくて済む」


 兄貴は背を向け、軽く手を振りながら去っていく。

 非常階段の直前で燕が「おい」と小さく言葉を投げた。


「一個だけ、いいか」


「何だ」


「あんた、弟探しに来たわけじゃねえの?」


 表情に乏しい燕の顔面に明確な怒りの形相が浮かんでいた。

 それは俺や鶯の呼吸を止めるには十分過ぎるほどの迫力を伴っており、振り返った兄貴もさすがに目を細めている。


「ああ。肉の匂いがしたから来た。そもそもそいつを探すつもりも助けるつもりもなかった」


 こき、と首を鳴らした兄貴はドアノブを掴む。

 が、自分で鍵をかけていたのか、がちゃがちゃとドアは兄貴を拒んだ。


「どの道、そいつを助けても島の外に連れ出す術はない。俺のホバークラフトは一人乗りだからな」


「……ホバークラフト?」


 ゆっくりと、柳木燕が顔を上げた。






「あー……あんた、服濡れてないな、そういえば」


 ちゃり、と鉄板が床を離れた。

 燕が視線をこちらへ寄こすと、鶯が頷く。

 口をぱくぱくと動かした燕を見るや、鶯は息を呑み、どこかへと消えた。


「……」


 異様な気配を察知したのか、兄貴が足を止める。


「俺のホバーに何か用か。お前、立派な水上バイクを持ってるだろう」


「ああ。持ってる。でもあれも一人用だ」


「ほう」


「俺と鶯、二人で島を出るためにはあと一つ船が要る」


「で?」


 燕は鉄板で俺を示した。


「弟を返してやる。船、置いて行け」


「断る」


 それまで燕に背中を向けていた兄貴は初めてサムターンから指を離し、ゆらりと奴に向き直る。


「そんなに逃げたければ弟を置いて一人で行けばいいだろう」


「……鶯は弟じゃねえ」


「ん?」


「ここで……逢ったんだよ。あいつの母親、コブ付きの土方と再婚しやがったらしくてよ。あいつが丈夫なのをいいことに、ボコスカやってたんだと」


「ほう」


「で、鶯はここまで家出してきてた。……いや、自殺にしに来てた。ここは本土よりでかいビルもあるし、橋も、海もある。そこであの雨と、キリコだ」


「ほう」


「ひっでえ話だろ? あいつ、あんな小っせえのに。人生で楽しいことなんか、まだ何も経験してねえのにさ。……自分からキリコに殺されようとしてた」


「……」


 兄貴は神妙な面持ちのまま少し考え、言った。



「なぜ死なせてやらないんだ?」



 こりり、と。

 何かが鳴った。


 骸骨の化け物ではなかった。

 燕が歯を軋らせる力があまりにも強く、割れた奥歯が口の端からこぼれ、床を叩いた音だった。


「おー……そっか」


 燕は納刀するかのように鉄板の柄をベルトに添え、腰を落とした。

 発散される怒気は青白い焔のごとく俺の皮膚を炙る。


「やっぱ船とかどーでもいいわ。……あんた、死ねよ」


 憤激に顔面を歪めた柳木燕が兄貴を睥睨する。

 その語調はひどくゆっくりで、一語一語がマグマを纏っているかのようだ。


「おいおい。何だそれは。怖いな。怖すぎる」


 兄貴は獰猛な笑みを浮かべると、拳をごきりと鳴らした。

 神話の英雄を思わせる巨躯に血が巡り、アドレナリンが分泌され、ただでさえ硬質な筋肉が更に膨張するのが分かる。


 俺の兄貴、烏座軍覚からすざぐんかく――――


 ――――いや、今は婿入りしたから苗字が違う。



 俺の兄貴、鶏闘軍覚とりとうぐんかくは極太の中指を立てた。



「怖すぎて――――正当防衛しちまいそうだ」



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