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まだ使われていない鍵

作者: 茶ヤマ
掲載日:2026/03/05

拙作「森の鍵」(https://ncode.syosetu.com/n7718ks/)の前日譚っぽいものです。

この作品単体でも読めます。

地図の端には、ときどき空白がある。


山の名も、川の名も書かれていない、白いままの場所。

そこには、まだ何も決まっていない土地があると、人は昔から知っていた。


その空白のあたりに、森がある。


森と人里との境界には、名もなき古い石造りの建物が建っていた。


誰が建てたのかは分からない。

教会に似ていると言う人もいれば、古い番所だったのではと言う人もいる。

けれどどの話にも、確かな裏付けはない。


屋根には苔が広がり、窓枠の木は黒く痩せている。

それでも石の壁だけは、長い時間をくぐり抜けて、静かに立っていた。


私は、その建物の中にいた。


内部はがらんとしていて、机がひとつ、椅子がひとつ。

机の上には、古い鍵が置かれている。


それがいつからここにあるのか、

誰が置いたのかは分からない。


けれど、なぜかそれは、私のもののようにも思えた。


窓から光が差し込み、石の床に四角い明るさを落としている。

その窓枠に、一羽の鳥が止まった。


小さな、灰色の鳥だった。


こちらを恐れる様子もなく、

首を少しかしげて、じっと室内を見ている。


森のほうから、風が来た。

葉と葉が触れ合う音が、遠いページをめくるように響く。


私は机の上の鍵を手に取った。


冷たくも、温かくもない。

ただ、長く待っていたものの重さがある。


この建物は、境界に建っている。


人里へ戻る道と、森へ入る道。

そのあいだの、まだどちらでもない場所。


鳥が小さく羽を震わせた。


その気配に、森がわずかに深くなる。

地図の空白が、呼吸するみたいに広がった。


私はしばらく立っていた。


鍵を握ったまま、森を見る。


けれどやがて、私は扉の方へ歩いた。


森へではなく、人里の方へ続く道へ。


私は森に背を向けた。

でも、森は閉じなかった。


境界だけが、そっと位置を変えた。


鍵はまだ、使われていない。

ただ、背中のあたりで、来るべき日の重さを予習している。


森は今日も静かだ。

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