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 ――――どっちだ。



 立ち泳ぎをしながら俺は選択を迫られていた。

 彼らの前に名乗り出るべきか。このまま隠れ続けるべきか。


 どちらもリスキーだ。

 名乗り出た場合、彼らのスタンス次第では危害を加えられる恐れがある。

 隠れ続けた場合、後で言い訳が効かなくなる。


 先ほどの会話を聞く限り、残念ながら彼等は俺に危害を加える可能性が高い。

 前者の選択肢は危険だ。


(……水の中……! いや)


 ツバメは飲み水を取って来るよう指示した。海水じゃない。真水。

 真水がストックされているのはおそらくそこら中に漂っている発泡スチロールの箱だ。

 ウグイスがこれらを引き寄せ、中身を探って水を取り出す間中、水中に潜んでいられるとは思えない。


 手早く辺りを見回した俺はフロア壁面の窪みに身を隠すことにした。

 ややあって階段付近に小さな靴音が近づいた。

 子供の息遣いと、ちゃぷり、と何かが水面を動く音。


 きゅ、きゅぱっと発泡スチロールの蓋が開かれる。


(……とっとと逃げた方がいいな)


 脳内ではアラートが鳴りっぱなしだ。

 片方が子供とは言え、二対一だ。見つかって暴力沙汰になったら勝ち目はない。

 勝手なイメージだが、ホストは荒事に慣れている気もする。そして俺は腕っぷしにはあまり自信が無い。


(女の子を助けるってのは美味しいけど、な)


 獲れたてぴちぴちの女の子や気の毒な目に遭った女の子を助ければカラダによるお礼も期待できるのだろうが、カラダ以上のお礼ができない女は不要だ。

 緋勾や美羽のような金持ちなら話は別だが、有り体に言って、この状況下で自衛もできない女は足手まといだ。

 一時の快楽が目的なら持ち運びが容易で、水もメシも便所も要らず、ぽいっと捨てられるオナホで事足りる。


 これがゲームなら、ヤバめのモンスターが護っているお宝はレアアイテムだと相場が決まっている

 だが残念ながらこれは現実。リスクを冒してまで中身の分からない宝箱を開けに行く必要もないだろう。

 傷ついた女の子なら他にいくらでもいる。


(あいつがいなくなったら……真水と食い物パクって元来たドアから逃げるか)


 そこら中に浮いている発泡スチロールに目をやりつつ、俺は水面に波紋が立たないよう静かに立ち泳ぎを続けた。


「燕兄ちゃん! 水ー……。……」


 鶯の声が薄れて消えた。

 ただしそれは遠ざかったからじゃない。

 彼はその場に佇んだまま声だけを小さくしたのだ。


「……燕兄ちゃん」


「おー?」



「ドア、あんなに開いてたっけ」



 どくん、と心臓が高鳴る。

 その衝撃で目の前の水面に微かな波紋が立った。

 慌てて壁面にしがみつき、それ以上の痕跡を残さないよう努める。


「ドアー? ……。……おー……結構開いてるなー……。まあ、そんなこともあるわな」


 革靴の音が階段のところまで近づいている。

 どうやら燕までこちらに来てしまったらしい。


(嘘だろ大して変わってないだろうが!!)


 実際、それは鶯の勘違いなのだろう。

 初めから正面玄関の自動ドアは多少開いていた。それに気づいておらず、誰かが開けたと勘違いしているのだ。

 だがその勘違いは思いがけない形で俺の首を絞めることとなった。


「誰か、入って来てるんじゃない?」


「かもなー。あー……めんどくさい……」


 燕はコツコツと階段を降り、軽く声を投げた。


「おーい。誰かいるかー?」


 気だるげな燕の声。

 ひどい二日酔いに襲われた休日の若者か、ドラッグの効き目が切れた中毒者を思わせる。


「に、兄ちゃんそれいいの?」


「あー。いいよ別に。ビビっても仕方ないだろ、実際。……おーい。上で肉焼いてたのは俺だー……」


 どくっ、どくっと拍動が速度を増した。

 燕の声には悪意も、敵意も感じられない。だがそれが却って不気味だった。

 さっきの会話を聞いていなければ普通に出て行ってしまっただろう。

 それほどまでに無警戒な男のように感じられた。


「あー……誰もいないかー? まー……どっちでもいいか。居ても居なくてもな」


 抑揚のない声だったが、まるで最後通牒を突き付けられたように感じる。


「じゃあとりあえず……ドア閉」


「兄ちゃん兄ちゃん。それじゃ誰か居たら逃げられちゃうよぉ」


「おー……ま、大丈夫だって。よっと」


 ざぶんと燕が海中へ。

 奴はそのままドアまで泳ぎ切ろうとしたので俺もさりげなく死角へ移動する。

 階段側からも入口側からも死角になっている場所はかなり少ないが、ないわけじゃない。

 路地裏に身を潜めるホームレスのように俺は狭いスペースへ身を滑り込ませる。 


「鶯。その辺に『ゾア』入っ」


「うん。そこの赤い箱の中」


「おーこれか。おっけおっけ。こいつをこうやって……」


 燕の後姿は俺の位置からは見えない。

 見えてしまったら奴からも俺が見えることになるからだ。

 覗き込むのも危険だった。視線は物理的な力を持つ。


 だから、奴が何をしているのか窺い知ることはできなかった。

 聞こえるのは、とぷ、とぷりと水面が揺れる音だけ。


「おー……し。これでいいな。あー寒。女抱」


「! する? 兄ちゃんサンドイッチする?」


「おー。そーだな。するか。どっち使」


「俺前がいい!」


「俺も前が」


「ええ~! 俺が前がいいよー!」


 先ほどから気になっていたが、鶯は燕に声を被せる癖があるらしい。

 俺が兄貴にあんな口利いたらぶっ飛ばされるだろう。

 だが燕は気を悪くした様子もない。


「まあ、そうかー……。おー。じゃ、いいぞ。俺尻にするわ」


「やったっ! 燕兄ちゃん最高!!」


 とぷり、とぷりと燕が水面に波紋を残しながら一階フロアを泳ぎ切り、階段へざぶりと身を揚げる。


「あー……冷たいな。ちょい、着替えるわ。そっちの子、運べるか?」


「うん! 俺、さっきの子、出しとくね!」


「おー。気、抜くなよ。噛みついたりするからな、女は」


 びしょ濡れのスーツから水が滴る音と軽い靴音が遠ざかる。


 俺はなおも息を殺し、口元を両手で押さえ続けていた。

 捉えどころのない燕がふらりと戻って来やしないかと不安だった。



 ――――。



 ――――。



 少し待ち、俺はそっと死角から這い出した。

 海面は静けさを取り戻しており、発泡スチロールの箱が音もなく揺れている。


 逃げよう。

 階段の方をちらと見やり、安全確認した俺は正面玄関に目をやり、そのまま凍り付いた。




 キリコが。

 自動ドアの開閉部を結合するようにして。

 磔にされていた。




(!? な、何だよこれ)


 真っ白な骸骨はうな垂れるようにして水面に視線を向けており、左右に伸ばそうとした両腕を肘から直角に曲げている。

 まるで肘の部分に杭が打たれ、そこに引っ掛けられているかのようだ。


 安いキーホルダーさながらにぶら下げられたキリコは死んだように動かない。

 もう生きてはいないのだろうか。


 いや、そんなはずはない。

 燕は侵入者が居る可能性を捨てていなかった。侵入者の存在を承知した上でこの仕掛けを設置したのなら、キリコはおそらくまだ「生きている」。

 だがだったらなぜ動かない?

 というか、何をやったんだ? どうしてドアに張り付いているんだ?


 あれはキリコだ。間違いなく。

 俺達を襲い、人々を襲い、骨だけを食らう骸骨の化け物。

 あの兄弟はどうやってキリコを磔にした?

 いや、そもそもどうやって捕獲した?


 気づけば俺は立ち泳ぎの速度を上げていた。

 波紋は広がっていなかったが、どっく、どくん、と心臓は怯えたかのように不規則なビートを刻む。


 様々な疑問が汚水のように脳裏を渦巻く中、ただ一つ、確かな事実が俺の前にそびえ立つ。

 ――――この玄関からは出られない。


(ちっくしょ……)


 近づけばキリコが崩れ落ちて音を立てるのか、目覚めて襲い掛かって来るのかは分からない。

 だがあの燕の口ぶりを聞く限り、ここは完全に封鎖されていると見るべきだ。


(あいつら濡れてなかったよな、確か)


 俺は極めて重要な事実を見逃してはいなかった。

 燕が服を濡らしたことに対する嫌悪を発したのはつい今しがたのことだ。それまで奴らの靴音は完全に乾いていた。

 十中八九、水上を移動する手段を持っている。

 無理やりあのドアをこじ開けても追いつかれるのは目に見えていた。


(出口は二階か……)


 それもたった今あの兄弟が使ったと思しき非常階段。非常に嫌な状況だ。

 だが光明は既に差している。


(あの二人、今から戦利品で遊ぶわけだ)


 しかも男二人の3P。チャンスだ。

 事に及んでいる最中はどうあがいても注意力が削がれる。

 あの二人が腰を振っている間に俺は失敬するとしよう。


(ってか、さっき外から戻ってきたってことは……出口には船があるのか?)


 もし船を奪うことができれば追走される危険性は低い。

 もちろん、キーが必要なタイプならそれは抜かれているだろう。だがそれならそれで構わない。

 今は一旦引いて、和尚か鴨春を見つけた後に複数人で襲い掛かればいい。


 とにかく距離を取るのが第一だ。

 俺は途中で見つけたペットボトルの水で喉を潤し、袋入りのドライフルーツとナッツ類で当座のカロリーを補給すると、静かに階段まで泳ぎ切る。

 と、そこで顔を顰めることになった。


(やっべ……俺、濡れてるのか)


 階段から二階フロアの奥へ向かって点々と燕の靴跡が続いている。

 辺りには彼のスラックスから垂れたと思しき水の痕。


 当然、俺がこのフロアを歩いても同じ現象が起こる。

 出口へ向かって点々と足跡を残すのも躊躇われたが、それ以上に厄介なのは音だ。

 ぴちゃぴちゃびしゃびしゃなんて音を立てて歩いた日には、あの二人は必ず俺に気づく。


 立てる音は少しでも減らした方がいい。

 水中で靴を脱ぎ、上着を脱ぎ、適当な箱へ投げ込む。 

 そして大量の滴が水面を叩かないよう、俺は腕を支えに数センチずつゆっくりと身を引き上げていく。

 ひどく緊張しているせいか、冷たさには耐えることができた。もしかすると麻痺しかけているのかも知れない。


(じゃあ……これは持って行かない方がいいか?)


 念のため、適当な箱に水と食い物を詰めてここまで引っ張ってきていた。靴と上着もそこに入れておいた。

 水に浮く発泡スチロールの箱。水、食い物。どれも非常に貴重だ。

 普通に運べば水のボトルは水没するし、食い物はダメになる。

 発泡スチロールの箱にぶち込んで、ビート版のように使いながら持ち去りたい。


 となると、この箱の面倒も見なければならない。

 だが箱を持ち運べばいざという時に潜って隠れるという選択肢が使えなくなる。

 水に浮く物資はブイのごとく俺の居場所を示すことになるだろう。


 ここでもリスクが出て来る。

 何をやるにしてもリスク、リスク、だ。


(いや、何の収穫も無いってのはな……。持って行こう)


 階段にすっかり身を揚げた上半身裸の俺はデニムをぎゅっと絞る。


(さ、て。どうする。走るか、ゆっくり行くか……)


 燕たちが消えた方角には寝具が並んでいた。

 俺の目の前には文房具や間接照明、各種時計などの雑貨が展示されている。

 什器の背は低く、身を隠すには心もとない。

 しかもコンビニのように客の動線を考えた規則的な並びではない。気を付けなければ背の低いテーブルに足を取られてしまうだろう。


 非常階段までは十数メートル。

 バレるのを承知で突っ走ってもギリギリたどり着ける距離だ。

 仮に非常階段に内側から鍵が掛けられていたとしても、サムターンを回すのに要する時間は一秒足らず。逃走はできるだろう。

 だが肝心の船がエンジン付きならキーを抜かれていて起動不可、気づかれて追いかけられる、潜る、箱が浮かんで見つかる、のコンボが成立してしまう。


 ほう、と一息ついた俺は平静さを取り戻した。


 慌てるな。

 攻め手に回れば隙が生じる。

 ここは一歩一歩、確実に進もう。


 抜き足差し足忍び足。

 シンプルだが効果的だ。

 軽い箱を抱えた俺は背の低い什器に隠れるようにして数メートル、また数メートルと突き進む。

 マットのある場所を選んで停止したため、水音はほとんど聞こえていないはずだ。


 ――――行ける。



「~~!! ……!! ~~~~~ッッ!!!」


 絹を引き裂く女の悲鳴。

 だが俺は歩みを止めたりバランスを崩すことはない。


 この世の全ては奪い合いだ。

 誰かが何かを得ると誰かが何かを失う。

 彼女が命を失うことで俺の命は拾われる。

 ――――彼女には運を呪ってもらうしかないだろう。


 そろり、そろりと。

 俺は慎重に、しかし速やかに非常階段へ進む。


 刹那、テーブルの上を何かが過ぎった。

 猛獣の赤い瞳のように見えた俺はぎょっとするが、それがただの髪飾りのようなものであることに気づき、すぐに顔を進行方向へ。


 もうドアはすぐそこだった。

 少し手を伸ばせば届く。

 あんな髪飾り気にしている場合じゃない。

 あんなホオズキの髪飾りなんて――――


「ぇ」


 振り返った俺の目に真っ赤なホオズキの髪飾りが飛び込んで来る。







「鴨、春?」


 俺はその髪飾りの持ち主の全身像をすぐにイメージすることができた。

 たった一人でキリコの猛攻を防ぎ切った黒髪黒服黒タイツの少女。

 彼女の髪を彩っていたのは眩しいほどに鮮烈な和の赤。

 十三鷹緋勾の懐刀である咲酒鴨春。


「ま、さか」


 俺は思わず二階の奥へ目をやる。


「~~!! ~~~……」


 未だ鳴りやまない女の悲鳴。

 あれは鴨春のものなのか。

 あれほど勇ましい女丈夫がたかだホストに屈してしまったのか。


「嘘だろ……いや」


 あの子も所詮は女子高生。

 さすがに大人の男には勝てなかったのだ。

 気の毒な彼女は子供に前の穴を、大人に後ろの穴を穿たれて惨めにヒイヒイ泣いているのだろうか。

 見知った少女が輪姦されている光景を想像すると胸が張り裂けそうな気分だ。あと普通に勃起してしまった。


 被害者が知り合いだったのは衝撃的だが、俺のやることは同じだ。

 緋勾でも美羽でもないのならこのまま見捨てて――――


(……や、待て待て)


 鶚の言によると十三鷹はお嬢様学校だという。

 立場的には緋勾に従いつつも鴨春だって名家の生まれのはず。


(助、けるか?)


 悩みどころだ。

 リスクはあるが、戦力は拮抗するような気がする。

 大学生男子の俺と気の強い女子高生の鴨春が組めば、小学校高学年と大人のコンビにも太刀打ちできるのではないか。


 作戦はこうだ。

 事が済むまで一階に身を潜め、燕と鶯が疲れて眠ってしまったところで――――



 がん、ががん、という大きな音で俺は飛び上がった。



 はっと見れば半裸の女性が駆けだしてくるところだった。

 あまりの事態に俺は目を見開き、身を隠すことすらできない。

 ただ、その女性が鴨春でないことは分かった。髪は茶色のボブで、歳は二十を超えている。鴨春とは似ても似つかない。


「ね、ねえ! 助けて!!」


「!! や、ちょ」


 彼女は俺の傍まで駆け寄ると、さも当然のように俺を盾にした。


「え、ちょ、待っ」


「おー……やっぱ誰かいるじゃん」


 暗闇の中からぬうっと燕が姿を見せる。

 彼は上半身裸になっており、かちゃかちゃとベルトを締めているところだった。

 その手には。


(鉄板……?)


 お好み焼きのコテ、いやノコギリが一番近いだろうか。

 無骨な鉄板に無理やり柄を嵌めたかのような得物を手に、奴は近づいて来る。

 刀身はまだ八割ほどが包帯のような布に覆われていた。


「どーもー。なあ、こっち、戻ろうよ。まだ出してないんだけど」


「い、イヤだっ!!」


 女は俺をぐいぐいと燕の方に押し出すが、俺の方はたまったもんじゃない。

 向こうは完全に武器を手にしている。

 素手で相手にできるか。


 ――――いや。素手じゃない。


 発泡スチロールの箱。

 こいつがあれば。


「つ、突っ込んで! わわ私も! やるから! やるもん!」


 女性はドライバーを手にしていた。

 ドライバー。武器としては弱い。

 だが俺が盾になって彼女が矛になれば。


 発泡スチロールなんて下手をすれば両断されてしまうだろうが、中には水とナッツ、ドライフルーツが詰まっている。

 それに俺の服もある。


 俺が突っ込み、目くらまし。

 彼女が脇から突っ込み、奴の脳天にドライバーをぶっ刺す。


「よ、よし! 行く! 俺やるから! ぜぜ、絶対やれよ!」


「分かってる! やってやる! やってやるっっ!!!」


「おー……」


 燕は鉄板に巻かれていた包帯を無造作に解いた。

 はらり、と。

 ある種の美しさすら孕んで白布が床に流れる。


「お、おおおおっっっ!!!」


「でえええやあああっっっ!!!」


 この子の方が迫力あるな、と思いながらも俺は発泡スチロールの箱を構えて燕に突っ込んだ。

 さあ斬ってこい。

 そうしたら――――


「邪魔」


 ぽん、と奴は闘牛士のように俺を躱して見せた。

 勢いそのままに突っ込んだ俺の肩を押し、奴はドライバーの一撃も同じようにしてひらりといなす。

 女性は俺のすぐ傍で地団太を踏むような急停止を見せた。


「くっ!」


「畜生っ!!」


 斬って来ないのは予想外だった。

 だが、ならば服だ。服で目隠しを食らわせる。

 そう思いながら勢いを溜めた俺が見たのは、頭を低く下げた燕の姿だった。


 斜め四十五度で床を見つめた奴の鉄板は、既に振り抜かれた後で。


「へ?」


 ずぱっ、と。

 湿った切断音が響く。


 飛んでいく手首を見つめ、俺と彼女は呆気に取られていた。


 そして俺が視線を燕に戻した時、彼女の顔面はこちらを向いていた。

 だらん、と真後ろにぶら下がる首。


 ああ、と俺は理解した。

 鉄板が頸椎まで届くほど深く突き刺さり、勢いあまって首がこっちを見たんだ、と。


 理解した瞬間、彼女はがくりと崩れ落ちた。

 しゅわああああ、と。

 まさにシャワーとした形容できない勢いで血の雨が降る。


 ひゅばっ、と。

 黒く大きなジャンプ傘が開いた。

 このブランドの代表的な商品なのだろう。小間にロゴが刻まれている。


「おー……いい傘だな、これ」


 燕は無造作に鉄板を振り、血と脂を払った。

 ぱたたたた、と血の雨が降る光景の中、奴は淀んだ瞳で俺を見る。


「で、誰?」


 何だ今のは。


 何だ今のは。


(……何、だよ今の)


 動きが見えなかった。目で追えなかった。

 目で追えないと言うことは。

 防御不能であるということ。


「う、お、お……」


 女は醜い表情で事切れていた。

 まだ頬の筋肉が悲鳴を上げようとぴくぴくと動いており、自分が死んだことにすら気づいていないかのようだった。


「お、おあああっっっ!!!?」


 俺は発泡スチロールの箱を投げ出し、一目散に逃げ出していた。


 殺される。

 ――――殺される。


(絶対殺されるッ!!)


 焦りと恐怖は俺から姿勢の制御を奪う。

 モグラが土中をかき分けるようなみっともない姿で駆けだした俺は一直線に非常階段を目指していた。


 何が鴨春だ馬鹿野郎、と俺は俺を叱責する。何度も何度も恨みを込めて。

 自分のことだけ考えていればタッチの差で逃げ出せたのに。

 畜生。

 ――――畜生!


「うぐいーす」


「うぇい!!」


 鶯。

 あのガキが俺の行く手を阻むようにして非常階段の前に立ち塞がっていた。

 どうやら会話している間に回り込まれていたらしい。


「おおおおっっっ!!!!」


 だが俺は止まらない。

 猪突猛進そのもののスピードで突っ走り、奴を吹っ飛ばそうとする。

 足を止めれば確実に燕に追いつかれてしまう。

 凶器を持った男とやり合うぐらいなら、少しぐらい脳筋気味に突破した方がいい。


 所詮は声変わりしたばかりのガキだ。

 このまま体重差でぶっ飛ばしてそのままドアを開ける。


 止まるな。

 絶対に止まるな。

 その思いが視界を真っ赤に染めていた。

 赤信号は止まれの合図だな、なんて軽口が脳裏に浮かんで消える。


「ど、けええええっっっ!!!」


「はっ!」


 短い、裂帛の気合。

 あまりにも素直な正拳突きをひらりとかわした俺は鶯に足払いを放ち――――


「おぁ?」


 側頭部をダンプカーでぶっ飛ばされるような衝撃と共に吹っ飛んでいた。

 実際にはほんの数十センチだったが、何メートルも吹き飛ばされたかのように錯覚する。


「ぅ、あ?」


 回し蹴りを食らったんだ。

 そう思った時にはもう視界がぐにゃりと歪んでいる。

 腰が立たない。脚が動かない。何だこれは。


 かろうじて見えたのは鶯が見事な残心を決める様だった。

 そのまま動画にして世界公開しても恥ずかしくないほどの美しい構え。


「おー……悪いね」


 ゆらりと俺の目の前に燕が立った。

 血に濡れた鉄板に俺の虚ろな表情が映る。


「あいつ空手やってんの。超強いよ」








 両脚は。

 ベッドの脚にロープできつく縛られていた。

 複雑な結び目だ。ボーイスカウトをやっていたら解くことができたのかも知れないが、今の俺には道具なしで外せる気がしない。

 両手首も肘までロープで縛られており、その先端はやはりベッドの脚に結わえられている。

 どう見ても血流が止まっているし、ぎりぎりと締め付ける縄は容赦なく俺の手首を痛めつけていた。


 だと言うのに、燕は平然とガムを噛んでいる。


「まあ、何つうかさ」


 燕は俺の頭部にビニール袋をかぶせていた。

 目の部分だけ穴が開いており、奴の青白い顔が見える。

 ホストをやっているだけあって美形だったが、どこか自堕落な、虚無的な表情をしているのが特徴的だった。


「あー……俺、柳木燕やなぎつばめって名前な。そっちの……アンタをぶっ飛」


荒木鶯あらきうぐいす


 まだ反抗期すら迎えていなさそうな鶯がニタニタと優越感に浸った笑みで俺を見下ろしている。


「よろしく、クソザコにーちゃん」


「だ、誰が……クソザ、コだ」


「おめーだよおめー」


 がん、と鶯が俺の脇腹を小突く。

 痛みはほとんど感じなかったが、先ほどの一撃がフラッシュバックし、身が竦む。


 ああ、と俺は嘆いた。

 俺はこんなに弱いのか。

 ガキになめられる程に。


 辺りは寝具フロアだった。

 数多くのベッドや座椅子、丸めた絨毯が展示されている。


 俺の寝かされたベッドには雌と雄の匂いが漂い、不覚にも下半身が熱くなってしまう。

 その分、裸の上半身が恐ろしく冷える。



「俺、女じゃないぞ」


「分かってるって」


「離してくれよ」


「や、それは無理」


 燕がくちゃくちゃとガムを噛みながら俺の目を覗き込む。

 ホスト特有の爽やかな香水には微かな血の匂いも紛れ込んでいた。


「まあ、何つうかさ。人ってさ、悪い事したいわけじゃん」


「は?」


「悪い事だよ、悪い事。こう……線路とかでさ、あ、こいつ突き落したらどうなるんだろう、とか。普通にダチと話してる途中で、今こいつぶん殴ったらどうなるんだろう、とか」


(そんなこと思ってるのかコイツ)


「あー……思わねー?」


「思わねー」


 おー、と燕は短く呟く。

 俺の返事が真逆だったとしても同じ反応を見せたのかも知れない。


「でさ、実際、こういう状況だろ? 島、キリコいるし、沈みかかってる。ってことは悪いことし放題じゃん。殺しも。盗みも。ヤるのも」


「ヤるのも」


 鶯はそこにひどく執着しているようだった。

 この年で女の味を覚えたら大変なのだろうな、と俺は漠然と思った。


「ってことはさ、この島でガッツリ悪い事やって、悪い気持ちを吐き出しておくべきじゃん?」


 一瞬、俺は燕が何を口にしているのか分からなかった。

 いや、それは一瞬じゃない。

 一秒、十秒、一分経っても。

 俺は奴の言葉の意味が理解できなかった。


「や、だからさ」


 燕は理解が得られないことに苛立ちやもどかしさを感じてはいないようだった。


「俺ら、性格がアレなわけよ。若干ワルいわけ」


「そう! 俺達ワルだ!」


 くす、と微かに燕が微笑を見せた。それは鶯に向けられていた。

 鶯もまた、朗らかな笑みを返している。


「でもさ、本土に帰って、普通に仕事就いて、嫁さん貰って、子供作って、親の葬式するためにはさ、そういう悪い気持ちって、邪魔じゃん?」


「そう! ワルはダメなんだ!」


「おー。だから、決めたわけよ」


 燕は山吹色の髪に櫛を入れた。


「……この島で一生分の悪いことやってから、外へ出ようって」


 鏡も使わず整えたオレンジ色の髪はひどく歪な形をしていた。







 ぷあ、と燕は眠たげにあくびをする。


「俺達さ、真っ当な生活をしたいわけ」


「そう! 俺達普通に暮らすんだ! ……ねえねえ兄ちゃん」


「お?」


「戻ったら『ようし』にしてくれるんだよね?」


「おー。するさ。そしたら俺達、本当の兄弟だ」


「よっしゃ~!」


 それは親子だろ、という言葉を差し挟む余裕もなかった。

 俺はこいつらの思考が到底理解できず、置いて行かれっぱなしだ。


「ま、そういうわけでさ。心の中の悪い気持ちとか、汚い感情とか、さ。この島に捨てて行かなきゃならないわけ」


「そうだ! 悪い気持ちはぜーんぶここで捨てて、俺たちはキレイな気持ちでしゃかいに出るんだ!」


「おー……まあ、そういうことだわな」


 さて、と燕が取り出したのは大きめの裁ちバサミだった。

 ツララを背中に差し込まれたかのような恐怖で俺はひくっと喉を鳴らす。


 ――――こいつら頭おかしい。


「金は盗った。物も盗んだ」


「女の子ともヤった! ヤりまくった! もっとヤる!」


「おー……。ってことで、そろそろ鶯も殺しをやっとかないとな」


「やるー!」


「できるだけめちゃくちゃにしてやれよ。目玉とかガッツリ潰して、耳とか鼻、ちゃんとジョキジョキ切っちまえ。でないと、本土に戻った時に悪い気持ちが出て来ちまうからな」


「や、ちょっと待った。その、俺実は警視総監の息子で――――」


 さくん、と。

 小気味の良い音がした。


「ぁ?」


 俺の左手中指の。

 第一関節から先がなくなっていた。


 思い出したかのように血が噴き出し、焼けた鉄板に押し付けられたかのような激痛が爆ぜる。


「ぐぅぅぅっっっ!!!!?」


 鶯は目を見開いていたが、ハサミを操った燕はしょきしょきと血に濡れた先端分を開閉する。


「こんな感じでな。何つうか、ひと思いにやっちゃう感じ。まず指とか胴体にしとけ。顔は後にしよう」


 燕はまな板に乗せられたイカでも見るかのように冷淡な口ぶりでそう告げた。

 これから活き作りにされて触手がぐねぐね動いたとしても、「おーまだ動くのか」としか言わないに違いない。


 が、そんな思考は頭の片隅に小さく浮かぶばかりだ。

 俺の思考は激痛への恐怖と、怒りと、恐怖と、喪失感だった。

 痛いなんてもんじゃない。

 死ぬ。

 死ぬ。絶対に死ぬ。こんなに指から血が出たら死ぬに決まっている。

 痛い。

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。


「い、い、痛っ……指っ、ゆ、ゆゆゆびっ、指っ!!!」


「ほら、鶯」


「ああああおおお俺の指っ! 指指指ゆびあがっ……――――……!!」


 弟にハサミを手渡した燕はビニールをめくると、慣れた手つきで俺に猿轡を噛ませた。

 声を奪われてもなお、俺は目に涙を浮かべ、鼻水を垂らし、口から涎を出して命乞いをする。

 助けてくれ。

 助けてくれ、と。

 だがどんな表情をしても奴らには見えないに違いない。こんな袋を被せられては。


「燕兄ちゃん。これ、切ったら手が汚れちゃいそうだね」


「洗えばいいさ。で、洗ったらさっきの子、めちゃくちゃにヤりまくろう」


「うん。……うん! ヤる!」


 しょきしょき、と鶯が嬉しそうにハサミを開閉する。

 銀の刃に映るのはあまりにも惨めな俺の姿だ。それもビニール袋で頭を覆われている。

 俺は末期の表情すら見ることができずに死ぬのか。

 無数のムカデが身を這うような恐怖と絶望の中、俺は小さく鼻をすすった。


「おー……。頑張れよ鶯。俺はここで見てるからな」


「うん!」


 燕はもう俺に興味をなくしたかのように踵を返した。

 代わって残酷な笑みを浮かべた鶯が俺にハサミを向ける。


「じゃーな。クソザコ兄ちゃん」






「おい」





 ぶっきらぼうな声が響いた。

 燕のように気だるげでも、和尚のように凛然としたものでもない。

 ひどくふてぶてしく、召使いでも呼びつけるような傲慢さの滲んだ太い声。



「誰だか知らんが、鍵ぐらいかけたらどうだ」 



 ぬっと室内に姿を見せたのは一人の男だった。

 金髪を整髪料でギチギチに固めたオールバック。

 190センチを超える岩石のごとき肉体をウェットスーツにも似た黒い肌着で包んだ男。


「……」


 ものも言わず、燕が身構えたのが分かる。それほど凶悪な存在感を放つ男だった。


 彼の額は狭く、口の端は滅多に持ち上がることがない。

 頬にはドイツ軍人のような朴訥さがあり、眉は常に吊り上がり、怒りの形相を見せている。

 そしてその目つきは鋭い。

 ――――鼻筋は俺とそっくりなくせに。


 そう。

 それほど凶悪な存在感を放つ男なのだ。



 ――――俺の兄貴は。



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