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ファンタジー小説だった気がします

「もう用済みだ」と捨てられた聖女ですが、後任の子が潰されるのは、わたしが守ります

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/27


「セラフィーナ。そなたは、もう用済みだ」


 大神官は、夕の祈りの間で、そう言った。


 わたくしは祈りを終えたばかりで、指の先まで魔力を絞り切っていた。祭壇のへりに手をついて、辛うじて背を立てている。それを大神官は、へたり込んでいると見たらしい。


「見ろ。祈りの後に、そのざまだ。聖女の力が衰えた証拠だろう」


 衰えたのではない。使い切ったのだ。


 王都の結界は、聖女ひとりの魔力で保たれている。朝に一度、夕に一度、わたくしが力を注ぐ。街を覆う薄青い膜が、外から流れてくる瘴気をせき止める。注ぐのを一度でも欠かせば膜は薄れ、瘴気が街に染みる。とりわけ夕は、一日ぶんの目減りを埋めるために、指の先まで絞り切る。空になった器で立っていれば、壁に手のひとつもつく。三年、そうしてきた。


 その、手をついた姿だけを見て、この人は衰えたと言う。


「新しい神託があった。フィオナという娘だ。若く、魔力も豊かだという」


 大神官は、満足そうに顎を撫でた。


「そなたは聖女の座を返上し、神殿を出よ。あとは、静かに余生を送るがいい」


 余生、という言葉に、わたくしは少し笑いそうになった。わたくしは、二十歳だった。



 私室に戻り、旅の荷を作りはじめた。三年住んだ部屋には、私物と呼べるものがほとんどなかった。


 三年前、わたくしも前の聖女と入れ替わりで、この座に着いた。前の聖女に会ったことはない。名も、どこへ去ったのかも知らない。引き継ぎは、何もなかった。結界の維持の仕方を大神官の口から一度聞き、あとは自分の身体で組み立てた。


 最初の半年は、加減が分からず何度も倒れた。朝に注ぎすぎては、夕に足りなくなる。慌てて絞り出すと、翌朝に響く。膜が日ごとに濃くなったり薄くなったりして、そのたびに大神官は「聖女の不調」を叱った。二年目に、ようやく身体が覚えた。


 一年目に一度だけ、記録を残そうとしたことがある。


 夜、蝋燭の下で、その日の膜の様子を帳面に付けはじめた。何時にどれだけ注げば、夕までもつのか。三日分書いたところで、見回りの神官に見咎められた。帳面は、その場で取り上げられた。


「書き物は、神官の仕事だ。聖女は祈っていればよい。分をわきまえよ」


 返してはもらえなかった。それきり、わたくしは何も書かなかった。書いても、取られる。休みは三年で一日もなく、代理もいなかった。聖女は、一人だからだ。


 だから――用済みと言われて荷をまとめている今、わたくしはむしろ、少しだけほっとしていたのかもしれない。もう、絞り切らなくていい。もう、壁に手をつかなくていい。



 その夜、私室の扉が叩かれた。


 入ってきたのは、少女だった。十六か、せいぜい十七。栗色の髪を慣れない手つきで結い上げ、袖の丈の合わない見習いの衣を着ている。急ごしらえだと、一目で分かった。


「フィオナと申します。明日から、聖女を務めます」


 深く頭を下げ、それから、思い切ったように顔を上げた。


「あの……引き継ぎ書を、いただけませんか。結界の維持の、やり方を書いたもの」


 わたくしは、縛りかけた紐から手を離した。


「引き継ぎ書は、ございません。三年、一枚も、作らせてもらえませんでしたので」


「では、わたし、どうやって」


「わたくしが、そうしたように。倒れながら、身体で覚えるしかありません」


 フィオナの顔から、血の気が引いていった。それでも逃げずに、細い声で尋ねてくる。


「セラフィーナ様は、なぜ、用済みに」


「祈りの後、壁に手をついていたからです。力が衰えた証拠だと。……ほんとうは、使い切っただけですけれど」


 フィオナは、じっとわたくしを見た。その目に差したのは、怯えとは違う色だった。もっと静かで、もっと深いところを見ている目。


「わたし、明日から、その壁に手をつくのですね。そして三年経ったら、衰えたと言われて、追い出される」


 わたくしは、答えられなかった。


 答えは、分かっていた。この娘は、わたくしの三年をそっくりなぞる。前の聖女も、わたくしも、この娘も、同じ坂を一人ずつ、順に転がり落ちていく。互いに会わないから。誰も、記録を残せないから。


 ――記録が、ないからだ。


 わたくしは、縛りかけた荷を見た。もう半分は紐がかかっている。明日の朝には、これを背負って門を出るはずだった。


 紐を、ほどいた。



「フィオナ様。明日、発つのは、やめにします」


「え」


「今夜のうちに、引き継ぎ書を作ります。三年、わたくしの身体の中にだけあったものを、あなたに移します。取り上げられる前に、あなたが覚えてしまえばいい」


 物置の隅に、白紙の帳面が束のまま眠っていた。三年前に取り上げられたのと、同じ帳面だった。わたくしはその一冊を抜き取り、机に広げ、羽根ペンを執った。


 インク壺の蓋を開けながら、口でも説いた。書くだけでは、足りない気がしたから。


「結界に力を注ぐのは、朝と夕の二度。ここを間違える人が多いのですけれど――朝は、七分」


「七分」


「指の先まで絞るのは、夕だけ。朝に絞り切ると、昼のあいだに膜が痩せて、夕にはもう器が空です。朝は七分で切り上げて、残りを昼の目減りに充てる。そういう配りかたをします」


 フィオナが、机の脇に膝をついて、帳面を覗き込んだ。わたくしは三年分の感覚を手繰りながら、時刻ごとの膜の厚みを、一本の線で描いてみせた。


「夏は瘴気が濃い。とくに雨のあとの晩。膜が薄れやすいのは、夜半と、夜明け前。この二つの時刻だけは、注ぐ量を一割増やしておくと、朝までもちます」


「……祈りの前に、しておくことは、ありますか」


 いい問いだった。わたくしが、誰にも教わらず、半年かけて気づいたことだった。


「食べておくこと。甘いものがいい。空腹で祈ると、途中で手が震えて、注ぐ量がぶれます。わたくしは、干した無花果を懐に入れていました」


 フィオナは、いちいち小さく頷きながら、わたくしの言葉を自分の言葉に言い直して、余白に書き取っていった。ときどき、わたくしが当たり前に飛ばしたところで手を止め、「そこ、もう一度」と言う。そのたびに、三年、身体の奥にしまい込んで言葉にしたことのなかったものが、一つずつ、外に取り出されていった。


 取り出してみると、驚くほど多かった。膜のほつれを指の感覚で見つける手順。瘴気が濃い日の、喉の奥のいがらっぽさ。倒れる前に必ず来る、耳鳴りの前触れ。全部、わたくしが一人で倒れながら覚えた。誰にも渡せないまま、三年、抱えていた。


 それが今、この娘の帳面に、移っていく。


 蝋燭が二本、燃え尽きた。三本目に火を移す頃には、窓の外がうっすら白みはじめていた。帳面は、一冊では収まらず、二冊になっていた。


「セラフィーナ様」


 二冊目を閉じたとき、フィオナが、両手をその上に重ねて言った。


「この帳面があっても……わたし一人では、たぶん、三年後に用済みになります。倒れて、手をついて、衰えたと言われて」


「……そうかもしれません」


「でも」


 フィオナが顔を上げた。一晩で、来たときとは別の目になっていた。


「聖女が二人いれば。朝をわたし、夕をセラフィーナ様。そうやって当番を組めば……どちらも、絞り切らずに済みます。手をつかずに、立っていられます」


 わたくしは、息を呑んだ。


 当たり前のことだった。当たり前すぎて――三年、誰一人、口にしなかったことだった。わたくし自身、思いつきもしなかった。一人で回すのが聖女だと、そう信じ込まされていたから。


 白みはじめた窓の光の中で、わたくしは初めて、この座に別のかたちがあり得たのだと知った。この娘に、教わった。



 大神官のもとへは、二人で行った。


 朝の祈りの前の、まだ人気の少ない時刻を選んだ。フィオナが二冊の帳面を、卓の上にそっと置く。わたくしが、その隣に立った。


「聖女の仕事の、引き継ぎ書でございます」


 わたくしは言った。三年、この人の前で、頼みごとをしたことは一度もなかった。


「これがあれば、代替わりのたびに、新しい聖女が一から倒れることはございません。そしてもう一つ――聖女を二人にして、当番を組ませてくださいませ。朝と夕を分ければ、どちらも力を絞り切らずに済みます。結界は、今より安定いたします」


 大神官は、帳面を一瞥した。手に取りもしなかった。


「書き物は、神官の仕事だ。聖女が記すものではないと、前にも言ったはずだが」


 そして、二冊の帳面を、手のひらで卓の端へ押しやった。取り上げる前の、いつもの手つきだった。


「聖女が二人など、聞いたことがない。この神殿が始まって以来、聖女は一人と決まっている」


「なぜ、でございますか」


 尋ねたのは、フィオナだった。わたくしが、三年、一度も尋ねなかったことを。


 大神官の眉が、わずかに動いた。子どもに口答えされた者の顔だった。


「なぜ、と言われても……そういう、ものだからだ」


 それきり、彼は取り合わなかった。押しやった帳面を、脇の書棚へ、無造作に立てかける。返す気はないのだと、それで分かった。


「フィオナ。今朝の祈りから、そなた一人で結界を維持せよ。加減は、身体で覚えよ。皆そうしてきた」


 それから、わたくしを見た。


「セラフィーナ。そなたは、すぐに発て。聖女は、一人だ」



 わたくしは、神殿を出た。


 誰も見送らなかった。三年、街を守った聖女の門出に、鐘の一つも鳴らない。取り上げられた帳面は、書棚に立てられたまま。フィオナは記録も、当番の相手も持たされず、今日から一人、祭壇の前に立つ。


 ――わたくしと、同じだ。


 王都の大門を抜け、街道を歩いた。一度だけ振り返ると、結界の膜が朝の日を受けて、薄青く光っていた。もう、わたくしのものではない。あの子の膜だ。


 昼を過ぎ、日が傾きはじめた。鐘が三つ鳴る、少し前。


 背筋を、冷たいものが走り抜けた。


 足が、勝手に止まっていた。三年、身体に刻み込んだ感覚だった。考えるより先に、皮膚が知る。結界が――薄れている。


 振り返る。遠い王都の空で、薄青い膜が、揺らいでいた。濃くなり、薄くなり、息を切らしているように。フィオナだ。夕を待たずに、もう力が尽きかけている。朝に、注ぎすぎたのだ。七分で止めよとは、教えた。けれど、どこが七分かは、言葉では渡せない。倒れて、身体で覚えるしかない。わたくしが半年かけて掴んだ加減を、あの子はまだ、身体が知らない。横で見ていてやる者も、いない。


 膜の一点に、黒い染みが、じわりと滲んだ。瘴気だった。


 わたくしは、背の荷を、道に捨てた。



 走った。


 半日かけて歩いた道を、来た方へ、ひたすら走って戻る。荷を捨てても、身体は重い。この一日で魔力は戻っていない。祈りで絞り切った器は、まだ半分も満ちていないだろう。それでも、走った。


 大門が見えてきた頃には、街の空が、半ば黒く濁っていた。門をくぐると、人々が戸を閉め、子を抱えて家の奥へ逃げていくのが見えた。悲鳴。犬の吠える声。瘴気は、触れれば幼子や老人の命に関わる。膜が破れきる前に、間に合わなければ。


 祈りの間へ駆け込むと、フィオナが祭壇の前に、崩れ落ちていた。


 両手を床につき、指の先まで白く、それでも祈りの姿勢だけは保とうとしている。十六の身体で、加減も知らずに、持っている全部を注いで、それでもまだ足りずに。壁に手をつくどころではない。這っている。わたくしが、半年かけて越えた最初の坂を、この子はたった一日で、こんなところまで転がされた。


「フィオナ様。代わります」


「セラフィーナ、さま……」


 掠れた声だった。焦点の合わない目が、それでもわたくしを探した。


「街が……わたし、止められなくて」


「知っています。よくもちました。ここからは、わたくしが」


 彼女の肩を支えて祭壇の前から下がらせ、代わりに、わたくしが両手を置いた。


 残っている魔力を、探る。半分もない。祈りで空にして、そこから一日しか経っていない器だ。足りるはずが、なかった。それでも、指の先まで絞り出す。三年、毎日そうしてきたように。膜へ、送る。


 一度では、戻らなかった。揺らぐ膜が、少し濃くなって、また薄れる。黒い染みが、端で笑うように広がる。


 もう一度。器の底の底、いつもは残しておく最後の一滴まで、掻き集めて注いだ。喉の奥がいがらっぽい。耳鳴りがする。倒れる前触れだ。それでも、手を離さなかった。ここで離せば、この子が背負う。二度と、一人に背負わせない。


 膜が、濃さを取り戻していく。端から、黒い染みが薄れていく。瘴気が、街の外へ、じりじりと退いていく。


 気づいたときには、結界は元の濃さで、静かに街を覆っていた。空の黒は、消えていた。


 わたくしは――祭壇のへりに、手をついて立っていた。三年、繰り返した、あの姿勢で。


 背後で、フィオナが、床に手をついたまま、それを見ていた。



 瘴気の騒ぎは、街じゅうが見ていた。


 結界が薄れ、空が濁り、人々が逃げ惑ったこと。そして――「用済み」と追い出されたはずの聖女が、街道から駆け戻って、それを鎮めたことを。


 大神官が、青い顔で祈りの間へ来た。


「セラフィーナ。なぜ、戻った」


「結界が薄れておりましたので。フィオナ様お一人では、まだ加減が分かりません。わたくしも、最初の半年はそうでした」


 わたくしは、壁に手をついたまま、彼を見た。


「これも『聖女の不調』と、街の皆にお呼びになりますか」


 大神官は、答えなかった。


 今日のこれは、私室で叱って済むものではなかった。街じゅうが、逃げ惑い、戸を閉て、そして救われるのを、その目で見た。次に同じことが起きて、そのときわたくしが遠くにいたら――誰も、街を救えない。彼にも、それが分かっていた。


「今朝、申し上げた通りでございます」


 わたくしは言った。


「聖女を二人にして当番を組めば、今日のようなことは起きません。記録があれば、一から倒れることもございません。……今朝それをお拒みになった、その結果が、これでございます」


「聖女は、一人と――」


「なぜ、でございますか」


 わたくしは、三年ぶりに、この人の言葉を遮った。声が、自分でも驚くほど、静かだった。


「一人だから、寄進も功績も、神殿がまとめて握れる。一人だから、倒れても替えがきく。一人だから、隣に、助ける者がいない。……そういう仕組みなのは、存じております。ですが今日、その仕組みで、街が半分、瘴気に呑まれかけました」


 大神官の口が、動きかけて、閉じた。反論の言葉が、なかったのだ。街が見た事実の前では。


「街の安全に、反対なさる理由が、ございますか」


 彼は、長いこと黙っていた。それから、書棚に立てかけたままだった二冊の帳面を抜き取り、わたくしのほうへ、卓の上を滑らせて戻した。


「……好きに、せよ」


 許した、のではなかった。街の目の前で、反対できなかっただけだ。それで、十分だった。



 その日から、結界の維持は、二人になった。


 朝の祈りをフィオナが、夕の祈りをわたくしが担う。指の先まで絞ることは、なくなった。祈りの後に、壁へ手をつくことも。街の結界は、この三年で、いちばん安定した。膜の濃さが、日によって変わらなくなった。


 帳面は、増えていった。フィオナが自分の気づいたことを書き足し、わたくしが古い頁を直す。次にもし聖女が増えるなら、これを渡せばいい。三冊目からは、その子が書く。もう、誰も、一人で倒れなくて済む。


 夕の祈りを終えて、わたくしは窓辺に立った。壁に手をつかずに、立っていられた。


「セラフィーナ様。明日は、夕もわたしがやります。ですから、お休みください」


「休み」


 三年、聞かなかった言葉だった。舌の上で、うまく転がらない。


「一日、何をすればよいのか、分かりません」


 フィオナが、少し笑った。来た晩の、あの怯えた少女とは、もう別の顔で。


「では、街へ。あの日セラフィーナ様が守ってくださった街を、ゆっくり歩いてきてください。……聖女は、二人おりますので」


 窓の外で、王都を覆う薄青い膜が、朝と同じ濃さのまま、静かに光っていた。


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