丸の代償
その日、とある二人の若い男女が夫婦になろうとしていた。
場所は市内にあるメモリアルホール。
その一間を借り切った分厚い出入口の扉には『羽角家・田丸家 御両家結婚披露宴会場』
と書かれたプレートが下がっており、中からは既に司会と思しき人物のマイク越しの声が聞
こえて来る。
『それでは早速登場して貰いましょう。新郎新婦、入場です!』
シックな調度品と白いテーブルクロスで設えられたホール内で、扉が開いた瞬間、出席者
達からの大きな拍手が響いた。
歩いて来るのは、軽く髪を撫でつけ白い礼装を纏った新郎の青年。その手を握った小柄だ
が可愛らしい純白のドレスの新婦の女性。そして彼女のもう片方の隣で、既に涙ぐみ始めて
いる父親らしき壮年の男性だ。
バラード調のBGMが流れている。薄く照明が落とされた中、彼らにスポットライトと眼
差しが一心に向かう。
それとないスタッフの先導もあり、三人は複数の円卓の中を通り抜け、奥の新郎新婦席へ
着いた。娘と無言の頷き合いを交わし、新婦の父は周囲の視線に緊張気味になりながらも妻
らの居るテーブルへと戻っていく。
『ありがとうございました。ではこれより、羽角・田丸御両家による結婚披露宴を開始した
いと思います。本日は皆さま、お忙しい中ご出席いただき有難うございます。高い所より僭
越ではありますが、先ずはご出席いただいた皆さまの軽いご紹介から始めさせていただこう
と存じます』
ぺこり。折り目正しい司会役──式場のベテランスタッフの饒舌なトークが始まった。
マイク越しに一人、また一人と彼は各テーブルの出席者を紹介していく。新郎及び新婦の
家族に始まり、それぞれの職場の上司・同僚、そして友人に至るまでのその詳細は的確且つ
時に軽いユーモアすら交える余裕すらある。
『……有難うございました。では次に、本日の主役である新郎新婦・羽角さんと田丸さんに
ついてのご紹介をしたいと思います』
──新郎・羽角慧と新婦・田丸美也は中高の同級生だった。
とはいえ、元々二人の間にはそう多くの接点は無かったという。ただ学年が一緒、クラス
が同じになった。そんなありふれた、ややもすればそれ以上でもそれ以下でもない曖昧な記
憶のまま、時の流れと共に風化していくのが常であるような関係性でしかない。
だが切欠は、高校に上がって程なくして起こった。
入学間もなく右も左も分からない美也を、如何にもといった風貌の先輩男子らが取り囲ん
だのだ。
もう駄目だと思った。もっといい所に頑張って進めばよかった。
……しかし、諦めかけてぎゅっと目を瞑った次の瞬間、脳裏に過ぎった結末は文字通り吹
き飛ばされてやって来なかったのである。
『おい。いつまで目ぇ瞑ってる』
『え……?』
そこに立っていたのが、慧だった。頬や腕に擦り傷や打撲を負いながらも、彼はこの年上
の不良達をたった一人でノしたのだった。
羽角君。彼女はそこでようやく彼についての記憶に突き当たる事となる。
喧嘩っ早くて危ない人、荒っぽい、不良──。
平々凡々。料理好きである事以外特に取り得もない女子学生たる彼女にとり、この出会い
はすぐにでも忘れてしまいたいものである筈だった。自分とは生きている世界が違う人だ。
そう思い、この時は半ば怯えて逃げるようにして場を去ってしまったのだが……。
『──聞いたか? 今年入った一年に、伴野達をボコった奴がいるんだってよ』
『は? マジかよ。馬っ鹿だなあ。学校一の狂犬にいきなり喧嘩売るとか……』
『あ~あ。相手が悪過ぎだろうに。そいつ、この先まともな学校生活送れねぇぞ……?』
所詮は閉ざされた空間だ。噂はあっという間に広まっていった。
学校一の暴れ者に手を出した奴がいる。
事実、その伴野本人は敗北の二文字を刻まれて怒り心頭。平素以上に暴れ散らし、生徒達
は恐れをなしてこの余計者の噂をし、同時に厄介だと陰口を叩いた。
『……何だよ、お前みたいなのが来る所じゃねぇぞ』
『分かってるよ。あの、羽角君……だよね? 聞いてるよ? あの時の先輩、血眼になって
あなたを捜してるみたいだよ?』
少なくとも、自分が黙っていればそうすぐには巻き込まれないと思った。巻き込まれたく
ないと我が身を可愛がっていた。
だが美也は普通の子であった。だからこそ原因が自分にある自覚がある以上、じっと嵐が
過ぎ去るのを待つだけなど耐えられなかった。
普段話さないような女子にも、ひいては男子にも、こっそり慧の事を聞いて回った。そこ
で彼がやはりいわゆる不良のレッテルを貼られている事も、昔から何を考えているか分から
ない一匹狼である事も美也は知ることとなる。
『らしいな。そん時はそん時だ。つーか、そこまで知ってるなら何で顔なんか出す? 奴ら
に見つかったらお前こそ詰みだぞ』
『……』
だから、逃げたくなかった。実際こうして再び会いに来て、確認した事がある。
この人は──優しいんだ。確かに見た感じは荒っぽいし、事実手を上げている訳だけど、
もしかしてあの時あの場所で先輩かもしれない彼らと拳を交えたのは、他でもなく自分の事
を助けようとしたからなんじゃないか……?
『クラスに戻れ。お前まで不良扱いされるぞ』
『……やだ』
『あ?』
『やだ。私は恩人に何もしないまま、見捨てるような人間になんてなりたくない』
それからだ。二人の奇妙な関係が始まったのは。
先ずは追いかけっこ。屋上から校舎裏、学校のあちこちでフける慧を探し出してはお説教
し、美也はこれを咎めるという日々が続いた。手当だってした。というより、あれだけ一対
多数で喧嘩をしたというのに、彼が手当の一つもしていなかった事に美也は驚きと呆れを隠
せなかった。止めろ、触るんじゃねぇ……。だが彼女はそんな彼のつっけんどんな態度にも
めげず、応急セット片手に彼を裏庭の上に寝転ばす。
だからなのか、次第に慧も大人しくなっていった。最初こそ美也を突き放し、遠ざけよう
としていたが、妙に意固地になってしまった彼女をもう彼は止める事もできず諦めてしまっ
たようである。
『──ねぇ美也。あんた、羽角君と付き合ってるって本当?』
『止めときなよぉ。あいつ、中学の頃から不良で通ってたじゃん?』
『噂だけど、入学したての頃に伴野先輩を殴った本人だって話だし、関わらない方がいいと
思うのよ。ね? 美也の為なんだよ?』
そして当然の流れというべきか、二人の様子に尾ひれはひれが付き始めた頃、美也は友人
達にそう窘められていた。口調は友を案ずるといった感じだが、おそらくその実は自分達が
巻き込まれないとした保身が働いていたのだろう。
『……ごめんね。でも私、慧君はそれほど悪い人じゃないと思ってるよ。……あの時、伴野
先輩達から私を助けてくれた。本当に自分さえよければいいなら、無視されてた筈だもん』
色々な事があった。
そうして彼を庇った事で去ってしまった(元)友人もいたし、教師から直接呼び出されて
詰問された事もある。平々凡々。確かにそう評していた自分が、少しずつ壊れていくのを感
じていた。
『──言わんこっちゃない』
だから、嬉しかった。
そうして自分と彼との情報が広まって三月。遂に伴野達に身元がバれ、再びあの時の意趣
返しとばかりに廃倉庫に連れ込まれた時、慧は駆けつけて来てくれたのだ。たった一人、お
そらく「田丸を巻き込むな」「疫病神なんだよ」などと別の格好で彼も周囲から迫害受けて
いたであろう筈なのに。
『はは……本当に来やがった! 馬鹿だなぁ。女一人、放っておきゃ助かったものを』
『馬鹿はてめぇらだろ。糞野郎』
『あ?』
『んだと、ゴラァ!?』
ボキリ……。たった一人、数人掛かりの敵に慧は拳を鳴らして呟く。
『借りのある奴を見捨てるほど、俺は落ちぶれちゃいねぇよ』
その時の乱闘は、今も美也の瞳に焼き付いている。
散々に殴られた。蹴られた。なのに彼はまるで弱る気配もなく、終始強く強くブレない瞳
で伴野達を再び叩きのめしたのである。
当然、この一件は学校でも大問題となった。喧嘩を起こした慧を──これぞ好機と伴野達
をもろとも退学処分にしようとした教頭達。美也の正義感は凡人のそれを突き抜けた。
『ふざけないでください! あの時も今回も、慧君はただ私を守ろうとしてくれただけなん
ですっ!』
随分と迷惑を掛けてしまった。学校はともかく、親や友人達にも。
結局、処分が取り消される事はなかった。実際暴力に訴えたという事実は消えないのだか
ら、無理からぬ事かもしれないが。
それでも美也は晴れ晴れとしていた。慧が退学処分を受けたちょうどその日、自身も退学
届を教頭に叩き付けて学校を辞めてしまったのである。
……とはいえ、ただ感情だけで動いていた訳ではない。父とも相談し、慧についての真実
も包み隠さず話し、二人でまた新しい学校に通えないかとあちこち手を尽くしたのだ。
『──ああ、違う違う。ここの数式はこの公式じゃないと……』
『むぅ? そうか。やっぱ分かんねぇなあ……』
それでもやはり喧嘩が元で退学という履歴は思いの外ダメージとして大きく、特に慧の方
は最終的に通信制の高校を出る事でようやく落ち着いたのだが。
とにかく、以来二人はお互いに支えあいながら、二人三脚で歩んできた。
ただのクラスメートから相棒に、恋人同士に、男女の仲に。
勿論、この日こうして結婚を迎えた二人を説明するのにそう全て正直に語られる訳にはい
かず、式場スタッフの側も中々どうして苦心したそうだが。
『──と、こうして二人は強い絆で結ばれ今に至ったと聞いております。正直在学中はとん
だ教え子達だったなと思っておりましたが、こうして見事荒波を乗り越え、一つになろうと
しています。これほど、嬉しい事はない……』
新婦側主賓・当時の担任教師の祝辞が終わりかけ、当の本人は思わず涙ぐんでしまう一幕
があった。出席者達が、美也が苦笑いする。その隣で、やはり今もクールな性格は変わらな
い慧は、静かにポリポリと頬を掻いて気持ち視線を逸らしている。
新郎新婦、かくして双方主賓の祝辞が滞りなく終わった。
確かに一癖も二癖もある出会い、愛のエピソードではあるが、それでもこの場に招待され
た親族・職場関係・友人達は二人の事をよく知っているため、寧ろかつての初々しい二人を
懐かしんでは気持ちからかう、心温まる一時となって久しい。
『それでは皆さん、お手を拝借。このめでたき良き日が続きますよう──乾杯』
『乾杯~!』
されど、堅苦しい挨拶が一通り済めば、もうそんな気安い内心を隠す事もないだろう。
司会者の音頭と共に皆々がグラスを合わせ、料理が運ばれていくにつれ、慧・美也を含め
た皆の談笑には大いに花が咲いていった。
ちょっと奮発した、フレンチのフルコース。家族や友人、職場の同僚らがこれら美食に舌
鼓を打ち、ケーキ入刀する二人の周りには写真を撮るべく多くの者が集まり取り囲む。
「おめでとー、美也」
「しっかしあの危なっかしい交際がこうもゴールしちゃうとはねぇ……。妬けちゃうなあ」
「あはは……」
「ほらほら、羽角君もこっち向いて~? 愛しのハニーとツーショットツーショット」
「~~ッ」
わいわい。暫くして雑談も大きな峠を越し、新郎新婦席には美也の学友達がからかい半分
でそんな事を言いながらカメラ片手に集まっていた。
着慣れぬ白い礼服に身を包んだまま、慧の顔は真っ赤だ。それをまた、彼女達やかつて喧
嘩で遊び暮らした彼の旧友らがにやにやと見遣っては、互いに肩を組んで笑う。
「──」
だが、そんな時だったのである。
旧来の縁の下、再び集まり、束の間の宴に酔う彼らの下に一人また新たに青年が歩み寄っ
て来た。地味な黒い礼服に身を包み、髪は長めのばさつき。だからかその表情は妙に陰を作
ったようにして隠れている。
「あ、ああ。美也、こっち」
「う、うん……」
慧が美也を、今日から妻となる女性を抱き寄せる。キャー! と女性陣が黄色い声を上げ
ながら激しくシャッターを切っている。
「? 貴方は」
「……。お前、まさか」
その瞬間だった。ダンッ! 残り一メートルもない距離を駆け、青年は振りかぶった袖口
から抜き身のナイフを取り出し、慧の胸に飛び込んだのである。
会場が凍り付いた。美也が、慧本人が、見開いた目からその生気を失うが如く揺れる。
「い、いやぁぁぁぁぁーッ!!」
「とっ、取り押さえろ! 抜け、ナイフを抜け!」
「畜生! 馬鹿野郎! つーか誰だよ、てめぇはッ!?」
どうっ。テーブル越しに叩きつけられ、机上の装飾をぶちまけながら青年と慧は倒れた。
美也は突然の事に悲鳴を上げて取り乱し、女性陣も彼女を止めたり自身も狼狽したりと決
定的な行動が取れない。代わりに逸早く動いたのは、スタッフでもなくかつて彼と不良を演
じていた旧友達だけだった。
「……。四ツ谷、か」
彼らに青年──四ツ谷が羽交い絞めにされる。その見下ろす、憎しみの眼を虚ろな目で見
返しながら、当の慧は白い礼服の腹にじわじわと赤い染みを静かに広げていた。
「四ツ谷? 中学ん時のひょろひょろ野郎か!?」
「つーか呼んでねぇだろ、こいつは。俺達の側は基本、高校以降も一緒だった連中に限って
る筈だし……」
「離せっ! 離せぇッ!! お前は、お前だけは許さない! 絶対に……許さないッ!!」
三人・四人、数人掛かりで押さえ込む。
四ツ谷はもがいていた。逃れられぬと何処かで理解していようともその殺気を留める事は
決して無かった。
絨毯の上に慧の血で染まったナイフが転がっている。
まるで獣のようだ。場にいる者達の何人がそう思っただろう。
被害者だ。場にいる者達の一体何人が、彼がかつて慧ら不良達に“苛められていた”少年
だと思い出せていただろう。
「……お前らの所為で僕の人生は滅茶苦茶だ。もうまともには戻れない。なのに、何でお前
が先に結婚なんてしてるんだよ……? 何勝手に、幸せになろうとしてるんだよ……?」
美也が青褪め、今にも気絶しそうな中で友人達に支えられている。
慧はじっと赤が止まらぬ傷口を押さえ、虚ろに荒くなる息のままこの旧友を見ている。
「認めないぞ! 僕は認めないぞ! てめぇ、手前が丸くなる為に、一体どれだけの人間を
犠牲にしたと思ってるッ?!」
烙印は消えない。
どれだけ清算した心算でも。
(了)