「先生」と呼ばれるに値する存在とは (。´・ω・)?
かつて作家は、「先生」と呼ばれるに足る存在だった。
それは単に文章が巧みだからでも、沢山売れていたからだけでもないだろう。
むしろ彼らは、世の中の不条理や矛盾に対して、あえて言葉を投げつける存在だったからだ。
誰もが薄々感じていながら、口にするのをためらうものがある。
不公平、偽善、権力の歪み。
それらは日常の中に溶け込み、見ないふりをすることで社会は回っていく。
だが昔の文化人たちは、それを見過ごさなかった。
見てしまったものを、見なかったことにしない。
だからこそ、ときに煙たがられ、ときに疎まれながらも、「先生」と呼ばれるだけの格を持っていたのだと思う。
たとえば遠い土地の出来事。
チベットやミャンマーで何が起きているのかを、あえて私たちは知ろうとはしない。
あるいは、スマートフォンや電気自動車に不可欠なレアアース。
その利益の多くが、どこかの独裁的な体制を潤しているかもしれないと知りながら、それでも私たちは便利さを選び続ける。
そして作家は、本来それらを知らない立場ではない。
むしろ人一倍、知っている側の人間だろう。
世界の構造を理解し、歴史や経済の流れを踏まえ、何がどこで歪んでいるのかを見抜く力を持っている。
……にもかかわらず、それをあえて書かないとしたら。
知らないのではなく、知っていてなお触れないのだとしたら。
そこに、どこかで「見て見ぬふり」が入り込んでしまってはいないだろうか。
現代は、「売れること」や「好かれること」が強く求められる時代である。
読者やスポンサーの顔色をうかがい、角の立たない物語を紡ぐことは、決して悪ではない。
だがその一方で、世界の歪みに触れないままの言葉が増えていくとき、作家という存在は、ただの物語の供給者へと変わってしまうのではないかとも思う。
作家たるもの、豊富な知識をもとに、そうした現実を工夫しながら指摘してこそ、「先生」と初めて呼ばれるのではないか。
それは勇ましいことではないし、必ずしも賞賛される道でもないかもしれない。
むしろ、面倒で、損で、ときに孤独な営みかもしれない。
それでもなお、自分が知ってしまったことから目を逸らさず、言葉として差し出す覚悟を持つ者がいるとき、その人はただの書き手ではなく、「先生」と呼ばれるに値する存在になるのだと思う。
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