第二幕 出発
【変更点】
宿について、話のつながりがおかしかったのを修正
結局、戻ってきた八雲が冬夜の気絶を確認すると、黒い糸のようなもので冬夜と熊の身を上手に包むと自分の家に持ち帰った。
そこは家と言うよりも風雨をしのぐ場所という方が正しく、うろのある大樹がいくつか近接している場所を「家」と称しているようだった。
小さめのうろは倉庫に、大きいうろは住処に。
それぞれに木窓が取り付けられ、風雨をしのげる様になっている。
冬夜はうろの中で目を覚ました。体中には麻布で作られた包帯が巻かれていた。
うろの中は、木の匂いと同時に、かすかに甘い匂いがした。どこかで覚えがあると思ったら八雲に抱かれるように体を支えてもらったときだ。
冬夜が起きたことを察知した八雲は、傷も癒えていない冬夜をさっさと引きずり出すと、熊鍋の準備ができた簡易的な囲炉裏の側の席へ座らせた。
周りを見渡すと、崖はそんなに遠くない。本当にたまたま八雲の住んでいるところの近くに落下したようだった。
崖の上では、明るい場所が点々とあり、うごめいている。
ぐつぐつと煮えている鍋に入っている熊は、相当危険だと判断されたようだ。
確かに、自分のいた伍は全滅だっただろう。
冬夜は八雲に取り分けてもらった椀を、礼を言って受け取った。
「うまく人払いはしてあるから、崖を落ちようなんていう馬鹿以外はこっちには気づかないわよ」
なぜこんな近くに人がいる環境で暮らしながら人と出会わないのだろうか、と疑問に思っていたのを察したのか、八雲が言った。
霊術のことはよく解らないが、八雲はすました様子で汁をすすっている。
「色んなことができるものなんだな。俺は既製品の術具を使っても全く使えないから、どういう原理かさっぱりだ」
意外と熊肉は美味しいんだな、と考えながら、冬夜は話題を出してみた。
「術具?」
冬夜の言葉に、八雲は首を少しかしげて尋ねた。
背が冬夜より随分低いせいで、上目遣いに見える。
冬夜は少しどきまぎしながら答えた。
「ほら、それを使えば大抵の人間は霊術を使えるようになるっていう道具さ。知らないのか?」
術具が広まる前は、基本原理が解明されてきたものの、この国、皇国の人間でさえ霊術を使えない人間は多かった。
それが術具が発明されてからこっち、霊術が使えない人間は圧倒的少数派だ。外国でもほんの一部は霊術が使えるようになったという。
しかし、術具が登場したのはそう近い話ではない。術者の八雲が全く知らないのは不思議に思えた。
「さあ、あたしが市井にいた頃は見かけなかったわ。でも、そうねぇ」
八雲は視線を宙をさまよわせると、冬夜の方に向き直った。
「そのような、杖を振るだけで、はいできました、っていう代物だとしたら、それは随分非効率的なやり方よ。『なるべく多くの人が使えるようにする』っていうのと『誰でも使える』には大きな差があるわ」
小さめに細切れにされている熊の肉を鍋から取りながら、八雲は言った。
「あなたが今、二本足で立てるように。あなたがあたしと言葉を持って気持ちを伝え合えるように。コツをつかめば、御霊はあたしたちに力を貸してくれるわ。……、」
八雲は言葉を続けようとして、口をつぐんだ。
それに対して冬夜は気にはなったが、無理して聞き出す必要もないだろうと考えた。
そもそも、まだ出会って半日も経っていない。
「じゃあ、そのコツとやらをつかめば、俺も使えるようになるのか」
「そもそも霊術にも色々あるし、それぞれに向き不向きもあるわ。あたしだって文献や現在使用されている霊術を全て使える訳じゃない。中には、おとぎ話のような壮大なものまであるわよ」
「おとぎ話?」
「とある島の大半が削れたとか。更に規模の大きい話もいくつか」
「大げさじゃないんなら、とんでもない話だな」
「あたしでもそう思うのだから、あなたからすればそれはもうとんでもない話ね」
隠遁生活を送っていたはずの彼女は、意外と饒舌だった。
冬夜は会って間もない彼女との会話を楽しんでいた。
それは、社会からつまはじかれた様な生活を送っていた中で、それに縛られず会話できているからか、それとも八雲が器量の良い少女だからか、判断しかねていた。
酒を飲んでいる訳でもないのに若干浮ついた様な雰囲気の中で、照れ隠しのように椀で顔を隠して汁を一気に飲み、鍋から肉を多めに取った。
相変わらず体は動かす度に激痛が走っていたが、さほど気にならなかった。
一夜明けた後、八雲が「まだ山狩りするみたいよ。さっさと終わらせてあげたら」と言い出したので、冬夜は道を教えてもらい、一旦村に行って精算してきた。
冬夜は歓声と共に迎えられ、時間に応じての人足代と、仕留めた報償金を得た。
村に預けてあった荷物を持って村を出ると、同じ道を通って八雲の住む家に戻る。
その道は、往きは全く気にならなかったものの、帰りは何度も道を間違えそうになった。何となく、「こっちじゃない」という方向が正しい道なのだ。
昨日八雲が「人払い」と言っていたのはこれだったのかと実感しつつ、往きよりかなり時間をかけて八雲の家にたどり着いた。
「あなたが戻ってきてくれて良かったわ」
当の八雲はしれっとそんなことを言うと、木製の器に入れた白湯を口に運んだ。
囲炉裏では、昨日食べきれなかった分の熊肉が煙で燻され、干し肉になりつつあった。
底と上辺を削って腰掛けにしてある丸太の隣を勧められるままに座ると、白湯を自分にも分けてくれた。
「それなら、俺が戻ってくる頃を見計らって人払いとやらを解いてくれれば良かったじゃないか」
「丸石を緩く長く転がすには、緩い坂でなければならないわ。転がすにも、止めるにも、それなりの時間が要るものなの」
「なんか解るような解らないような。どうにでも当てはまることをもっともらしく言っているように聞こえるんだが」
冬夜の言葉に反応したのか、それとも経験の上の勘なのか、八雲はおもむろに小さめの薪を囲炉裏に放り込む。
いきなり荒らされたたき火は大きく灰をまき散らしながら、新たな餌を糧に炎を大きくしていた。
「ま、なんにせよ、今まで通りの生活なら一冬越せるくらいの利益だった。やはり相当な被害が出てたらしくてな、やられた分の人足代も報償に入ってた」
「あたしとしては、あなたが落ちてきてくれて助かったわ。あんな大きい熊が手に入っただけでなく、臓物に人が入ってることを確認しなくて済んだし」
おそらく熊が実際に手を付けたのは何人もなく、ほとんどは巣の近くに埋められているのだろうが、それを口にするのははばかれた。
「二人で旅をしながら、とすると、向かう方角にも拠るが、一月半保つか保たないか、だろうな」
「一冬越せるなら半分でももう少しあるでしょう」
「お前の旅装も整えなきゃいけないし、それに毎度宿をとって風呂にも入る必要があるだろう。俺一人の場合は所々野宿だし、滅多に風呂に入らずとも問題なかったんだがな」
「あたしの感覚がまだ有効なら、宿代より飯代の方が随分かかると記憶してるけれど」
「そんな宿なら雑魚寝だろう。娘が泊まるもんじゃないな、夜這いが後を絶たないだろう」
「他人の前でこの力を使うのもいかないし、そうねぇ」
「なにか問題なのか? ただの霊術じゃないのか」
「霊術にも色々あるのよ。特に、あたしの黒い力は本来人に見せるべきものじゃないの」
八雲がはあっとため息をつくと、白い息が漏れ出た。
冬夜が荷物の中から寒さしのぎのための毛布を取り出して八雲にかけてやると、にこりと笑った。
「もし俺がそれを知っていて、村に行った際に通報してたらどうなってたんだ」
「あなたはそんなことしないわ」
何故そんなことを言い切れる、と冬夜は言いかけたが、考えるのをやめた。
八雲は何故か冬夜を信用しているようだが、対する冬夜は何も知らない。
あれも秘密、これもひみつ。
いずれ伝えるつもりなのか、それともこれからも伝えるつもりはないのか。
命を救われた体の冬夜としてはそれに意義を唱えるのも違う気がするし、何しろずっと人を避けていたのなら、その原因もあるだろう。
昨日の今日だ、何を伝えても良いものなのか、判断がつかないものも多いのだろう。
「まあ、こちらとしては色々思うところはあるが、その場に必要な説明はしてくれるだろうと思っている。話す気になったら教えてくれ」
冬夜がそう言うと、八雲は暫く冬夜の方を見つめていたが、納得のいったように無言でうなずいた。
「ええ。あたしがいなければ、あたしが隠していることについて聞く理由もなかったでしょうからね」
八雲の言葉にはてなが浮かんだが、皮肉を言われていることに気づいて苦笑いを抑えられなかった。
「もう慣れたとは何度も思い込もうとしていたが、やはり霊術が使えないのは不便だな」
「あたしが記憶している限りでは、霊術が利用されているのはこの国だけだったはずだけど」
八雲が記憶をたどるように、冬夜から目線を外して言う。
「霊術の仕組み自体は海の向こうでもあちらなりに解明され始めているそうだ。術具が広まり始めたのもそれくらいの頃からだ。こちらの霊術と向こうの科学、どちらも最先端を行っている相手側の技術を物欲しげににらみ合っている状態らしい」
冬夜が説明すると、八雲は耳を傾けて目をつむる。おそらく、自分の記憶と照らし合わせて納得しようとしているらしい。
「しかし、こんなのは術者じゃない俺でも知っているような話だ。術者のお前が、なんでこんなことも知らないんだ?」
「……ずっと人里へ下りていなかった、というのもあるけれど。その術具とやらを使わないと霊術を使えない人間も術者と呼ぶのなら、その程度のことは全ての術者が知らなければならない事項ではないわ。術具とやらをあたしがあたしなりに改造して、更に様々なことができるようになったとして、それだけの力を弄ぶ理由があるのかしら」
霊術が少しでも使えたらどんなに良いことか、と常々思っている冬夜からすれば、八雲の言葉は全く価値観の異なるものだった。
「何にせよ、力というのは。持たない人は望むけれど、勝手に持たされる人はそれから逃れたいと思うものよ」
冬夜を思い遣った様な言葉を八雲は付け加え、ぬるくなり始めた手元の器に、囲炉裏から良い頃合いに離した鉄瓶から白湯をつぎ足した。
「俺には色々疑問があるが、一番不可解なことを一つだけ訊いてもいいか?」
「……なに?」
静かに冬夜に目を向け、八雲は静かに言葉を返す。
「お前はここで人を遠ざけて生きていると言ったな。それは、具体的にどれくらいの年月なんだ?」
女性の歳を訊くのか、とかわされるかと思ったが、八雲は冬夜に向けていた目を閉じた。
八雲の手が、ゆるゆると器に入った白湯を弄ぶ。ところどころぎこちないのは、ああしようか、それともこうしようかと悩んでいるからだろう。
八雲は何度目かの深呼吸のあと、静かに目を開けた。
「こういうことでずっとあれこれ悩んでいるから、こんなに時間だけが経っていくんでしょうね」
冬夜の方は見ず、八雲は独り言のように呟いた。
「あたしは生まれた年も知らないまま故郷を逃げ出し、寒さや孤独に何度も泣きながら、人里へ下りて衣服を調達し、思い出した頃に人と交流し、また諦めて人里を離れて、という生活を送ってきたわ。どれくらいの月日が経ったのかはあたしにも判らない。ただ、そんな生活の果てにこの地にたどり着いたとき、まだ若木だったものは今や私のねぐらと化している。あなたの寝ていた場所よ」
冬夜は思わず振り返る。
人が一人と半分入れるようなうろを持つ大樹。雷が落ちたのか、上の方に枝葉はない。
これが育つだけの時間、ここに?
「……それが、力ってやつなのか?」
「名がないのもそう。本当は、生まれた当初はあったのかもしれないけれど」
「世の中はままならないものなんだな」
人と交流してまた離れたというのは、おそらく力に気づかれたか、物理的にいなくなってしまったか。
「だから、あなたが戻ってきてくれて良かったわ」
八雲は冬夜の目を見て、にこりと笑った。
その目に耐えきれなくなった冬夜は、思わず八雲から目を離し、手に持った湯冷ましを飲み干した。
顔を器で隠しても、八雲はずっと笑っていた。
「前に拾ってきたことのある物はそっちのうろに入ってるんだけど、どれが旅に必要なものかは今ひとつ解っていないのよね」
拾ってきたと八雲はしれっと言ったが、おそらく人里で盗んできたんだろう。
紹介されたうろの中には、ここで生活するには便利な道具が一通りそろっていた。
だが、それが旅に十分なものかは別だ。
「旅の経験はあるんだろう?」
「闇に紛れて灯を避けて移動することが旅と呼ぶなら」
想像してみるだけで怖い。
やはり、人間は闇を恐れている方が自然だ。
「草鞋は村で手に入るし、裾は……霊術で泥を払えるか落とせるかできれば、この服でいいな」
拾ってきたと主張されているものの中に、八雲が今着ているものよりましな服があったので、それを引っ張り出した。藍染めの、特に柄もない目立たない服だ。金に余裕がない旅人が着ていてもおかしくないような絶妙な代物だった。
荷物を持ち運ぶ行李などもあった。
「しっかし、言うだけあって、時代がばらばらだな」
十年一昔というが、この倉庫の中には何十昔分の代物が入っているのだ。
ちゃんと手入れをしている跡があり、小さな博物館と化していた。
「そこに入ってるのは特に思い入れがある訳じゃないから、今更なくそうと一向にかまわないわ」
持ち主の了解を得たので、最低限の旅に必要な道具だけ取り出して、倉庫の木窓を閉じた。
「よし、じゃあそれに着替えたら行くか。それまでは俺の予備の草鞋を使えばいい。塗笠なんかも、置いてあれば買った方が良いか」
「笠? 日差しも雨も苦にならないけれど」
「一応顔を隠しておくに越したことはないだろう? お前がここにどうやってたどり着いたかにも拠るが」
「……ちょっと思い出せないわ」
「じゃあ念のため、だな」
その言葉を最後に、八雲の元住居を後にした。
八雲は、遠く小さくなっていくその跡を、一度も振り返らなかった。
そのまま、今朝寄ったばかりの村で、新しい草鞋と塗笠を買った。昔の様に土の道ばかりではなく、石を敷き詰めた道もある。そうすると、草鞋はとても速く消費してしまう。
何故塗笠を所望するのかと草鞋と塗笠を持つ農家の男性は思ったが、冬夜の後ろに立つ八雲を見て合点がいったようだった。
「別嬪さんを連れながらなぜあんな危険な熊狩りに? それとも、山の中で化かされましたか?」
「連れを褒められるとどうしても得意げになってしまいますが、その代償は大きいです」
暗に出費が多い、と言っているのを理解すると、男性は同情するように笑った。
「じゃ、道中お気を付けて」
「またご縁があれば」
会釈して農家を出ると、笠を八雲に渡した。
八雲が笠を着けたのを確認して、歩き出す。
「さて、次の町でも何らかの仕事にありつきたいものだ」
「あたしの案内も忘れないで欲しいわ」
「金に余裕があればな」
ぴしゃりと要求をはねつけるが、八雲は後をついてくる。
どういう理屈かは解らないが、冬夜は八雲に選ばれた。別に恫喝された訳じゃなく、命を助けたことをだしに使ったわけでもない、ただの旅の道連れとして頼まれた。
ならば冬夜は対等に接するだけだし、八雲もそれを望んでいるだろう。
冬夜は八雲に歩調を合わせながら、日の昇った道を歩き出した。