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allargando(だんだん強く遅く)

 肉だ。

 肉の焼ける匂い。


 きゅるるる、と胃袋が哀れっぽく鳴く。

 水しか飲んでいないことで、否、水を口にしてしまったからこそ、胃袋が飢餓感に苛まれているのだ。


 ひとたび食欲を意識してしまったことで俺の目には畳すら食い物に映る。

 よく踏まれた部分を切り取って火にかけて、少し焦がして醤油をかけたら食えるだろうか――――


「はっ!」


 ぼうっとしていた俺は我に返り、恐怖に我が身を抱く。

 ほんの数日で飢え死にするとは思わない。

 だが今、俺の思考は確かに「淀んだ」。


 空腹のあまり思考にノイズが入り始めている。

 これはマズい。

 優先順位を見失えば待っているのは死の一文字だ。


(落ち着け。キリコがバーベキューやってるわけないだろ……)


 可能性は二つだ。

 人が人を焼いているか、人が勝手に焼けているか。


 後者の可能性は拭えない。

 漏電、ガス漏れ、垂れ流しのガソリン。

 浸水した土地だからといって油断はできない。火花の一つも飛んでしまえば見る見るうちに火勢は増し、炎となるだろう。


 そしてそれが水死体やキリコの残した肉塊に着火する。

 結果、この香ばしい匂い。


(……)


 俺は人の焼ける匂いを知らない。

 火葬に立ち会ったこともないし、ヤクザな先輩に根性焼きを食らうような生活からも縁遠い。

 だが焼けた人肉がここまで香ばしく、食欲をそそる匂いを漂わせるわけがない、ということは分かる。

 絶対にラードかバターを使っている匂いだ、これは。


 俺はこの匂いを知っている。

 だからこそ食欲をそそられた。 

 すぐに行って横取りし――――


「!! チがウだろ……!」


 がらがらの喉からどうにかそんな言葉を絞り出す。

 酒瓶に目を付けた俺は刃傷沙汰に遭った侍目がけて女衒がそうするように強い液体を口に含み――――

 よく見ると噴きかける傷などないことに気づいたので、ごろごろとうがいをして普通に吐いた。

 ウィスキーだかブランデーだか知らないが、ひどく濃い味が喉をちりちりと刺激する。


 少しだけ血の巡りの良くなった俺は干しておいた服の水気があまり取れていないことに失望しつつも、思考を先へ進める。


 この状況で人が肉を焼く。

 ――――異様だ。


 食い物に困ってそうしたという可能性はある。

 たまたま手元に生肉しかなくて、油しかなくて、燃料とフライパンしかなくて。

 だから肉を焼いて食べようとしている。


(そんなわけないだろ……)


 キリコが島内を蹂躙し始め、水かさまで増しているのだ。

 一刻も早く島から脱出しなければ惨死か溺死が待っている。

 悠長に肉を焼いている場合じゃない。


 仮に食糧事情がひっ迫していたとしても、と考えて俺は気付く。


(もしかして誰かへの合図……?)


 夜目には小さな灯りも明るく見えるが、太陽が昇れば無意味だ。

 キリコに殺されてしまったのか、未だ灯を手にしているのかすら遠目には判断できなくなる。


 翻って匂いはどうだろう。

 目には見えないし触れることもできないが、確かに人間の営みを感じさせる現象だ。

 風に乗って食物の匂いをまき散らせば、自然と人間はそこへ集まって来る。

 灯りと違って近くの人間にアピールできるのもポイントだ。


 そう考えると、「肉を焼く」という行為には周囲へのSOSとしてある種の合理性を感じた。


(……)


 キリコは今、水死体に夢中になっている。

 鴨春の仮説が正しければ、カラスに喰われかけた死体や傷ついて出血している死体はキリコを呼び寄せる囮になる。

 今なら移動に伴うリスクは小さい。

 ――――移動。


(どこに行けばいいんだよ……)


 俺は今、一人だ。

 せっかく手中に収めた金持ち三人娘はいなくなってしまった。

 俺はまたゼロに戻ってしまった。


 いや、ゼロどころかマイナスだ。

 今や和尚も鶚もいない。


(和尚……鶚……)


 あの二人がここに居てくれたら何と言うだろう。

 和尚は「生きている人間がいるのならすぐに合流して助け合うべきです」か。

 鶚は「物資だけ奪って逃げた方がいいに決まってるじゃん」か。


 それで俺は少し悩んで、程よくバランスの取れた選択肢を提示するんだ。

 肉の匂いに釣られて来るのは何も俺達だけじゃない。

 遠くから様子を見て、協力できそうならする、無理ならしない。それでいいじゃないか、と。

 和尚はぽんと手のひらを叩いて、鶚は冷ややかな目を向ける。


「あれ……?」


 じわ、と目頭が熱くなっていた。

 こみ上げて来るものに驚き、慌てて手首で目を拭う。

 何を泣いてるんだ、俺は。


「へ、へへ」


 大丈夫。大丈夫だ。

 和尚も鶚もたぶん生きてる。

 和尚はタフだし、鶚は乳が浮袋になる。

 その内きっと会える。

 むしろ重要なのは会った後だ。手ぶらで会うのもみっともない。ちょっとした手土産でも用意して二人を驚かせてやろう。


 ――――そうだ。

 ただ生き残るだけじゃ意味がない。

 俺は「プラス」を持ち帰る。


 汚泥を押しのけ発芽する種のごとく熱い勇気が身をもたげる。

 俺はもう一口琥珀色の酒を含み、ぐちゅぐちゅと口を濯いでべっと吐き出す。


(行くしかないだろ。何かあるのが分かってるんだから)


 水、メシ、暖、寝床。もしくは人、それから情報。

 何でもいい。

 今は何かを手にすべき時だ。

 俺は「マイナス」なのだから。


 また水の中に入るのは気が引けたが、状況が状況だ。

 俺は物々交換に使えそうな酒瓶を幾つかテーブルクロスで包み、階下へ向かう。

 が、いくら何でも重すぎた。

 中身を半分ほどに減らし、たすき掛けするような形で背負い、濁った海へ身を浸す。

 水深は2メートル。もう地面を歩くことはできない。


 灰色の雲の向こうから陽光が差している。

 カア、カア、と本物の烏が俺を嘲笑うように鳴いていた。 





 肉の匂いを辿り、俺は街路をゆっくりと平泳ぎで進んだ。

 幸いにしてキリコの徘徊音は聞こえない。

 定期的に後ろを見やったが、水面を動くドクロも見えない。


 むしろ、にゅちゃ、とか、くちゅ、という烏が何かを食らう音の方が耳に障った。

 奴らはキリコも海水も平気だ。

 これから思う存分ご馳走にありつけるのだろう。


「!」


 元:街路とでも呼ぶべき水路を泳いでいた俺は匂いの発生源にたどり着いた。

 そこは有名ブランドの雑貨屋だった。

 雑貨屋。

 ネットショップの発達した現代においては苦労していそうな商売だ。


 だが露店ならではの長所もある。

 それはブランドコンセプトに沿った売り場の演出だ。

 このブランドは統一されたデザインに定評がある。シンプルで、洗練されていて、上質。

 家具、雑貨、インテリア、調理器具、それにオーガニック食材、といった様々な商品が完璧に陳列されていたのを覚えている。

 生活のどの部分を切り取っても自社製品が添えられているように。

 そんな理念があったらしい。


 まあ、今は昔の話だ。

 重要なのは水、食糧、暖、寝床の四つがすべてを賄うことができるということ。


 当然、一階は水没している。

 自動ドアの上部がちらりと見えていたが、あそこから入るのも危険だ。

 ぐるりと建物の周辺を見回った俺は非常階段を発見し――――


(いや、今はこっちが正面だ)


 慌てて引き返し、僅かに開いた自動ドアの隙間に身を滑り込ませた。


 水没した一階には様々な商品が浮かんでいた。

 袋入りのアーモンドやドライフルーツ入りの袋、タッパーなどはぷかぷか浮いている。

 発泡スチロールで構成されたクーラーボックスのようなものもそこらを漂っている。あれも商品なのだろうか。

 電気は消えており、フロアは薄暗い。

 二階へ続く階段だけが天国へ続いているかのように光を漏らしている。 



「たっだいま~!!」



 ぎょっとする。

 上の階から聞こえたのは声変わりをようやく迎えたばかりの男児の声だった。

 がちゃん、と金属製のドアが閉じる音。どうやら外から帰ってきたらしい。

 もし俺があのまま内部へ入っていたら予期せぬ接触が起きていた。

 やはり安全策を取るに越したことはない。


 階段に近づいた俺はそっと二階を覗き込む。


 これも七分丈と呼ぶのだろうか。

 少年は足首の部分が露出した微妙な長さのズボンを穿いている。

 背はなかなか高いのだが、挙動には子供らしさが残っていた。


「ほら、ツバメにーちゃんも!」


「おー……ただいま、ウグイス」


「ははは! 俺、一緒だったじゃん!!」


 ふらりと姿を見せたのは見目麗しい男だった。

 ホストらしいロイヤルブラックのスーツ、しっかりとワックスをまぶした山吹色の髪、それに穏やかな顔立ち。

 やや長い髪に丁寧に櫛を入れているが、男の表情には覇気が無い。


「水、すごかったね!」


 くふふ、とウグイスと呼ばれた少年は楽し気に笑う。


「おー……。沈んでるのかもな、ここ」


「マジで!? どうすんのツバメにーちゃん!」


「おー……もう一台見つけようか。まー、たぶん大丈夫だろ。よっ……と」


 良く見ればツバメと呼ばれたホストはサンタクロースのように橇を曳いている。

 そこにはやはりサンタクロースを思わせる麻袋が一つ。

 袋はぐねぐねと不気味に動いている。


(……人か、あれ)


 ファーストコンタクトの言葉を考えていた俺は踏みとどまる。

 更にじっと様子を窺っていると、ウグイスがもじもじと脚をすり合わせる。


「にーちゃんにーちゃん」


「んー?」


「俺……もっかいサンドイッチがしたい!」


 少年は橇に乗った麻袋を見ていた。

 その目に異様な熱を認め、俺は警戒を強めた。


「おー……サンドイッチか。あれ疲れるんだよな、ぶっちゃけ」


「えぇ~! しようよぉ!」


 ホスト風のツバメは髪をちりちりと指先でいじり、困ったように唸る。


「二人も上に乗せると重たいんだぞ」


「じゃあ立ってやろうよ」


「おー……いや、それだと女の子、逃げちまうだろ」


(!!)


 俺は息を呑んだ。

 今、あのホスト野郎は「女の子」って言わなかったか。

 会話の流れはよく分からないが、どうも不穏なことが起きている気がする。


「そんなぁ。俺もっかいアレしたいよ~」


「んー、そうだなぁ……」


 おお、とツバメが少しだけ声を大きくした。

 それでも相変わらず声に張りがない。


「横向いてやろう。そうすればベッドに縛ったまま」


「すげー! ツバメ兄ちゃん天才じゃん!」


「おー……まあ、そういうこともあるわな」


 ツバメはほんの少しだけ照れくさそうにはにかむ。

 その拍子に、麻袋がぶるりと動いた。


「ねえねえ、この子は? この子、いらないなら俺にちょーだい!」


「ダメだ。あっちの子であれ、するんだろ?」


「あ、そっか」


「そうだ。その子は次だ。大事に大事に使おう。今日はあの子でいいだろ」


 橇をずるずると引きずりながらツバメが階段のすぐそばを通り、フロアの奥へ向かう。

 確かあっちは運搬用のエレベーターが併設された寝具売り場だ。


(何か……変だな)


 あの二人はここをねぐらにしていたのだろうか。

 それにしては先ほどから肉の話題や釣られて現れる人間の話題が出ない。

 ――――ヤバそうだ。


 直感的にそう悟った俺は正面玄関に向かおうとしたが――――


「おー……」


 奥の売り場へ進みかけたツバメが気だるげに髪をいじり、言う。


「喉乾くな。ウグイス。ちょっと下行って、水、取ってきてくれ」



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