52・不眠記録
それから数日は、特に問題もなく過ぎ去っていった。
しかしその中でも魔獣の存在は見えないプレッシャーになっているようで、皆なにも言わないがどこか落ち着きなく動き回っている。
ある者は口数が少なくなり、またある者は八つ当たりのように周りにくってかかるようになる。
他にも一人を極端に恐れる者、いつも以上に気合いを入れて訓練を行う者、果ては不眠症を患う者まで出てくるなど、もはや一種の恐慌状態である。
しかしそれは山を半分消し飛ばすだけの強大な力を目の当たりにし、さらにその照準が自らに向いているとわかっている現状からすれば当然といえば当然かもしれない。
そしてそんな状態であっても彼らがここを逃げ出さないのは、一度魔獣を退けたという事実からの自信かはたまた防衛の最前線にいるという使命感からか。
そして彼らと同時にエリザもまた使命感と責任感から感情を高ぶらせている者の一人であった。
彼女はいつも以上に明るく、元気に仕事をこなしている。
そしてそれは今日も例外ではなく、もはや月がキラキラと地を照らす真夜中であっても魔石による灯火器の明かりを頼りに仕事へと勤しんでいた。
そんな彼女の姿を見て、ミミリィはエリザへ優しく声をかける。
「……姫様、少し休まれた方が」
「む、なにを言うかミミリィ! 私はこのように元気だぞ! それにここで敵を退けられれば私もとうとう認められるのだ! 同時にお前達も名誉になるのだぞ! 休む間もなく張り切らんでどうする!!」
「しかし……」
そこまで言ってミミリィは言葉を濁す。
何に認められるのか、そんな事はエリザですら考えていないのだろう。
ただ彼女は自らに嘘をついているのだ。全ては自らの名誉のため手柄のため、とまるで言い聞かせるように。
そうでもしないと、重すぎるのである。
彼女の肩には、この砦の、いや国民全ての命がかかっていると言っても過言ではない。
なにせ相手は魔獣である。しかも複数体もいるという。
ここを突破されたら最悪、距離があるからと油断している王都までそのまま一気に攻め込まれ、最悪国が地図から消える可能性まである。
魔獣を相手にするとは、そういう事なのだ。
そしてそれがわかっているからこそ、ミミリィは彼女になんと言葉をかければいいかわからないでいる。
そんなエリザとミミリィの様子を見かねてか、近くでじっと様子をみていたシルバが二人の会話に割って入る。
「……でも、姫様ははりきりすぎです。いつもお兄様には無茶するなと言っておきながら、このままではいざという時に姫様の方が倒れてしまいますよ」
「ふん! 私がそんなヤワな訳ないだろう! それに今私にはお前やゼノアをはじめ国民の命運がかかっているのだ! 全て終わるまで休んでられるか!!」
「ですが、姫様。これもいつも姫様がお兄様に言っている事ですが、人の上に立つものとして休むのも仕事ですよ。ましてや睡眠時間を削るなんてもってのほかです」
「む、確かにあまり休んではいないが……なにせ手駒が少ないからな。数が足りない分出来ることはやらないと安心できん。それに私の仕事はいかに準備をするかだ。少しでも今は時間が惜しい」
彼女が言うように、今この砦には魔獣を複数体相手にして安心できるだけの人員がない。
というのも、王都には正確な報告と援軍の要請も行い、既に幾つかの部隊が援軍として駆けつけてはいるがその数はあまり多くはないのだ。
魔獣がいると最初から信じていないため、最高司令官がエリザであるから思うように手柄を立てられないため、など様々な理由から王都にいる部隊の大多数が乗り気ではないのが原因だ。
さらに一部の軍上層部からは“仮に魔獣が本当にいるのならばまず王都の護りを固めるべきである”といった声もあり、あまり芳しい状態とは言えない。
言ってる事は最もらしいが、これは要するにエリザに対する当てつけの意味が大きい。
軍部の大部分を『旧体制派』が握っているが故の現象だ。
つまりは圧倒的に不利なのだ。そしてそんな状態で彼女はここを護らなくてはならない。
エリザにかかるプレッシャーは、相当なものなのだろう。
ただ幸いなのは、上層部の反対を押し切ってまで駆けつけてくれた部隊が他より頭ひとつ優秀な者達であった事だろうか。
彼らはゼノアと互いに背中を預けた旧知の仲であり、またエリザが三度目の活躍を見せた戦争において彼女が指揮を取った部隊の者達でもある。
こればかりはエリザとゼノアの人徳やからなせた幸運と言っていい。
あとは戦地に赴けないなりに妹を助けるために裏で手を回し尽力したバリスのお陰でもある。
実は彼は派手好きではあるが、こういうコソコソした事の方が得意なのだ。
という訳で彼女はほとんど休みなく働いているのが現状だ。
「そうですが……」
「ま、逆に逆境であればあるほどひっくり返した時に見返りも大きいものだ。それになんだかんだで私のもとにはお前達近衛隊やゼノア、果ては人間であるナルミまでついてくれているんだからな」
「……話を逸らさないでください。姫様、いやエリザちゃん。お姉ちゃん命令よ、寝なさい」
いつものホワホワした感じとは別の、はっきりとした物言いでシルバはエリザに詰め寄り命令する。
するとエリザは一瞬“ぐっ”と唸って勢いを潜める。
彼女はお姉ちゃん風を吹かせた、いつもとは調子が違うシルバが苦手なのだ。
と、そんな状態の彼女達の方に何とも気の抜けた声が聞こえてきた。
「……ちゃーっす。ん? なに、百合?」
声がした方にその場にいた皆が振り向くと、そこにはうんざりした様子のナルミがいた。
手には幾枚かの紙を持ち、ゴーグル越しでもわかるほどに疲れを滲ませている。
そして彼は彼でエリザ達とは別の意味で気持ちが高ぶり、イライラした様子を隠そうとはしているが、それでも表情がわからない状態であってもわかる程に今の彼は不機嫌であった。
「お、おう! ナルミ! おかえり! で、どうだった!?」
しかし追い詰められていたエリザはそんな事は全く気にせず、慌てたようにナルミの方に話を振る。
するとナルミは面倒くさそうに顔を動かし、エリザを見つめて言うのである。
「……やっぱり寝てないか」
「む、当然だ。何度も言うが今そんな暇はないんだ」
そんな彼女の答えを聞いたナルミは一瞬不機嫌そうに舌打すると、そのまま求められた内容を報告する。
「チッ……一日かけて怪しいとこは大体調べました。結果、こんなのが見つかったけれど詳しくはわかりません」
そう言いながら彼が無造作にエリザに手渡した書類は、いくつかの魔法陣が写った写真とそれらが発見された場所を記した地図である。
彼はエリザの命令により、ここら辺一体の偵察を行っていたのだ。
そして手渡されたそれを見ながら、エリザは先程までとは打って変わって真面目な顔になり、写真を見ながら言うのである。
「……ん~? なんだこれ術式がだいぶ古いが……古代魔術か? だとしたらシルバの分野だな、解析頼む」
「……まったく話を逸らして。わかりました」
「しかしあそこまで正確な絵を魔法も使わずに描くとは、その“でじかめ”とか“ぷりんた”とやら、量産できないか?」
「……無理っすね」
呆れたような口調でそう言うナルミの声の中には、隠しきれない疲労の色がいつもより濃厚に感じ取れた。
それもそのはず、ナルミもここ数日、マトモに寝る事ができていないでいるのだ。
というのも、透明になれる事と機動力の高さから周辺の、主に国境の向こう側の偵察を命じられその活動に準じているからだ。
それもエリザの指示により、草の根も掻き分け徹底的に。どんな些細なものも見逃さずに広大な土地で途方もない捜索を強いられていた。
必然、寝る間も惜しみ活動する事になり今に至る。
しかしそれでも彼がエリザに従うのは、戦争という異常性をピンとはこなくとも理解はしているからであろう。
しかしそれもそろそろ限界のようではあるが。
「……お姫様。そろそろ自分、寝ていい? お姫様も隈、すごいことなってるぞ。寝た方がいい」
なるべく声を荒げないように気をつけながら、ナルミはエリザに要望を伝える。
すると彼女はいかにも怪訝そうな顔をしながら言うのである。
「む? なんだ、人間の癖にもう弱音か?」
「……最近そればっかだな」
「事実だろうが。私でも頑張れてるのだから人間であるお前も頑張れ」
「……チッ、うるせぇっての」
そう小さくつぶやくと、ナルミは踵を返して部屋を出る。
「……もういい、めんどくさい。自分は寝る、おやすみ」
「あ! おいナルミ!!」
「後一応言っておきますが、お姫様も一回寝たほうがいいっすよ。少なくとも、あと少なくとも近衛隊とゼノアとはお姫様の事を心配してると言う事を覚えておいた方がいい。それはイライラしているとはいえ自分も例外ではなく、だ。例えここを護れたとしてもお前が壊れちゃ意味がない。身体は資本だ、いざと言う時に壊れたらどうしようもならないぞ。じゃ、おやすみ。特別何かない限り朝まで起こすなよお転婆。あと、あんま人間人間連呼すんな。齧るぞ」
彼はそう少しだけ怒気を孕んだ声で言うと、そのままさっさと部屋を出た。
そして残されたのは当の姫様とその護衛二人の三人だけである。
「……なぁミミリィ」
「……なんですか」
「あれはナルミが私に惚れたと見て――」
「やっぱり寝たほうが良いですよ姫様。ちょっと、いえかなりおかしいです。それに先生のあれ、ああは言ってましたけど今にも殴りかかりそうな雰囲気でしたよ」
と、そんな事をやっている二人の後ろで、もう一人の護衛が何とも言えない表情で佇んでいた。
彼女はただしっかりと、彼が消えていった扉を見つめているのである。
こうしてこの日も夜は更け、三時間も経たずに再び太陽は顔を出しエリザの不眠記録は更新を告げる朝が来た。
そして同時に、この戦において重大な事件が起こる、激動の日が幕を開けたのである。




