第一幕 冬夜と八雲
まずは二人の邂逅まで。
ファンタジーを書くときいつも思いますが、舞台設定の説明って文面の都合上、自然に入れるのが難しいですよね。
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多少体裁を変えましたが、大筋の話は変わってません。
まだ昼間だというのに、やたら暗く感じる。
それはここが森の中だからか、もう冬に入り日が短くなっているからか。それとも、今にもそこかしこの藪から何かが飛び出してきそうだからか、あるいはその全てか。
別に好きこのんで鬱蒼とした森の中に足を踏み入れた訳ではない。とある事件があったため、山狩りに参加しているのだ。
姓は望月、名は冬夜。孤児だった彼にとっては、産みの親の付けた名が残っているだけ救いはあったが、今このときは何の守りにもならなかった。
孤児院代わりの家から独立して十年ほど、二十歳も過ぎたが定職には就けず、日雇いの仕事を探して西へ東へ旅暮らしの毎日だった。
今回の仕事は討伐。冬眠に失敗したと思われる熊が森に入った狩人幾人かを襲ったらしい。
本来、この仕事に付けるほどの能力は冬夜にはない。選ばず、様々な仕事をしてきた冬夜は体力や膂力、器用さや飲み込みの早さは密かな自慢だったが、本来であれば警察や専門の術士の仕事だ。
冬夜がこの仕事にありつけたのは、たまたま頃合い良く当事者の村に立ち寄ったことと、連日の天気の悪さで道が悪く、警察の応援が来るまで時間がかかりそうなことが重なったからだった。
冬に入るために、暫く西に向かいながら町暮らしをしようとしていたため、食費を節約していた冬夜は、討ち取れば大きな報償がもらえるこの仕事に一も二もなく飛びついた。
「腹ぺこの熊を腹ぺこの人間が追う、ってか。世の中は狭い」
伍を組んでいる他人に気づかれない程度に独りごちる。
初歩の霊術も使えない人間は伍の中では冬夜だけで、冬夜が一番前に出て他が援護する形を取っていた。という方便だが、要は熊にとっての餌代わりである。
実際出くわしたときの対応を考えてみる。
真っ正面から出くわしたら、自分は何をどうやっても頭からがぶり、だろう。
横や後ろから来るなら伍の仲間がどうにかやってくれるだろうし、どういう場合にしろ、特に自分の仕事はなさそうだった。
と、気づけばがぶり、というのも勘弁願いたいところだったので、気を取り直して、手に持った槍を持ち直す。
伍の中でも立場の低い自分は、細くて頼りなさそうな槍を持たされていた。
果たして、こんなもので熊の毛皮を貫けるのだろうか。
どのように想像しても、火興しに使う小枝の様に折られる未来しか見えない。
ふと槍の穂先に目をやると、かすかに震えているのが判る。
こんな槍を扱えずにふらふらさせるほど、柔な体をしているつもりはない。
空腹か、さもなくば武者震いか、あるいは寒いからか。
恐怖でないことにはしたかった。
山狩りは幾つかの伍が平行に進むことで、熊を逃がさないようにしている。
どこかで騒ぎが起これば伝わる程度の距離。
未だに周りが騒がしくないということは、まだ熊は出てきていないということだ。
しんと静まりかえった森で、自分や仲間の足音、衣擦れにも気が向いてしまうほど集中した中。
ちり。
ちり。
ちり。
何かの音がする、と思ったのは一瞬だった。
冬とはいえ、今日は雪が降っているわけではない。音がない方がおかしい。
自分の何かが、危険だと訴えていた。森の中で捕食者の立場に立つ者が、獲物に感づかれるような動きをするはずがない。
冬夜の様子の変化の所為かは判らないが、伍の他の人間も、少しずつ、違和感に気づき始めた。
それは言葉にしなくとも、姿を確認しなくとも、気配で分かる。
緊張。
怯え。
集中。
それがお互いに伝播する度、互いに強められていく。
酔ったような、くらくらした感覚。
地面が揺らいでいるような、足下が覚束ない感覚。
相手警戒し疲れたところを狙っていると判っていても、やめられない。
完全に手玉に取られている。
冬夜は深呼吸を一往復半、肺に溜めた空気を一気に吐き出した。
「動け!」
びくっと体を震わせる伍の仲間。
それとは別に、今までどこにあったのかというほどの大きな気配を右後方に感じた。
こちらに走ってきている熊は、四つん這いでも自分より大きい。
こんな大きさの熊って、もっと北の方に棲んでるものじゃなかったか?
冬夜が思わずそんなことを考えている内に、熊は、伍の一人を踏みつぶし、もう一人を前足で雑に払いのけた。
一瞬にして、完全に場を恐怖で掌握された。
霊術が得意だと言っていた者は血の池に浸り、同じように豪語していた者は腰が抜けて術を組む様子はない。
熊が出ればその騒ぎで他の伍に伝わる、とは誰の言だったか。
音は、熊の動く音だけだった。
誰の口からも声など出ず、浅い呼吸と引きつった言葉にならない言葉だけだ。
この状況の中で、幸か不幸か、冬夜は熊から一番遠い位置にいた。
しかし、熊は逃げる者を優先すると聞いたことがある。最初に動けば、位置など関係なく餌食だろう。
今まで身分が違うと思っていた術者でさえ、あっさりと踏みにじられた。まして自分をや。
結局、それは体の強い弱いと大差なかったのだ。
助かる方法を考える。
右の方から来た、ということは右側の伍が無事かどうかは不明だ。何せ、今、この伍で騒ぎと言うほどの音は、たった今発した自分の叫び声だけだ。
右側からも左側からも、助けに来てくれそうな音は全く聞こえない。
しかし、自分が左右どちらに逃げれば助かる可能性があるかと考えると、左だろう、と冬夜は結論づけた。
熊が左右同時に全滅させていないなら、まだ可能性としては左だ。
方針を固めた冬夜は、実行に移す機会を伺う。
もうこの伍は体を成していない。別段仲間意識がある訳でもなく、そもそも相手は自分を餌に使おうとしていた人間だ。
自分の心根が冷え切っているとは思っていないが、人間できることとできないことがある。
なにせ、冬夜は「持たざる者」なのだから。
熊の視線と冬夜の間に伍の「仲間だった」者を置くように動くと、熊が動いた瞬間を狙って今まで進んでいた方角の垂直方向に飛び出した。
熊が自分に狙いを定めれば、十数秒の内に殺傷圏内に入るだろう。冬夜はそれに対して肉体を超人的に強化することも、細い槍以外に脅威となる武器を作り出せる訳ではない。
冬夜は木を避け枝を払い、逃げることだけを考え必死に走った。
だから、その事実に気づくのが、数瞬遅れた。
「が、」
け、という頃には、冬夜は崖への入り口を、かかとで踏んでいた。
踏み固められている訳でもなく、むしろ先日の雨で土砂崩れを起こした後の様な崖の縁は、勢いのついた冬夜の体を支える様にはできていなかった。
「……っ」
眼下に見える木が、小石の様な大きさに見える。
ずるっと冬夜の足が前へ進み、その体は宙に放り出された。
寒い夜の、囲炉裏の火。
夕飯も終わり、皆が布団に入り、部屋から熱が引いていく。
熾っている炭火が暖かさの頼りになっている部屋で、自分が何事かをつぶやく。
「……」
優しい言葉を返される。
あの頃は、食うのも生きるのも当たり前だった。
暖かくて、お腹いっぱいで、沈むように眠るのだ。
「……うぐ」
これは夢だ、と無理やり意識を現実に引き戻す。
土の上に転がっている状態で、冬夜は目を覚ました。
辺りを見回すと、周囲の半分は崖、その反対は森の先に大きな山が見えた。
「いわゆる盆地ってやつか。その割にはやたら局地的な気もするが」
もう一度、自分が落ちてきただろう崖を見た。
崖の底は、滑り台の様に丸みを帯びていた。
あのとき冬夜は、とっさに、槍を崖には突き立てず、落下の勢いを削ぐために押しつけるように使った。
突き立てたところで自分の体重は支えてくれそうになかった槍は、使い方を変えても予測より減速しないわ、どんどん削れ散っていくわで、自分が何かを叫んでいた気がしたが、思い出せなかった。
結果的には死なない程度に転げ落ちた挙げ句、奇跡的に木に激突せずに減速したのが命運だと理解した。
普通の崖の底ならそこで終わり、木に叩き付けられても終わり。
しかし、重傷には変わりなかった。
あんな昔の夢を見たのも、単純な寒さではなく、血を失いすぎて体温が下がったからだろう。
手甲や脚絆に革を仕込んでいたのが幸いしたのか、手先とすねにはすぐ力が入る。
全体的に傷だらけだが、主要な血管を傷つけた訳でもなさそうだ。
それ以外も、骨にひびは入っているかも知れないが完全に折れている訳ではなさそうだった。
「あのまま夢の中で眠りに就いたらやばかったかもな。しかし、俺の悪運も相当なもんだ」
全身痛みばかりで動くのも億劫だったが、まだ助かった訳じゃない。
改めて見ると、周りが全て壁に囲まれた箱庭の様だった。
こんな土地は、様々な土地を転々としてきた冬夜も見たことはなかった。
海を越えた向こうには光と同じくらいの速さで声や手紙を届けられる技術があるような世界で、こうして人の手つかずの場所もまだ沢山あるというのは、不思議な気分だった。
自分が助けを求めようとした伍は、おそらくこの崖で行き止まりと判断しただろう。
つまり、救助は期待できない。
ここが人工的に作られた様な土地ではないなら、全てが断崖絶壁ということもあるまい。おそらく、冬夜が降りてきた道よりは安全な道で、先ほどの熊は追跡してくるだろう。
わざわざ生きている獲物を捕まえるより、既に動かない肉を拾った方が好都合だ。
そもそも、そんな安全な道を探さないと、自分も助からない。
いきなり森の奥深くに放り出されて自給自足、なんてできるはずがない。
この世、というよりこの国で特にちっぽけな存在だと自身を認めてはいるが、だからといって、はいそうですかと野垂れ死んでやるほど悲観的でもなかった。
痛む体を叱咤して、膝に手をかけ、立ち上がろうとしたそのときだった。
「……どうせ死体だろうから、せめて葬ってあげようとしたけれど」
冬夜は、息を呑んだ。
それは、声をかけられるまで気配を感じていなかったということもある。
それ以上に、熊に狩られかけ、鬱蒼とした森の中でさ迷っている状況の中に似つかわしくない、声だった。
「……それとも読み物の豪傑のように、立ったまま往生したかしら」
透き通った、すぐに少女のものだと判る声。
冬夜が声の方へ見やると、夕焼け色に染まる空を背景に、自分より頭一つ以上は下の背丈の少女が立っていた。
歳の頃は十代半ばから二十手前だろうか。
腰くらいまで伸びたみどりの黒髪を何カ所か適当に麻紐でくくっている。まとまりきれていない細い髪が、夕焼けを受けてきらきら光っていた。
姿を特に繕っている訳ではないようで、裾のすり切れた上に若干丈の短い着物を着ているが、それでも顔立ちは良く、佇まいは貴種のような雰囲気を漂わせていた。
「……」
自分はまた夢を見ているのだろうか、それとも死出の旅路に就いているのだろうか。
冬夜は、少女に向き直ったまま、固まっていた。
対する少女も、表情のない顔のまま、じっと佇んでいた。
「それとも、今死体にしてしまった方が」
「いやまて、それはどういう理屈だ」
下手すると十も下の娘に慌てた様子を見せてしまい、冬夜は少し後悔する。
そんな様子の冬夜に対して、あくまで少女は無表情だった。
「今俺が夢を見てる訳じゃないなら、この近くに村があるのか」
「いえ、ないわ。ここ見渡す限りは、あたし一人よ」
「……」
冬夜はどういう意味かを思案してみるが、納得のいく理由が見当たらない。
すると、少女は首を横に振った。
「あたしは静かに過ごしていたいのよ。人を見たのも本当に久しぶり」
少女は無表情のまま答える。
彼女の言葉をそのまま受け取れば、久々に人と会話して、どんな表情で会話するかを忘れているのかもしれない。
「俺は、熊狩り中に誤って崖から転落したんだ。君にどんな理由があってここにいるかは知らないし、詮索をする気もない。君が望むなら君がいたことも誰にも言わない。ただ、ここから人里へ戻る道を知っているなら教えて欲しい」
彼女は暫く冬夜のことを見つめていたが、突然興味を無くしたように目を背けた。
「熊ねぇ……確かに最近、希な巨躯の熊が近くに縄張りを持っていたけれど……それが悪さをしたのかしら」
「あ、ああ。どうやら、この近くの村の狩人が熊に襲われて、何人も帰ってこなかったらしい。俺も目の当たりにしたが、息を呑むほどの大きさだった」
「人とて自然の輪の中にいるに過ぎない。みだりに他者の縄張りを荒らして、火傷をしたから消しにかかるなんて、滑稽ねぇ」
人が食われたことも熊の恐ろしさも、さも些事のように一蹴すると、彼女はため息をついた。
「人も熊も同じ自然の輪の中にいるなら、人が熊を駆逐するのもまた自然の流れだろう」
「じゃあ、あなたが此処で朽ちるのも自然の流れね」
うっ、と言葉に詰まると、彼女は初めて少し笑った。
この場所から、まだ日のあるほんのわずかの時間に村へ戻るか、それとも安全な場所を作って生き延びてから村に帰るか。
どちらも絶望的なことは、例え当事者の冬夜でも理解せざるを得なかった。
「んー、まあ、その、あれだ。君と出会っていなければ、多分絶望していただろう」
「熊から逃げる狼に助けろと請われても、どう返事をするかは判るでしょう」
冬夜からすれば謎の薬の材料にされる可能性を考えないようにして魔女に頼んでいるつもりだったのだが、彼女は助けるつもりはさほどないらしい。
「そんなに怖がらないで。そう怯えられると悲しいわ」
冬夜は釘を刺された様に体を硬直させたが、同時に疑問も抱いた。
普通、このときは「がっかりしないで」とか「怒らないで」という場面じゃないのか、と。
立ち上がろうとしたまま固まっていた冬夜の体は、力尽きたらしく、一旦跪く。
「ああ、悪い、ちょっと体が思い通りに動かなくて」
跪いたことに対する詫びを言うと、彼女が歩み寄り、同じく跪いて冬夜の顔に手をやった。
「正直な人は嫌いじゃないわ。それに、力自慢の無能でもなさそうだし」
彼女に触れられたところが一瞬冷たく、そして温かくなる。
人と言うのは不思議なもので、その温かさにふっと力が抜ける。
「あなたは本当に可愛い子ねぇ」
まるで幼子を相手にしているような口調だったが、不思議と反論できないのが悔しい。
気づけば、出会ったばかりの彼女に抱かれる形になってしまっていた。
特有の甘い匂いに包まれている中、耳元で彼女は言った。
「ほら、あなたは熊を倒すんでしょう?」
その瞬間、全身に力が入る。
一回力を抜いたからか、妙に頭が冴え、手足にも力が入った。
痛いものは痛いが、何故か動ける。
「とはいえ、武器はこんなものだけどな」
柄のほとんどが砕け散り、短刀と言える程度のものになった武器を握り直す。
今度は逃げる、という選択肢が取れない。
例え死ぬと判っていても、男の沽券に関わる。
冬夜が立ち上がるのと、熊が木々の間からのそりと現れるのはほぼ同時だった。
「君がどうやってこの森で生き抜いているかは知らないが、少なくとも逃げることはできるんだろう。早く行くといい」
槍を腰だめに構えて冬夜は言った。
「この状況で人の心配なのね。それはあなたが男だからかしら、それとも人として」
彼女は、すたすたと冬夜の前に出ると、振り向いて「あなたの正直さは好みだし、あたしのことを秘密にしてくれると言ったから」と言った。
冬夜は、彼女の髪が突如伸びた様に見えた。
それは周囲の地面に張り巡らされ、冬夜も、巨大な熊もその黒い糸の領域に飲み込まれていた。
「弱肉強食は自然の輪。あなたがどれだけ弱らせたとしても、あたしの縄張りに入った獲物はあたしのものよ」
細く、艶やかな髪が歩く度に揺れる。
足下の糸が「黒い光」だと気づくまでに、冬夜は時間を要した。
霊術の行使に伴い、様々な色の光が見られるという。
冬夜は、霊術自体を全く見たことがないわけではなかったが、こんなに真っ黒の、光と呼べるのか判らないものを見たのは初めてだった。
「あなたは今日の晩ご飯。さようなら。あなたの命は美味しく頂くわ」
その瞬間、足下を張っていた黒い光の糸が熊に纏わり付く。
熊が抵抗しようとするが、体を動かせないようだった。
近くの大きな木に黒い光の糸が走ったかと思うと、あっという間に熊が逆さに宙吊りになった。
熊が鳴き声を上げるのも待たずに、黒い光の糸はその首を落とし、臓物を引きずり出し、毛皮を剥いだ。
「血抜きもこれで放っておけば良いわね。臓物は、人が入っているみたいだし特にいらないか。毛皮はそのまま精製して毛布かな。首は……あなたにあげるわ」
気づけば冬夜が握っていたはずの槍がなく、熊の首元辺りに刺さっていた。
熊の体は既に先ほどの原型を留めておらず、麻の縄で大きな木の枝にぶら下がっていた。
大の大人が束になってかかっても逆に食らい尽くしていた熊を、あっさり解体していく少女に、冬夜は呆然としていた。
確かに、この地、いやこの国ではそれが成立しうる。
霊術と呼ばれる、外の国では物理法則と呼ばれるものを改変する技術。
あり得るが、あまりにも強大すぎる。
門外漢だから詳しくは知らないが、霊術を行使するにも幾ばくかの手順が必要だったと記憶している。
しかし、目の前の少女はその素振りも見せず、圧倒的な力で熊をねじ伏せた。
黒い光といい、自分の目には異常なことにしか見えなかった。
冬夜は色々腑に落ちないことがあったが、まずすべきことがあった。
「……ありがとう。俺は君に命を助けられた。今は何もできないが、礼は後日必ずする」
冬夜の言葉に、少女はきょとんと冬夜の方を見つめていた。
「あと、」と冬夜は続ける。
「君の名前を教えて欲しい。恩人の名前は覚えておきたい」
暫くの沈黙。
少女は暫く冬夜の発言の意図を量っていたようだったが、何か合点がいったようで、くすっと笑った。
その姿を見る限り、年相応の、ただの少女にしか見えない。
「いきなり出会った女性の名前を知りたいだなんて、意外にやり手なのかしら」
「え、いや、そんなつもりは。確かにいきなり聞いたのは失礼だったかもしれないが、大昔じゃあるまいし、名を知られて困ることもないだろう?」
「あたしがもし裏舞台で有名だったりしたら、どうするのかしら」
「……」
それが本当かもしれないと思わせるだけの力を実際に見ている以上、冬夜には二の句が継げなかった。
冬夜が答えあぐねていると、彼女は「ごめんなさいね」と長い黒髪を揺らして笑う。
「あたしに名前はないわ。有ってもその場限りの適当なものだけ」
「名前がない?」
冬夜が返すと、少しだけ複雑な表情を見せた後、彼女は苦笑いをして誤魔化した。
「女には色々秘密があるものだし、あったほうが魅力的でしょう」
「そんなことを言うほどの歳には見えないが。そもそも君は俺より年下だろう」
「世の中には秘密が一杯あるものよ」
「秘密ばっかりだと魅力的じゃなくて不気味に見えるんだがな」
話をしていく内に、冬夜は気づいたことがあった。
彼女はこの地で長い間人に会わず暮らしてきたというが、冬夜と会話することをさほど嫌がっていないように見える。
その理由は冬夜には皆目検討がつかなかったが、全部「ひみつ」と返すことで煙に巻いているだけかもしれない。
「……ああもう、判った。じゃあ俺が君に名前をつけて、それを俺はずっと覚えておこう」
自分が言い出した手前、折れたくはなかったし、相手は答えてくれそうになかったので、折衷案を出してみた。
すると、彼女は予想外とばかりに目を丸くして一瞬固まった。
固まってしまったことをばつが悪そうに目をそらし、「そう言われたのはさすがに初めてだわ」とつぶやいた。
自分が言ってしまった手前、冬夜はどんな名前が良いか思案する。
「名字は……望月でいいか。名前は……」
「望月?」
「ああ、俺の名字」
「……」
何を言っているんだこいつは、という様な目で彼女はこちらを睨んできた。
「……本当に何の気なしにそう答えてるのだから、性質が悪いわね」
「それで、名前は」
「はいはい、わかったわ」
何かをひらめいた様子の冬夜を手で制し、呆れ顔で彼女は言った。
「勝手に名付けられたんじゃたまったものじゃないわ。そうね、望月なら、八雲でどうかしら」
彼女……八雲の皮肉めいた言葉に、冬夜はしたり顔でうなずいた。
「分かった。八雲の名前はずっと覚えておく」
冬夜は素直な笑顔でそう言った。
八雲には不思議な点がいくつもあったが、彼女は人と接点を持ちたくないようだったし、別れてしまえば疑問もどうでもよくなる。
助けてもらった、という事実だけ覚えておけばいいのだ。
対する八雲は、はいさようなら、という訳ではなさそうな様子で冬夜から視線をそらした。
八雲が何かを思案しているのは冬夜でも判ったので、八雲の言葉を待った。
「あなた、この辺りの人間じゃないんでしょう? 連れて行ってちょうだい。外の世界は何世代か進んでいるんだろうから、久方ぶりの人里の案内をしてほしいの」
人と会うのが好きじゃなかったのか、とか、何で俺なんかと一緒に行こうとするのか、といった風に疑問が次々生まれてくる冬夜に対し、八雲は続ける。
「あなたみたいな人がどんな世界で暮らしているのか、少し興味が湧いてきたわ」
にこりと笑った八雲に、若干しかめっ面で、冬夜は答えた。
「俺は定職に就かずに転々と暮らしながら何とか生計を立てているだけで、二人分の旅費はとてもじゃないが賄えない。旅費を稼ぐのを手伝ってくれるなら、どこにでも案内するよ」
「ええ。よろしく……えーと」
「冬夜。望月冬夜だ。よろしく」
八雲から差し出された右手に、冬夜も右手を差し出して握手をする。
「いきなりで、すまないんだが」
「?」
「傷の手当てをさせてくれ」
そうつぶやいて、冬夜は座り込んだ。
包帯か何かを取りに行くのか、夕日の方に向かって歩く八雲の姿を、冬夜は限界を迎えつつあった目で見つめ続けていた。
意識が朦朧とする中、冬夜はさっきのやりとりを思い浮かべた。
彼女……八雲は、「何世代か進んでいる」って言わなかったか。
それを彼女に確認する間もなく、冬夜は木に体を預けて意識を投げ出した。
熊さんは後ほど冬夜くんと八雲さんが美味しくいただきました。