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「先生」と呼ばれるに値する存在とは (。´・ω・)?

掲載日:2026/03/22

 かつて作家は、「先生」と呼ばれるに足る存在だった。

 それは単に文章が巧みだからでも、沢山売れていたからだけでもないだろう。

 むしろ彼らは、世の中の不条理や矛盾に対して、あえて言葉を投げつける存在だったからだ。


 誰もが薄々感じていながら、口にするのをためらうものがある。

 不公平、偽善、権力の歪み。


 それらは日常の中に溶け込み、見ないふりをすることで社会は回っていく。

 だが昔の文化人たちは、それを見過ごさなかった。


 見てしまったものを、見なかったことにしない。

 だからこそ、ときに煙たがられ、ときに疎まれながらも、「先生」と呼ばれるだけの格を持っていたのだと思う。


 たとえば遠い土地の出来事。

 チベットやミャンマーで何が起きているのかを、あえて私たちは知ろうとはしない。


 あるいは、スマートフォンや電気自動車に不可欠なレアアース。

 その利益の多くが、どこかの独裁的な体制を潤しているかもしれないと知りながら、それでも私たちは便利さを選び続ける。


 そして作家は、本来それらを知らない立場ではない。

 むしろ人一倍、知っている側の人間だろう。

 世界の構造を理解し、歴史や経済の流れを踏まえ、何がどこで歪んでいるのかを見抜く力を持っている。


 ……にもかかわらず、それをあえて書かないとしたら。

 知らないのではなく、知っていてなお触れないのだとしたら。


 そこに、どこかで「見て見ぬふり」が入り込んでしまってはいないだろうか。


 現代は、「売れること」や「好かれること」が強く求められる時代である。

 読者やスポンサーの顔色をうかがい、角の立たない物語を紡ぐことは、決して悪ではない。


 だがその一方で、世界の歪みに触れないままの言葉が増えていくとき、作家という存在は、ただの物語の供給者へと変わってしまうのではないかとも思う。


 作家たるもの、豊富な知識をもとに、そうした現実を工夫しながら指摘してこそ、「先生」と初めて呼ばれるのではないか。


 それは勇ましいことではないし、必ずしも賞賛される道でもないかもしれない。

 むしろ、面倒で、損で、ときに孤独な営みかもしれない。


 それでもなお、自分が知ってしまったことから目を逸らさず、言葉として差し出す覚悟を持つ者がいるとき、その人はただの書き手ではなく、「先生」と呼ばれるに値する存在になるのだと思う。

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良かったら読みに来てやってください (*´▽`*)

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― 新着の感想 ―
確かに昨今は過激な発言をすると、すぐ叩かれますからね( ˘ω˘ )
真に人から尊敬される人とは……ですね。
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