まだ使われていない鍵
拙作「森の鍵」(https://ncode.syosetu.com/n7718ks/)の前日譚っぽいものです。
この作品単体でも読めます。
地図の端には、ときどき空白がある。
山の名も、川の名も書かれていない、白いままの場所。
そこには、まだ何も決まっていない土地があると、人は昔から知っていた。
その空白のあたりに、森がある。
森と人里との境界には、名もなき古い石造りの建物が建っていた。
誰が建てたのかは分からない。
教会に似ていると言う人もいれば、古い番所だったのではと言う人もいる。
けれどどの話にも、確かな裏付けはない。
屋根には苔が広がり、窓枠の木は黒く痩せている。
それでも石の壁だけは、長い時間をくぐり抜けて、静かに立っていた。
私は、その建物の中にいた。
内部はがらんとしていて、机がひとつ、椅子がひとつ。
机の上には、古い鍵が置かれている。
それがいつからここにあるのか、
誰が置いたのかは分からない。
けれど、なぜかそれは、私のもののようにも思えた。
窓から光が差し込み、石の床に四角い明るさを落としている。
その窓枠に、一羽の鳥が止まった。
小さな、灰色の鳥だった。
こちらを恐れる様子もなく、
首を少しかしげて、じっと室内を見ている。
森のほうから、風が来た。
葉と葉が触れ合う音が、遠いページをめくるように響く。
私は机の上の鍵を手に取った。
冷たくも、温かくもない。
ただ、長く待っていたものの重さがある。
この建物は、境界に建っている。
人里へ戻る道と、森へ入る道。
そのあいだの、まだどちらでもない場所。
鳥が小さく羽を震わせた。
その気配に、森がわずかに深くなる。
地図の空白が、呼吸するみたいに広がった。
私はしばらく立っていた。
鍵を握ったまま、森を見る。
けれどやがて、私は扉の方へ歩いた。
森へではなく、人里の方へ続く道へ。
私は森に背を向けた。
でも、森は閉じなかった。
境界だけが、そっと位置を変えた。
鍵はまだ、使われていない。
ただ、背中のあたりで、来るべき日の重さを予習している。
森は今日も静かだ。




