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Andante(歩くような速さで)

 


 こり、こりり、と。


 リンゴを齧るような音が聞こえていた。



 背中に触れる大講義室の椅子は冷たく、恐怖に拍車をかけるようだった。

 俺と同じく咄嗟に椅子へ身を隠したのは二人。

 ちょうど学生二人が行き来できる通路一本を挟み、反対側で息を潜めている。


「……!」


「!」


 あれは何だ。

 知ってるわけないだろ。

 目だけでそんな言葉を交わす。


 こり、ごりり。


 不吉な咀嚼音はなおも続く。

 ばくっ、ばくっと心臓がアラートを鳴らしている。

 音だけ聞けば全身に血液が巡っているはずなのに、指先はひどく冷たい。


「! !!」


 通路の向こう側の二人、鶴宮と鳩子が俺に何かを訴えている。


 に げ る ぞ


 ――――逃げるぞ。


(分かってるよそんなこと……! どっちに逃げるんだ!)


 口と表情筋を動かし、俺は声なき声で怒鳴った。

 大講義室の出口は後方にしかない。俺達がいるのは最前列で、こりこりという音が聞こえるのは中央付近だ。

 通路を移動すれば必ず『奴』との接触は避けられない。

 左右から大きく迂回することができればいいのだが、この講義室の長机は壁に密着している。

 必然的に数本の通路は中央側へ寄っており、どうあがいても『奴』の傍を走り抜けるはめになる。


(あんな奴の近くを通ったら……!)


 ふと見ればスカートを押さえた鳩子が人差し指で上を示している。


(上?)


「……あ」


 机の上を跳ぶのか。なるほど。

 俺が頷くと鶴宮が激しく頷き返す。


 あ し を と め る な


 ――――足を止めるな。


(……分かってるよ。そっちもな)


 鳩子の手を握った鶴宮が指を立てる。


 一。

 二。


(三!!)


 俺たちは同時に机へ飛び乗った。


 その瞬間。

 『奴』の全身像が視界に飛び込んで来る。



 ほんの数分前。

 そいつは何の前触れもなく講義室に入ってきた。

 そして呆然と立ち尽くす俺達に襲い掛かり、出口に一番近い雉谷を捕えた。


 今この瞬間、その雉谷は原型を留めていない。

 胴体から片腕と片脚がもぎ取られ、首は180度ねじられ、血だまりに沈んでいる。

 雉谷の顔を見ずに済んだのはある意味僥倖だった。

 俺も、鶴宮も、大量出血を目の当たりにしたことで顔面蒼白になっていたからだ。

 この上死人の顔まで直視してしまったら卒倒していたかも知れない。



 『奴』は雉谷の腕を口元に運んでいた。

 噛んだ焼き鳥の肉を串から外すようにして、ぐいと雉谷の腕を引っ張る。

 ずるずる、という湿った音と共に筋繊維がはぎ取られ、新しい血と脂が床を打つ。


(!)


「ッ!」


 人間が喰われている。

 そう錯覚してしまう光景に俺たちは誰もが足を止め、息を止める。


 ――――錯覚。


 そう。錯覚なのだ。

 雉谷は捕食されているわけじゃない。

 何故なら雉谷の肉を貪り食っている『奴』の姿は――――




 一片の肉すら持たない、『人間の骸骨』だから。




「走れ! 走れ走れ!!」


 鶴宮が叫んだ瞬間、ぱちんと泡が弾けるように俺達の時間が動き出す。

 膝を器用に折り曲げ、雉谷の腕に噛みついて肉をはぎ取っていた骸骨がゆっくりと振り向いた。


 全身は象牙を思わせる淡白な白一色。

 頭蓋骨。肋骨、背骨。腕骨、座骨。大腿骨。どれもこれも俺のよく知る『骨』だ。


 その眼窩は完全な空洞。

 鼻もなく、耳もなく、胃袋も内臓もない。

 奴がはぎ取った雉谷の血肉は食道を通ることも胃袋に収まることもなく、べちゃべちゃと床に落ちていた。


「カラス! 何やってる!!」


 講義室の出口へ向かう鶴宮と鳩子は八艘跳びを思わせた。

 我に返った俺もまた机を跳び、跳び、跳ぶ。


(嘘だろ……何で骸骨が動くんだよ……!)


 俺は医学部じゃない。

 だが骨と骨が肉を介してくっついていることぐらいは知っている。

 骨『だけ』で人間の姿を象ることは不可能だ。


 奴の眼窩に青い炎でも見えれば「何だ妖怪か」と自分を納得させることもできただろうが、そんなものは見えない。

 そこにあるのはただの穴。 

 何もない空っぽの穴が俺を見つめている。


 骸骨は視界の正面に、真横に、そして後方へ。

 机を跳び、跳び、跳び――――


「! おわあっっ!?」


 鶴宮が叫んだ。

 最後列の座席の下から突如として骸骨が立ち上がり、二人の行く手を塞いでいる。

 まるで安いアトラクションのようだ。

 そう思った時にはもう遅く。

 クレーンゲームのアームを思わせる骨の五本指がしっかりと鶴宮の腕を掴んでいる。


「鶴!」


「バカガラス! 足を」


 鶴宮は一秒も躊躇せずに頭突きを放つ。

 ごつん、と頭蓋骨が首を離れてボールのように飛んだ。


「止めんなっ!!」


 更に膝蹴り。

 木組みの鳥籠を思わせる肋骨が、背骨が、腕骨が、文字通りバラバラになって飛び散る。

 骨が床を打つと、こり、こりり、とリンゴを噛むような音が響いた。

 物が落ちる音じゃない。まるで楽器だ。


 よたよたとバランスを崩す骨の下半身を飛び越え、鶴宮は黒い長髪を靡かせた。


「おら来いよ! 何度でもバラバラにしてやる!!」


 半年前に知り合ったばかりの同級生は恋人を連れて出口へと到達していた。

 その勇敢さに感嘆しながら最後の机を跳んだ俺は。

 ――――叫ぶ。


「鶴! 足!!」


 はっと鶴宮が自分の足を見る。

 たった今バラバラにしたばかりの骸骨の手腕が鶴宮の足首をしっかりと掴んでいた。

 まるで意思を持った義手を思わせる不気味さに鳩子が青ざめる。


「このっ……」


 鶴宮が片脚を振り上げるのと、骸骨の腕がぐいっと足首を引っ張るのが同時だった。

 そして力の差は明白だった。


「お、あああっっ!?」


 180センチはあろうかという長身が引きずり倒され、機械にでも引っ張られたかのようにずるずると講義室の中央へ。

 肘から上を持たない骸骨の腕はその間も鶴宮のスラックスを離さなかった。

 鳩子は目を背けるようにして外へ走り出している。


「鶴!!」


 消火器を掴んだ俺はすぐさま講義室の中央へ走り出し――――


「ふざけんなカラス! 止まるな!」


 鶴宮に一喝され、たたらを踏む。

 が、俺も叫び返す。


「お前がふざけんな! すぐ助ける!」


 こり、こりりり、と床に散らばった骨が机の上で震えるビーカーのごとく震動する。

 鶴宮を掴む腕は胴体を離れているというのに平然と動いたばかりだ。嫌な予感がした。

 それを別にしても雉谷を食っていた骸骨がすぐ近くまで迫っている。

 近づけば危険だ。


「止まるなっつったろ! お前がこうなっても助けないつもりだったんだよ俺は!!」


「ッ」


「早く行けアホ!! 鳩子止めろ!」


 クソ、と悪態をつく俺の視界にはもう一体の完全な骸骨が迫る。

 もう数メートルと離れていない。


「……!」


 俺は思い切り振りかぶった消火器を骸骨にぶつけると、大講義室を飛び出した。

 こりりり、と骨が床を打つ音に混じって鶴宮の悲鳴が聞こえている。







「鳩子! おい!!」


 大講義室を出た俺はすぐに鳩子の姿を見つけていた。

 だが遠い。

 ひ弱な身体に似合わないスピードで彼女は廊下を全力疾走していく。

 火事場の馬鹿力、というやつだろうか。


 窓の外は晴天。

 雨はもうやんでいるようだったが、濁った潮の異臭に顔を顰める。


「鳩子!」


 ようやく足を止めた鳩子は肩で息をしていた。

 厚手のスカートにもセーターにも皴が寄り、彼女自身の顔も疲労の色が濃い。


 大講義棟の廊下は長く、点々とゼミ室のドアが並んでいる。

 ドアの一つにもたれかかった鳩子は俺を振り返り、目に涙を浮かべていた。


「カラス……鶴くんは?」


 俺は無言で首を振る。


「……そう」


 暗く沈んだ声だった。

 きりきりと罪悪感に胸が痛む。

 ――――だがそれも一瞬のことだった。


 こり、こりり、と。

 またあの音が聞こえてきた。


「!」


 ばっと俺たちは身を寄せ合い、辺りを警戒する。


「こ、これからどうする?」


「逃げるしかないだろ」


「逃げるってどこに!?」


 鳩子は俺の肩を掴み、揺さぶった。

 女とは思えないほどの力に俺はぎょっとする。


「ねえどこに!? どこに逃げればいいの!? カラスが考えてくれるの!?」


「ま、まあ落ち着けって」


「何で落ち着かなきゃいけないの!? 鶴くんか雉さんなら何か考えてくれるのに、カラスはこんな時もいい加減なことしか言えないの!?」


 ああもう面倒くさい、と俺は舌打ちする。

 こんな時に感情的になってどうするんだ。


「いいから落ち着けって! 雨も止んだんだから外に避難すればいつか――――」


 かちゃ、とすぐ傍のドアが開いた。

 俺達と同じように避難している連中だろう。


 そう思って振り返った俺の目に飛び込んできたのは、またしても骸骨だった。

 こりり、とあの奇妙な音を立てた骸骨野郎は完全なる無表情で俺を見やる。


「!」


 どん、と俺の背中が突き飛ばされる。

 鳩子だ。


「ちょ、どわっ!!」


 骸骨に正面から突っ込んだ俺はとっさにそいつの手首を掴んだ。

 俺にのしかかられた骸骨は、ごりりりっと音を立てながらバラバラに飛び散る。

 骨の絨毯に倒れ込んだ俺は心臓も凍る恐怖に襲われる。


「か、カラス! 何とかしてよ!」


「おまっ、殺す気か!!」


 骸骨の手は止めなければならない。

 だが立ち上がらないと逃げることができない。


 相反する二つの行動を迫られた俺は、骸骨の手首を握ったまま地面を押すようにして立ち上がる。

 音もなく胴体を離れた骨は思った以上に軽い。

 ぽろぽろと指の部分が外れ、こりりりん、と軽やかな音を立てる。

 俺の手に残ったのは手首から肘までの一本骨だけだ。


「ッ! 鳩子!」


「ひっ!!」


 骸骨を掴んだままの俺を見て鳩子が恐怖を浮かべる。


「よせそっちに行」


 鳩子は俺の叫びを無視して踵を返し、そして別の骸骨に捕まった。

 幸か不幸か、彼女は頭部を両手で掴まれていた。

 つまり、あまり苦しむことがなかった。


 首がほぼ百八十度曲がり、鳩子がこちらを見る。


「ア」


 めぎっ、と。

 太い枝を折るような音が遅れて聞こえる。


「ぅ、く……」


 手の中の骨を放り出し、俺は元来た道を引き返す。

 めぢん、めちちっと筋肉の少ない身体が引き裂かれる音が聞こえていた。







 大講義棟は二階建てだ。

 今俺が居るのは大講義室を擁する二階。

 そして廊下を駆ける俺は一階へ続く階段を無視した。鳩子も先ほどここを無視した。

 なぜならそっちは行き止まりだからだ。


 かと言って室内でもたもたしていればどこから骸骨が出て来るか分からない。

 なので棟の中央付近で足を止め、正面玄関の真上に当たる窓を開く。

 数メートル下に見えるのは屋根だ。


 窓を閉じて飛び降りた俺はかろうじて着地に成功する。

 そして、脳の許容量を超えた事態に天を仰いだ。


「どうすりゃいいんだよこんなの……!!」



 屋根に飛び乗った俺が直面したのは。

 ――――視界いっぱいの黒い海。


 つい数日前まで降り注いでいた、『1000年に一度』と言われる猛烈な雨のせいだ。




 外出を控えろとか、電車が止まるとかいう次元じゃない。

 槍を思わせる雨は傘もろとも人間を押し潰し、コンクリの地面に縫い付け、そのまま溺死させてしまう程だった。

 俺の住む人工島『ハーバー12(トゥエルブ)』だけで数十人の死者が出ている。


 被害はそれだけでは終わらなかった。

 マグニチュード8の地震が来ても耐えられると標榜されていた人工島に海水が入り込んだのだ。

 理由は未だに分からない。

 人災か、天災か。雨が先か、海が先かも分からない。

 ともあれ、タイヤまで水没した道路を大量の自動車が走り、本土とハーバー12を結ぶ橋に殺到した結果、二つの悲劇が起きた。


 一つは大事故。

 外出すらできない豪雨の中、逃げ場のない橋の上で発生した追突事故は目を覆いたくなる惨劇を呼んだ。

 ヘリも飛ばせず、救急車が入り込めず、レスキュー隊が駆け付けることもできない橋の上は阿鼻叫喚の地獄と化したらしい。

 動画共有サイトに怪我の状況をアップロードする者が続出し、同情と政府批判と笑い声がコメントされていた。


 もう一つは未来の大事故。

 工事に手抜きがあったのか、想定を遥かに上回る重量のせいか、あるいは豪雨のせいか。

 橋脚に亀裂が確認されたのだ。

 車中からネットに書き込んだ人物曰く、「雨で音が聞こえないはずなのに、ピシッという音が聞こえた」らしい。


 雨足が弱まると同時に車中の生存者は本土へ駆け込んだらしいが、橋の上には今も大量の車が取り残されている。

 いつ崩落してもおかしくない、と言わんばかりの不気味な静寂と共に。



 雨が去った今もハーバー12の住民はとうとう一メートルを超えた浸水に怯えている。

 建物から出ることはままならず、ライフラインも停止しかかっていた。

 だが救助は来ない。


 橋を渡った先の本土は土砂崩れと家屋の倒壊、液状化現象で都市機能が麻痺している。

 下手をすればこっちより被害甚大だ。


 ハーバー12を凌辱し、橋を通り過ぎた雨雲は本土に集中豪雨をもたらすと更にいくつかの雲に分かれた。

 ――――そして今、日本列島の各地を直撃している。


 山間部では地滑りと生き埋め。土地によっては凍死者も出ている。

 都市部では無理なダイヤによる脱線や古い家屋の倒壊で溺死と感電死が相次いでいる。

 当然、ヘリや飛行機は発着陸不能。首相もどこかの建物に閉じ込められ、そこから非常事態宣言を発令したという。

 自衛隊と米軍は決死の救助活動を行っているらしいが、被害規模に追いつけていない。


 彼等が俺たちを助けてくれるのは来年の冬になるかも知れなかった。




(雨はいつか上がる、か)


 昔読んだ本にそんなフレーズがあった。

 確かに雨は止んだ。

 陸は浸水しているが、それでもまあ、一つの地獄はくぐり抜けた。


 で、今度は骸骨の化け物だ。


(呪われてるのかよこの島……)


 ぴこん、と携帯端末にショートメッセージが届く音。

 はっと見れば、『鶴宮』の文字。


(!! 鶴……まさかっ!)


 だがそれはぬか喜びだった。

 表示されたのは昨夜鶴宮が送ったテストメールだ。


「遅延してる……!」


 兄貴の番号に電話を掛けると、『繋がりにくくなっております』という自動音声。

 昨日まで普通に話すことができたはずなのに。


「マジかよ……」


 眼前に広がる臭い海。

 気のせいでなければゆらりと大きな魚影が過ぎる。


 一階部分が水没した大学の敷地にはぷかぷかと衣服や木片、ペットボトルが浮いていた。

 廊下を飾っていた魔女のマントやカボチャの被り物も少なくない。

 そう言えば昨日はハロウィンだった。この状況下で楽しんだ奴がいたとは思えないが。


「……」


 背中側ではこりこりという骸骨の歩く音がまだ聞こえている。


 大講義棟は独立しており、多くの学生は学舎の本棟に避難していた。

 そちらには暖を取る設備もあるし、自販機も食堂もある。

 そっちへ逃げ込んだ連中は俺達より恵まれた避難生活を送っているはずだ。


 少なくともつい数時間前までは。


「――――! ……!」


「!! ーーーーッ!!」


 本棟から漏れ出す悲鳴を耳にした俺は、泳いでそちらへ避難することを諦めた。

 こりりり、こりりり、とより激しく、楽しげな骸骨の足音も聞こえて来たからだ。


 雨上がりの秋空は澄み切っている。

 もう当分、雨は降らないに違いない。


 気持ちの良い空の下、俺は半笑いで唾を吐く。


「最、悪」



 と、視界を何かが覆う。

 人だ。人の尻――――


「危なっ!!」


 俺のすぐ傍に小さな女の子が着地した。

 小さな、とは言ったがこの敷地にいる以上は大学生だろう。

 だがそれにしても小さい。


 ショートデニムに黒タイツを合わせた彼女の身長はどう見ても140そこそこしかなかった。

 V字に開いたジャケットの胸元を短い羽毛群がふわふわと飾り、緩くウェーブしたダークグレーの長髪を留めるのは尾羽型の簪。


「ほ、骨っ! 骨ほねホネがッ!」


 彼女は後ずさりながらすとんと尻もちをつく。

 ぱくぱくと口を開閉する彼女の視線を追うと、窓から骸骨が顔を突き出していた。


(何で連れて来ちゃうんだよ……)


「ああれっ! ほら、あれっ!」


 ずいぶん童顔の彼女は何度も何度も骸骨を指差しながら俺を見やる。


「骨! 骨!」


「知ってるって。俺も逃げて来たんだから」


 言いつつも俺は骸骨から目を離さない。

 落ち窪んだ眼窩は何も見えていないはずなのに確かに俺たちを見つめている。


(何か……ヤバいぞ……)


 どんな理屈かは知らないが、あの骸骨は人間を『知覚』している。

 そしてバラバラになっても攻撃性が衰えない。


 ――――ここは安全じゃない。


「う、海! 海に飛ぼう! ねえ!」


「ちょっと待った!」


 俺は屋根の下へ首を伸ばした。


(あった……!)


 もう数日前のことだが、時間ギリギリのタイミングで大講義棟へ駆けこんだ俺は玄関のすぐ傍に一台の車が停まっていることを記憶していた。

 おそらく職員じゃない。一コマ分だけ講義を受けに来た誰かのものだ。

 普通乗用車にしては大きいようだが、今や水位のせいでルーフが海水に洗われている。


「こっちだ!」


 小さな彼女の手を引き、玄関の縁から飛び降りる。

 どぼっ、と水没したボンネットに着地した俺たちは衝撃で落ちないよう身を寄せ合って互いを支えた。

 そして薄く海水に覆われたルーフへ立った。


「海! 海は?」


「もう11月だぞ? 凍えちまうって! それはマジで最後の手段にしないと……」


 それに、と俺は仄暗い打算を心中で呟く。

 海へ逃げれば本当に助かるのかどうか、すぐに答えが分かるのだから。


 こり、こりり、と遥か上方で小さな音がした。

 俺達の姿が見えなくなったことで骸骨の注意が逸れたのだろうか。


「な、何なのあれ」


 ルーフの上で彼女は膝を曲げた。

 俺と同じく何日も風呂に入っていないはずなのに、ふわっと甘い香りが漂う。


「俺が知ってるわけないじゃん」


 そう返すと、彼女は早くも携帯に答えを求めていた。

 骸骨、人、襲う、と。


(……さて)


 俺もまた膝を折り、海面からほんの数十センチの高さで辺りの様子を窺う。

 じきに学舎の窓から焦れた学生が飛び出すはず。

 その結果を確かめてから俺も動くとしよう。


 急いではいけない。

 攻め手に回ってはいけない。

 こういう時、先走る奴はたぶん死ぬ。

 三番手か、四番手ぐらいで賢く立ち回るべきだ。


「……」


「……」


 小さな彼女が携帯端末の画面をスクロールさせている。

 ショートメッセージや電話には不都合が生じているようだが、ネットはまだ生きているらしい。


「キリ、コ」


「……へ? 君の名前?」


「違うよ」


 彼女はむすっとした顔で俺を見上げる。


「あの骨。キリコって呼ばれてるらしいよ。『切る』に『子供』で『切子キリコ』」


「! な、名前があるの? え、もしかしてここ以外でも――――」


「動画、じゃんじゃん上がってる」


 見せつけられた画面の中では骸骨がむしゃむしゃと人間の肉を毟り取っていた。

 この風景には見覚えがある。ハーバー12の中心地だ。


「だ~れも評価つけてないけどね。こっちの方がヤバ過ぎるから」


 動画が切り替わる。

 水没した地下鉄で撮影されたと思しき暗闇で泣き叫ぶ女子高生。

 一階部分まで浸水したコンクリートジャングル。

 消防による涙ぐましい救助活動。

 それに豪雨に沈んだ死体。死体。死体。


 どれもこれも人食い骸骨よりはずっと身近で、それにショッキングだ。


「まあ、完全に作り物の動画に見えるよな、骸骨なんて」


「うん。あんな雨が降ったら骸骨どころじゃないよね」


 彼女は携帯を更にいじり、眉根を寄せた。


「キリコって名前、結構流行ってるみたい。……。何でだろ」


「何でもいいよ、そんなの」


 俺はようやく伸び始めた髪を5センチほどの髷にしていた。

 それをぴこぴこと指で弾きつつ、呟く。


烏座からすざ


「え?」


「俺の名前。あんたは?」


みさご崖定鶚がけさだみさご


 携帯をしまったミサゴは俺をじっと見つめる。

 別に恋をしたわけじゃないだろう。

 そして初対面で嫌っているわけでもない。


「!! ~~~~!!!」


「……!! ……ッ!!」


 さっきから響き続けている悲鳴に俺も彼女も反応を示さない。

 興味を向けることもない。

 おそらく彼女は俺を値踏みしている。


(!)


 はっと気づく。

 ついさっきまでミサゴは動揺していたはずだ。

 なのに今は黒曜石のような瞳で俺を見つめている。


 生きる為に何が必要なのかを吟味し、冷静に取捨選択している目だ。

 鳩子も生き延びていればこんな目をしていたのかも知れない。


(こいつ……)


 さっき動揺していたのは演技なのではないか、という疑念が身をもたげる。

 しきりに海へ飛び込むことを促したのも『海に飛び込めば本当にキリコから逃げられるのか』を俺で試そうとしていたからかも知れない。


 すっとミサゴの目が細められる。

 俺の警戒心に気づいたのか。


 その酷薄な目つきに俺は身震いした。

 もしかしたらこの子は既に誰かを――――


「カラス?」


「あ、ああ。そう呼ばれて……呼ばれて『た』、か」


 昔は別のあだ名があった。

 大学に入ってからカラスと呼ばれるようになった。


(……)


 雉谷。鶴宮。鳩子。

 半年前に入学してからつるんでいた奴らが死んだ。


 悲しい、とは特に思わなかった。

 古臭い小説や映画の登場人物のように喪失感で身動きが取れなくなることもない。

 強いて例えるなら、そこそこ大事にしていたゲームのユニットが消失ロストしたような気分。

 取り返しはつかないが、まあ他の何かで補えるだろう、という前向きな諦念。


 高校時代からの友人ならもっと喪失感があったのだろうか。

 それは分からない。分かる機会が訪れてほしいとも思わない。


「……あれ、助けないの?」


 ぴいぴいと悲鳴の聞こえる方へ鶚が親指を向ける。


「キリコがあっちに行ってくれた方が都合がいい」


「……」


 鶚は俺をなじることもなく、かと言って褒めることもしない。

 中学生にも劣る身長の彼女は、ただじいっと俺を見つめ続けていた。


 ややあって俺が口を開こうとした瞬間――――



「誰か!! 誰かいませんか!!」



 大きな、凛とした声が響いた。

 男の声だ。それも若い。


「私はこの先のショッピングセンターから来ました!! まだ十分な水と食料があります! 誰か――――」


 ようやく彼は悲鳴に気づいたらしい。

 声がこちらへ近づいて来る。


「どうしました!? 何が起きているんです!? 誰か!!」


 ざああ、と海上をこちら向かってきたのは大きなゴムボートだった。

 ラフティング用なのか、不必要に派手なウミウシを思わせるブルーのボートだ。


 乗っているのは禿頭の男だった。

 禿頭。つまりハゲ。

 つるつるのハゲだった。

 深緑の作務衣を着た男はパドルを置き、立ち上がる。


「どうしたんです? 一体何が――――」


 どっぼん、どぼぼっと。

 レミングの集団自殺を思わせる勢いで次々に学生が海へ飛び込んだ。


「!? な、何も飛び込まなくても! ちょっと待ってください! 飛び込まないで! 汚れた水の中で怪我をしたら大変です!」


 禿頭の男は校舎を見上げ、あんぐりと口を開けていた。

 海へ飛び込む学生に続いて窓から顔を出したのは骸骨のキリコだったからだ。


「は、はああ? な、ハロウィンはもう終わりましたよ!? どうしてそんな恰好を?」


 次々に押し寄せた学生が乗り込む度、ボートがぐらぐらと揺れる。

 一人、二人、三人、とハゲは懸命に手を貸していたが、先に乗り込んだ連中は手に手にパドルを携え漕ぎ出そうとしている。


「ちょ、ちょっと待ってください! 待って! まだ人がいます! 漕がないで! ……ああっ!?」


 ハゲは漕ぎ手を止めようとしたが、半狂乱状態の連中を止められるわけがない。

 逆に突き飛ばされ、ざぶんと冷たい水の中へ落ちる。

 その隙に乗り手はパドルを駆り、ボートが進み始める。

 乗り込むことができなかった連中がボートの紐に手を掛けているにも関わらず、安めのノアの箱舟はぐんぐんと進む。


「ぶはっ!」


 ハゲが水面に顔を出した頃には既にボートは遠方へ流されていた。

 俺たちの位置からはもはや目視すらできない。


「ちょっ……!」


 取り残されたハゲは両手で顔を拭っていた。立ち泳ぎをせずに済むぐらいの長身らしい。

 俺と鶚は顔を見合わせ、頷く。


「……!!」


「こっち……!」


 ハゲがこちらに気づいた。

 その瞬間、俺達は両手で「潜れ」の合図をする。

 何度か繰り返してようやくハゲは俺達の意図に気づき、とぷんと水中へ。


 次の瞬間、窓辺に押し寄せていた骸骨が折り重なって海へ落ちた。

 ぼしゃぼしゃと飛沫を上げたキリコは百近いパーツとなって海面にぷかりぷかりと浮かぶ。


(人間の骨って浮くのか?)


 俺の疑問をよそに、海面に浮かぶ人骨はボートを追うようにして静かに流れて行った。

 その動きも不自然で、とてもじゃないが水の流れに乗ったようには見えない。


「骸骨が泳いだ……?」


 鶚も怪訝そうにその様子を見つめている。

 だが今の俺たちに答えを知る術は無い。

 それより――――


「ぶはっ!」


 すぐ近くで禿頭が浮かび上がる。

 俺が手を貸すとびしょびしょのハゲがルーフに身を揚げた。靴は草履で、見ているだけで寒い。


「ハァ、ハァ」


 禿頭をひと撫でしたハゲはなおも乱れる呼吸を整えながらボートの去った先を見やる。

 横顔と肌つやを見る限り、30にはまだ遠いようだ。


「……男手を集めて病院に行くつもりだったんです。まさかこんなことになるなんて」


 聞かれてもいないことを話すハゲの目に曇りは無い。


「病院? 薬を取りに?」


「違います。怪我人や病人を助けなければ」


 語調を強めたハゲを前に俺は肩をすくめた。


「そんなことのためにショッピングセンターから出て来たんですか。あー……和尚?」


湖舟こしゅうです。鷺沢湖舟さぎさわこしゅう。和尚ではありません。まだ学生です」


 こんなパンクな大学生がいるか、と心の中で呟きつつも俺は微かな安心感を覚える。

 行動力のある奴は便利だ。正義感があるとなお良い。

 いざという時、矛になる。

 ――――もちろん、盾にも。


 軽く自己紹介を済ませると和尚は険しい顔をした。


「カラス。そんな事と言ったが、この状況下で病人や怪我人がどれほど苦しんでいるか、分かるでしょう?」


 分かる。

 俺も鬼畜じゃない。人の痛みはよく分かる。

 だが、だからといって自分の命を賭け金にするほどの見返りがあるとは思えない。


 いや、と俺は考え直す。

 逆にそれ相応の見返りがあるのなら助けるべきだ。


 あのキリコとやらが本土に居るのかは分からないが、豪雨の被害は確実に日本全土に大ダメージを与えるだろう。

 だが人類はしぶとい。

 どうせ一、二年もすれば都市は復興し、元通りの生活が始まる。

 そうなった時、手元に何もないまま生活をリスタートできるとは思えない。

 大学生活がこれからどうなるのかは分からないし、就活だって雲行きが怪しい。


 もちろん俺は生き残る。

 英雄にならなければ生き延びる方法は多い。

 俺は誰よりもひっそりと、こっそりと生き残る。


 ――――だが『何か』。

 何かを手に入れた状態で生き残りたい。

 願わくば食いっぱぐれないぐらいの金か、コネを手にして。


 企業役員とか、ヤクザとか、政治家とか。

 そんな連中の命を助けておけば先々の暮らしは安泰だ。

 使えそうな奴に恩を売り、恩を着せる。

 普通に生きていたら絶対にできないことが、今ならできる。


 そう。

 これはピンチじゃない。チャンスだ。

 これまでの人生をリセットして、リスタートすることを神様が許してくれたんだ。


 俺は心中ほくそ笑む。


「カラス。どうしました? 聞いていますか?」


「ちょっと、和尚」


 鶚が鋭い目で彼を見る。


「助けてもらって最初にやることがお説教?」


「あ、ああ、そうだった。面目ない」


 和尚がぺこりと頭を下げた。


「ありがとう。お陰で助か――――」



 ぼぼしゃん、とすぐ近くの水面にキリコが落下した。

 ぷかあ、と浮かび上がった頭蓋骨が水面で回転し、ゆっくりとこちらを見る。



「って、ないみたいだぞ、和尚」


 ぷかぷかと骨が浮かび上がり、人体模型を形成していく。

 鶚と和尚が凍り付き、俺もまた呻く。


「和尚。お経で何とか……ならないかな?」


 ざぶっと立ち上がった骸骨が、こりりと愉しそうに笑ったような気がした。

 そしてこっちへ手を伸ばす。



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