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砂の鎖  作者: 籔田 枕
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『11月 6日(金)

 梓の彼氏がまた変わっていた。何人目だ?

 今日もみどり池にエサをやりに行っているらしい。

 まったく、今日はもう眠いので寝る。』


 学校帰り、歩は引手のドアを開ける手を止めた。自分の部屋から、官能的な甘い声が聞こえたからである。

「んっ……んん……あっ……」


「梓……可愛いよ梓……」


 歩は手を前に伸ばした恰好のまま硬直した。この先は修羅場である。またか――。歩はマフラーに顔をうずめる。そして今さら抜き足差し足で踵を返して、リビングのソファにどかりと身を投げて事情が終わるのを待った。文庫本を広げてみたが、眼が活字を上滑りするだけで、馬鹿々々しくなって閉じてしまった。それから制服のままウロウロと、冷蔵庫を開けてみたり、台所の小窓から隣家の様子を観察したり、またソファに寝てみたりと必死で暇を潰した。

 それもこれも全て、家の狭いが為に、兄妹きょうだいで同じ部屋を使っているからに他ならない。おまけにクローゼットも共用で、ことに「こういう日」は、着替えはおろか自室に侵入はいることも憚られる始末である。歩は今までに何度、親の下層階級を恨んだか知れない。小さい家は10年前から変わっていない。彼らの態度ばかりが大きくなった。

 それに引き換え梓は美しい。それは恋愛経験の浅い歩から見ても明らかだった。後ろに結わえられた髪は如何いかなる角度から見ても、所謂いわゆる「天使のリング」が現れ、吊られて上がった目尻のクールな印象を、小さい顔が打ち消している。光を吸い込む虚ろな瞳が華やかである。

 彼氏の声が前と違かったことも忘れてはならない。梓はおよそ2ヶ月周期でパートナーを替えるらしく、そのうち約一ヶ月程で身体からだを許す様だ。彼はおそらく3人目であろう。

 歩はつくづく実感する。SNSソーシャルネットワークサービスで繋がった彼らの、押しべて広く浅い人間関係を。2つ上の歩ですら、最近までガラケーも有り得たというのに、彼らにとっては「メール」などという手段は、さしずめペーパードライバーの免許証なのである。

 やがて梓たちは玄関から出ていった。談笑の中にも、いたしたあと特有の興奮と気恥ずかしさが彼氏の声に含まれていた。

 歩は部屋で着替えながら、2段ベッドの下段を見るともなく見ていた。そこには2人が揉み合ったらしい布団の跡と、かすかな甘い匂いだけがあった。

 ふと下を見ると、歩は自分の息子が力強く起き上がっているのに気が付いた。


(馬鹿な――。妹だぞ、何を考えているんだ)

 そう自分を諌めてから、愛おしげに掌で息子の頭を抑えた。それは頑なに角度を変えるだけだった。

 梓は夜にオナニーするのが昔からの日課である。

 家族が皆寝静まったであろう12時頃、歩は下段の梓がもそもそと動き出す気配を感じた。


(始まった――)


 体重が傾くとベッドが軋むので、細心の注意を払って亀の様に暗躍している。歩も体を強張らせつつ、電気毛布を強めに設定したことを後悔した。これでは暑くなりすぎる。しかし動けない。

 布団をける。ティッシュペーパーを取る。戻る。パジャマと下着を下ろす……。

 そこから聞こえてくる音は、マンガや官能小説に度々出てくる様な、大仰に誇張された雑音ではない。限りなく澄んだ、小さい泡たちが淑やかに割れる微音。


「……。……」

 くちゅ……。ぷちゅ……。ちゅ。

 歩は動悸の早くなるのを抑えきれない。電気毛布も相まって、何重にも重なった布団は容易には動かせず、蒸れて暑い。


「っ……。……」


「……ん……」


 歩は既に汗だくだった。意を決して、「寝返りを打つ」というていで布団から両足首を出した。11月の寒さが生き返ったと思える程換気できたが、布団が擦れ、代わりに猜疑心さいぎしんを持たれてしまった。沈黙の時間が続く。


「……」


 歩は罪の意識に苛まれる。人のマスターベーションを盗み聞くなど――。かと言って、毎夜誰かに捧げる恋の祈りを「やめてくれ」とは誰が言える? 想像の相手が歩であることはあり得ないというのに。仮に梓が歩に抱かれることを夢見ていたとしたら、今までのこの気まずい時間は全て無意味だったということで、これからは2人だけの蜜夜となるだろう。が、それはない。

 しかし、歩は一部始終を聞いている。「急にトイレに行きたくなった」などの名目で、頃合いを見て飛び起きれば、あられもない姿の梓と鉢合わせることはいくらでも可能だ。そして弱みを握るかの様に強く出て、蜜夜を強要することも、できようものである。


「……あっ……」


「……ふ……」

 ちゅ……くちゅ……。

 バドミントンをやっている梓の太ももは日に焼けずに程よく筋肉がつき、高い背も手伝って、長い脚をこれでもかと強調している。なおかつ練習着は冬だというのに短いものが多く、ストレッチをする時にはギリギリまで露出される。体育館の向こうで練習している男子運動部が目撃すれば息を呑むだろう。顧問の教師でもよこしまな考えが頭をよぎるだろう。そんな梓自らが股を開いて、花園に誘われでもしたら? 手の届く目の前にあるとしたら? ――理性を失わないわけがない。

 歩はいつの間にかズボンを下ろしていた。そして張り詰めた股間に手を這わせる。罪を、人として踏み込んではならない領域に飛びる前に、おのれを慰める。こうして毎回乗り切ってきたのだ。暗闇の中に、詩織の姿が浮かび上がる。馬乗りになって、よがり喘ぐ姿。……そういえば、今日で本当は4ヶ月だったな――。


「……あっ……」


「……っん……。……」


 歩は果てた。直後に激しい自己嫌悪と言い様のない虚無感に襲われた。上昇する体温とは反比例する如く、冷たい体液は腹の上で行き場なく蠢いていた。

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